「愛しき妻の心遣い」
私と妻はお互いにいわゆる「バツイチ」同士の再婚だ。しかし、妻との出会いはもう二十年も昔にさかのぼる。私が学生アルバイトで塾の講師をしていたとき、彼女は私の教えていたクラスの生徒だった。世の中の教師と名の付く人間には不信感を抱いていた彼女は、私に対しても最初は斜めに構えていたのだが、私たちはいつしか信頼しあえる関係になっていた。彼女の卒業と同時に、私も実家の茅ヶ崎に帰ってきて公立中学校の英語教師になったのだが、彼女は毎年のように私の実家に遊びに来ては、私の両親に娘のようにかわいがられていた。今思えば、お互いに結婚のタイミングがずれていたのだろう。二人とも別々の伴侶を選び、時は過ぎていった。
彼女が夫の暴力に苦しんでいる状況を知らされたのは、私が離婚して間もなくのことだった。彼女ほど心遣いの優しい女性はそうそういないというのに、まさかその天使のような女性がDVに苦しむことになるとは、世の中皮肉なものである。私は、彼女に家を出ることを勧めた。実家に戻って、離婚の準備をするのが彼女の幸せにとっては最良の策だったのだ。彼女の離婚が成立するまでには、それから数年の月日が必要だった。冬彦さんタイプの彼女の夫は、見捨てられるのが怖かったのだろう。プライドもあったかも知れない。そして、私はといえば、いつの間にか彼女を自分の妻に迎えたいと思うようになっていた。彼女の離婚が成立してからちょうど6ヶ月がたった頃、私は彼女と二人で市役所に婚姻届けを出しに行った。まだ離婚の痛手から回復しきっていない彼女に、新しい結婚生活を要求するのが酷なのは十分承知していたが、私は天使のように優しい彼女に、今までに味わった苦労の何百倍もの幸せをプレゼントしたかったのだ。
お互いに二度目の結婚ということもあって、結婚式は省略し、せめてものお祝いに新婚旅行を考えることにした。たまたま彼女も私も京都が好きだったので、旅行は紅葉で有名な秋の京都に決定した。私たち教員には、慶弔休暇として5日間の休暇が与えられる。私は学校行事とにらめっこしながら、ここという週を選び同僚や学校長の快諾を得ることができた。
ところが、旅行の直前になって私は大事件に巻き込まれることになる。実は、過労がたたって私は2年前から「自律神経失調症」の投薬療法を受けていたのだが、その事件のストレスがきっかけとなって、体調が急激に悪化したのだ。彼女は、もしかしたら楽しみにしていた新婚旅行はキャンセルせざるを得なくなるかも知れないと覚悟していたようだった。約束など平気で破棄される不幸な人生に慣れきっていた彼女だったのだ。しかし、私にとっては秋の京都に彼女を連れて行く約束は、私の病気などとは比べものにならないほど大切なものだった。
妻は出発当日の朝になって、私が「やっぱり行くのはやめよう」と言ったとしても、それが私の病状を少しでも快方に向かわせるものなら、喜んで応じるつもりだったそうだ。しかし、私たちは出発した。正直言って、私の足取りは重かったが、懐かしの京都が私の心を癒してくれることを祈って、式も挙げてあげられなかった妻との大切な旅行を、精一杯楽しんでこようと思った。
ホテルに着くと、妻はあちこちドライブする計画を熱心に立てている。私は、ぐったりした身体をベッドに横たえて、そんな妻の嬉しそうな顔をじっと眺めていた。一日目の夕食を食べに外出した帰り道、私は小さな花屋の店先に飾られていたかわいい花束に目がとまった。「ちょっと待っててね」私は妻を待たせておいてすぐにその花束を手に戻っていった。「これプレゼントだよ」あのときの妻の本当に幸せそうな顔が忘れられない。私は大切な妻との約束を果たせて幸せに思う。