「かわいい約束」
直子は中学三年生。文字通り明朗活発な少女だった。もちろん、クラス担任は私である。
テニス部の部長をしていた直子の夢は、三年生になったら私のクラスになることだった。夢
が叶った直子は、四月当初から俄然張り切っている。私は、木村拓哉のような美男子でも
ないし、背も低い普通の男性だ。一つ取り柄があるとすれば、何にでも熱中できることだろ
うか。そのたった一つの私の取り柄が、直子の理想の男性にぴったり一致してしまったらし
い。熱血先生と熱血少女‥‥確かにお似合いの「カップル」だったかも知れない。
直子はいつも潤んだ瞳で私の顔をじっと見つめては、「先生、私絶対に先生のお嫁さん
になるからね」と口癖のように言っていた。私にはれっきとした妻がいるのに、夢見る年頃
の直子には、そんなことは少しも障害にはならないらしい。私はちょっと顔を赤らめながら、
その直子のお決まりのせりふを聞いていた。本当に、青春漫画から飛び出してきたような、
純情可憐な少女だった。
私のクラスになった直子は、どんな役目も積極的に引き受けてくれた。もちろん、学級委
員も直子である。水戸黄門の助さんと格さんではないが、担任の私の言うことを聞かない
やつは、私が許さないからね、というような迫力が直子にはあった。しかし、そんな直子も、
校内合唱コンクールの実行委員になったときだけは、さすがにめげた様子だった。いつも
元気いっぱいの直子が、教室で暗い表情を見せることが多くなった。「おやおや、元気印の
直子がやけに元気ないじゃないか」私が話しかけると、直子は突然大粒の涙をこぼしなが
ら、「だって、先生がこんなに一生懸命頑張ってくれているのに、うちのクラスの男子ったら、
ちっとも本気で練習してくれないんだもん」決して直子の責任ではないのだ。中学生の男子
は、合唱の練習となると女性軍の迫力に付いていけないのが常だったから。「直子、男子
だってね、一生懸命頑張ってるんだよ。男子は照れ屋が多いから、それを上手に表現でき
ないだけさ。直子の気持ちも必ず通じるから、みんなを信じて頑張れ」直子は素直だから立
ち直るのも人一倍早い。さっき泣いたカラスがもう笑うの類である。それからというもの、直
子はなかなか思うように動いてくれない男子を相手に、必死で頑張った。本当に必死で。
合唱コンクール当日の直子は緊張しきっていた。「先生、絶対大丈夫だよね」私に何度も
聞いてくる。「結果はどうあれ、全力を尽くして頑張ったんだから、それでいいじゃないか。
神様もちゃんと見てくれているよ」直子はこっくりとうなずいて体育館に向かった。
全クラスの演奏が終わった後、私は審査発表を聞く勇気がなくて、思わず体育館の外に
出てしまった。すると、実行委員の直子も前の扉から外に飛び出してきた。直子はもう結果
を知っていたのだ。「先生!」直子は私に飛びついてきた。「金賞なのか?」直子は力強くう
なずいた。私は本当に心の底から喜びがわき上がってくるのを感じたが、そのまま直子と抱
き合っているわけにもいかず、もう一度体育館の中に戻った。審査発表を聞いて大喜びする
クラスの生徒たち。
直子が作ってくれた思い出は数知れない。私は卒業式の夜、直子の家で開かれた有志の
パーティーに参加した。みんなより早めに席を立って帰りかけた私を、直子が急いで追って
きた。「直子のことは絶対に忘れないからね」私は直子の肩をそっと抱いてやった。
直子が結婚式の招待状を送ってきたのは、それから十年以上たったある日のことだった。
私は都合で式に参列できないので、直接お祝いを持って直子の家を訪ねた。「おめでとう直
子。でもさ、確か直子は先生のお嫁さんになるんじゃなかったっけ?」直子はにこにこしなが
らそれには答えなかった。直子のしてくれた「かわいい約束」は私の宝である。