初恋平成11年1月3日 作:石山 等
 
《まえがきに代えて》
 本来は作品を書く前に書く「まえがき」ですが、今回は11年経った平成22年3月15日に書いています。実は、この私にとっては処女作にあたる小説を、卒業間近の3年生のクラスに印刷して配ったところ、大きな反響がありました。もしかしたら、現代っ子の彼らも、留美と俊介のような初恋を経験したいという思いがあったのかも知れません。時代は変わっても、人間の内面はそれほど大きな変化を遂げないという証拠でもあるでしょう。
 この作品を書いた当時は、ワープロを使っていましたので、現在のコンピューターで読み取れるデジタルのデータは残っていません。そこで、今回は作品をもう一度じっくりと読み返しながら、コンピューターのワープロソフトを使って文章を入力し直そうと決心しました。未熟な作品だとは思いますが、もし続編が書けるようでしたら、また計画を練ってみようと思います。ぜひそうしてくれとクラスの生徒からの要望もありましたし。
 
《クリスマス・イブ》
 今年の冬は、エルニーニョ現象とやらの影響で、例年になく寒さが厳しくなると、理科の遠山が言っていたのを思い出した。
 「冬だから寒いのは仕方ないけど、ルースソックスもはけないうちの学校は、私たち女の子は、寒くて寒くて、学校に行くのもいやになっちゃう…」
ぶつぶつひとり言を言いながら、留美はいつもの道を、心なしか足早に学校に向かっていった。
 清瀬留美の通う湘北中学校は、茅ヶ崎市の一番西の端にある、市内で一番新しい学校だった。一時期、校内暴力が荒れ狂っていたころに新設された学校だけあって、校内の規律は市内でも最も厳しい方だった。ミニスカートやルースソックスが当たり前のようになっていた市内の中学校に通う、塾の仲間を見る度に、留美たちはため息をこぼすことがよくあった。留美のクラスは、湘北中学校3年A組で、担任は理科を担当する遠山純一郎だった。遠山は教師十年目で、四十を過ぎた人間の多い職員室の中では、「若手」だった。女子ソフトテニス部の顧問をしていて、生徒からは「エルザ」の愛称で親しまれている。理科の授業中によく『野生のエルザ』という昔の映画の話をするからだった。
 12月24日の今日は、市内の中学校が一斉に終業式を迎える。今日から二週間の冬休みが始まるわけだが、留美たち受験生にとっては、単純に喜んでばかりもいられない時期だった。それに、留美はクラスのみんなと別れるのが寂しかった。
 「ねえねえ、留美は二学期の成績どうだった?」
留美と同じ吹奏楽部にいて、部長の留美をいつも助けてくれた海野敬子が、何やらやけに嬉しそうな顔をして、留美にかけ寄ってきた。
 「いいなあ、敬子は嬉しそうで。私なんて、この間の三者面談のときに一度ショックを受けたっていうのに、あらためて通知票の数字見たら、あのときのショックがまたよみがえってきちゃった感じ。せっかく、気持ちを切り替えてたのにさ。」
 「ドンマイだよ、留美。『成績で人生は決まらない』って、この間の学活のときにもエルザが言ってたじゃない。」
 「エルザは自分がちゃんと大学も出たから、そんなこと言えるんだわ。うちの両親は二人とも高校しか出てないから、いい成績とって大学くらいは出ろってうるさいの。親が子供に過大な期待をするっていうのも考えものよね」
 「うちの親は両方とも大学出だけど、勉強についてはけっこう放任主義で、私の通知票見ても、いつも笑ってるだけよ」
 「敬子は成績がいいから親も安心してるのよ」
 「そうかなあ…。でもさ、同じ大学出でもいろいろあるじゃない?エルザの場合は、無名な大学を出たらしいわよ。『名前がなくても、俺はこうして立派に理科の先生してるぞ』って、いつも威張ってる。学校で人生は決まらないって、本当なのかなあ…。私はエルザを信じたい気持ちもあるんだけどさ」
 「大人になってみないと、わからないわね」
留美は知らず知らずのうちにため息をついている自分が、少し情けなかった。
 「ねえ、留美。学級委員の手塚君と中山さんが、今日の夜クラスの都合がつくメンバーでクリスマスのカラオケパーティー開こうって言ってるんだけど、一緒に行かない?」
 「クリスマス・イブか…。受験生の私たちにもクリスマスはあるんだね」
 「あったり前でしょう!『遊ぶときはしっかり遊べ』ってエルザがいつも言ってるじゃない」
何かにつけ、遠山の言葉を引き合いに出す敬子が、とてもいじらしいと留美は思った。敬子は大の遠山ファンなのである。
 「それじゃあ、私もたまには素直にエルザの言葉に従うとするかな」
 「決まり!それじゃあ、正門の前で5時に待ち合わせね」
勝手に待ち合わせの時間を決めて敬子が走り去った。
 (敬子ったら、いつも強引なんだから)でも、その強引さが敬子の魅力でもあると、留美は思っている。
 (水谷君も来るのかなあ…)自分でも気づかないうちに、水谷俊介のことを考えている自分にハッとして、留美は思わず顔を赤らめた。
 水谷俊介は野球部のエースピッチャーをしていた。自分が『エースで四番』の看板をしょっているにもかかわらず、どことなく控えめな俊介に、二学期を過ぎたころから留美は惹かれている。(俊ちゃんとデュエットなんかできたら、私その場で気を失っちゃうかも知れない…)留美は、生まれて初めてこんなに胸の苦しい思いをしたのだった。俊介に会えると思うだけで、心がときめくのだ。俊介と同じクラスにいれるというだけで、留美は何事に対しても前向きに取り組めるような気がしていた。
 学校は中学生のカラオケを禁止にしているが、実際にカラオケボックスのパトロールがあるわけではないから、湘北中学校の生徒たちの多くが、カラオケをストレス発散のいい機会にしている。教師の遠山自身も歌が好きだから、休み時間になると生徒と一緒にカラオケボックスの話で盛り上がることもよくあった。(外で思いっきり遊ぶこともできない今の中学生からカラオケまで取り上げたら、子供たちはストレスの固まりになっていつかは大爆発してしまうだろう)遠山はそう考えていた。それに、今のカラオケボックスはドアがガラス張りになっていて、中の様子がよく見えるようにできているから、喫煙や飲酒をして警察に補導されるような中学生はほとんどいない。それどころか、普段はおとなしそうに見える子が、マイクを手にした瞬間に人が変わったように積極的になって、周りをびっくりさせるというオマケもついている。コミュニケーション不足が問題にされる今の時代にあって、カラオケボックスの果たしている役割はけっこう大きいのかも知れない。
 
 留美の期待通り、水谷俊介はやって来た。最近は、家族でクリスマス・イブを楽しむ家も多くなったせいか、それとも受験生がカラオケパーティーなんてけしからんということか、パーティーに集まったのは10人ほどだった。その中に俊介がいて良かったと、留美は神様に感謝したい気持ちだった。
 「みんな、今日はどうもありがとう。クラスの他の仲間の分まで、僕たちで大いに盛り上がろうじゃないか!」
 しっかり者の手塚雄一が開会宣言をして、最初にマイクを握ったのは、同じ学級委員の中山静香だった。静香が歌ったのは松田聖子の『赤いスイトピー』だった。留美はテレビの画面に映し出される歌詞を目で追っているうちに、歌の中の二人が自分と俊介であったらいいのにと、少しうらやましい気持ちになっていた。 「さあ、次は水谷君よ」
中山静香からマイクを回された水谷は、ちょっと照れくさそうにしていたが、きょっくのイントロが始まると、少し緊張した顔つきになった。
 「わあー、私この曲大好きなの。俊ちゃん、すてきよーっ!」
明朗活発に服を着せたような敬子が、留美の隣で叫んでいる。
 「もう敬子ったら、恥ずかしいからそんなに叫ばないでよ」
 「あら、何で?カラオケボックスに来たら思いっきり騒がなくちゃ損だわ」
 「そんなもんかなあ…」
 「そんなもんよ。ほら、留美も『俊ちゃーん!』って叫んでごらんよ」
 (まったく敬子ったら、ひとの気持ちも知らないで)
俊介の選んだ歌は、クリスマス・イブの定番になっている山下達郎の歌だった。
 ♪きっと君は来ない、一人だけのクリスマス・イブ♪
俊介の透き通るような声が、この曲にぴったりだと、留美は思った。
 (俊ちゃんは誰を待ってるの?私ならあなたを待たせるようなことはしないのに。一人だけのクリスマス・イブだなんて、悲しいこと言わないで)
 留美は、今度もまた画面に映る歌詞を見ながら、心の中で必死に俊介に呼びかけている自分に気がついた。
 (声に出して私の気持ちを俊ちゃんに伝えられたらなあ…)
 留美は、あっけらかんとした敬子の性格を半分わけて欲しいと思った。
 
《川原のデート》
 カラオケパーティーの翌日、留美は敬子といっしょに駅まで買い物に出かけた。街は年末のにぎわいで、人ごみを歩くのが煩わしく感じられた。
 「何だか、歩き疲れておなかすいちゃったな。留美は?」
 「敬子ったら、いつも食欲だけは旺盛なのね」
 「ほら、ちょっとあそこのラッテリアに寄ってこうよ」
 「はいはい、敬子様の言うなりにしますわ」
 「えっへん、今日はなかなか素直でよろしい、留美君」
二人がおどけながら入ったラッテリアは、女子高生に人気のある店だが、さすがに年末ともなると家族連れやアベックが多い。
 「私、チーズバーガー二つと、フライドポテトのL、それにストロベリーシェイク」
 「敬子、そんなに食べるの?」
 「育ち盛りは食べ盛りってね。留美も早く決めなよ」
 「私は、フィッシュバーガーとオレンジジュース」
 「留美ちゃんはダイエット中かな?」
敬子は冗談のつもりで言ったのだが、留美にとっては切実な問題だった。部活を引退してから、毎朝鏡に映る自分の顔が、心なしかふっくらしてきたのが、気になっていたのだ。
 「ねえ、敬子、私少し太ったと思わない?」
 「やめてよ留美ったら。冗談よ、冗談。あなたはとっても素敵だわ。私が男の子だったら、絶対に放っておかないよ」
 「敬子の言うことは、どこまで本当だか信用できない!」
 「ごめんごめん。でも、留美本当に気にしてるの?私の叔母さんで東京で美容院を開いてる人がいるんだけど、その叔母さんがいつも言ってるの。『女の子は自然のふくよかさが一番の魅力なのよ』ってね。だから、留美も絶対にダイエットなんかしないでね」
 「ダイエットなんかしないけど、スマートな人見ると、うらやましい」
 「でもね、この間俊ちゃんに聞いたら、俊ちゃんはぽっちゃりした女の子が好きみたいなこと言ってたよ。スマートがもてるとは限らないってこと」
 「ふーん」
水谷俊介はぽっちゃりした女の子がタイプと聞いて、留美は安心して目の前のフィッシュバーガーを食べれそうな気がしてきた。それにしても、敬子はいつもそんな会話を俊介と交わしたのだろう。男の子の前に出ると、どうしても気軽に話すことができなくなってしまう留美には、そんな大胆な敬子が不思議だった。
 「どうしたの、留美、ぼうっとして」
 「ううん、何でもない。さあ、食べましょう」
 「何だ、留美だっておなかすいてたんじゃない。ところでさ、夕べの俊ちゃんの歌、上手だったね。すごく感情がこもってたけど、俊ちゃん片思いでもしてんのかなあ」
 「俊ちゃん、好きな子いるの?」
 「さあ、それは直接聞いたことないから知らないけど、でも俊ちゃんなら片思いってことないわよね。あんなに格好いいんだもん。俊ちゃんに思われて迷惑するようなやつがいたら、この私が許さない」
 「何だか、ずいぶん俊ちゃんの肩持つのね、敬子は」
 「別に私は好きとかそんなんじゃないんだけど、全然気取らない、どちらかと言えば、ちょっと田舎っぽい俊ちゃん見てると、何だか応援したくなっちゃうのよ。留美は、俊ちゃんのこと好き?」
突然核心をつく質問をされて、留美はもう少しでオレンジジュースを吹き出すところだった。別に恥ずかしいことではないのに、留美は自分の正直な気持ちを敬子に知られるのが怖かった。
 「うん、嫌いじゃないかな…」
 「おいおい、留美ったら、怪しいぞ。そんなにマジな顔しちゃってどうしたのさ」
 「別にどうもしないったら。もう、からかわないでよ!」
 
 敬子と別れて家に帰る途中、留美は近所にある小さな神社の境内につるされたブランコに乗りたくなった。ゆっくりとブランコに乗って、目をつぶると子供のころの思い出が次々に蘇ってくる。引っ込み思案の留美は、小さな頃から一人遊びをすることが多かった。中学生になった今だからこそ、いろいろな友達に囲まれてはいるが、それでも本当に気が許せるのは敬子くらいのものだった。その敬子にさえ、俊介に思いを寄せている自分のことは話せないでいる。(私って、本当に意気地なしだなあ…)
 とそのとき、背後に突然人の気配がして、驚いたように振り返ると、そこにはにこにこ笑った俊介が立っているではないか。あまりの驚きに、留美は口をぽっかり開けたまま、しばらく身動きができなかった。
 「ごめん、おどかしちゃった?」
 「うん、ちょっとね…」
 「僕ね、いつも夕方近くに馬入川の川原を散歩するんだ。で、ここを通りかかったら留美ちゃんがいたっていうわけ」
俊介に『留美ちゃん』なんて呼ばれたのは、もしかしたら初めてかも知れない。留美は、胸の中で心臓の音がどんどん大きくなって行くのを止めることができなかった。
 「夕方の川原って、すごく気持ちいいんだよ。良かったら、一緒に行かない?」
 「あのう、私…」
 「ああ、忙しかったらいいんだ。邪魔しちゃってごめん」
 「そうじゃなくて、私も川原を歩きたいなと思ってたから…」
 「なんだそうか。じゃ、一緒に行こう」
 
夕方の川原を歩いたことなど、ほとんどない留美だった。きっときれいな景色に違いなかったが、突然の思わぬデートに舞い上がってしまっていた留美には、景色どころの話ではなかった。しばらく歩いて、少し落ち着いてきた頃に、留美は俊介に誘われるままに土手に腰を下ろした。どっかの映画で見た場面のような気がして、留美は幸福だった。
 「僕ね、ここからこうして川の流れを見ているのが好きなんだ。夕日を浴びた富士山の姿も、気に入ってる。何だかね、自分が昔の浮世絵かなんかの一部になってしまったような、とても不思議な気分になってね」
 「俊ちゃん、小さい頃からよくここに来るの?」
 「うん、うちの親父がよくここにキャッチボールをしに連れてきてくれたんだ」 「私、すぐ近くに住んでるっていうのに、こんなにきれいな景色を知らずにいたなんて何だか、ずっと損してた感じだわ」
周囲の景色がきれいに見えるのは、こうして俊介と並んで土手に腰を下ろしていられる幸せのせいが大きいということに、留美は気づいていなかった。
 「一人で見るより、二人で見た方がやっぱりいいね」
 「えっ?」
 「遠山先生が言ってたの覚えてない?『美しい景色の美しさは、それを一緒に味わう人がいたときに何倍にもなる』って」
 「そうだっけ」
留美は遠山のその言葉は覚えていなかったが、俊介の口からあらためて聞いてみて、本当にその通りかも知れないと思った。
 「ところで留美ちゃんは、好きな人いるの?」
思いもよらぬ俊介の質問に、留美はどんどん顔が赤くなるのがわかった。
 「あっ、留美ちゃん顔が赤くなってる。そうか、いるのか…」
 「俊ちゃんは、ぽっちゃり型が好きなんでしょう?」
言ってしまってから、留美はしまったと思った。ついさっきまで、敬子と俊介の話をしていたものだから、ついつい話がつながってしまったのだ。
 「あれ、僕そんなこと言ったっけ?」
 「いや、そうじゃなくて、俊ちゃんならそうかなと思って…」
留美の赤い顔に夕日が当たって、さらに赤さが増したような気がした。
 
《倒産》
 水谷幸一郎が妻の幸子と結婚したのは22歳の時だった。農業を営む実家は経済的にかなり苦しくて、長男の幸一郎は高校へ進学せずに、家業を継ぐことになったのだった。絵が好きだった彼は、他区中学校の美術展で何度も入選していた。将来は絵描きになってパリの街に住むのが夢だった。「僕はミレーの愛した農夫になるんだから…」幸一郎は妙な理屈をつけて何とか自分を納得させなければならなかった。同い年の幸子と出会ったのは、大阪の農業博覧会の会場だった。幸子も中学を卒業するとすぐに大阪のデパートに就職したのだ。幸子は、どことなく芸術家肌の農業青年に、すっかり惹かれてしまった。幸一郎の方はと言えば、学歴がない分、控えめで色白美人の幸子に一目惚れしてしまったのである。二人のささやかな結婚式の日には、幸子はすでに俊介を身ごもっていた。三年後に妹の美津子が生まれ、水谷家は質素ながらも四人の幸せな家庭を築いてきた。幸一郎が茅ヶ崎市内の建築会社に勤め出したのは、30歳になったときだった。バブルで誰もが簡単に富を手にできた当時は、建築会社に勤めることは、銀行員になるよりも堅実な道のように思われた。ところが、バブルの崩壊とともに、建築業界は決定的な打撃を受け、生き残る力のある少数の大手建設会社以外は、仕事を続けることが不可能になってしまったのだ。幸一郎の勤める湘南建設は社長の首つり自殺をきっかけに倒産した。
 「まったく皮肉だよなあ…」
 「何がですか?」
 「お前も俺も『幸』の字が名前についているのに、いつも幸せとは縁遠いだろう?」
 「あら、そうかしら。私は、あなたと一緒になって、俊介と美津子を授かって、これ以上の幸せはないと思っているのよ」
 「すまないなあ、いつも苦労ばかりかけて」
 「でも、北海道で牧場ができるなんて、悪くないかも知れないわ」
 「その話だって、成功するかどうかはわからないんだ」
 「こんな時代ですもの。働く場所があるだけで幸せだわ」
 「お前は本当に強い女だなあ」
 「いいえ、あなたが頑張ってくれてるから、私は安心してるだけ」
湘南建設の社長が自殺して社員が路頭に迷ってしまうことを心配して、残された奥さんが社員にいろいろな職場を紹介してくれたのだった。そのうちのひとつに北海道の牧場の話があった。幸一郎は、広大な自然の中で働く自分が、中学生の頃にミレーの絵の中で見た農夫たちとダブって思えたのだ。(都会の生活はもういい)貧しい生活の中で、幸一郎も幸子も疲れ切っていたのかも知れない。
 「ただな、俺たちが高校に行けなかった分、俊介にだけは高校生活を楽しませてやりたかったのに、それだけが心残りで…」
 「でも、俊介は昼間は牧場の手伝いをして、夜定時制の高校に通うことができるって、担任の遠山先生がわざわざ調べて下さったじゃない。確かに学歴を保証してあげることも親の役目かも知れないけど、私は北海道の大自然の中で人間らしく生きることのほうが、もしかしたらそれ以上に幸せなことじゃないかと思うの」
 「俊介は、何て言ってるんだ?」
 「北海道の牧場で働くことは問題ないみたいだけど、仲のいいお友達と離れ離れになってしまうことが、ちょっと気にかかっているみたい」
 「俊介の年頃なら、好きなこの一人もいるだろうからなあ」
 「さあ、あの子とそんな話したことないから…」
とは言ったものの、幸子は母親の勘で、俊介の気持ちに何かの変化が起きているのは感じていた。
 
 大晦日。いつもならNHKの紅白を見ながら、大騒ぎをしながら家族四人で楽しく過ごすこの晩も、今年は北海道の新しい生活のことで、真剣な話し合いになってしまった。
 「俊介、学校の友達にはちゃんと言ったのか?」
幸一郎の質問に俊介が答える前に、妻の幸子が口をはさんだ。
 「この子ったらね、みんなには気がつかれないように、そっと北海道へ旅立ちたいんですって。それで、担任の遠山先生にだけ相談したそうよ。ねっ、俊介?」
 「だってさ、こんな時期に転校だなんて、大騒ぎになるに決まってるじゃないか。みんな受験勉強で忙しいのに、いい迷惑だよ」
俊介が家の事情を友達に知らせたくないということで、妹の美津子も協力していた。美津子もこの四月に俊介と同じ湘北中学に入学するはずだった。
 「私の友達も、きっとびっくりするだろうな。でも、いいの。私だってみんなが大騒ぎしたら別れるのが辛くなっちゃうから」
子供たちが周囲にいろいろな気遣いをしているのを知って、幸一郎はますます申し訳ない気持ちになるばかりだった。
 「お前たちにまで苦労をかけて、本当に申し訳ない」
 「お父さんが悪いんじゃないわ。世の中不景気なんだから仕方ないじゃない。それに、北海道の牧場で暮らせるなんて、私、ワクワクしちゃう」
小学生のくせに、一人前の口をきく娘を見て、だんだんしっかり者の女房に似てきたなと幸一郎は子供たちの成長ぶりの早さに、今さらのように驚かされた。
 「俊介、お前だって昼間の高校に通いたかったろう?」
 「父さん昔から言ってたじゃないか。『若い頃の苦労は金を払っても買え』って。それに、僕は北海道の牧場の生活に期待もしてるんだ。ただ…」
 「ただ何なの?お友達のこと?」
俊介は留美のことを言おうとしたのだが、どうせ片思いなんだから、そんなことにこだわってもしかたないと、言葉を飲み込んでしまった。
 「いや、何でもない。友達には、ちゃんと手紙を書いていくよ。遠山先生が、1月8日の始業式の日に、みんなに渡してくれることになってるんだ」
 「俊介、美津子…すまん…」
目の前で父親が泣く姿を見て、俊介も美津子も戸惑った。
 「お父さん、やめてよ、死ぬわけじゃないんだから。命さえあれば、人間何でもできるって、この間テレビで偉い人が言ってたわ」
 「そうだよ、父さん。それに、僕が子供の頃に父さんが教えてくれた野球のおかげで、僕は本当に楽しい中学校生活が送れたんだから、最高さ」
 「お兄ちゃん、エースで四番だもんね。かっこいい!」
 「そうじゃなくてさ、みんなと一緒にグラウンドで汗を流せたのが嬉しいんだ」
 
 水谷家の引っ越しは、1月5日に決まっていた。北海道の牧場と言えば、確かに聞こえはいいが、そこにはどんな厳しい生活が待っているか知れなかった。元旦に雑煮を食べながら簡単に家族のだんらんを持った水谷家は、すぐに引っ越しの荷物整理に追われた。4日の夜、すっかり片付いた部屋の中で、俊介も美津子も、友達にあてた手紙を書くのに夢中だった。俊介の最初の手紙は、もちろん清瀬留美宛てだった。
 「清瀬さんって、お兄ちゃんのガールフレンド?」
俊介の机の端に置かれた封筒の宛名をのぞき込んだ美津子は、にやにやしていた。 「そうじゃないよ。でも、大事な人さ」
 「お兄ちゃん、その人のこと好きなのね?」
 「うん、まあね」
 「告白したの?」
 「するわけないじゃないか。告白してサヨナラなんて、無責任だろう?それに留美ちゃんには好きな子がいるみたいなんだ」
 「留美ちゃんだなんて、聞いてる私の方が照れちゃうわ」
 「おいおい、兄貴をからかうつもりか?」
 「ごめん、ごめん。お兄ちゃん、妹としてじゃなく女として言うけど、気持ちははっきり伝えなくちゃだめよ。女は、それを待ってるんだから」
ませた口を聞く妹の美津子のしたり顔に、俊介はすっかりあきれてしまった。
 
《父と娘》
 水谷家が引っ越しの準備に追われているころ、清瀬家ではいつものようにのんびりとした正月が迎えられていた。留美は台所に立って朝食の準備をしている母親の麗子の隣で、お節料理の重箱から、慣れない手つきで小皿に料理を移している。
 「ねえ、お母さん、お父さんはお母さんの初恋の人?」
 「どうしたの、突然そんなこと聞いて」
 「ねえ、どうなの?」
 「違うわよ。お母さんの初恋の相手は、中学生のとき同じクラスだった男の子」 「その男の子のこと、どのくらい好きだった?胸が痛くなるほど?」
 「そうねえ、よく覚えてないけど、とっても好きだったと思うわ」
 「それなら、どうしてその人と結婚しなかったの?」
 「どうしてかしらねえ。その子とは高校で離れ離れになってしまって、それきりだったわ。それとも、手紙書いたかしら…。25年も昔の話だから、正確なことは覚えてないわよ」
 「お母さん、その男の子に告白した?」
 「まさか。あの頃は女の子から告白するなんてこと、まずなかったの」
 「それじゃあ、その子の方から告白してきたの?」
 「いいえ、お互いに気持ちを伝えないまま終わってしまったから、もしかしたらお母さんの片思いだったかも知れないわね」
 「後悔してない?」
 「うーん、ちょっとだけ後悔してるかな。でも、高校でお父さんと出会えたんだから、やっぱり告白しなくて良かったのかもね」
 「お父さんと、同じ高校だったんだ…」
 「そうよ。お父さんが三年生でサッカー部のキャプテンだったとき、お母さんが入学してマネージャーになったの。あの頃のお父さんは、けっこういかしてたのよ」
 「お母さんの初恋の人は、その後どうなったかしら?」
 「高校を卒業するとすぐにアメリカに渡って、今ではアメリカ人の奥さんとフロリダで暮らしてるって、この間の同窓会のとき誰かが言ってたわ」
 「お母さんは、フロリダに行くチャンスを逃したってわけね」
 「人生ってね、そんな風に計算通りには行かないものなのよ」
留身は、このまま気持ちを伝えられずに別れ別れになる、自分と俊介の未来を想像して、しばらく料理を移す手がお留守になった。
 「どうしたの、留美。あなた、好きな人でもできたの?」
 「えっ?やだ、恥ずかしい」
 「留美も年ごろだものね。好きな男の子くらいいたって少しも不思議じゃないわ」
 「でも、私もお母さんと同じになりそう」
 「同じって?」
 「その子に自分の気持ちを告白できそうにないの」
 「もしかして、その子って、野球部の水谷君じゃなくて?」
 「お母さん、どうして知ってるの?」
 「いえね、この間、ほらあなたがクラスのお友達とカラオケに行った次の日あたりだっけ、海野さんのお母さんが買い物の帰りに、あなたと水谷君がブランコのところで仲良さそうに話しているのを見かけたんですって」
 「敬子のお母さんに見られたってことは、敬子にもその話が伝わってるってことね」
 「そうなるかしらね」
 「あのときは、ブランコのところでばったり俊介君と会ってしまったの。もうびっくりしちゃった」
 「留美が好きな俊介君って、どんな子かしら?」
 「野球部のエースで四番なのに、全然かっこつけないの。とっても優しい目をしているのよ。その後少し、川原を散歩しちゃった」
 「あらあら、しっかりデートしてるんじゃない」
 「そんなんじゃないのよ。ただ、川原を散歩してお話しただけ。それに、俊介君には別に好きな女の子がいるみたいなの。」
 「そう、それは残念ね」
 
 二人がそんな話をしているところへ、二階から父親の貴志が、大きなあくびをしながら降りてきた。(これが高校時代にいかしてたサッカー部のキャプテンか…)とっさに母親の麗子が話してくれた高校時代のなれそめを思い出して、留美は少しおかしかった。
 「サッカー部のキャプテンも、これじゃあ台なしね、お父さん」
 「何の話だ?」
 「ううん、何でもないわ」
 「あなた、留美にボーイフレンドができたんですって」
 「いやだ、お母さんたら、まだボーイフレンドだかどうだかわからないじゃない」
 「留美は大事な受験を控えてるんだから、それどころじゃないよな」
 「受験と俊介君は別よ」
 「お前はまだ15歳じゃないか。ボーイフレンドなんか、まだ早い」
 「私はもう立派な大人です!」
 「いや、まだまだ子供だ」
 「お父さんだって、高校に入学したばかりのお母さんを恋人にしたんでしょう?」
 「いや、お父さんの場合は…。とにかく、お前は今は受験のことだけ考えてればいいんだ。母さん、ちょっとタバコ買いに行ってくるよ」
そう言って、貴志は娘の攻撃から逃げるように外に出て行ってしまった。
 「お父さんったら、私の気持ちも知らないで、あんな言い方するなんてひどいわ」
 「そうじゃないのよ、留美。お父さんは、留美にボーイフレンドができたって聞いて、やきもち焼いてるんだと思うわ。父親にとっては、年ごろの娘は若い恋人みたいなものだって言うしね」
 「私がお父さんの恋人?いやよ、そんなの!」
 「まあ、今から少しずつ慣れてってくれないと、お前がお嫁に行くとき大変よ」 「そんなもんかなあ…」
 「そんなもんよ。お前が生まれたときのお父さんの喜びようったらなかったわ。いつもは何だかんだで遅くなる人が、お前が生まれたとたんに、仕事が終わるとすぐに家に飛んで帰ってくるようになったんだから。留美のことがかわいくてかわいくて仕方ないのよ。だから、お父さんの小言も大目に見てあげてちょうだい」 「でもね、お母さん、俊介君が頑張ってると思うと、私も頑張ろうっていう気持ちになれるのは本当よ。そりゃあ、俊介君のこと考えてぼーっとしてるときもあるかも知れないけど、私がどんなに寒くても学校に行けるのは、俊介君のおかげなの」
 「あらあら、どうもごちそうさま。でも、お父さんにはそんなに急にショックを与えないであげてね。お母さんが上手に話してあげるから」
 「ありがとう、お母さん」
 
 貴志は近所のコンビニでタバコを買うと、少し散歩でもしたい気分になった。馬入川の土手を歩いていると、1月の冷たい風が身にしみる。どんなに寒い日も、娘を冷たい風から守ってきたのは貴志だった。ついきのうまで、貴志の腕にまとわりついて、甘えた声を出していたと思っていたのに…。いつかはこんな日が来ることは覚悟はしていたが、実際にそうなってみると、ショックは失恋並みに大きかった。(そうか、俺が麗子とつき合い始めたのも、麗子がまだ15歳のときだったんだな…)そう思うと、これから留美にどんな接し方をしていいものやら、まったく自信がなかった。
 そんな貴志の前を、高校生風のアベックが通って行く。その女の子の顔と留美の顔がダブって見えて、貴志はよけいに寂しい気持ちになった。娘だけがどんどん成長して行くそのはるか後方に、自分だけが取り残されて行くような気がした。
 
《旅立ち》
 1月5日の羽田空港は、正月の帰省から帰ってくる家族連れで、まだ混み合っていた。(この人たちと僕はまるで反対の方向に向かってるんだなあ…)俊介は、自分だけが世間から離れて、どこかの離れ小島にでも行ってしまうような、そんな寂しさとも不安とも知れない気持ちで、すっきりしなかった。
 「遠山先生、本当にいろいろお世話になりました。あのう、これクラスのみんなに書いた手紙なんです。始業式の日に、先生の手から直接みんなに渡してもらえませんか?」
 「そんなの、お安いご用だよ」
 「あのう…手紙のことでもう一つお願いがあるんですけど」
 「何だ、そんなに改まって」
 「手紙の中に、清瀬さんあてのものがあるんです。それだけは、他のみんなに知られないように、そっと渡して欲しいんです。お願いできますか?」
 「任しとけ。君の言うとおりにしよう。向こうは寒さも半端ではないだろうから、体にだけは気をつけてな。頑張れよ、水谷」
 「先生…別れって、本当につらいですね」
 「別に火星に移住するってわけじゃないだろうが。北海道なんて、飛行機でひとっ飛びさ。また、いつか会えるよ」
 「『別れの寂しさがあるから、出会いの輝きがある』でしたっけ」
 「おう、よく覚えてたなあ。君はまだまだ若いから、これからたくさんのすばらしい出会いに恵まれるはずだ」
 「先生、ありがとう。先生の教えてくれたいろいろな言葉、忘れません」
 「ああ、水谷。離れたときは、手紙が一番だ」
 「えっ?」
 「まさか、清瀬への手紙、これが最初で最後じゃないだろう?」
 「先生、知ってるんですか?」
 「いやあ、何も知らんけど、そんな気がしてね」
 「先生、僕必ず手紙書きます」
水谷俊介と清瀬留美…気取らないさわやかな少年と、まだあどけなさの残る少女…お似合いだなあと、遠山は思った。(頑張れよ、水谷!)小さな手荷物ひとつを提げて、搭乗口の方へ遠ざかって行く俊介の後ろ姿に、遠山は心の中で叫んだ。
 
 俊介のとなりの座席では、妹の美津子が眠っていた。俊介はその横顔を見て、思わずはっとした。頬に涙の流れた跡がある。そう言えば、きのうの夜、部屋でいっしょに別れの手紙を書き出したころから、美津子の口数が極端に少なくなったのを思い出した。馬入川越しに見る富士山の雄姿も、もう当分の間は見ることはないだろう。俊介は、留美と一緒に歩いた川原の景色をゆっくりと思い出していた。留美と一緒に土手に腰を下ろしたとき何とも言えない柔らかないい匂いがして、俊介の胸はときめいたものだ。今、思い出しただけでも胸がどきどきしてくる。(また、会えるかなあ…)そんなことを考えているうちに、俊介も美津子の隣で眠り込んでしまっていた。
 「お兄ちゃん、お兄ちゃんってば、ほら起きて」
妹の美津子の声で、俊介は目が覚めた。
 「お兄ちゃん、もうすぐ着陸よ。ほら、窓の外を見て。北海道が見えるわよ」美津子に促されるままに小さな窓から外を見ると、白い雪をかぶった北海道の大地がしっかりと目に入った。
 「ついに、来たか…」
 「飛行機から降りたら、きっとものすごく寒いわよね」
 「そうだろうね」
空港は思ったほどの寒さではなかった。それが、何だか北海道という未知の土地の、自分たちに対する歓迎の気持ちのように思えて、俊介は少しほっとした。(よし、行くか)決心したように俊介は歩き出した。
 
 遠山は羽田空港からの帰りの車の中で、何ともやるせない気持ちでいっぱいだった。なぜ水谷俊介のような好青年が、全日制の高校に進学するチャンスすら奪われなければならないのか。高校進学率が90パーセントを越える今の時代にあって、中学を卒業してすぐに働くということは、大変な苦労に違いない。北海道の牧場で建国に燃えるアメリカの開拓者のような生活をしながら、やかんの定時制高校に通い続けることは、本当に可能なのだろうか。彼を、野球で引っ張ってくれる学校は、公立にも私立にもいくつかはある。もちろん学力も高い彼のことだから、そこそこの進学校への進学も十分に可能だ。しかし、彼の家は彼の労働力をあてにせざるを得ないと来ている。せっかく高校へ進学しても、退屈な学校生活に目標を持てずに、中途退学したり、授業をさぼってコンビニの駐車場にたむろしている高校生だってたくさんいるではないか。
 遠山は、ふと年の瀬に開かれた中学時代の同窓会のことを思い出した。中学を卒業してから、あれだけの大人数が顔を合わせるのは初めてだった。18年ぶりの再会で、お互いの顔すらはっきりと認識できないケースもけっこうあった。遠山はそんな中で、中学時代には犬猿の仲だった國部達夫と席を隣にした。優等生タイプでどちらかと言えば先生たちからひいきの対象になっていた遠山とは反対に、國部達夫は札付きの悪で、他校生とトラブルを起こしては、しょっちゅう職員室に呼び出しを食っていた。あるとき、國部からの呼び出しを受けた富山は、体育館裏で國部の挑戦を受けた。周りには取り巻きのツッパリグループもいたし、遠山は怖さの余り、無我夢中で逃げ出したのを覚えている。それが、18年たった今、なぜか意気投合して酒を酌み交わしているのだ。
 「お前、先生になったんだってな。何か、嬉しいねえ」
 「國部こそ、もう中学生になる娘がいるなんて、大したもんだよ」
 「俺さ、今湘南ガスに勤めてるんだけど、最近の若いやつらは気合いが入ってないっちゅうか、とにかく遊ぶことばかり考えてやがって、参るよ」
 「國部の口から『最近の若いのは』なんてセリフ聞くとは思わなかったな」
 「いやあ、俺だっていつまでもばかやってられないさ。中学になる娘がいるんだから、ちっとはまともな父親したいじゃないか」
 「俺、中学の時の國部は何考えてるか、ちっともわかんなかったよ」
 「俺も、優等生でいつも先生に好かれてるお前がムカついてた…まあ、今だから言えることだけどな。でも、本当は俺も先生に好かれたくて、お前にやきもち焼いてたのかも知れねえな」
 遠山は、このときほど同窓会に来て良かったと思ったことはなかった。それにしても、人の一生は何がどうなるかわかったものではない。國部と同じツッパリグループにいた高橋は今では市内ナンバーワンの建築会社の社長をしている。ボンタンをはいて、長ランの前ボタンを全開にして、頭にソリを入れていた、中学時代の高橋の面影などこれっぽっちもない。どこから見ても、立派な紳士なのだ。
 (そうだ、人生なんて何がどう幸いするかわかったものではないんだ。北海道の牧場で仕事をしながら、何とか夜学を卒業した水谷が、北海道大学の農学部か何かに合格して、テレビに出演して、日本の畜産業の話をするようになるかも知れない。高校へ行ったからって、将来の何が保証されるわけではないんだ)
 遠山は、空港で水谷俊介と別れてからずっと頭の中にあったもやもやが、少し晴れた気がした。1月8日の始業式までに、クラスの生徒たちの進路をもう一度確認して、調査書も完成させなければならない。どうあがいても変わりようのない現実に、いつまでも悩んでいる暇はなかった。現実が変わらないのなら、自分の考え方を変えればいい。ものごとは考えようで、良くも見えれば悪くも見えるのだ。
 長いドライブを終えて家に着いたとき、遠山はドアのところにかわいいお客が来ていることに気がついた。清瀬留美である。心なしか、思いつめたような顔をしている。
 「先生、どこ行ってたんですか。私、もうここで1時間以上待ってました」
 「いやあ、ごめんごめん、ちょっと羽田空港までね。まあ、入りなさい」
 「失礼します」
 「散らかってるけど、男の独り暮らしだから大目に見てくれ」
 
《恋愛相談室》
 遠山はアパートで独り暮らしをしていた。湘北中学までは自転車で10分ほどのところにあったので、生徒も何かあると気軽に足を運んでくれた。
 「あんなところで1時間以上も待ってたんじゃ、凍えたろうに。先生の作るとびきりおいしいコーヒーでも飲むか?」
 「はい、いただきます」
遠山は、狭い台所でせわしそうに動いていた。男の独り暮らしは、やはりどこか殺風景な感じになる。生徒とは言え、女性の訪問客があると、遠山の部屋にも花が咲いたようなにぎわいが感じられた。遠山が張り切って入れているコーヒーの匂いが部屋に漂い始めると留美の沈んだ気持ちも、少しずつ和らぐような気がした。
 「ところで、何かあったのか?ずいぶん深刻そうじゃないか」
 「結構、深刻です」
 「進路のこと?」
 「…。遠山先生、先生の初恋っていつですか?」
 「何だよ、突然に」
 「ごめんなさい、私、どうしていいかわからなくて」
 「そうか、そういうことか」
遠山は若い男性教師だったが、どこか先生らしくない兄貴肌のところがあって、男女に限らず生徒から恋愛の相談を受けることも多かった。(まったく、俺の方が相談に乗ってもらいたいくらいなのに…)遠山には今のところ「恋人」と呼べるような女性はいない。彼のように、学校とアパートの往復をしているような生活では、恋人になる女性が欲求不満になってしまうだろう。現に、前の恋人とはそんなことが原因で別れてしまった。…というよりも、彼女の方から去って行った。そんな自分が、生徒たちの恋の悩みの相談に乗っているなんて、何だか自分自身でもおかしかった。しかし、職業がら、自分のことはわからなくても、他人のことはよくわかる。遠山の恋愛相談室は評判が良かった。
 「先生は、恋の悩みとかそういうの解決するのが上手いって、みんなが言ってるし」
 「上手いだなんて、笑っちゃうよ。先生は、今まで失敗だらけだったから、だからどうすればうまく行って、どうすれば失敗するか、よく知ってるだけさ」
 「先生には恋人いないんですか?」
 「今はね」
 「『今は』ってことは、前はいたんですね」
 「まあそういうことになるかな」
 「どうして別れちゃったんですか、その人と」
 「原因はいろいろあるんだろうから一言で言うのは難しいけど、まあ基本的には先生には言葉が足りなかったんだろうね」
 「言葉って?」
 「女性はね、いつも相手の男性の気持ちを確かめていたいんだよ。だから、忙しくてデートもできなくても、電話で『好きだよ』って言われたりすれば、それだけで幸せだったりするんだって。先生は、そういう言葉が上手に言えなかったのかなあ。女性の君を目の前にして『女性は…』なんて語るのも変だけどね」
 「私、自分が女のくせに、そういうこと言われてもピンと来ないなあ…」
 「さあ、今度は君が悩みを打ち明ける番だよ」
 「先生、私、クラスのある男の子のことが好きで、今までは彼のこと考えてると元気いっぱいになったんですけど、最近は彼のことが気になって、不安で不安でしかたないんです。ときどき、勉強も手につかないことがあって…」
 「良かったら、その相手の男の子の名前、教えてくれる?」
 「野球部だった、水谷君です」
 「水谷は、君の気持ち、知ってるの?」
 「いいえ、私、誰にも言ってないから。それに、水谷君には他に好きな人がいるみたいなんです。私なんか、ダメ…」
 「どうして、君じゃあダメだと思うんだ?」
 「だって、私なんか、美人でもないし、敬子みたいに明るくさっぱりした性格でもないし、頭だって大して良くないし、いいとこなんかちっともないじゃないですか」
 「自分のことは、よく見えないからなあ、人間ってさ」
 「えっ?」
 「そんなに自信なくす必要はないってことだよ」
 「私、いつまでも水谷君に対する気持ちをしまっておいたら、変になりそうで」 「でも、告白する勇気がなかった?」
 「恥ずかしくて…。初めてなんです、こんな気持ち」
留美の頬を大粒の涙が流れ落ちた。遠山は、純粋な留美がうらやましいと思った。それにしても大変なことになったものだ。留美が思いを寄せる水谷俊介は、もう今ごろは北海道の牧場に向かっていることだろう。それに、空港での俊介の言動から、俊介もまた留美に思いを寄せていたに違いない。お互いに思っていながら、気持ちも伝えられずに離れ離れになってしまうなんて、何だか映画のストーリーにでもなりそうな、美しい話だった。しかし、当の本人たちにしてみれば、まさにタイタニックの悲劇に違いない。
 「あのな、清瀬、実は水谷のことなんだけど…」
 「俊介君がどうかしたんですか?」
 「今朝、北海道へ出発したよ」
 「出発って、スキーか何かの旅行に?いつ、帰ってくるんですか?」
 「…もう、帰ってこないんだ」
 「帰ってこないって、先生、いったい何言ってるんですか?」
 「家の事情で、転校したんだ」
留美はそう聞いても、何が何だかさっぱり理解できなかった。(俊介君はもう帰ってこない…)留美の頭は混乱した。
 「だって、転校の話なんかしてなかった…」
 「騒ぎになるのがいやだからって、黙ってたんだ」
 「サヨナラも言わずに行ってしまうなんて、そんなのずるい!」
 「まあ、そう言うなよ。水谷も相当つらかったみたいだし」
 「先生が羽田空港に行ったのは、そのため?」
 「ああ、今朝の飛行機に乗って行った」
 「私がこんなに思ってるのに…俊介君たら…」
 「でも、清瀬、アメリカに行ったとか、火星に移住したとか、そんなんじゃないから、同じ日本の中なんだから、飛行機でひとっ飛びだから、だからその…」悲しみのどん底にあって涙している留美の姿を見て、遠山はどうやってなぐさめたらいいものやら、見当もつかなかった。恋愛相談室も女性の涙にはお手上げである。
 「そうだ、清瀬、水谷から預かってきたものがあるぞ」
 「俊介君が、私に?」
 「そうだよ。ほら、これ」
遠山は、自分のサブバッグの中から、今朝空港で俊介に渡されたばかりの手紙を取り出して、かすかに希望を見たような顔をしている留美の前に差し出した。
 「俊介君が、私に、手紙を…」
 「悪い内容じゃなさそうだよ」
 「先生、読んだんですか!」
 「おいおい、そんなことするわけないだろう。彼が、『そうっと清瀬さんに渡して下さい』って、とても大事そうに言ってたから、そう思っただけだよ」
 「私、怖くて読めない…」
 「告白する勇気もなければ、手紙を読む勇気もない。清瀬の臆病者」
遠山から『臆病者』呼ばわりされて、留美はちょっとムキになった。
 「私、読みます」
留美はすっかり遠山の作戦にはまっていた。さすが、恋愛相談室だけのことはある。
 
《ラブレター》
 「読みます」と答えたはものの、留美は遠山の目の前で封を切る気にはなれず、遠山に礼を言って、自転車で馬入川の土手に向かった。そこは俊介と初めての思い掛けないデートをした、思い出の場所だった。留美は、あのときと同じ場所に腰を下ろして、ゆっくりと封を切った。封筒には、男の子のていねいな字で『清瀬留美様』と受取人になるべき人の名が書かれていた。
 
 留美ちゃんへ
遠山先生から僕の転校の話を聞いて、びっくりしたことでしょう。サヨナラ も言わずに、逃げるようにして北海道に飛んでしまった意気地のない僕を、ど うか許してください。別れはやはり、どうしようもなく寂しいものです。
みんなでクリスマス・イブに行ったカラオケのときのことを覚えてますか。 僕は、中山さんにマイクを回されて、山下達郎の歌を歌いました。美にはずっ と片思いの女の子がいたんですけど、その子がちょうどあの場にいたので、そ の子のために一生懸命歌ったんです。でも、彼女はそんな僕の気持ちには気づ いてなかったみたい。(もしかしたら、俊ちゃんの好きな人って敬子なの?そ んなの、イヤ!)
僕は、どうしてもその子に気持ちを伝えたくて、次の日に彼女の家の近くま で行ってみました。そしたら、偶然通りかかった神社のブランコに、彼女は一 人で揺られていたんです。(…私のこと?俊ちゃんが好きな人って、私のこと なの?ウソ…)
そうです、留美ちゃん、僕が好きだったのは、清瀬留美、君だったんです。あのときは、おどかしちゃってごめんね。一人でブランコに座っている留美ちゃんを見てたら、ついつい声をかけそびれてしまって。あの後、君がいっしょに川原を散歩してくれるとは思ってもいませんでした。僕は、本当に幸せな気持ちでした。あのとき見た景色が、今までで一番きれいだと思いました。留美ちゃんと一緒に見てたからですね。
君には好きな人がいるんでしょう?君の心を奪ってるやつがいるかと思うと、悔しくて悔しくて夜も眠れないほどでしたが、僕は三学期の始業式を待たずに、北海道へ旅立つことになっていたので、半分あきらめていました。だけど、留美ちゃんに対する気持ちを、このまま胸の中にしまっておくことは、どうやらできそうにありません。直接、君に話すこともしないで、こうして一方的な手紙に頼っている僕は、本当に臆病者だと思います。
僕の転校は、父の会社が倒産してしまったことが原因です。父は、本当によく働く人で、僕の家族は休日に家族旅行なんかする暇もありませんでした。まあ、あったとしても、僕は部活で行けなかったでしょうけどね。その野球も、父が子供のころに僕に教えてくれた、大切な宝です。もうすぐ卒業という時期に転校だとなれば、当然大騒ぎになるだろうし、そうなれば、ただでさえ家族に『申し訳ない』と連発している父が、よけいにプレッシャーを感じるだけでしょう。それで、妹の美津子と話し合って、学校の友達には内緒で転校することに決めました。
僕は、北海道の牧場で働きます。留美ちゃんたちのように、昼間の高校へは通えませんが、何とか夜の定時制高校に通って、できれば大学にも行きたいと思います。父も母も、中学校しか出ていないので、僕たち兄妹にはせめて人並みの学歴だけはつけさせたいと思っているようです。それで、僕が昼間の高校に行けないことが、またまた両親のプレッシャーになっているんです。僕が頑張れば、少しは安心させてあげられる。
こうして、手紙を書いていると、留美ちゃんの顔が浮かんできて、会いたくて会いたくて、胸が苦しくなります。君の照れくさそうな笑顔が、もう見られないのかと思うと、もうこの世の終わりのような気持ちになってきますが、留美ちゃんも受験を控えて一生懸命頑張っているんだから、僕も負けずに頑張ります。
君に直接思いは告げられませんでしたが、留美ちゃんと同じ学校で、同じ教室で過ごせた楽しい日々のことは、一生忘れません。君に会えて、本当に良かった。
寒さがますます厳しくなります。風邪を引かないように気をつけてね。
さようなら  意気地なしの水谷俊介より
 
 生まれて初めてもらったラブレターを、最後まで一気に読んで、留美は事の意外な展開に茫然としていた。(どうして、もっと早く言ってくれなかったの?私だって、こんなに俊介君のこと好きだったのに。どうして、言ってくれなかったの?言ってくれてたら、お互いにこんなに苦しまなくても済んだのに…。でも、私だって俊介君に言えなかった。親友の敬子にだって相談できなかったんだもの、仕方ないよね。自分のことを『意気地なし』だなんて言わないで。こんなに嬉しい手紙をもらって、私はそれだけで幸せよ。俊介君、どうもありがとう)
 
 どうやって家までたどり着いたのか、留美自身にも記憶がなかった。おそらく、ぼーっとして歩いていたのだろう。
 「ただいま」
 「あら、留美、おかえりなさい。どうしたの、そんな顔して」
母親の優しい言葉に触れた瞬間に、留美のこらえていた涙が一気にあふれだした。 「お母さん!」
留美は、母親の胸に思いっきり飛び込んだ。
 「あらあら、この子ったら、まるで小さな子供みたい」
 「お母さん、俊介君が行っちゃったの」
 「行っちゃったって、どこに?」
 「北海道の牧場で働くの」
 「もう、この子ったら、話の筋道をよく追って説明してちょうだい」
 「麗子は、しばらくこのまま泣かせておこうと思った。女はすぐ泣く割りに泣きやむのも早いのだ。女同士だから、そのへんはよくわかる。母親の予想通り、しばらくして留美は泣きやんだ」
 「少しは落ち着いたかしら?」
留美は小さくうなずいて、母親に促されるままに食卓の椅子に座った。
 「で、俊介君がどうしたって?」
 
 麗子は事の一部始終を留美から聞いて、取り乱した娘の気持ちがよく理解できた。夫の貴志が高校を卒業するとき、同じように取り乱して大粒の涙をこぼしていた自分を思い出したのだ。
 「でも、俊介君もあなたのことが好きだったなんて、良かったじゃない」
 「もっと早く言ってくれれば良かったのよ」
 「俊介君は、あなたが別の男の子のこと好きだと思ってたんでしょう?」
 「そうみたい」
 「だったら、あなたに告白の手紙を書くなんて、なかなか男らしいわ」
 「どうして?」
 「だって、もしかしたらあなたにその手紙破かれちゃうかも知れないのよ」
 「破くだなんて、もったいない」
 「それは、あなたが俊介君のこと好きだからでしょう?もし、そうじゃなかったらきっと迷惑に感じてたと思うわ」
 「お母さん、そういう経験あるの?」
 「まあ、長いこと生きてれば、そういうこともあるわよ」
 「そうか、俊介君は意気地なしなんかじゃないんだね」
 「だじゃら好きになったんでしょう、俊介君のこと」
 「やだ、お母さんたら」
 「で、どうするつもりかな、留美は」
 「どうするって、まずは返事の手紙を書かないと」
 「そうね、俊介君にも留美の気持ちを教えてあげないとかわいそうね」
 「でも、うまく書けるかなあ。私、こんなの初めてなの」
見かけは大人びて来ても、留美はまだまだ子供だった。
 
《速達便》
 俊介のもとに留美から返事が届いたのは、1月7日のことだった。留美も、一日でも早く俊介に思いを伝えたかったのだろう。封書には赤いスタンプで『速達』の文字が押されていた。表には女性らしい丸みを帯びた字で、『水谷俊介様』と書かれている。裏の差出人の名前を見て、俊介は心臓が止まりそうになった。本当なら、まだ俊介が北海道に来ていることは学校の友達には知られていないはずだったが、そんな理屈をこねている余裕など、俊介にはなかった。俊介はその場で封を切ると、牧場の柵に寄りかかりながら、留美の手紙を読み始めた。便せんからは、かすかに花の香りがした。
 
 水谷俊介様
俊介君の手紙、わけあって予定より三日も早く読ませてもらいました。嬉し くて涙が出ました。あなたの住所は、遠山先生が教えてくれました。
私が好きだったのは、俊介君なんです。(えっ!そんなことってあるのか?) あのカラオケパーティーのときも、俊介君が歌っていた山下達郎の曲を、私は 「自分だったら俊介君を一人にしたりしないのに…」って思いながら、聴いて たんですよ。あのときは、俊介君は誰か別の女の子のことを思って、あの曲を 歌ってるのだとばかり思っていたんです。それが、私のことだったなんて、夢 みたいです。
  川原のデート、本当に楽しかった。岡本真夜の『エヴァーラスティング』っ ていう歌聴いたことありますか?あの中に、『あと5分、あと10分だけ…』 という歌詞が出てくるんですけど、私のあのときの気持ちも、全く同じでした。 あのまま、ずっと俊介君と一緒に、きれいな景色を眺めていたかった。
母に、俊介君の手紙のこと話したら、母は「男らしい子ね」って言って、俊 介君のことほめてました。私は、自分がほめられたように嬉しかった。
あなたは、サヨナラも言わずに行ってしまったけれど、それで良かったと思 います。だって、俊介君が転校するのを知ってたら、私は少なくとも何日間か は泣きながら過ごさなければならなかったしょうから。遠山先生が言ってまし た。「別に火星に移住したわけじゃないんだから、いつかまた会えるよ」って。  俊介君のご両親はお元気ですか?牧場の仕事大変でしょうけど、俊介君が北 海道で頑張ってるんだと思うと、私にも新しい勇気がわいてくる気がします。 いつか絶対に会いに行きます。それまでは、お願いだから他の女の子を好きに ならないでいて下さいね。
  お手紙、本当にありがとう。私の一生の宝物です。
                   お元気で 意気地なしの清瀬留美より
 
 俊介は自分の目を疑った。これが、本当に清瀬留美からの手紙なんだろうか。そう思って、何度も何度もほっぺたをつねってみるが、どうやら夢ではないらしい。俊介は思わず跳び上がって、大声で叫んでしまった。
 「やったーっ!」
 水谷家が借りた牧場は、想像していたよりはるかに広かった。それまでの牧場の経営者が病気になって、それ以上仕事を続けられないというので、水谷家で牧場とそこで飼われている家畜のすべてを引き受けることになったのだ。牧場の朝は早く、まだ寒さに慣れていない身には少しこたえたが、それでも水谷家は家族でいっしょに働けることの幸せに満ちていた。俊介や美津子にとっても、父親や母親の額に汗して働く姿を見るのは、初めてだった。今までとは違った意味で、両親の後ろ姿のたくましさを感じる。
 「俊介、何かいいことでもあったか?」
父親の幸一郎が、やけに生き生きとしている息子を見て言った。
 「うん、ちょっとね。父さん、僕、一生懸命働いて、大学行くよ」
 「そうか、苦しいかも知れないが、やれるだけやってみるといい」
 牧場の仕事が軌道に乗れば、その売り上げで牧場と家畜をすべて買い取る契約になっていた。仕事は楽ではないが、そこには昔あきらめかけた夢があった。会社は倒産してしまったが、そのおかげで家族四人の結束も今まで以上に強くなった気がした。
 
《父親からの贈り物》
 俊介に返事の手紙は書いたものの、もう当分の間は俊介の顔が見られないと言う事実は、留美にとっては、この上なく大きな悲しみだった。「俊介君が北海道で頑張ってるんだと思うと、私にも新しい勇気がわいてくる気がします」手紙に書いたその文句に嘘はなかった。それでも、三学期の教室の俊介の席には、もうあのさわやかな笑顔がないのかと思うと、寂しさはおおいようがなかった。
 「留美のやつ、やっぱり元気ないな」
貴志は、留美が落ち込んでいるわけは、妻の麗子から詳しく聞いていた。
 「そうねえ、しばらくすれば立ち直るとは思うんですけど」
 「そんなに、俊介君のことが好きなのか…」
 「年頃ですもの。思いこんだら命がけよ」
 「おいおい、命がけだなんて脅かさないでくれよ」
 「私たちの高校時代を思い出してみて。私は、あなたが卒業してしまって、もうグラウンドであなたの姿を見ることはないと思ったとき、ずいぶん落ち込んだものよ」
 「でも、学校の外で会えたじゃないか」
 「女はね、好きな人にはずっとそばにいて欲しいものなの」
 「留美も女ってわけか…」
 「当たり前じゃない。15歳って言えば、もう立派な大人よ。人を愛する気持ちは、大人と少しも変わらないと思うわ」
 「親としてしてやれることはないものかなあ」
 「そうねえ、俊介君を北海道から呼び戻すわけにも行かないし」
 「そうだ、麗子、最後に北海道にスキーに行ったのはいつだった?」
 「3年前の冬かしら」
 「北海道の雪は最高だったよな」
 「えっ?あなた、私たちを北海道に連れて行ってくれるんですか?」
 「いつまでも、娘のボーイフレンドにやきもち焼いてたら格好悪いしな」
 「あらまあ、優しいパパだこと」
 「優しいパパか…。いつまでパパできるんだろう」
 「何歳になってもパパはパパよ」
 「娘が成長するっていうのは、実に寂しいものだな」
 「あら、そうかしら。私がそばにいるじゃない」
 「そうか、忘れてたよ」
 「ひどい人。結婚するとき、『一緒になれなければ死ぬ』みたいなこと言ってたのは、どこのどなたでしたっけ?」
 「こりゃ参った」
 「ほら、あなた、留美に早く知らせてあげて」
貴志は、いそいそと二階の娘の部屋に向かった。史上最大のプレゼントを抱えた、寛大なサンタクロースにでもなったような気分だった。
 「留美、お父さんだけど、ちょっと入るよ」
 「あ、お父さん、私なら大丈夫よ。ほら、今英語の勉強してたの」
 「あのなあ、その机の上のは歴史の問題集じゃないのか?」
 「えっ、やだ、私ったら、どうしよう…」
 「ところで、留美、お前が卒業したら、春休みにお母さんとスキーに行こうと思うんだけど、お前一緒に来るか?」
 「私、そんな気分じゃ…」
 「それは残念だなあ。北海道の雪は最高なんだけどな」
留美は北海道と聞いて跳び上がった。
 「お父さん、それ本当なの?北海道に行けるの?ありがとう、お父さん!」
留美はものすごい勢いで貴志に抱きついてきた。こうして、娘を腕の中に抱いてやれるのも、そろそろ終わりかも知れない。父親は寂しいものだと、貴志はつくづく思った。
 
《驚きの始業式》
 平成11年1月8日。湘北中学3年A組の3学期は、いつものように元気よくスタートした。違ったことと言えば、いつもなら少し早めに登校するはずの水谷俊介の姿だけが、始業の時刻になっても現れないことだけだった。
 「あれえ、水谷のやつ、珍しく遅刻か?まったく、新年早々何やってんのかなあ」
同じ野球部で、3年間俊介の女房役を務めた山田健治ががつぶやいた。健治はキャッチャーというポジションにふさわしい、がっちりした体格の少年だった。
 「山田、水谷どこか出かけるって言ってたか?」
学級委員の手塚雄一は、新年の初日に全員がそろわないことを気にしているようだった。
 「いや、何も聞いてないけど」
 「俊介が遅れるなんて、ちょっと変だよな」
 「あいつ、目覚まし時計のアラームが鳴る前に目覚めるタイプだからなあ」
俊介が姿を見せないまま、体育館で始業式が終わり、生徒たちは教室に戻って、新年最初の学活となった。
 「みんな、あらためて新年おめでとう!」
 「おめでとうございま〜す」
遠山の挨拶にひときわ大きい声でひょうきんな挨拶を返したのは、クラス一の問題児城山和也だった。
 「城山は、今年も変わらず元気一杯だなあ」
 「先生よ、俺から元気ってもんを取ったら、何も残らんぜ」
 「そうね、あんたはそれだけが取り柄だからね」
学級委員の中山静香にあったら、さすがの問題児も形なしである。
 「ところで、みんなも気づいてると思うが、水谷俊介君が教室にいない」
 「先生、俊介何かあったんですか?」
俊介は、女房役の山田健治にさえ、何も言わずに行ってしまったのだ。
 「実は、水谷は北海道の中学校に転校することになった」
 「えーっ、うそーっ!」
海野敬子が悲鳴ともつかない声を上げた。
 「何でサヨナラも言わずに行っちゃったのよう!」
(敬子ったら、俊介君の気持ちも知らないで…)留美は、クラスの成り行きを黙って見守っていた。
 「いろいろ事情があってな、彼もみんなに別れも告げずに北海道へ行くことを、最後まで気にしていたよ」
 「先生、あいついつ出発したんですか?」
女房役の山田健治は、自分にさえ何も告げずに行かなければならなかった俊介のことを、少しでも詳しく知りたかった。人を平気で裏切るような俊介ではない。
 「5日の朝の便で羽田空港を出発した」
 「先生は、ずっと知ってたんですね?」
学級委員の手塚雄一が裁判官のような問いつめる口調で聞いた。
 「去年の三者面談のとき、お母さんから話があったんだが、水谷のたっての希望でクラスのみんなには最後まで内緒にしておくことになったんだ」
 「先生、水谷君から私たちに何かメッセージはないんですか?」
しっかり者の中山静香に催促されて、遠山は背広の内ポケットから
俊介がクラスのみんなにあてて書いたお別れの手紙を取り出した。
 「これ、始業式にみんなで読んでくれって、頼まれた手紙だ」
 「俊介のやつ、今までずっと一緒に苦労を乗り越えて来たっていうのに、最後のお別れは手紙かよ…ばかやろう…」
女房役の健治は、俊介からの手紙が読まれないうちに、もうめそめそしている。 「誰かに大きな声で読んでもらいたいんだが」
 「先生、僕に読ませてもらえますか?」
間髪入れずに名乗りを上げたのは、やはり手塚雄一だった。
 「そうだな、手塚に頼むとするか」
雄一はさっさと教壇の遠山の位置を奪うと、俊介からの手紙を大事そうに広げた。将来は本当に裁判官にでもなって、こうして判決の文面を読み上げているかも知れない。
 「みんな、静香に聞いてくれ」
 「お前は、前置きが長げーんだよ、いっつもよ」
段取りをきちんと踏む雄一にしびれを切らした問題児の城山が茶々を入れた。
 「こら、和也、静香に聞きなさい!」
中山静香の一声で、和也は肩をすぼめて大人しくなってしまった。(女性も強くなったもんだ)遠山は、そんな光景が日本の将来を象徴しているような気がして、おかしかった。
 
 3年A組のみんなへ
  ちゃんとしたお別れもせずに、北海道へ行ったしまった僕を許して下さい。 しかも、新年早々、こんな湿った手紙でスタートなんて、本当に申し訳ない。
  去年の11月に父の会社が倒産して、僕たちはこの茅ヶ崎にいられなくなり ました。受験を控えた大切な時期だったので、両親も最初はためらっていたの ですが、仕事がなければ生活して行くこともできないので、父の知人の紹介で 北海道の牧場で働くことになりました。慣れない仕事なので、人手を集める余 裕はないので、僕も手伝わなければなりません。高校へ行っても一緒に野球を 続けようと約束していた山田君には本当に悪いんだけど、僕に野球を教えてく れた父を助けるためなら、このくらいの苦労は当然のことだと思います。ぼっ くは、昼間は牧場の仕事をして、できれば夜の定時制高校に通いたいと思いま す。大学に行く夢もあきらめませんよ。
  去年のクリスマスカラオケパーティーは最高でした。みんなそれぞれの事情 があるので、一部の人間しか集まれませんでしたが、それでもああいう雰囲気 は3年A組の雰囲気そのものだと思いました。企画してくれた学級委員の二 人にも感謝します。
  書きたいことは山ほどもあったはずなんですが、こうしてペンを持って便せ んに向かってみると、思うようにペンが進みません。僕の隣では、妹の美津子 が同じようにクラスの友達に手紙を書いています。いつも手紙を書き慣れてい るはずの妹も、さすがに今日ばかりは、手を休める時間が長いようです。
  中学校最後のクラスが3年A組で良かった。修学旅行も、文化祭でのクラ ス参加のミュージカルも、体育祭も合唱コンクールも、何もかもが楽しい思い 出となりました。野球部で教えられたこともたくさんあります。僕は「エース で4番」なんて言われてましたが、エースも4番も9人のレギュラー、いや  20人の部員の一人であることを思い知りました。役目に大小はありません。 それぞれが、その人にしかない役目を背負っている。自分が活躍できるのも、 みんなのおかげだということが、よくわかりました。クラスも家族も同じなん ですね。みんなで力を合わせないといけない。
  僕のことをずっと隠していてくれた遠山先生をどうか責めないで下さい。先 生は僕のために北海道の定時制高校を調べてくれたし、多分明日も羽田空港ま でわざわざ見送りに来てくれるはずです。勇気の出る言葉をたくさん教えてく れた遠山先生にも、心から感謝しています。
  はっきり言って、みんなと別れるのがものすごく寂しいです。だから、こん な手紙1通で逃げてしまう僕を、どうか許して下さい。これから、ますます寒 くなりますから、大切な受験の前に風邪などひきませんように。みんなの健闘 を祈っています。いつか北海道に旅することがあったら、必ず連絡下さい。お 元気で。
                      平成11年1月4日 水谷俊介
 
 手塚雄一が俊介の手紙を読み終えても、3年A組の教室はしばらく静まり返ったままだった。遠山は何かフォローの言葉をつけ加えるつもりだったが、俊介の手紙はすべてを語り尽くした感じで、遠山のよけいな言葉を必要としていなかった。敬子も留美も涙ぐんでいる。女房役の山田健治の目も真っ赤だった。問題児の城山和也も下を向いていた。
 
《それぞれの道》
 俊介の手紙が読まれてから、最初に沈黙を破ったのは意外にも問題児城山和也の真剣なつぶやきだった。
 「俺みたいにいいかげんなやつが、何とか高校に行けて、俊介みたいなすげえやつが働くなんて、世の中何か間違ってらあなあ…」
 「私も、高校に行けることなんか当たり前だと思ってた」
今まで和也の茶々をたしなめる役だった中山静香も、今回ばかりは和也の発言を肯定せざるを得なかった。
 「先生、定時制の高校にも野球部ってあるんですか?」
 「ああ、ちゃんと全国大会まで用意されてるから、心配するな」
女房役の山田健治は、やはり最後まで俊介のことが心配だった。
 「私、高校でバイトするのやめようかな。ミニスカートもルースソックスもはかない。ピッチも買わない。高校でしかできないこと、一生懸命やるわ」
海野敬子が一大決心を公表した。
 
 俊介の手紙は、思わぬ波紋を広げた。担任の遠山が何時間かけても語り尽くせないようなことを、俊介のたった1通の手紙がクラスに浸透させてしまった。(学校の教師なんて力ないなあ…。生徒から教えられることの方が、はるかに多い)遠山はつくづく思った。自分は何だかんだ偉そうなことを語ってきたが、自分の人生など「苦労」と呼べるような苦労はなかったと思う。知らず知らずのうちに『いい先生』という評判に甘えていた自分が、何だかものすごくちっぽけな存在に思えるのだった。(俺も頑張るか…)遠山も俊介の手紙に新しい勇気を与えられたような気がした。
 「先生、ちょっとお願いがあるんですけど、聞いてくれますか?」
冬休みの間に、心なしか大人びた表情になった留美が、職員室の遠山のところにやってきた。初日の日課はすべて終わって、3年生のほとんどは下校し、1・2年生は部活に散っている。学校はいつもの活気を取り戻していた。
 「いいよ、言ってごらん」
 「あのう、屋上に出たいんですけど」
 「屋上って、この上か?」
遠山はびっくりしたような顔で天井を指さした。
 「そう、この上です」
留美も笑って、遠山の真似をして天井を指さした。
 「そうだなあ、先生も久しぶりに屋上の空気が吸いたくなった」
 
 湘北中学では、生徒が屋上に出ることを禁止していたし、職員ですら年に1回の記念撮影のとき以外は、そのとびきり眺めのいい「展望台」を訪れることはなかった。しかし、遠山は別だった。去年の夏も、ソフトテニス部の娘たちを連れて、夜の屋上で花火大会の見物をした。遠山は、そういう「冒険」が好きだった。 「わあー、気持ちいい!私、ここに来るの初めてなんです」
 「先生も久しぶりだよ」
 「うそばっかり。遠山先生はしょっちゅうここでお昼寝してるって、有名ですよ」
 「お昼寝はないだろう」
 「去年の花火大会、きれいでしたか?」
 「みんな知ってたのか?」
 「テニス部の子たちが自慢してましたから」
 「まったくあいつら口が軽いんだからなあ」
 「吹奏楽部の私たちは、もう文句たらたらだったんですよ」
 「先生も、城山と同じで『問題児』かな」
 「そうですね。でも、いい『問題児』です。城山君も、本当はいい人」
留美は、学活のときの城山の真剣なつぶやきを思い出していた。
 
 湘北中学の屋上からは西に丹沢・大山山系の山並みと富士山の雄姿が、南東には相模湾や、天気が良くて見晴らしがきけば江ノ島が見える。遠山には特に夕日を背にした富士の姿が好きだった。今日はまだ日が高いが、冬の澄みきった空気の中に、雪を頂いた富士の姿が美しい。
 「きれいだわ…。これ、俊ちゃんの好きな景色なんですよ」
 「今ごろ、北海道の牧場で張り切って働いてるんだろうなあ」
 「どんなところかしら、俊ちゃんの牧場って」
 「広大な北海道の自然に包まれた、緑の草原だよ」
 「先生、行ったことあるんですか?」
 「いや、そんな感じじゃないかと思ってね」
 「人の人生って、いつ何が起きるか分からないんですね」
 「何だか、ずいぶん大人になっちゃったなあ、清瀬も」
 「俊介君のことがあって、父や母の昔の話も聞けたし。人と人との出会いって不思議ですね。父と母が高校で出会わなかったら、私がここでこうして先生と話をしていることもないんですもの」
 「『別れの寂しさがあるから、出会いの輝きがある』か…」
 「去年の最後の授業のとき、先生が言ってた言葉ですね?」
 「君も覚えてたか。実は、空港で水谷を送ったときも、水谷が言ってたよ」
 「私は、水谷君との出会いを大切にしたい」
 「そうだな、君たちの場合は『別れ』というよりも、新たな『出会い』と言った方が正確かも知れない」
 「私、卒業したら北海道へ行くんです」
 「おいおい、まさか駆け落ちじゃあないだろうな」
 「やだ、先生ったら。違いますよ。両親が北海道にスキーに連れて行ってくれることになったんです」
 「親稼業も楽じゃない、か」
 「私、父にも母にもすごく感謝してます。もちろん先生にも」
 「感謝だなんて。先生の方こそ、君たちにいろいろ教えられたよ」
 「私たちに、ですか?」
 「そうだよ。君たちの先生でいられて本当に良かった」
 「私も、先生のクラスで良かった」
 「『俊介君と同じクラスで』だろう?」
 「それもあるかな。何だか、冷やかされるのにも慣れちゃいました」
 「もうすぐ卒業だな」
 「早いですね。ついこの間3年生になったばかりだと思ってたのに」
 「みんな、それぞれの道を歩いて行くわけか」
 「本当にみんなばらばらになっちゃうんですね」
 「ばらばらって言っても、所詮は同じ地球上の道だけどね」
 「それでもやっぱり、寂しいなあ」
 「先生も、君たちと別れるのはちょっと寂しいよ」
 「でも、4月には新しい1年生との出会いがあるじゃないですか」
 「そうだな、また一からやり直しだ」
屋上で富士を眺めながら話している遠山と留美のところへ、どこでかぎつけたのか敬子が飛び込んできた。
 「まったく、こんなところでデートですか?」
 「やだ敬子ったら、誤解しないで。デートなんかじゃないわ」
 「わかってるって。留美、ちゃんと俊ちゃんに返事書きなよ!」
 「敬子、知ってたの?」
 「あんたとはきのう今日のつき合いじゃないでしょ。水くさいんだからな、留美は」
三人の笑い声が屋上に響いた。富士の姿も一層美しく見える気がした。(完)
 
《筆者あとがき》
 「冬休みに短編小説に挑戦する」と宣言して、原稿書きはさっそく12月25日から始まりました。1日だいたい原稿用紙10枚分ぐらいのペースで、予定よりもかなり早く「作品」は完成しました。とにかく、小説に挑戦するのは初めてなので、登場人物の設定が大変で、どんなに登場場面が少ない人物にも、それなりの人生をイメージしなければならず、プロの物書きの大変さを垣間見た気がします。
 小説の楽しさは、自由に物語を展開できるということです。こんな風になったらいいなあとか、この台詞はちょっときついかなあとか、そうやってあれこれと展開を思案しているときが、何とも言えない楽しみでした。ときには、眠りについたばかりのベッドの中で、またときには熱い風呂につかりながら、新たな展開を思いついたこともありました。
 主人公の…そう言えば、この小説の主人公は誰なんでしょう。タイトルの『初恋』からすれば、当然水谷俊介と清瀬留美が主人公なんでしょうが、二人の間に入ってあれこれ苦労する、担任の遠山純一郎もまた主人公とも言えるかも知れません。もっとエネルギーがあれば、問題児の城山和也のエピソードなども入れられたのでしょうが、それはまた別の機会に譲ることにして、今回は俊介と留美の微笑ましい初恋と、彼らを取り巻く人々のやさしさにスポットを当てることにしました。
 北海道の牧場での生活に乗り出す水谷家の開拓者精神と、俊介からクラスに宛てた手紙を読んだ後の遠山のはっとした気持ちは、自分が実際に中学校の教師をしていて、大切にしたいと思うことです。小説の中では、自分の信じていることを、登場人物たちがいかにもさりげなく語ってくれます。『美しい景色の美しさは、それを一緒に味わう人がいたときに何倍にもなる』という言葉が出てきますが、これは実際に南太平洋のタヒチ島を一人で旅したときに、心の底から感じたことでした。
 この物語に登場させ損なった人物の一人に、野球部の監督さんがいます。エースピッチャーの水谷俊介と女房役の山田健治を育て、俊介の手紙の中で俊介にあれだけ立派なことを言わせた監督は、どんな人だったのでしょう。部活動の指導者がどんどん少なくなるばかりか、部活を通して人間教育をする人も本当に少なくなった現代。筆者の頭の中には、今までの教員生活で出会ったさまざまな銘顧問の姿が浮かびます。
 それにしても、この短いストーリーの中には、あまりにもたくさんの問題を詰め込み過ぎたかも知れません。学歴社会の問題、親子のコミュニケーションの問題、不景気な世の中にあって経済的な負担に苦しむ庶民の生活、などなど未熟な筆者であるがために中途半端な形で扱わざるを得ませんでした。北海道の牧場の窮状などは筆者の想像の域を出ませんし、ひとつの小説を完成させるためには、まだまだ人生経験を積まなければなりません。
 『四十の手習い』という言葉がありますが、有名な『ピーターラビット』の著者として教科書の題材にもなっているイギリスのビアトリクス・ポターも、出版界にデビューするのは30歳を優に越えたときだったと聞きます。「夢を追いかける」という言葉は、現実離れしたものの象徴のように使われることが多いのですが、強い意志と周到な作戦と粘り強さを持ってすれば、「夢はかなえられるもの」なのではないかと強く信じるようになりました。人間には無限の可能性が詰まっていることは確かだと思いますが、その可能性を開発するきっかけは、やはり学校教育の中にあるべきでしょう。それは、現代という時代に教鞭をとる人々の、永遠の課題です。
 俊介や留美の言葉を見て、「現代っ子はもっと計算高いはずだ」と思われる方も多いのではないかと思いますが、日常中学生と接していて、彼らの純粋さは、その外見とは裏腹に、昔と少しも変わらないことを明記しなければなりません。そして、さまざまな悩みを抱えて揺れ動く彼らの心を、俊介や留美の両親のように、大きな気持ちで暖かく見守ってあげられたらと思います。