『夕焼けの少女』
       著者 石山 等
 
帰国
 
 「お姉ちゃん、もう荷物片づいた?」
 「だいたいね。美香はどうなの?」
 「私は、まだまだかかりそう。だって、いろんなもの見てると、思い出にふけったりしちゃうんだもん。」
 「明日はもう日本なんだから、早く片づけて、オンタリオ湖まで夕陽を見に行かない?」
 「愛美姉ちゃんは、夕焼けが大好きだもんね。頑張るから、もうちょっと待っててね。」
 「いいわよ、慌てなくたって。」
 
 坂口家がカナダのトロントの郊外に居を構えたのは、今から5年前のことだった。父の秀雄が大手製紙会社のカナダ支店長に抜擢されて、一家そろってカナダのトロントにやってきた。母の裕子は秀雄と高校時代の同級生で43歳の現在はピアノの教師をしている。大学を卒業してすぐに中学校の音楽の教師になったのだが、25歳で秀雄と結婚して3年目に長女の愛美が生まれたのを境に、学校は退職していた。この4月から、姉の愛美は中3に、妹の美香は中1にそれぞれ進級する。カナダの雄大な自然に魅了された秀雄は、帰国後は鎌倉の稲村ヶ崎に転居することにした。それに先だって、東京の旧家はすでに売却してしまった。稲村ヶ崎の向かいにある高台の住宅街は、相模湾を一望する絶景の地だった。東京の本社までは、江ノ電とJR東海道線を使って通勤する。決して通勤時間には恵まれてはいなかったが、やはり自然に近いところに住みたかったのだ。古都鎌倉は緑にも恵まれた土地だった。
 帰国の支度が終わって、愛美は何とか間に合った妹の美香を連れて、オンタリオ湖まで自転車で出かけた。湖畔から見る夕陽はこの世のものとは思えないほどに美しかったのだ。
 「やっぱりカナダは最高ね。」
 沈み行く真っ赤な夕陽を見つめながら、愛美は美香に言った。 
 「この夕陽、しっかりと心に焼き付けておかなくちゃ。今度カナダに来れるの、いつになるか分からないものね。」
 妹の美香も感傷的になっている。カナダは本当にすばらしいところだった。大自然に恵まれた生活は、本当に人間らしさを実感できる。しかも、二人が通っていたトロントの現地校は自由な校風の学校で、生徒たちはそれぞれの個性を思う存分伸ばすことができた。せっかく英語も自由自在に使いこなせるようになって、いい友達もたくさんできたところで、父親の本社復帰だ。でも、二人は鎌倉という未知の土地にも興味があった。湘南海岸のすぐそばで、オンタリオ湖に負けないくらい、夕陽のきれいなところだと聞いていたからだ。
 「お姉ちゃん、鎌倉ってどんなところなんだろうね。歴史の古い街だって聞いてるけど、なんだか楽しみ。」
 「そうね。それに新しいおうちは高台にあって、毎日きれいな夕陽が見れるんだって、お父さんが言ってたわ。」
 「お姉ちゃんが夕陽の当たるお部屋をとっていいからね。私は、朝日の方がいいもん。」
 「ありがとう。私ね、真っ赤な夕陽を見てると勇気がわいてくるんだ。明日も頑張ろうってね。夕陽は悲しいって言う人もいるけど、私はものすごいエネルギーを感じるの。」
 「お姉ちゃんって、結構ロマンチストなんだ。」 「そうよ、ロマンチスト。稲村ヶ崎から見る夕陽も真っ赤に燃えてるかしら。」
 「夕陽って、どこで見ても真っ赤なんじゃないの?」
 「それもそうよね。大きいといいな。大きくて真っ赤な夕陽。」
 「私は、朝早く起きて海岸を散歩したい。」
 二人の胸は別れの寂しさよりも、新しい出会いへの期待にふくらんでいた。
 
 「やっと日本に帰れるのね。カナダもすばらしいけど、私はやっぱり日本がいいわ。」
 「転勤ばかりで、お前にも苦労をかけるな。新しい家は稲村ヶ崎の高台で、眺めも抜群なんだ。買い物に行くのにちょっと坂道が面倒かも知れないけど、きっとお前にも気に入ってもらえると思うよ。」
 「あなたには本当に感謝してるの。だって、東京の本社までの通勤時間を考えたら、鎌倉はとても不便な場所でしょ。それなのに、私たち家族のこと考えてくれて、嬉しいわ。」
 「本社の出勤はゆっくりでいいそうだから、別に大変じゃないさ。それよりも、愛美や美香にはゆったりとした自然の中で育って欲しいじゃないか。」
 「美香はともかく、受験を控えた愛美は大丈夫かしら。日本の受験戦争は今でもまだ厳しいそうだから。」
 「そうだなあ、カナダの学校は本当に伸び伸びと子供たちを育ててくれたから、日本の中学校とはギャップが大きいかも知れないな。でも、子供はたくましいから大丈夫だろう。」
 「そうね、私たちの娘だものね。たくましくやってくれるわ、きっと。日本に帰ったら、私思いっきりお寿司を食べてみたいわ。」
 「よし、いいところに連れて行ってあげるよ。」 「明日の夜には成田空港に着いているのね。」 「長い空の旅になるけど、楽しみだな。」
 
 翌日の朝一番の便で坂口一家は帰国することになっていた。早めに寝床についたそれぞれは、5年分のカナダでの思い出を夢に見るのだろうか。凶悪な犯罪が増加している日本ではあったが、それでも一家にとっては、何物にも代え難い故郷だった。確かにカナダの雄大な自然は魅力的だったが、それよりも一日でも早く日本の空気が吸いたかった。それはまるで長い旅から家に帰るのと同じ気持ちだったろう。
 成田空港に到着したのは、もう夜の10時を回っていた。一家はその夜は空港のホテルに泊まり、翌朝鎌倉の新居に向かう予定だ。先に送ってあった家財道具は不動産業者の手配で、すでに新居に運び込まれている。最後に送った荷物も翌日には新居に配達されるはずだった。
 翌朝、成田エキスプレスとJR東海道線と江ノ電を乗り継いで、一家はようやく稲村ヶ崎の新居に到着した。江ノ電の七里ヶ浜駅からは坂道の連続だったが、高台から見る景色は噂通り最高だった。愛美たちの通う鎌倉市立七里ヶ浜中学校は、新しい家から徒歩で7分ほどのところにあった。
 「それにしても、すごい坂道ね。これで運動不足も解消かしら。」
 「確かに毎日下って上ってを繰り返したら結構の運動量だろうな。」
 しかし、運動好きの娘たちは大喜びである。 「私たちは若いから大丈夫よ。ねえ、美香。」 「いいシェイプアップだわ。」
 美香は中1のくせに生意気なことを言っている。
 「ねえ、お父さん、私夕陽の当たるお部屋をもらってもいい?美香にはもう許可を得てるんだけど。」
 「何だ、二人はもう部屋を決めてるのか。それで美香はどの部屋にするんだ?」
 「私はね、朝日の当たる部屋。」
 「そうか、それではお父さんが正式に許可しよう。ここは、お前たちのために選んだようなものだからな。買い物の大変なお母さんにはちょっと申し訳なかったけど。」
 「いいわよ。それこそ、いいシェイプアップになるんだから。毎月フィットネスクラブに高いお金を払うことを考えたら、ラッキーだわ。」
 「さあ、それじゃあ、ちょっと一息ついたらみんなで荷物の整理でも始めるか。新学期が始まるまで3日しかないから、頑張らないとな。」
 「それじゃあ、コーヒーでも入れますか。みんなそれでいいかしら?」
 裕子はコーヒー入れの名人である。あらかじめ送り届けられていた荷物の中から、コーヒーメーカーやら何やらを掘り出すと、裕子はさっそくおいしいコーヒーを入れ始めた。たちまち部屋中にはコーヒーのいい匂いがたちこめる。それは、坂口家の平和な雰囲気をそのまま象徴しているかのようだった。
 「今晩は、鎌倉駅の方まで出ておいしいお寿司を食べに行こうか。どうだ、みんな。」
 父親の秀雄の提案に全員が賛成した。特に、日本に帰ってきたら思いっきりお寿司を食べたいと言っていた裕子は大喜びだった。
 「私はウニをお腹いっぱい食べちゃおうかしら。あなた、全財産を持っていってね。」
 「何だか、怖くなってきたな。しかし、今晩は帰国のお祝いだから、ぱーっと行こう。」
 「お父さん、最高!」
 やはりお寿司には目のない美香が歓声をあげた。和やかに過ぎてゆく時間の中で、坂口家がこれから出会うことになる大きな困難の予想などどうしてできたろうか。仲のいい姉妹と円満な夫婦。こんな幸せな家庭にも、人生の苦難は平等に訪れる。
 
転入生
 
 鎌倉市立七里ヶ浜中学校は江の島電鉄を挟んで、ちょうど七里ヶ浜に面したところにあった。海側の校舎の窓からは、湘南の海が一望できる。右手には江の島が大きく居座っていた。放課後になれば、海岸をランニングする運動部の声が響く。こんなに恵まれた環境が他にあっただろうか。最近ではサーファーが大量に押し寄せるようになって周辺は大変な賑わいを見せていたが、決して俗っぽい荒廃した雰囲気の土地ではなかった。海岸もきれいに清掃が行き届いていて、国道134号線沿いには、雰囲気のいいレストランも何軒か軒を並べている。夕陽がきれいで情緒あふれる浜辺は、絶好のデートコースでもあった。
 4月5日の始業式の日、もちろん妹の美香にとっては入学式の日になるわけだが、二人の姉妹は新しい学校への期待に胸をふくらませていた。姉の愛美は3年A組で、担任は横川大造という37歳の独身の教師で、いわゆる「バツイチ」の離婚歴がある男性だった。彼は体育の教師とは思えないほど繊細な雰囲気を持っていた。妹の美香は1年C組で、担任は28歳の山田涼子という美術の教師だった。七里ヶ浜中学校は、どの学年も5クラスの編成で、規模としては中ぐらいのちょうどいい落ち着いた学校だった。しかし、表面上の平和な雰囲気とは裏腹に、陰湿ないじめが横行しているという噂もあり、そのせいかどうかは分からないが、不登校の生徒も各学年に平均して5〜6名はいた。
 校長の小泉新太郎は、始業式でも入学式でも、みんなが仲良く学校生活を送ることの大切さを切々と訴えた。大胆で「おやじ」のような懐の深さを持った小泉は、職員からの信頼も厚かった。それに引き替え、教頭の川島洋一は小心者のよくあるタイプの管理職で、保護者からの批判に毎日びくびくしていた。
 「みなさん、いよいよ新しい年度の始まりです。去年は不登校の生徒をずいぶん出してしまいましたが、今年こそは何とか彼らにも学校生活の楽しさを味わわせてあげてもらいたい。そして、これ以上不幸な子供たちを作らないためにも、子供たちの心をつかむ工夫は、どんなに小さなことでもいいですから、即実行してみてください。」
 年度当初の職員会議で小泉校長は熱のある発言をした。
 「えー、ただいま校長からもありましたように、不登校の生徒たちについては、格別の配慮をしていただきたいのです。家庭訪問をするだけでも、保護者は安心しますし、とにかく学校が何も対策を講じていないという批判だけはされないように注意してください。」
 川島教頭は相変わらず情けない発言をしている。その好対照がおもしろいと、横川は思った。《保護者の批判をかわすために家庭訪問をするわけじゃない》横川は持ち前の正義感の強さで、とっさに川島教頭の発言に反論したくなった。しかし、こんなところで教頭と議論しあったところで何が始まるわけでもない。横川は、机の上に置かれた40冊近くの真新しいノートを見つめながら、密かに情熱を燃やしていた。ノートは、生徒一人一人との交換ノートだった。横川は右も左も分からなかった新採用時代から、この個人ノートを続けている。最初のうちは当たり障りのないことを書いている子供たちも、横川の熱心な返事を読むうちに、だんだんと本音を文字にするようになる。女子生徒の中には、恋の相談をする子もいた。男子生徒はなかなか文字を書きたがらないので、横川は週に最低1回はノートを提出することを子供たちに義務づけていた。どんな内容でもいいのである。イラストだって構わない。とにかく、ほんの少しでもいいから、子供たちの声が聞きたかった。《よし、今年も頑張ろう》横川はカナダからの帰国子女を抱えることに対しても、不安よりは期待の方が大きかった。
 
 始業式の当日、忙しい学活の中で、横川はカナダから帰ってきたばかりの愛美をクラスのみんなに紹介した。
 「みんな、新しい仲間を紹介しよう。坂口愛美さん。彼女は、お父さんの仕事の関係で5年間カナダのトロントに行っていた。ついこの間帰国したばかりなんだ。いろいろ慣れないことも多いと思うから、よろしく頼んだよ。じゃあ、坂口さん一言挨拶してもらえるかな。」
 「はい。みなさんこんにちは。坂口愛美です。私は5年間カナダのトロントの郊外に住んでいました。運動が大好きなので女子バレー部に入りたいと思っています。私の妹も今年中学に上がったばかりです。英語は得意ですから、何か困ったことがあったらどうぞ何でも聞いてください。それから、みなさんのお役に立てることなら何でもやって行きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。」
 クラスのあちこちでひそひそ話が聞こえる。
 「おい、英語なら任せろだってよ。いい気なもんだぜ。」
 「転校してきたばかりのくせに、みんなの役に立てることなら何でもやるだなんて、馬鹿みたい。何も知らないくせに。」
 堂々と自己紹介をした坂口愛美に対して、クラスの反応は冷ややかだった。最近の中学生の間ではあからさまな自己主張を嫌う雰囲気があるのだ。だから、「英語は得意ですから」などとはっきり言われてしまうと、カツンと来る。カナダでは当たり前の自己紹介も、日本ではうさんくさい目で見られるのが関の山だった。
 「先生、坂口さんに質問があるんですけど、いいですか?」
 とげとげしい口調で発言したのは、クラスのリーダー格で吹奏楽部の部長を務めていた谷村美幸だった。
 「ああ、いいとも。」
 「坂口さんが英語が得意だというなら、今ここでその自慢の英語で挨拶してみて欲しいんですけど。本場の英語が聞いてみたいです。」
 愛美はにこにこしている。谷村の言葉に込められた皮肉の響きなどちっとも感じていない様子だった。
 「わかりました。Hello, friends. I've been in Canada for five years.  I always loved the setting sun in Canada.  I hear in Kamakura I can also enjoy a beautiful sunset.  Anyway I'm very happy to meet every one of you.  Thnak you.」
 「まあすてきだわ。すばらしい発音!」
 半ば冷やかし気味に言ったのは、同じ吹奏楽部で谷村の子分格だった西川千秋だった。   「さすがに本場の英語は違うわね。私たちのへぼ英語とは訳が違うわ。」
 同じく吹奏楽部の水沼弥生である。
 「どうもありがとうございます。」
 愛美は相変わらず、谷村たちの意地悪な感情に気付いていない。何となく気まずい雰囲気を察した横川は、たまらずに口を挟んだ。
 「さあ、もういいだろう。今日は、あまり時間がない。坂口さん、もう席に戻っていいよ。それじゃあみんな、明日の学活では学級委員を募集するから、やりたい者は今晩のうちに立候補の演説を考えておいてくれ。それから、明日は新しい教科書が配られるから、鞄を持ってくるのも忘れないように。それから、みんなの机の上に置かれていたノートは先生との交換ノートだ。まずは自己紹介を明日までに書いてくること。どんなことでもいいから、頼んだよ。」
 「交換ノートだってさ。先生に何を書けっていうのかしらね。」
 「まったく青春しちゃってさ。私たちが本音を書くとでも思っているのかしら。」
 「いい気なもんよね。」
 谷村たちは、ひそひそと文句を言い合っている。もちろん横川には聞こえないし、谷村たちも横川には笑顔を返している。装いの笑顔を。
 美香のクラスでも、帰国子女の美香を担任の山田涼子がクラスのみんなに紹介していた。
 「カナダから帰国したばかりの坂口美香さんです。みんな、仲良くしてあげてね。」
 「坂口美香です。私は運動が得意なので、お姉ちゃんと一緒に女子バレー部に入るつもりです。勉強は得意です。数学や英語ならみなさんのお役に立てると思いますから、どうぞよろしくお願いします。」
 美香の挨拶もカナダ式だった。自分の個性をしっかりと主張するのが欧米の習慣だ。それは日本人から見ると、自慢しているように感じてしまう。美香のクラスの反応もやはり冷ややかだった。
 「カナダなんていいなあ。私は熱海ぐらいしか旅行したことないもん。」
 意地の悪い女子テニス部の大川景子が皮肉をたっぷり込めて発言する。
 「帰国子女だなんて、かっこいい。」
 「私もお外国に住んでみたいことよ。」
 すかさず冷やかしたのは、同じ女子テニス部の中田佳子と三崎いずみだった。
 女子テニス部は34歳の関口一也という社会科の教師が顧問をしていたが、関口はちっともやる気がなく、部内の雰囲気は最悪だった。不必要な上下関係ははびこっているし、とにかく真面目に練習している時間より、休憩している時間の方が長いくらいだ。中学生というのは不思議なもので、楽な部を選ぶ割には、強い指導力を求めてもいる。自分たちだけで問題を解決する能力に欠如しているのである。女子テニス部にしても、だらけた雰囲気に満足している者は誰一人としていなかったが、それを打破しようとするリーダーもまたいなかった。そんな陰湿な雰囲気に、顧問の関口はますます逃げ腰になってしまう。
 「それじゃあ、みなさん、今日は家に帰ったら、新しい教科書の匂いをたっぷり味わってくださいね。」
 一年生の教科書は、全て入学式の当日に配られるのが常になっていた。
 
 「山田先生、帰国子女の坂口はうまくクラスに溶け込めそうですか。」
 学活が終わって職員室に戻ってきた山田に、入学式の前に学活を済ませて生徒たちをいったん帰宅させてしまっていた横川が聞いた。
 「そうですね。特に問題はないと思います。」 山田涼子は鈍感すぎる。美香の挨拶に対するクラスの冷ややかな反応にも無頓着だった。 「そうですか。それならいいんですけど。私のクラスの姉の方は、最初から大変な歓迎を受けましたよ。堂々と自己紹介するもんだから、子供たちの反感を買ったんでしょうね。日本人っていうのは、本当に了見が狭い。」
 「あら、そう言う横川先生だって日本人じゃないですか。先生も了見が狭いんですか?」
 「僕は教師ですから、ちょっと特別です。」
 横川は坂口愛美に対する冷やかしの反応にいやな予感を抱いていた。《これが大きないじめに発展しなければいいんだが》今の子供たちは、仲間から突出した人間の足を引っ張ろうとする傾向がある。みんな同じが一番なのである。没個性の時代が叫ばれてから久しいが、他人の個性を尊重できない姿勢は、中学校では甚だしかった。不安を抱える横川とは対照的に、山田はのんきなものである。坂口美香がこれから直面する陰湿ないじめに対する予感など、みじんも感じていない様子だった。いじめは学校だけの責任ではないが、人間関係に鈍感な教師が原因の一つになるケースも少なくない。常に子供たちの雰囲気を感じ取ることに敏感になっていないと、小さないじめは見過ごしてしまう。それがやがては悲劇につながるのだ。横川は、一度ゆっくりと坂口愛美と話をしてみようと思った。日本人に染みついたひがみ根性のようなものに十分注意するように、アドバイスもしておきたかった。もちろん、そんなものに負けずに愛美らしさは固持して欲しかったが。
 横川のクラスにはツッパリ少年の太田原浩介もいる。5年前に父親を亡くし、現在は居酒屋を営む母親との二人暮らしだった。浩介が斜めに構えるようになったのは小学校の6年生のときからだった。ちょうど父親が亡くなってから1年ほどしたときだ。しかし、不思議なことに坂口愛美の自己紹介に冷やかしの声を上げる連中には与していなかった。むしろ、浩介には珍しく愛美の言葉をしっかりと受け止めているような感じだった。
 横川のクラスでもう一人注意しなければならなかったのは、運動が苦手でついつい冷やかしの対象になってしまう大島亮介だった。美術部の彼は寡黙な大人しい生徒で、これまでの2年間は体育祭のむかででクラスの足を引っ張ってしまい、常に冷たい視線を浴びてきた。横川は今年の最後の体育祭こそは亮介に惨めな思いをさせたくなかった。
 
 翌日、横川のクラスでは学級委員の立候補を募っていた。男子は穏健派の向井徹一人が立候補して信任されたが、女子は谷村美幸と正義派で谷村たちとはどちらかと言えば反目しあっている橋爪沙織、それに転校生の坂口愛美の三名が立候補していた。
 「それじゃあ、まずは三名の立候補者の演説を聴くことにしよう。」
 担任の横川の合図でまず教卓の前に来たのは坂口愛美だった。他の二人は順番を決めかねて、前に出ていいものやら迷っていたのだ。その雰囲気を察した愛美が一番手を引き受けた。
 「私は転校してきたばかりですけど、積極的な性格なのでどんなことにも一生懸命取り組みます。みんなで仲良くお互いを尊重しあって行けるクラス作りに頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。」
 《お互いを尊重しあって行けるクラスか・・・・なかなかいいことを言うなあ》横川は感心して愛美の演説を聴いていた。
 「それじゃあ、次は谷村行こう。」
 「はい、分かりました。」
 谷村美幸はゆっくりと教卓の前に立つと、にこやかに演説を始めた。
 「私は吹奏楽部の部長も務めていて、みんなをまとめるのには慣れています。それに、この学校にも長くいるし、新しく来たばかりの人よりは活躍できるんじゃないかと思うんです。どうかよろしく。」
 あからさまに愛美を非難した言い方だった。横川はちょっと渋い表情になった。
 「じゃ、最後は橋爪だな。しっかり頼むよ。」 「はい、先生。」
 橋爪沙織は早足で教卓の前に立つと、毅然とした態度で演説を始めた。
 「私は、みんなが楽しく学校生活を送れるように頑張るつもりです。転入生の坂口さんも含めて、みんなで楽しく行事もやって行きたいのです。私が学級委員になったら、いじめとか陰口のない明るいクラスになるよう頑張ります。どうかよろしくお願いします。」
 投票の結果は圧倒的多数で橋爪沙織に軍配が上がった。坂口愛美が3票で、谷村美幸が5票だった。クラスは37名だったから、残りの29票が橋爪沙織に入ったことになる。これは誰も知らないことだったが、坂口愛美に投票したのは愛美本人と、いつも絵ばかり描いている植草早苗と、そしてツッパリ少年の太田原浩介だった。谷村美幸に票が集まらないのは、谷村がすぐにグループを作って他を排除することと、吹奏楽部での悪評に原因があった。部長のくせに、自分から練習に真面目に取り組まないのである。ある時は、練習中にアメを食べていて、顧問の西崎美穂という音楽の教師に大目玉を食らった経験もあった。自分のことは棚に上げてすぐに他人の批判ばかりする谷村のことを、橋爪沙織も嫌っていた。沙織は正義感の強い性格だったが、他人に対する優しさも持っていたので、クラスでは圧倒的な支持を受けていたのだ。
 谷村美幸は自分が坂口愛美とほとんど変わらない票数で落選したことが気にくわなかった。その思いは、やがて愛美への意地悪となって段々と激化して行くことになる。男子の学級委員になった向井徹は明るくひょうきんな性格で頭も良くサッカー部所属のスポーツマンでもあったが、事を荒立てるのは好きではなかった。あからさまに他人と争うこともなかったから、谷村美幸のグループとも上手に付き合っていた。これから坂口愛美に対して行われるはずの数々の嫌がらせに、二人の学級委員と担任の横川はうまく対処することができるだろうか。横川は、谷村のふてくされてような表情がやけに気になっていた。ときどき、坂口愛美の方をにらみつけるように見ていたからだ。
 「というわけで、学級委員は向井と橋爪に決まった。落選はしてしまったけれど、積極的に立候補してくれた坂口と谷村も立派だったと思う。さっき、坂口も演説の中で言っていたが、みんながお互いを尊重できる、そんなクラスになって行けたらいいと思うんだ。みんなで頑張ろうな。」
 横川はもう坂口愛美を「さん」づけでは呼ばなかった。自分の中では、すっかりクラスの一員になりきっていたからだ。きのうはまだ新しい転校生というイメージがあったので「坂口さん」と呼んでいた。学校の教師は子供の人権を尊重して、「君」「さん」づけで名前を呼ぶことが望ましいと言われることもあったが、横川はそんなことは全く無視していた。名前を呼びつけにすることは親愛の情の表現であって、決して相手を尊重していないことではないと、横川は信じていたのだ。それに、「君」「さん」では、生徒にへつらっている気がして身の毛がよだつ思いがした。
 
 帰りの短学活が終わった後、横川は坂口愛美を呼んだ。
 「坂口、ちょっと話したいことがあるんだけど、30分くらい時間作ってくれるかなあ。」
 「はい、構いません。私はまだ正式に部活にも入っていないし、先生との話が終わったら、その後で女子バレー部の見学に行くことにしますから。」
 「それじゃあ、ちょっと相談室まで来てくれるか。職員室だと何かと邪魔が入るからな。」
 「分かりました。」
 
 相談室は悪いことをした生徒が説教を受ける部屋のようなイメージがあるが、実際には生徒との個人面談に使われることが多かった。去年からは教育相談員の竹村幸四郎が教育委員会から派遣されて、週に3日ほど相談室に詰めていた。今年はまだ相談活動は始まっていないので、相談室は空っぽだ。愛美は、鞄を廊下に置くと相談室のドアをノックした。
 「どうぞ、入っていいよ。」
 中から横川の大きな声が聞こえた。
 「失礼します。」
 「まあ、こっちのソファーにかけなさい。鞄はどうした?」
 「廊下の入り口の所に置いてあります。」
 「まあ、その方がいいだろう。中に人がいることが分かった方が、邪魔が入らなくていいからね。でも、念のために貴重品は自分で持っていてくれよ。」
 「貴重品って、お金とかですか?」
 「そうだね。」
 「お金なら、一銭も持っていませんから、安心してください。」
 「それじゃあ、本題に入るとするか。まだ転校してから二日しかたっていないけれど、クラスの居心地はどうだ?」
 「先生、谷村さんのこと気にしてるんですか?私、ときどきにらまれてるの知ってます。」 「そうか、気付いていたのか。転校早々いやな思いをさせて申し訳ない。」
 「先生が謝るなんておかしいです。私は陰口は気にしません。堂々と面と向かってものを言って来れない人は問題外です。」
 「もう友達はできたんだろうか。」
 「先生、まだ二日目ですよ。これから徐々にできるはずだから心配しないでください。でも学級委員の橋爪さんなんかは気軽に声をかけてきてくれます。橋爪さんとは気が合いそう。」 「それなら良かった。坂口はしっかり者なんだな。日本はとても閉鎖的な国だから、自己主張をはっきりすることに慣れていないんだ。最近の中学生はまさにそう。目立ったことを言えばすぐに白い目で見られる。みんな正義感は持っているくせに、それを表だって他人に示す勇気はないんだよね。学校の先生たちの世界だって似たり寄ったりだけど・・・・。おっと、先生が君に愚痴を聞いてもらうために呼んだんじゃなかったっけな。とにかく、最初のうちはいろいろいやな思いをすることもあるとは思うけど、頑張って欲しいんだ。何か困ったことがあったら、例の個人ノートを使ってくれるか?」
 「先生、心配してくれてありがとうございます。私、文を書くのは大好きだから、先生からもらったノート大切にしますね。そのかわり、先生もしっかりお返事くださいね。」
 「そりゃもちろん、任せといてくれ。先生も文を書くのは好きなんだ。小さい頃からラブレターもたくさん書いてきた。」
 「あら、そうなんですか。」
 「いやあ、とんでもないことを告白してしまったな。これは、内緒にしといてくれよ。」
 「先生と私の秘密ですね。」
 相談室の中に笑い声が起きる。横川は愛美と話をして良かったと思った。愛美が思った以上にしっかりしていたことに安心もしたし、愛美の可愛らしさにも触れることができたような気がする。「秘密」もできたことだし。
 「それじゃあ、先生、私女子バレー部の見学に行ってきます。」
 「頑張れよ。女子バレー部はなかなかいい雰囲気だから、きっと気に入るはずだよ。」
 「はい。それじゃあ、失礼します。」
 愛美は相談室を出てあれっと思った。入り口に置いてあったはずの鞄が姿を消しているのだ。愛美はもう一度相談室の扉を開けて中の横川に声をかけた。
 「横川先生、私の鞄がないんですけど。」
 「そんな馬鹿な。確かに入り口に置いたんだろう?」
 「確かです。ここに。」
 愛美が指さす先には何もなかった。廊下を見渡しても人影すらない。横川はすぐに職員室に行って職場の同僚たちに尋ねたが、みんな知らないと言う。女子バレー部の見学どころではなくなってしまった。横川は職員室にいた数人の職員に頼んで愛美の鞄の捜索を手分けした。1時間もしたころであったろうか、愛美の鞄は4階の男子トイレの掃除用具入れの奥に隠されているのが発見された。これは、明らかに陰湿ないじめである。横川の脳裏には一瞬谷村の顔がよぎったが、横川はそれを一生懸命かき消そうとした。《生徒をそんなに簡単に疑うもんじゃない》横川は自戒した。
 しかし、吹奏楽部の活動が4階の教室を使って行われていることを考えれば、犯人は当然絞られてくる。《そうだ、谷村はちょうど吹奏楽部の部長だから、呼んで何か変わった動きがなかったか確認することはできるじゃないか》横川はそう判断すると、すぐに活動中の谷村美幸を呼び出した。
 「部活中悪いね。今、坂口の鞄が4階の男子トイレから見つかったんだけど、何か変わった動きに気付かなかったかなあ?」
 「男子トイレなら、私たちに分かるはずないじゃないですか。もしかして、先生は私のこと疑ってるんですか。」
 「そうじゃないさ。ただ、君は吹奏楽部の部長だから代表で聞いているだけなんだ。」
 「それなら、何も気付きませんでした。用はそれだけですか?」
 「ああ、もういいよ。ありがとう。」
 谷村のつっけんどんなものの言い方に横川は何かひっかかるものがあったが、これ以上は詮索のしようがない。証拠もないのに、生徒たちをやたらと疑うのは得策ではないと思った。
 「とにかく、中身が無事ならそれでいいとしよう。犯人は見つからないだろうけど、鞄が見つかって良かった。」
 「先生、いろいろありがとうございました。私に文句があるのなら、はっきり言えばいいのに、つまらないことをする人たちがいるんですね。」 「『人たち』って、君は複数の人間が犯人だと思うのか?」
 「先生、こんな卑劣なことをする人たちに、一人で鞄を隠す勇気なんてあるはずありません。相談室から突然私か先生が出てくるかも知れないんですから。」
 「それもそうだな。複数犯か・・・・。」
 横川はますます谷村美幸のグループが疑わしいと思ったが、とにかくしばらく様子を見ることにした。
 「先生、それじゃあ、ちょっとしか時間がないんですけど、女子バレー部に顔を出してきます。気に入ったらすぐに入部することができるんですか?」
 「ああ、顧問の先生に直接言えばいい。顧問は技術科の宮部淳史先生だよ。うちの学校で二番目に若い先生なんだ。ちょっと怖いけどね。部活指導にはものすごく熱心で、実績も上げている。女子バレー部は部活内での上下関係もとてもいいんだ。宮部先生の指導で、先輩がやたらと威張ることを禁じているからね。」
 「それじゃあ、行って来ます。」
 
 部活の雰囲気は指導者の姿勢でいくらでも変わってしまう。特に女子の部は、人間関係のいざこざが絶えないから、宮部のように独裁政治をしいてしまうのが一番いい。厳しい指導をすれば、当然のことながら部員は一丸となって顧問と対決する構図になるし、顧問としてはそれがちょっと寂しく感じるときもあるが、自分になついてくれるよりも、部員同士の人間関係が円滑になった方がいいに決まっている。若い宮部は、その辺の手綱の取り方がうまかった。チームワークさえしっかりできてしまえば、あとは練習次第でいくらでも上手になる。宮部の女子バレー部が数々の実績を上げてきた背景にはそんな宮部の苦労があったのだ。
 女子バレー部の元気のいい練習を見た愛美は、部活の最後のミーティングが終わった後、すぐに宮部の所に飛んでいった。
 「宮部先生、私、3年A組の坂口愛美と言います。この4月にカナダから帰ってきました。私を先生のバレー部に入部させていただけませんか。」
 「うちは厳しいけど、それでもいいの?」
 宮部はにやにやしながら言った。噂とは違って、本当は優しそうな先生である。
 「僕は、もたもたしてるとひっぱたくこともあるんだよ。それでもいいならどうぞ。」
 「ひっぱたくんですか?」
 「そう、ひっぱたく。それがいやなら他の部へ行った方がいいと思うけど。」
 「いいえ、私はどんなことにも負けません。お願いします。たぶん妹もお世話になると思いますので、坂口姉妹をどうぞよろしく。」
 宮部は、愛美のことをなかなか頼もしい子だと思った。勝ち気なところが気に入ったのだ。
 「それじゃあ、妹さんの方は1年生の正式入部まで待つとして、君は明日の朝練から参加しなさい。みんなには、先生から言っておく。」
 「分かりました。よろしくお願いします。」
 
 愛美は家に帰っても、鞄が隠されたことは黙っていた。両親に余計な心配はかけたくなかったし、特に被害があったわけでもない。それより明日からのバレー部の練習が楽しみでならなかった。運動は三度の飯よりも好きなのである。カナダではソフトボールをやっていた愛美だが、今度は何か新しいスポーツに挑戦してみたかったし、ちょうど七里ヶ浜中学にはソフトボール部がなかったのだ。妹の美香は、とにかく大好きな姉と一緒に活動したかった。
 ところが、部活の話をしても美香は浮かない顔をしている。
 「美香、お姉ちゃんは一足先にバレー部で頑張ってるからね。あなたも1年生の本入部になったら頑張ってね。」
 「うん。そうすると思う。」
 「どうしたの?いつもの元気はどこに行っちゃったのかなあ。」
 「お姉ちゃん、私ね、最初の挨拶がみんなの気に障ったらしくて、誰も口をきいてくれないの。おはようって言っても、返事もしてくれないし。どうやら女子テニス部の大川さんたちが中心になって私のことを『村八分』にするつもりらしいわ。でも、このことはまだお母さんには黙っててね。お姉ちゃんには何でも正直に話すから、お願い。」
 「分かったわ。でも、あんまりひどかったら、我慢しちゃ駄目よ。お姉ちゃんが何とかしてあげるから。実はね、今日お姉ちゃんも鞄を隠されちゃったのよ。やったのは誰だかだいたいの察しはつくんだけど、相手が面と向かって堂々と出てくるまでは黙っていようと思うの。美香ちゃんもこのことは内緒にしてね。」
 「わかった。二人だけの秘密ね。」

いじめと不登校
 
 美香のクラスの学級委員は演劇部の鎌田玲子と野球部の門田淳一がやっていたが、二人とも気が弱すぎてクラスの実権を握ることができないでいた。クラスを牛耳っていたのは女子テニス部の三人組、大川景子・中田佳子・三崎いずみ、それとサッカー部の山下信二だった。美香の最初の挨拶が生意気だというので、4人が中心になって美香の『しかと運動』を始めたのである。学級委員の二人も巻き込まれてしまった。美香と口をきけば、今度は自分が村八分にされてしまう。子供の世界はまさに弱肉強食だった。担任の山田涼子もそのことには気付いていない。美香の浮かない顔を見れば、何かあったのではないかと普通は心配になるのだろうが、自分は学級通信を書いて生徒を褒めちぎるのにやっきになっていて、実際には生徒のことなど少しも見えてはいなかった。
 そんなある日、美香のジャージがカッターナイフで切り刻まれるという事件が起きた。美香は鞄の中の無惨なジャージを手にして、大粒の涙をぼろぼろ流している。急いで駆けつけた担任の山田もどうしていいかわからず、とにかく証拠のジャージを持って、美香を職員室に連れ帰った。
 「美香ちゃん、こんなことをされるなんて、何か心当たりはないの?」
 「私は何も悪いことなんてしてません。」
 「いったい誰がこんな嫌らしいイタズラをしたのかしらね。とにかく、とりあえずは学校にある余分なジャージを使ってね。お母さんには先生から事情を話しておくから。」
 「先生、私のどこがいけないんですか?クラスの誰も私と口をきいてくれません。大川さんたちが中心になって私を村八分にしてるんです。」 「まさか、大川さんがそんなことするなんて。何か証拠でもあるの?」
 「大川さん、私のいる前でわざと私に聞こえるような大きな声で言うんです。『坂口さんと口をきくと口が腐るわよ』って。私、もう耐えられません。ジャージを切ったのだって、大川さんたちに決まってます。」
 「とにかく、それは先生が大川さんに確かめます。村八分のこともみんなの前で話題にしていいかしら?」
 「いいです。もうみんなに知れ渡っているんだから、先生が話題にしたって何も変わらない。」 泣きじゃくる美香を前にして、山田にはそれ以上に言う言葉がなかった。本当なら、もっと美香の気持ちを聞いてあげるだけでも、美香にとっては大きな救いになるのに、未熟な山田にはそんなカウンセリングの知識さえない。人間にとって、ストレスを抱え込んでしまうことほど悪いことはないのだ。心のわだかまりを誰かに真剣に聞いてもらえるだけでも、問題の半分は解決してしまう。エリートの山田には自分がそんな苦境に立たされた経験がないだけに、余計に戸惑うばかりだった。ちょうどそこへ愛美の担任の横川がやって来た。
 「ジャージ、切られちゃったんだってね。先生は、ものすごく腹が立っている。犯人を見つけたら宙づりの刑にしてやりたい。」
 「横川先生、実は美香ちゃんはクラスのみんなから村八分にされていると言うんです。女子テニス部の大川さんたちが中心になって、『しかと運動』をしているとか。」
 「何と言うことだ。転校してきたばかりで、ただでさえ不安をたくさん抱えているというのに、こんな仕打ちをするなんて、許せんな。さっそく大川たちを呼び出しましょう。」
 「明日ではいけませんかね。私も心を整理したいので。」
 相変わらず山田はのんきなことを言っている。横川はそんな山田を見てがっかりした。
 「先生はよくそんなにのんきなことが言ってられますね。坂口にしてみれば、重大問題ですよ。それを明日に延ばすとは何事ですか。」
 「そう興奮しないでください。とにかく証拠もないことですし。大川さんたちを問いつめても正直に白状するとは思えないんです。」
 「そうじゃないんだ。犯人が見つからなくてもいいから、とにかく僕たちが重大な事件だと考えているということが子供たちに伝わることが大切なんです。彼らはどうせ軽い気持ちでやってるんですよ。だからことの重大さに全然気付いていない。それを教えてやるのが僕ら教師の務めじゃないですか。」
 「とにかく坂口さんはもう家に帰っていなさいね。後は先生たちに任せて。」
 美香は一回こっくりと頷くと、涙を拭き拭き職員室を後にした。美香が家に着く前に、とにかく母親に事情を知らせておかなければならない。山田はすぐに受話器を取った。
 「もしもし、坂口さんのお宅ですか。私、美香さんの担任の山田です。」
 「どうも先生、いつもお世話になっています。何かあったんでしょうか。」
 山田は美香のジャージが無惨にも切り刻まれてしまったいきさつを説明した。
 「私の監督不行届で、本当に申し訳ないことをしました。」
 「いいえ先生、子供たちのしたことですから、先生が謝ることはありません。美香にも何か悪いところがあったのかも知れませんし、とにかく帰ってきたら話を聞いてみます。」
 「よろしくお願いします。もし、何か分かったらご連絡いただけますか。」
 「分かりました。先生のご自宅でもよろしいのですか。」
 「いえ、明日学校の方にお願いします。」
 「そうですか、それではそのようにさせていただきます。いろいろご面倒をおかけして、申し訳ありませんでした。」
 裕子はなぜ自宅にではいけないのかと少し不可解だったが、とにかく今は美香に事情を聞いてみなければいけない。
 「山田先生、どうして何時でもいいから自宅に電話を下さいと言わないのですか?」
 「私は学校の仕事と私生活は分けて考えたいのです。」
 「先生はのんきな人だなあ。坂口美香が不登校にでもなったらどうするつもりですか。事態は緊急を要するというのに、坂口のお母さんもきっとがっかりしたと思いますよ。」
 「そうでしょうか。私は横川先生みたいに熱血先生ではありませんから、私生活は大切にしたいんです。学校で一生懸命やればそれでいいと思ってます。」
 「まあ、いいでしょう。その代わり、今すぐに大川景子を呼び出しましょう。」
 「関口先生の許可はいらないんですか?」
 「コートにも出ない先生の許可をもらう必要はないと思います。僕が、直接テニスコートに行って連れてきます。それでいいですね。」
 「はい、お願いします。」
 
 テニスコートに姿を現した横川の姿を見て、大川景子はまずいと思った。ジャージの件がばれてしまったのだろうか。
 「おい、大川。練習中ちょっと悪いんだが、聞きたいことがあるんで先生と一緒に職員室まで来てくれないか。」
 「私、何にもしてません!」
 「何かしたと、先生が言ったか?」
 大川景子は狼狽した。自分から犯人ですと告白したようなものだ。景子は観念して横川の後について職員室に出向いた。職員室では、難しい顔をした山田が待っていた。
 「あら大川さん、ちょっとこっちに来て。」
 「何ですか、先生。」
 「今日の放課後ね、坂口さんのジャージがカッターナイフでずたずたに切られてしまったの。あなた何か知らないかしら。」
 「どうして私が知っているんですか。私は何もしていません。先生は私を疑っているんですね。そんなのひどい!」
 景子は大泣きを始めた。子供のくせに、窮地を逃れる術を心得ている。山田は、景子の涙にすっかりだまされて、追求をやめてしまった。しかし、横川はそんなことでは引き下がらなかった。
 「大川、泣いたって駄目だ。君が、坂口美香に対して『しかと運動』を進めていたことはちゃんと分かっている。君は、ジャージの件も絶対に知っているはずだ。正直に言いなさい。」
 「私は、何も知りません。それに、『しかと運動』にしたって、坂口さんが悪いんです。転入の挨拶であんな生意気なこと言わなければ良かったのよ。ここはカナダじゃないんだから。」
 「どんな理由にせよ、みんなで協力して一人の人間に精神的なプレッシャーをかけるのは卑怯だとは思わないのか?」
 「それは・・・・。」
 「君たちの心は腐っている。このままそんな腐った大人になりたいのか?」
 「腐ってるなんてひどい!」
 「それなら、正直にジャージのことも言えるはずじゃないか。嘘をつき続けるのは、やっぱり心が腐っている証拠だよ。」
 横川の執拗な追求に、大川景子はとうとう降参してしまった。ジャージは大川たち女子テニス部三人組とサッカー部の山下の4人で切り刻んだということだった。4人のうち一人ずつが交代で見張りに立ったという。その日の夜のうちに、犯人の4人と保護者が呼ばれ、校長室で大目玉を食らうことになった。小泉校長の言葉は厳しかった。
 「私は、いじめのない学校作りをしようとみんなに呼びかけたはずだ。それを君たちはいとも簡単に裏切ってくれたんだね。君たちが切り刻んだのは、坂口さんのジャージではなくて、彼女の心そのものなんだよ。人の心を簡単に傷つけられる人間は最低だ。先生は、君たちを許す気には到底なれない。先生の気持ちを変えたければ、これからの態度を改めることだね。保護者のみなさんも、こんな卑劣なことをする子供しか育てられなかった親としての情けなさを思い知っていただきたい。こんなことを許していたら、将来ろくな大人に育ちませんよ。」
 子供たちと保護者が帰った後で、担任の山田涼子は校長室に呼ばれた。
 「山田先生、あなたはいったい子供たちの何を見ていたのかね。あなたほど熱心に学級通信を書く先生も珍しいが、あなたは通信を書くことに夢中で、現実の子供たちの姿を見ていないのではないですか?」
 「私は、そんなつもりはなかったのですが、校長先生のおっしゃるとおりかも知れません。」
 「まあいいでしょう。しかし、大切なのは傷ついた坂口美香をこれからどうやってフォローして行くかということです。あなたが教師としての真価を問われるのはこれからですよ。」
 山田涼子は、頭を棍棒で殴られたようなショックを受けていた。「現実の子供を見ていない」というのはちょっと言い過ぎだと抗議もしたかった。《私だって精一杯やっているのよ。子供の姿を見ないで通信書きに没頭しているなんて、そんなのひどすぎる》未熟な山田には、校長の言葉の持つ大きな意味が十分に理解できていない。女子テニス部の顧問の関口にしても、自分の部の子が3人も関わっていたというのに、他学年のことだからというような顔をしている。横川は情けない気持ちでいっぱいだった。職員一人一人がもっとしっかりと子供たちの面倒を見るようになれば、いじめもなくなるに違いない。子供たちが抱えているストレスを健全に発散させる場を作ってやればいいのだ。それなのに、テニス部はほったらかしで、大川たちは級友をいじめることにストレスの発散場所を求めている。このままでは、このいじめは形を変えて進行するだけだ。4人の保護者にしても、このくらいのことで親まで呼び出されるなんてという不満げな表情をしていた。いっそのこと、小泉校長に怒鳴りつけられた方が良かったのではないだろうか。担任の山田にしても、私生活だ何だと言う前に、一人前の教師になる必要がある。切り刻まれたジャージを見て激怒しないなんて、教師としては鈍感すぎると思う。校長が言ったように、切り刻まれたのは坂口美香の心そのものなのだ。
 山田はその夜のうちに坂口家を訪問して、ことの始終を説明した。ジャージの代金は4人の親が支払うということで決着もついていた。
 「美香ちゃん、事件は解決したから、明日から安心して登校していいのよ。何か困ったことがあったら、これからも先生に相談してちょうだいね。」
 美香は下を向いたまま黙っている。母親の裕子が代わりに話をしなければならなかった。
 「ほら美香、先生がこんなにおっしゃって下さってるんだから、ちゃんとお礼を言いなさい。」 それでも美香は下を向いたままだった。
 「いいんですよ、お母さん。美香ちゃんのショックも分かりますし、今晩のところはこれで失礼します。」
 「先生、わざわざご足労いただいて本当にありがとうございました。美香は大丈夫ですから、これからもよろしくお願いします。」
 美香は軽く会釈をすると、自分の部屋に戻ってしまった。山田を玄関先まで見送ると、裕子はその足で美香の部屋に向かった。
 「美香、ちょっと入るわよ。」
 「お母さん、ごめんね、心配かけて。」
 「いいのよ。娘なんだから謝る必要なんかないんだわ。それより、明日はちゃんと学校に行けるの?」
 「だいじょうぶ。明日は部活の本入部が始まる日だし、行かないとバレー部に入り損なってしまうから。」
 「それを聞いてお母さんも安心した。それじゃあ今夜はゆっくり眠るのよ。」
 「ありがとう、お母さん。お休みなさい。」
 
 翌朝は美香はすっかり元気を取り戻して登校した。しかし、クラスの『しかと運動』はまだ続いているようだった。というよりも、どうやって美香に声をかけたらいいか戸惑っていると言った方が正確かも知れなかった。ところが、元気を取り戻したはずの美香の心は、自分の机の上のイタズラ書きを見た瞬間に再び凍り付いてしまった。美香の机の上には、太字の赤マジックで大きく「死ね」と書かれていたのだ。美香は、どうやって家までたどり着いたかも覚えていないほど無我夢中で帰宅してしまった。
 「どうしたの、美香。何か忘れ物?」
 「私、もう学校なんか行かない!」
 そう言ったきり、美香は自分の部屋に引きこもって出てこようとはしなかった。中から鍵をかけてしまっているので、裕子も入りようがない。裕子はすぐに学校に電話をした。
 「もしもし、あの1年C組の坂口美香の母ですが、山田先生をお願いします。」
 「もしもし、山田です。ゆうべはどうも遅くに失礼しました。どうかしましたか?」
 「先生、美香が学校から戻ってきてしまったんです。何かあったらしくて、部屋に閉じこもって出て来ないんです。」
 「私、すぐに教室に行って来ます。事情が分かったら折り返しお電話しますから、待っていただけますか。」
 山田は大急ぎで自分の教室に飛んでいった。もうすぐ朝の学活が始まる時刻だったので、ほとんど全員がそろっていた。
 「みんな、坂口さんが家に戻ってしまったらしいんだけど、事情を知ってる人はいないかしら?」
 「坂口さん、元気に教室に入ってきたんですけど、自分の席に着くなり顔色が変わって外に飛び出してしまったんです。」
 答えたのは学級委員の鎌田玲子だった。山田はすぐに美香の机を見たが、表面が少し赤くこすれたようになっている以外は、何も代わったところはなかった。「死ね」というイタズラ書きはすぐに消されてしまったのだ。
 「誰か、何か知らないの?何もないのに、坂口さんが教室を飛び出すはずはないでしょう。正直に答えてちょうだい。」
 珍しくヒステリックに怒鳴り散らす山田の剣幕に、鎌田玲子が仕方なくことの真相を話したのだった。
 「机の上に確かに『死ね』って書かれてあったのね。それじゃあ、書いたのは誰で、消したのは誰なの?みんな黙りを決め込むのもいい加減にしなさい!」
 「先生、そうヒスになるなよ。イタズラ書きは大西がやったんだ。そうだよな、大西。」
 いかにも弱々しそうな小柄な大西翔太がこっくりと頷いた。
 「大西君、どうしてそんなことしたの?消したのもあなたなの?」
 大西翔太はパニックになっていた。まさか山下信二に命令されてやったとは言えない。そんなことを口にしたら、これからどんな目に遭わされるか分かったものではない。
 「まったくあなたたちは何を考えてるの!きのうは、坂口さんのジャージを切り刻んで、今日は『死ね』のイタズラ書き。みんなで協力して『しかと運動』までやって、坂口さんに何の恨みがあるっていうの!」
 次々に起こる陰湿な事件に、担任の山田自身もパニックになっていた。職員室に帰って、校長に事件のいきさつを報告した山田に、小泉校長はきっぱりと言った。
 「電話で済ますことではないよ。授業のことはいいから、今すぐに坂口さんのお宅に行きなさい。教頭の川島先生が同行するから。」
 山田と川島教頭はすぐに坂口家を訪問し、事件のいきさつを説明した。
 「本当に重ね重ねお詫び申し上げます。」
 小心者の川島教頭は這々の体だった。
 「坂口さん、私は担任として失格です。クラスのことなんか何にも見えていなかった。」
 山田はそのまま泣き崩れてしまった。裕子は若い山田を哀れに思った。
 「山田先生、私も昔音楽の教師をしていました。40人近くの生徒をクラスに抱えて、その全てに目を配るなんて至難の業です。美香のことは私たち夫婦で何とかしますから、どうかそんなにお気を落とさずに。」
 「いやあ、有り難いお言葉をいただき恐縮です。とにかく山田先生のクラスには徹底的に指導しますから、どうかご理解下さい。」
 川島教頭の管理職らしい挨拶を最後に、二人は学校に戻って、様子を校長に報告した。いじめで学校を非難したところで何が始まるわけでもない。学校の教師も遊んでいるわけではないのだ。教職を経験した裕子にはよく分かっていた。美香の受けたショックを思うと、やるせない気持ちでいっぱいになるが、イタズラ感覚でいじめを続ける子供たちに、心の底から反省させることは容易ではないだろう。これから大変な試練をくぐらなければならない山田に、裕子は同情すら覚えた。それにしても、どうやって美香のショックを癒してあげたらいいのか、母親としても戸惑うばかりだった。夜になって仕事から帰った秀雄と、裕子は遅くまで真剣な話し合いをした。
 「もっと芯の強い子かと思っていたけど。私の育て方が間違っていたのかしら。」
 「いや、そうとばかりも言えないだろう。美香はカナダ流に自己紹介をした。それが、クラスのみんなの反感を買ったわけだろう?一種のカルチャーショックなのかも知れないな。」
 「美香はまた学校に行くようになるかしら。愛美のこともだんだん心配になってきたわ。」
 「愛美も似たような嫌がらせは受けているんだろうが、あいつは強いからなあ。お前に似たんだよ。」
 「あら、私ってそんなにきつい?」
 「きついとは言ってない。強いと言ったんだ。お前だってカナダに行ったばかりの頃は、ホームシックで大変だったじゃないか。それでも、俺に心配をかけないように、じっと耐えてくれた。」 「あなた知ってたの?」
 「当たり前だろう。自分の女房なんだからな。俺は、そんなお前のためにも頑張ろうと思ったものさ。カナダ支店長が無事に務まったのもお前のおかげだよ。」
 「そう言われると、何だか嬉しいわ。」
 「美香だって、必ずこのハードルを越えてくれると信じようじゃないか。俺たちの娘なんだ。俺たちが信じてやらなくてどうする。」
 「そうね、しばらくはゆっくり休ませてあげてもいいかも知れないわね。」
 「学校に行くだけが人生勉強じゃないさ。」
 
 その夜、愛美は美香の部屋にいた。事情を知って、いてもたってもいられなかったのだ。
 「美香はちょっと苦労だったね。」
 「お姉ちゃんは大丈夫なの?」
 「私は、だてに歳食ってないわよ。」
 「私、本当に死んでしまいたい。こんな気持ちになったの生まれて初めて。」
 「死ぬなんてだめ。親からもらった命は絶対に大切にしなくちゃだめよ。生きていれば必ずいいことがあるんだから。美香は朝日が好きなんでしょう?長い夜の後には、必ず朝日が昇るじゃない。朝の来ない夜は絶対にないんだもの。だから、美香にも頑張って欲しいの。」
 「でも、すぐには学校に行けそうもない。」
 「慌てなくてもいいわよ。学校は逃げないから。ねえ美香、お姉ちゃんと一緒に旅行しようか。お姉ちゃんも正直言って結構ストレスたまってるんだ。だから、二人で旅行しようよ。」
 「お姉ちゃんも、学校休んじゃうわけ?」
 「そうよ。でもずる休みとはちょっと違う。私たちの心を取り戻す旅なんだから。きっとお父さんたちも許してくれると思う。」
 
 愛美の案は快く両親に賛成してもらえた。担任の横川も応援してくれるらしい。
 「お母さん、横川先生何て言ってた?」
 「学校の勉強だけが勉強じゃないって言ってたわ。だから欠席することは全然気にしなくていいって。何だか、お父さんと言うことが似てるわね。」
 「男の人はみんな心が広いのかしら。」
 「全部が全部ではないと思うわ。お父さんと横川先生がそうだというだけかな。」
 「でも横川先生って変わってる。学校の先生なのに、休んで旅行するのも勉強のうちだなんて、普通の先生は言わないわよね。」
 「そうね、今までいろいろ苦労したことがあるんじゃないかしら。人間ってね、自分の経験を越えて他人を深く理解することはできないものなのよ。ちょっと悲しいことだけどね。だから、きっと横川先生にも苦しかった経験があるんだと思うわ。」
 「私のこともね、最初からすごく心配してくれたのよ。美香の担任も横川先生みたいな人だったら良かったのにね。」
 「そんなこと言っちゃ駄目。山田先生だって、若いなりに精一杯頑張ってるの。だけどね、やっぱり経験の問題なのよ。きっと山田先生は、エリートコースを歩いた人だと思う。だからこそ、美香のことがあって今一生懸命悩んでるの。美香のために悩んでくれてる先生を、悪く言ったら罰が当たるわよ。」
 「でも、『しかと運動』なんて馬鹿なことをクラスの生徒たちが、学級委員まで含めて全員でやっていたのに、気が付かないなんてやっぱり私には納得できない。美香がかわいそう。」
 「でもね愛美、人間って何が幸いするか分からないものなのよ。今の美香の苦しみも、いずれは美香の貴重な財産になる日が来るの。」
 「お母さんの人生もそうだった?」
 「そうね、そうだったわね。ただ、お母さんにはお父さんという頼れる人がいたから。」
 「やだな、娘の前でのろけないでよ。でも、そうやって言えるお父さんとお母さんってとってもすてきよ。私にも、そんな男の人が現れるのかしら。」
 「現れるわよ。今からそんなこと心配しなくていいの。とにかく今は美香のことをよろしく頼むわね。あの子は愛美のことを本当に慕ってるんだから。」
 「分かってる。美香のことは任せておいて。私自身ももう一度自分を見つめ直して来るわ。」 「あらあら、いつの間にか大人になっちゃって。誰に似たのかしらね。」
 「お父さんとお母さんの娘だもの。突然のカナダ行きにもめげずに、5年間も頑張ったお母さんたちの娘だもの。開拓者魂に満ちあふれてるの。私はね、お母さん、夕陽を見ているだけで生きる勇気がわいてくるの。トロントで見た夕陽が私を強くしてくれた。だから、お母さんたちには感謝してるわ。」
 「まあまあ、嬉しいことを言ってくれるわね。ところで、あなた達はどこに旅行するつもりなのかしら?」
 「京都。日本の故郷の京都よ。京都のお寺を回って、二人で静かにお庭を眺めるの。そしたら何かひらめくかも知れないでしょう。」
 「ホテルの予約は済んでるの?」
 「きのう藤沢の旅行社で全部済ませてきたわ。4泊5日の旅だから、ちょっとお金がかかっちゃうけど、ごめんねお母さん。」
 「あなたたちの人生勉強のためなら、安いものよ。しっかり楽しんできてね。」
 愛美は自分の部屋から伊豆半島の方へ沈んでゆく夕陽を眺めていた。真っ赤な夕陽。何ときれいなのだろう。京都の旅はきっと何かをくれるに違いないと、愛美は確信できるような気がした。今日が土曜日で、明日の日曜日に予定のコースをもう一度確認して、月曜日には東京駅から新幹線のひかり号に乗る予定である。愛美にとっては、一足先の修学旅行のようなものだった。七里ヶ浜中学校の修学旅行は今年は6月だったので、その頃にはまた違った顔の京都が見られるに違いない。美香のことは別として、愛美にはそれもまた楽しみの一つだった。
 
臨時職員会議
 
 坂口美香の事件があって、七里ヶ浜中学校では臨時の職員会議が持たれることになった。議題はもちろん『いじめとその対策』である。会議に先立って小泉校長が挨拶をした。
 「みなさんもご承知の通り、今回1年生の山田先生のクラスで起きたいじめは、大変陰湿なものでした。しかし、我が校においては、これは氷山の一角と覚悟した方がいいでしょう。山田先生のクラスの坂口美香という生徒は、カナダからの帰国子女で大変個性豊かな少女です。しかし、積極的に個性を主張する反面、非常に繊細な神経の持ち主でもありました。山田先生には申し訳ないが、担任はそれを見抜くことができなかった。そして、クラスの生徒たちの冷たい仕打ちにも気が付かなかった。現代の子供たちは様々なストレスの中で生きています。しかし、専門家の意見では、人間にはある程度のストレスが必要だとも言われている。ただ、そのストレスをプラスの方向で発散できるかどうかが問題なのです。子供たちにできるだけ多様な活躍の場を与えることが、その一つの解決策でしょう。授業だけではストレスはたまるばかりだ。私などは、子供の頃は授業中に落ち着いて座っていられなかった。だから、部活も必要だし、地域のサークル活動や学校行事も意味を持ってくる。そして、私たちは、常に子供たちからのSOSを受信するアンテナを張り巡らせていなければならないのです。これは大変な仕事ですが、それだけにやりがいもある。今、学校教育は世間の批判のさなかにありますが、それは裏を返せば学校教育にかける世間の期待の大きさの証でもあります。だから、私たちは全力投球で頑張らなければならない。みなんさんには苦労をかけて大変申し訳ないが、ここで活発な意見交換をして、少しでもいじめの撲滅のための知恵が得られればいいと願っています。どうかよろしくお願いします。」
 小泉校長の話は実に熱のこもったいい話だった。職員室の中の誰一人として視線を校長からそらせた者はいない。司会は、川島教頭が担当した。
 「それでは、まず山田先生から坂口美香さんの事件について詳しい報告をお願いします。」
 教頭の言葉に従って山田涼子は、途中で涙を拭いながら、事件の一部始終を詳しく報告した。エリートコースを歩んできた自分の限界を感じていた山田涼子は、美香の事件ですっかり自信をなくしていた。
 「それでは、これからは自由討論の形式をとりたいと思います。みなさん、挙手をして自由に発言してください。」
 すかさず手を挙げたのは、横川大造だった。 「僕は、山田先生にきついことを何度も言ってしまいました。しかし、僕のクラスにいる坂口愛美もいじめの対象になっていました。妹との違いは、姉の愛美には芯の強さがあったことです。あったというよりは、育っていたと言った方が正確かも知れません。妹の美香もやがては姉のような芯の強さを身につけていくのでしょうから。僕は、山田先生に自信をなくしてもらいたくない。現に、坂口さんのご両親は山田先生を少しも批判していないではないですか。母親が以前教師をしていたこともあるとは思いますが、山田先生が一生懸命にやってきたことをちゃんと理解してくれているのです。だから自信をなくさないで欲しい。でも反省はしなければならない。しっかり反省して、二度と同じ間違いを犯さないことが大切なんだと思います。教師もまた子供たちに育てられるものだからです。山田先生は、学級通信を熱心に書いておられます。ただ、山田先生の場合は生徒と向き合うよりも、原稿用紙と向き合っていた。これからは、教育相談のような直接生徒と対話をする時間を定期的に作ることが必要かも知れません。」
 「関口先生どうぞ。」
 「僕は、横川先生の意見はもっともだと思うんですが、教師にも限界があると思うんです。精神的にも時間的にもです。授業の準備をして、部活をやって、学級通信を書いて、その上に教育相談まで抱えて、果たして行き詰まることはないんでしょうか。僕自身のことを考えると、とても耐えられそうにありません。」
 「宮部先生。」
 「僕はまだ未熟な若造ですが、今日は無礼な発言を許してください。関口先生の意見は逃げだと思います。僕たちは子供たちと共に成長することを願って教職を選んだわけですから、自分から限界を作ってそれを言い訳にするのは卑怯だと思うんです。僕は幸運にも女子バレー部という活躍の場をいただきました。部活は大変ですが、そのおかげで生徒たちの違った面をたくさん見れる機会に恵まれたと思っています。何もしなければ何も得られない。だから、僕は横川先生の意見に賛成です。」
 「西崎先生どうぞ。」
 「私は吹奏楽部の顧問をしていますが、自分の未熟さからいろいろな問題行動を起こさせてしまいました。坂口愛美さんの鞄を隠したのも恐らくはうちの部の子たちでしょう。私は楽器を演奏する技術だけを教えてきたのかも知れません。心を育てていなかった。部活に限らず、生徒たちの心がプラスの方向に育つ配慮をすることが大切なのだと思います。これは自分に対する戒めの意見でもあります。」
 「他に意見はありませんか?竹村先生。」
 「私は教育相談員という立場で子供たちと接しているわけですが、私の元を尋ねてくれる子供たちは不登校予備軍とでも呼ぶことができるかも知れません。彼らは、一生懸命自分の話をします。私は相談員であるにもかかわらず、彼らの話をただうなずきながら聞いているだけなのです。しかし、カウンセリングの基本は相手を肯定することから始まります。先生方は、子供たちに語りかけることはあっても、子供たちの生の声に耳を貸す時間が決定的に不足しているのではないでしょうか。直接面と向かって話をしなくてもいいのだと思います。横川先生のように個人ノートを利用するのも一つの方法でしょう。教育相談という発想もとても有意義だと思います。ぜひ、実行に移してもらいたいですね。」
 「他に発言なさる方はいませんか。」
 ひととおりの発言が終わると、職員室には重い沈黙の時が流れた。最近の職員会議はなかなか活発な意見交換ができなくなっている。それは職員の高年齢化が原因しているかも知れない。人間は歳をとるに従って論争を好まなくなる。それに、自分が頑張っているときには活発な意見が言えても、平凡な教師生活を送っているとどうも意見が言いにくくなるものだ。子供たちのことを真剣に考えたなら、もっと多くの教師がたくさんの発言をするべきなのだが、これが現在の公立中学校の限界なのだろうか。
 最後に手を挙げたのは養護教諭の富沢留美子だった。
 「富沢先生、どうぞ。」
 「私は仕事柄、生徒たちとの会話が比較的多い方だと思います。保健室を利用する生徒のほとんどは、私に話を聞いてもらいに来るのです。もし、教育相談のような試みを実行するなら、担任の先生だけでなく、私たちのような級外の者にも参加させてはもらえませんでしょうか。担任の先生だけでは負担も大きいでしょうし、色々な立場の人間が関われば、生徒も相談しやすいと思うんですけど。」
 32歳の富沢留美子は、七里ヶ浜中学校では三番目に若い職員だった。一番若いのが28歳の山田涼子で二番目が29歳の宮部淳史だった。とにかく若手の富沢の意見は、実に建設的だった。しかし、会議の場にいた級外の教師の中にはあからさまにいやな顔をする者もいた。面倒なことは少しでも避けたいという風潮が、今の中学校にはある。そういう情熱のなさが、子供たちの間にいじめを生み、それを見過ごす原因になっていることを職員たちは誰もが気付いているのだが、一度失った教育に対する情熱は、再び燃え上がることが難しいのだ。若い頃は誰もが情熱的な教員生活を送るが、歳をとるに従って、あるいは家庭を持つようになって、その情熱を維持できる人間は少なくなる。しかし、今の七里ヶ浜中学校にはのんきに構えている余裕はないのだ。全職員が一丸となっていじめに対処しなければならない。小泉校長が歯がゆいのはそこの所だった。
 
 結局、臨時職員会議の結果、各学期に一週間ずつの教育相談週間を設けることになった。相談に当たる教師は生徒が指名することにして、担任外の職員も相談にあたる。また、どのクラスも個人ノートなり生活ノートなり、とにかく生徒が自由に文章を書ける場を工夫することにもなった。もし、こういった試みが成功すれば、生徒たちは自分の抱えたストレスを少しでも発散することができるし、またいじめがあったときには少しでも早く発見することができるに違いなかった。問題があるとすれば、職員が息切れしてしまって、新しい試みが尻つぼみになることである。小泉校長は、それだけは絶対に避けたかった。《自分がどんなに恨まれようと、私は職員の尻をたたき続けよう》小泉校長は固く決心していた。また、部活動にも必ず顧問が付き添って、計画的に充実した活動を維持する努力をすることになった。それに伴って、『全職員顧問制』が採択された。つまり、どんな事情があっても、必ずどこかの部の顧問を引き受けなければならないのである。これは今まで部活を持っていなかった職員にとっては、大変な決定だった。さすがに土日がなくなる運動部の顧問を引き受ける者はほとんどなく、たいていの職員が活動の不活発な文化部を選んでいた。それも仕方のないことだろう。とにかく、一歩でも前進できればそれでいい。今の七里ヶ浜中学校には迷って立ち止まっている余裕などなかったのだから。
 
 会議が終わって、横川は山田の所にやって来た。にこにこしている。
 「山田先生、僕はあなたにたくさん失礼なことを言ってきたけど、僕自身も坂口愛美に教わることが多いんですよ。あの子の屈託のなさや、信念の強さには本当に感心します。」
 「横川先生みたいに熱心な先生がたくさんいればいいんですよね。私は、今まで学校の仕事は仕事として割り切ろうとしてきました。でもそれができないのが教員の世界だということがよく分かったんです。これは、坂口美香が私に教えてくれたことです。」
 「坂口姉妹は来週の月曜日から京都に旅するそうですよ。私は、姉の愛美の欠席を許可しました。いい旅をしてきてくれるといいんですけどね。」
 「そうなんですか。美香ちゃんも旅行に行くんですね。良かったわ。自分の部屋に閉じこもって泣いているあの子を想像して、私はものすごく胸が苦しかったんです。京都ですか。京都はいい街ですよね。私も行きたい。」
 「先生も2年後には修学旅行で行けるじゃないですか。それとも、今年僕の代わりに行ってきますか?」
 「私が先生の楽しみを奪ってしまっていいんですか?本気にしちゃいますよ。」
 「いや、それは困る。僕も京都が楽しみなんですよ。」
 「二人の旅に幸運がつくよう祈りましょうね。すっきりした気持ちで鎌倉に戻ってこれることを。」
 「そうですね。そして僕らは、彼女たちが安心して来れるようなクラス作りに頑張らなければならない。」
 「私も机にばっかり向かってないで、もっと子供たちと会話をするように努力します。」
 「いやあ、ごめんごめん。さっきはあんな言い方をしてしまったけど、山田先生の学級通信はそのまま続けて欲しいと思うんです。僕は逆に山田先生に習って、学級通信をもっとたくさん出すようにしようかと思ってるんですから。」
 「横川先生って優しいんですね。私、ちょっと勇気がわいてきました。ありがとうございます。」
 「何だか変な具合だなあ。そんなこと言われると、僕は照れます。」
 「まあ、横川先生でも照れたりするんですか?女の子の扱いが上手だって聞いてますけど。」
 「いやあ、それは中学生の女の子の扱いはということでして、山田先生のような若い女性となると、てんでだめなんです。だから女房にも逃げられちゃったし。」
 「先生こそ自信を持ってください。私、先生のような人のお嫁さんになりたいわ。」
 「ちょっとからかわないでくださいよ。だから若い女性は苦手なんだよな。」
 「私、本気です。」
 「いや、あの、僕は、その、野球部の練習を見に行ってきます。」
 逃げるように職員室を出ていった横川の後ろ姿を見て、山田涼子は思わず微笑んでしまった。涼子が教育熱心な横川に惹かれていたのは事実なのだ。しかし、よくも神聖なる職員室であんな大胆な発言ができたものだと、涼子は自分自身の行動に感心していた。《横川先生、私のことを本当にお嫁にもらってくれないかしら》涼子は真剣に考えている。涼子は自分でも気付かないうちに、ひとつの階段を登り終えていたのかも知れなかった。それは実際横川大造の影響であったことも確かだ。それにしても、さっさと逃げてしまうとは、横川も情けない。《俺はどうしてこうも意気地がないんだ》グランドを歩きながら大造は自分自身を嘆いていた。いずれは実るかも知れない恋だった。
 
古都の旅
 
 月曜日の朝はさわやかな青空が広がっていた。美香は自分の部屋から大好きな朝焼けも見ることができた。数時間後には愛美と一緒に新幹線の中に座っているはずだ。美香たちの乗る新幹線は、東京を9時過ぎに出発する。安全を見て、家は7時に出ることにした。ちょうど父の秀雄と同じである。東京までは親子三人の旅になる。朝食を終えると裕子が言った。
 「気をつけて行ってきてね。変な人には絶対に近づかないようにね。お母さんはそれだけが心配なの。」
 「お母さんたら、心配性なんだから。かわいい子には旅をさせろって、昔から言うんでしょう?大丈夫だから、心配しないで。」
 「そうね、愛美がついているんだから大丈夫よね。お父さん、東京まではしっかり送り届けてくださいよ。」
 「わかった、わかった。全くお前の心配性も肝いりだなあ。昔と違うんだから、最近の子は東京なんて一人で遊びに行けるんだぞ。とにかく心配するな。それじゃあ、行って来るよ。」
 中学生の姉妹だけの旅行なのだから、裕子が心配するのも無理はなかった。最近はテレビのスイッチを入れれば、殺人事件のニュースが流れている。京都でもメル友殺人事件が起きたばかりだった。世の中もずいぶん物騒になったものだ。人の命を何とも思わない人間が増えている。親が自分の子供の命を平気で絶つ時代だ。中学校でいじめが横行するのも無理はないような気がする。しかし、この子たちが大人になったときには、日本はどうなっているのだろう。それを思うと、裕子は背筋に冷たいものが走る感じがした。
 
 「それじゃあ、ここでお別れだな。お父さんはこのまま会社に向かうから、お前たちはそこら辺の喫茶店でコーヒーでも飲んでから、ホームに上がるといい。気をつけて行くんだよ。」
 「お父さん、わがままを聞いてくれて本当にありがとう。心配性のお母さんをよろしく頼みます。な〜んてね。じゃ、行ってきます。」
 「お姉ちゃん、私たち本当に二人だけで大丈夫なのかなあ。」
 「あんたまでそんなこと言って。お姉ちゃんがついてるんだから心配ないわよ。旅行の予約だって一人でやったんだから。それとも、おうちへ引き返す?」
 「いやよそんなの。愛美姉ちゃんについて行きます。」
 「よろしい。もしはぐれちゃったら、近くの交番に行くんだよ。そんなことはないと思うけどね。とにかく、私の後にしっかりついていること。変なやつがいたら私がやっつけてやるから。空手チョップなんかしちゃったりして。」
 「わあ〜怖い。お姉ちゃんてそんなに凶暴だったの。」
 「凶暴だなんて失礼ね。頼もしいとか何とか別の言い方があるでしょう。」
 「お姉ちゃん、私少しお腹空いちゃった。朝ご飯たくさん食べなかったから。」
 「私も同じ。それじゃあ、あそこのスタンドでサンドイッチでも食べていこうか。」
 「賛成。」
 二度目の朝食が終わった二人は、新幹線のホームに上がっていた。二人とも新幹線に乗るのは初めてである。小さい頃にカナダに行ってしまったから、国内を旅行することがほとんどなかったのだ。ホームに滑り込んできたひかり号を見て美香は歓声をあげた。
 「かっこいい!これが新幹線か。」
 「やめてよ美香ったら、恥ずかしいでしょ。」
 「お姉ちゃんでも周りの人の目を気にすることあるのね。」
 「そりゃあそうよ。田舎者だって思われたらしゃくじゃない。私たちはカナダからの帰国子女なのよ。それなりのプライドを持ちなさい。」 「帰国子女のプライドか・・・・。そのために私たちはいじめに遭ったのに。」
 「まあ、あんまり難しいことは考えずに、ゆっくりと旅を楽しみましょう。」
 
 途中で見た富士山の雄大さに、二人は大はしゃぎだった。帰国子女のプライドも何もあったものではない。昼前に京都駅に着いた二人は、京都駅の地下街で昼食をとった。愛美の予約したホテルは、鴨川に面した立派な建物だった。夜になると、鴨川のせせらぎが心地よい。
タクシーを使ってホテルに到着した二人は、すぐに部屋で荷物の整理をして、早速街に出た。今日の午後は市バスを乗り継いで、北野天満宮と金閣寺に行く予定だった。愛美は来年に受験を控えているので、菅原道真公を祀った北野天満宮にはぜひ行っておきたかった。
 「お姉ちゃん、何買ったの?」
 「鉛筆よ。これで来年の受験に挑むの。」
 「お姉ちゃんの受験が終わったら、私に貸してね。私も、3年後にはそれで受験に挑むわ。」 「あんたもちゃっかりしてるわね。」
 「お姉ちゃん、あの杉の木を見てよ。天まで届きそう。」
 「本当に立派ね。みんなあんな風に真っ直ぐに生きればいいのに。」
 「本当だわ。クラスのみんなはあっちこっちに曲がってる。私は真っ直ぐに生きるんだ。」
 
 金閣寺までは歩いていった。数年前に金箔を貼り替えたばかりの金閣寺は、眩しいくらい美しかった。桜の花のピンクを背景に、どっしりと腰を据える金閣寺はまるで絵のようだ。
 「昔の人って、みんな芸術家だったのね。こんなにきれいなお庭と建物を造るなんて、すごいと思う。」
 「そうね、カナダの自然は雄大だったけど、日本の自然は繊細ね。」
 「私は日本人に生まれて良かった。お姉ちゃんは?」
 「そうねえ、私はどっちでも良かったかな。オンタリオ湖の夕陽も最高だもの。」
 
 ホテルに帰った二人は少しばかり疲れていたが、夕食は外で食べることにした。
 「お姉ちゃん、私京風お好み焼きが食べてみたい。ほら、あそこに暖簾が掛かってるわ。」
 「まあいいか。よし、今晩はそれで行こう。」
 京都の夜は賑やかだ。若者たちであふれかえっている。もちろん年配の旅行者もたくさんいたが、鴨川の周辺は若者たちの天下といった感じだった。お好み焼きをたらふく食べた二人は、鴨川沿いの道を歩いてホテルまで帰ることにした。鴨川の岸はアベックでいっぱいである。さすがに中学生の二人には刺激が強すぎた。
 「まったくいちゃいちゃしちゃってさ。私だっていつかはかっこいいボーイフレンドと一緒に鴨川の岸でデートしてやる。」
 「お姉ちゃんは、京都の男の人と付き合うつもりなの?」
 「そうじゃないけど、何か悔しいじゃない。」
 「そうかなあ。私には全然わかんない。」
 「美香はまだお子さまだからね。」
 「お姉ちゃんだって大して変わらないと思うけど。」
 「私はもう立派なレディーよ。いつボーイフレンドができてもおかしくないわ。」
 そんな会話をしているうちに、二人はホテルの前まで来ていた。明日は詩仙堂に行ってから、比叡山に登って、そのまま大原三千院まで足を伸ばすつもりである。愛美の立てた予定は少しばかりハードスケジュールだったが、結構いいコースを選んでいる。比叡山の展望台から見渡す景色は最高だろうし、初めて見る琵琶湖も楽しみだった。大原三千院の静かなたたずまいも物思いにふけるには最高だろう。詩仙堂は母の裕子のお薦めだった。
 「結婚する前に、お父さんとお母さんがデートした場所なの。お庭がとってもきれいで、何時間でも眺めていられる感じがしたわ。詩仙堂は絶対に気に入るわよ。」
 結婚前の両親のデートコースだったなんて、これは是が非でも見ておきたいと愛美は思った。そして、そこでゆっくりと美香と話をするつもりでもあった。
 愛美は美香と一緒に明日のコースを確認してから、お風呂に入って床についた。明日は早めにホテルで朝食をとって、出かけなければならない。鴨川のせせらぎが二人を心地よい眠りに誘ってくれた。
 
 翌朝愛美が目を覚ますと、隣の布団はすでに空になっている。おやと思って窓の方へ目をやると、そこには美香が朝日をじっと見つめて立っていた。後ろ姿がどこか寂しい。
 「おはよう、美香。何時から起きてるの?」
 「あっ、お姉ちゃん、おはよう。私、ほら朝日が好きでしょう。だから、比叡山の後ろから昇ってくる朝日がどうしても見たかったの。5時ちょっと前には起きちゃった。」
 「そんなに早く?」
 「お姉ちゃんは、しっかり眠ってたよ。やっぱり夕陽が好きなお姉ちゃんは、早起きは駄目みたいね。」
 「私は普通よ。美香が早起き過ぎるの。」
 「ねえ、お姉ちゃん、朝食の前に鴨川の岸辺を散歩する時間あるかなあ。」
 「そうね、それもいいかも。じゃあ、すぐに洗面して出かけようか。」
 「わあ、嬉しい!お姉ちゃん、大好き!」
 「散歩ぐらいで感謝されるなんて、何だか変な感じだわ。美香は大袈裟よ。」
 「だって、私、お姉ちゃんのこと大好きなんだもん。小さい頃からずっとそうだった。きっとこれからもそうだよ。」
 「私も美香のこと大好きよ。あなたみたいな妹がいて本当に良かったと思う。」
 「それ、本当?私、クラスのみんなから嫌われてたみたいだから、好きだなんて言われるとちょっと困っちゃう。」
 「あなたのクラスの子たちだって、絶対に美香のことを嫌っている訳じゃないの。ただ、美香が自信満々の挨拶をしたものだから、びっくりしちゃったんじゃない?カナダでは当たり前のことも、日本では驚いちゃうのよ、きっと。」
 「びっくりしたら、私を仲間はずれにするの?そんなのないよね。そんなのひどい・・・・。」 「さあ、美香急がないと散歩の時間がなくなるよ。顔洗って、歯磨いて、急いだ急いだ!」
 「何だかお姉ちゃんってお母さんみたい。」
 「やだなあ、美香ったら。こんなに若き乙女をつかまえて『お母さんみたい』はやめてくれる?そりゃあ、うちのお母さんは素敵だけどさ。私はまだ15歳になったばかりなんだから。」 「はいはい、どうもすみませんでした。」
 美香はぺろっと舌を出すと、洗面所に消えていった。愛美はそんな美香が本当にかわいらしいと思う。今度の旅が、少しでも美香の傷ついた心を癒してくれることを祈っていた。
 鴨川の岸辺は何とも言えない風情だった。よく見れば川の中州にはゴミがたまっていたりするのだが、そのせせらぎは心を和ませてくれる。どこかの犬が、水浴びをしていた。いにしえの昔から変わることなく流れてきた鴨川。昔の人も同じ流れを見ていたのかと思うと、妙に感慨深い。愛美は自分の中に確かに流れている日本人の血を感じた。途絶えることのない鴨川の流れのように、遠い昔から人の命もずっと受け継がれてきたのだ。命はこの世に突然現れたものではない。だから貴重なのだと愛美は思う。
 早朝の散歩から帰ると、愛美たちはすぐに朝食をとって、詩仙堂に向けて出発した。父と母の思い出の場所を二人の娘たちが訪ねるのである。これも何かの縁であろうか。世の中には不思議な縁がたくさんあるものだ。
 市バスの一乗寺という停留所で降りた二人はゆるやかな坂道を登っていた。詩仙堂までは歩いて5分ほどの距離だ。坂道は段々と急勾配になってゆく。
 「確かここらへんのはずなんだけど。」
 「ほら、お姉ちゃん、ここ、ここ。ここに詩仙堂って書いてある。」
 小さな入り口をくぐるとすぐに竹林が広がっている。昼間でも薄暗い小道を進んでゆくと、詩仙堂の玄関口にたどり着いた。中からは心地よいお香の香りが漂ってくる。
 「お姉ちゃん、さっきの竹林、すごかったね。何だか、かぐや姫でも出てきそうな雰囲気だったよ。」
 「そうね。どの竹も太くてたくましくて、まるで人間のように生命を感じたわ。」
 漢詩人の石川丈山がわび住まいをしていたという詩仙堂は、丈山の庭園造りの趣味で、見事な庭園を誇っていた。愛美たちは庭園を見渡せる座敷に座ってしばらく時を過ごした。そよ風が少し汗ばんだ肌に心地よい。
 「本当はね、12月の初め頃に来ると、ここは紅葉がすばらしいんですってよ。」
 「でも、ツツジの花がとてもきれい。お庭の白い砂と絶妙なバランスがとれてるものね。」
 「美香もけっこう詩人だわね。」
 「私、こんなお庭だったら毎日眺めていたいな。石川丈山っていう人、すごく幸せな毎日を送っていたんじゃないかしら。」
 「そうね、ここならすばらしい詩が書けそうだわ。そよ風が気持ちいい。」
 「私、どうして死んじゃいたいなんて思ったんだろう。こんなにきれいな世界に生まれてきたのに、死んじゃったらもったいない。」
 「そうだよ、美香。死んじゃったら駄目。私たちの命は遠い昔から延々と続いてるの。その命を勝手に消してしまったらいけないんだわ。」
 「お庭の木も、竹も、みんな精一杯生きてる感じがする。何だか、鼓動が伝わって来るみたい。そう思わない、お姉ちゃん?」
 「そうね。植物や動物は精一杯生きるの。『どうして生きなくちゃいけないんだろう』なんてくだらないことは考えもしない。ただひたすら生きるのよ。私たち人間も同じはずなんだわ。この世に生を受けたら、一生懸命生きるのが私たちの仕事なの。死ぬことなんか考えるのは、神様の意志に反してるんだわ。」
 「神様って本当にいるのかなあ・・・・。」
 「神様は自然そのものかも知れないわね。でも、目に見えないからって存在しないとは言い切れないわ。だって、愛情とか友情なんか目には見えないけど、確かに存在するじゃない。だから、きっと神様もいるんだと思う。」
 「私ね、お姉ちゃん、みんなにいじめられて死にたいって思ったんだけど、そんな悩みは何だかすごくちっぽけなものに思えてきたの。私も自然の一部だから、一生懸命生きてればそれでいいんだって今は思えるの。」
 「良かったね、美香。お姉ちゃんね、あなたのこと本当に心配した。大好きな美香が苦しんでると、私の胸まで苦しかったわ。だから、あなたに生きる勇気をあげたかった。でも、私にはそんな力はないから、京都の自然にあなたを遭わせたかったの。本当は、私も遭いたかったんだけどね。正直言って、お姉ちゃんだって、鞄を隠されたり陰口をたたかれたりするのは辛かったわ。だから、私も生きる勇気が欲しかった。それでね、ある雑誌を見ていたら、京都の街の自然が紹介されていたの。私は、これだって思ったわ。とにかく行ってみようって。」
 「お姉ちゃんって、本当に優しいのね。私、愛美姉ちゃんの妹に生まれて本当に幸せ。」
 「というより、私たちを生んでくれたお父さんとお母さんに感謝しなくちゃね。」
 
 愛美と美香が静かに話をしているところへ、見知らぬ老婆がやって来た。
 「まあまあ、仲が良さそうでいいわね。お嬢さんたちは二人きりでいらっしゃたんかいな?」 「ええ、そうなんです。」
 「どちらから来はったん?」
 「鎌倉です。私と妹の二人旅です。」
 「そうかいね。おばあちゃんはね、よくこのお庭を眺めに来るんじゃて。ここに座ってじっとしておるだけで、長生きできるような気がするんでのう。」
 「失礼ですけど、おばあちゃんっておいくつなんですか。」
 「今年で80歳になるかいのう。もういつお迎えが来てもおかしくないわね。お嬢ちゃんたちはまだまだ若くてうらやましいのう。」
 「私たち、カナダから戻ってきたばかりで、日本の学校になかなか溶け込めなくて。妹もみんなから仲間はずれにされて、それで京都に旅してみようと思ったんです。」
 「そうかいね。京都はええところじゃて。まだまだ自然が生きちょる。人間は自然から生まれて自然に帰るんじゃ。いろいろ難しいこともあろうけんど、肩の力を抜いて自然に生きるのが一番なんじゃよ。」
 「私、坂口愛美といいます。こっちが妹の美香。おばあちゃんのお名前は?」
 「わしは、柏木琴。お琴の琴じゃ。それじゃあわしはそろそろ帰るかのう。お嬢さんたちも気をつけてお行きよ。若竹のように真っ直ぐに、そいでから柳のようにしなやかにな。ほな、さいなら。」
 「琴おばあちゃん、お元気で。長生きしてくださいね。」
 「おおきに。やさしいお嬢さんよのう。」
 
 「おばあちゃん、いいこと言ってたね。」
 「そうね、『若竹のように真っ直ぐに、柳のようにしなやかに』だったっけ。」
 「自然に生きるのが一番だって言ってた。」
 「美香、京都に来て良かったね。旅はいろんな出会いがあるから楽しいもの。」
 「私、頑張って学校行くわ。みんなから無視されたって平気。自然に任せるから。私は私で一生懸命生きればいいんだもの。」
 「お姉ちゃんも、頑張るわ。どんなに嫌がらせを受けても、絶対に負けないよ。真っ直ぐにしなやかに生きてみせる。」
 「お姉ちゃんはいいなあ。また修学旅行で京都に来れるんでしょう?」
 「そうなのよね。だけど、みんなと一緒だから、今回みたいに美香と二人だけののんびりした旅にはならないわよ。」
 「それじゃあ、お姉ちゃん、今度は秋にもう一度京都に来ようよ。私、京都の紅葉が見てみたい。今度はお母さんたちも一緒にね。」
 「そうしようか。帰ったらすぐにお母さんたちに話してみようね。」
 「そうだ、ここはお父さんとお母さんの思い出の場所なんでしょう?」
 「そうそう、忘れてた。あの二人ここでどんな話をしたのかしらね。『愛してるよ』なんて言っちゃったりしたのかしら。」
 「なんだかロマンチック!」
 「親ながら、ちょっとうらやましいわね。」
 両親の思い出の詩仙堂を後にした二人は、叡山電鉄に乗って八瀬遊園駅まで行って、そこから叡山ケーブルと叡山ロープウェイを乗り継いで、終点の比叡山山頂で下車した。山頂からの景色はすばらしく、特に初めて目にする琵琶湖の大きさには驚いてしまった。そこからは延暦寺の根本中堂までハイキングである。桜の花の下を歩くのは本当に気持ちいい。あたりの自然も表情豊かだった。二人は汗だくだくになって根本中堂に到着すると、お堂の中に入ってしっかりと正座をして心の底から祈った。
 「ねえねえ、お姉ちゃんは何をお願いしたの?」
 「それは内緒よ。美香は?」
 「私はね、これからもお姉ちゃんとずっと仲良く暮らせますようにってお祈りしたの。」
 「かわいいのね、美香は。私のも教えてあげるわ。私は、美香がクラスのみんなとうまくやって行けますようにってお願いしたのよ。」
 「それだけ?」
 「まだあるけど、それは本当に内緒かな。」
 「お姉ちゃんったら意地悪なんだから。」
 「だって、あんまりぺらぺらしゃべったらお願い事も叶わないかも知れないでしょう。」
 「そうか。それじゃあ、私のもう一つのお願い事もお姉ちゃんには秘密にしておくね。」
 「いいわよ。美香の胸の中に大切にしまっておいてちょうだい。」
 「ねえ、お母さんとお父さんにお守りを買って行かなくていいかなあ。」
 「そうねえ、うちは確か仏教だけど宗派とかがよく分からないの。でも、気にすることないか。有名な延暦寺のお守りならきっと効果があるわよね。それじゃあ、長寿祈願のお守りにしたらいいかな。」
 「夫婦円満もいいんじゃない?」
 「そんなお守りないわよ。」
 「それじゃあ、長寿祈願でいい。お父さんたちきっと喜んでくれるわよね。」
 「そうね、きっと喜んでくれるわ。」
 比叡山から三千院まではバスを乗り継いで行く長旅だった。二人ともかなり疲れてはいたが、予定を変更するつもりはなかった。大原のバス停で降りると、そこから三千院まではだらだら坂を登って10分ほどだ。二人はまた汗だくだくになってしまった。昼食は、比叡山頂の食堂で済ませてきたが、何となくお腹が空いてしまったので、途中のお店でみたらし団子を3本ずつ食べてしまった。関東のとは違って、団子が串に5つもついている。二人は大満足で、三千院に入っていった。中はもう緑一色である。
 「立派な杉の木がこんなにたくさん。スギゴケの美しさも何とも言えないわね。何だか心が洗われるようだわ。美香もそう思わない?」
 「これだけのカエデやモミジが秋になって紅葉したら、どんなにすばらしいか想像もつかないね。でも、どうして杉の木ってこんなに真っ直ぐに空に向かって伸びるのかしら。」
 「さあ、お姉ちゃんには分からないわ。でも本当に立派。私も、この杉の木のように真っ直ぐな人生を歩きたい。」
 「お姉ちゃんはしっかり者だから、きっとそうなるわよ。私の人生は、あのカエデみたいに曲がっちゃうかな。」
 「曲がってても季節によって色とりどりの葉っぱをつけるんだから、賑やかでいいじゃない。」
 「お姉ちゃん、少しあそこのベンチに座って休もうよ。」
 「もう、お団子は出ないわよ。」
 「私はそんなに食いしん坊じゃありませんよ〜だ。」
 「あら、そうだったかしら。さっきみたらし団子をもう一皿頼もうとしたのは誰だっけ?」
 「あのときは、お腹が空いてたんだもん。」
 「いいわよ。たくさん食べれるっていうのは健康な証拠なんだから。」
 「帰りはまたバスの旅なのね。なんだか疲れちゃいそう。」
 「でもすごく充実した一日だったからいいじゃない。ホテルに着いたらゆっくり休みましょう。ところで、今晩は何を食べたいの?」
 「今日は中華がいいな。おいしいフカヒレラーメンが食べてみたい。」
 「京都に来て中華か・・・・。まあいいや。あなたのために計画した旅行なんだから。」
 
 ホテルに帰る頃にはすっかり夕方になっていて、夕陽がきれいだった。
 「京都で見る夕陽もなかなかいいわね。ようし、明日も頑張って歩くぞ!」
 「明日もそんなに歩くの?私、だんだん疲れて来ちゃった。」
 「美香ったら、もう弱音を吐いちゃうわけ?京都にはあと3日間もいるのよ。」
 「疲れたなんて、冗談よ、お姉ちゃん。明日は嵐山方面だものね。アイドルのお店もたくさんあるし、頑張らなくちゃ。」
 「保津川の川下りだってやるんだからね。今晩はしっかり眠っておかなくちゃ。」
 「あ〜、お腹空いた。お姉ちゃん、早くフカヒレラーメン食べに行こうよ。」
 「今日はホテルのレストランでいいでしょう?」 「食べられれば、どこでもいい。」
 
 二人の京都の旅は本当に充実していた。毎日めいっぱい動いたからだ。4日目には伏見桃山城から宇治平等院まで足を伸ばし、帰りがけに東寺にも寄ってきた。坂本龍馬で有名な寺田屋にも寄って、ちゃんと柱の刀傷を確認してきたのだった。最終日は、清水寺からお土産を買いながら三年坂・二年坂を下り八坂神社と祇園に行き、それから哲学の道を歩いて銀閣寺まで足を伸ばした。夕方の新幹線にやっとのことで間に合うというハードスケジュールだ。帰りの新幹線の中で、二人はいつの間にかぐっすりと寝込んでいた。5日間で京都の名所を一通りクリアしてしまったのだから、疲れて当然である。しかし、明日は土曜日で学校は休みだったから何も心配する必要はなかった。家に帰って旅の思い出話をする時間もたっぷりある。
 二人が稲村ヶ崎の自宅に着いたのは、もう夜の11時近かった。心配した母親の裕子がしっかり江ノ電の七里ヶ浜駅まで出迎えに来てくれていた。
 「京都の旅はどうだった?」
 「もう最高だった。すごく疲れたけど、すごく感動した。お母さん、私ね、月曜日からちゃんと学校行くからね。」
 「まあ、たった5日間京都にいただけで、こんなに元気になってしまうなんて。」
 「そうだ、お母さんの言ってた詩仙堂、本当に素敵だったわ。でも、ひとつ聞いていいかな。お母さんとお父さんは、あのきれいなお庭を見ながら何を話したの?」
 「何をって・・・・もう忘れちゃったわ。」
 「愛のささやきかしら。」
 「何をおませなこと言ってるの。それより、早くお風呂に入って今晩はゆっくり眠りなさい。思い出話は明日ゆっくり聞かせてもらうから。」
 美香は着替えを取りに自分の部屋に飛んでいった。
 「ああ、ちょっと愛美。」
 「何、お母さん?」
 「美香のこといろいろありがとうね。あんなに元気になるとは思っていなかったもの。」
 「大丈夫よ、お母さん。私たちは真っ直ぐにしなやかに生きることに決めたの。」
 「詩仙堂のことなんだけどね。実は、あそこでお父さんにプロポーズされたの。」
 「そうだったの。ロマンチックでいいなあ。」
 「だから、お母さんには忘れられない場所なのよ。」
 「ねえ、お母さん、美香とも話したんだけど、今年の秋に家族そろって京都に行かない?」
 「京都の紅葉はすばらしいって言うし、それもいいかも知れないわね。お父さんが帰ってきたら早速聞いてみましょう。」
 「二人でもう一度詩仙堂に行きたいでしょう?私たちはお邪魔かしら。」

いじめとの闘い
 
 月曜日に美香は元気よく登校した。久しぶりの学校で、ちょっと教室には入りにくかったが、大きな声で「おはよう!」と誰にともなく挨拶をして席に着いたのだった。すると、学級委員の鎌田玲子が美香の所にやって来た。
 「坂口さん、私、あなたに謝らないと。学級委員のくせに大川さんたちの命令に逆らうのが怖くて、みんなと一緒にあなたの『しかと運動』に参加していたの。本当にごめんなさいね。あなたが学校をお休みしている間に、山田先生が涙を流しながら私たちに訴えたわ。私たちの心ない行動がどんなにあなたの心を傷つけてしまったかって。私は、もう負けないから。」
 「ありがとう。私は大丈夫よ。最初にあんな自信満々な挨拶をした私も、ちょっと配慮に欠けていたかも知れない。」
 「違うわ。あなたの挨拶はとても立派だった。私たちは目立つといじめられるから消極的になっているだけで、本当は坂口さんのように堂々と自分の思っていることを主張したい。クラスのほとんどの人は、私と同じ気持ちだと思うの。」 「大川さんたちだって、いろいろストレスがたまっているんじゃないかと思うの。『死ね』って机に書かれたのはショックだったけど、私は親にもらった大切な命をそんなに簡単に投げ出すわけにはいかないわ。」
 「坂口さんって、本当はとっても強い人なのね。私なんかよりあなたの方が学級委員に向いてるわ。私も門田君も学級委員としては失格。正義の味方のはずの学級委員が、いじめに荷担するなんてもってのほかだもの。」
 「もういいわ。『しかと運動』に逆らってくれてどうもありがとう。もしかしたら、これからはあなたも大川さんたちにいじめられるかも知れない。それでも大丈夫?」
 「私は学級委員だもの。あなたがこんなに頑張っているんだから、私だって勇気を出さなくっちゃ。山田先生もついてるし。」
 鎌田玲子が率先して『しかと運動』から抜けたことをきっかけに、クラスのほとんどの生徒は美香と口をきくようになった。担任の山田涼子の涙ながらの訴えを聞いて、大川景子たちの気持ちにも少しずつ変化が見えていた。少なくとも、これ以上美香に対するいじめが悪化することはないはずである。朝の短学活で元気な美香の顔を見た山田涼子は、心の底から嬉しかった。《よく戻ってきてくれたわね》涼子は大きな声で美香に叫びたかったが、その気持ちは胸の中に大切にしまっておくことにした。
 「さあ、みなさん、今日から坂口さんも登校してくれて、やっとまたクラスの全員が顔を合わせることができました。これからは、お互いに相手の気持ちをよく考えて行動できる、そんな正義感のあるクラス作りに頑張りましょうね。先生は、いじめは絶対に許しません。自分の命をかけてもいじめは撲滅します。」
 すると、いつもは弱々しくて自分の意見も言えないような子だった大西が手を挙げた。
 「どうしたの、大西君?」
 「先生、僕は坂口さんに謝りたいんです。坂口さんの机の上に赤いマジックで『死ね』と書いたのは僕でした。クラスのある人から命令されたんですけど、僕は断ることができなかった弱い自分が恥ずかしいです。坂口さん、本当にごめんなさい。僕も、これからは堂々と生きて行けるように頑張ります。」
 大西翔太に命令した本人の山下信二は、一瞬自分の名前が出るのではないかと冷や冷やしたが、無事に済んだと思った瞬間、翔太の方をじろっと睨んだ。翔太は山下信二のプレッシャーを感じたが、もう負けたくはなかった。山田涼子の迫力が、クラスの多くの子供たちの心を大きく成長させたのだ。こんなことでいじめが完全になくなるとは思えなかったが、涼子は翔太の勇気に感謝した。
 「大西君は偉いわね。誰だか知らないけど、大西君に命令した本人は知らん顔をしているわけでしょう。先生は、そんな意気地なしの男の子は大嫌いです。そんな卑怯な人のお嫁さんにだけは死んでもなりたくありません。」
 涼子は、正義感の強い熱血教師の横川のことを思っていた。《私がお嫁さんになるのは、ああいうたくましい人なんだわ》横川はどこかでクシャミでもしていたであろうか。
 職員室に戻った涼子は、嬉しさを隠せない様子で横川の所へ飛んでいった。
 「横川先生、美香ちゃんが登校してくれたんです。それに、机のイタズラ書きをした大西君も自分からみんなの前で告白してくれました。先生、いろいろありがとうございました。私、頑張って教師を続けて行きます。」
 「良かったですね。山田先生の迫力が子供たちの心を動かしたんですよ。これで安心はできませんけど、少なくともおおっぴらにいじめを続けることはできなくなったでしょう。」
 「私・・・・」
 「何ですか?」
 「いえ、何でもありません。先生、これからも私のことびしびし指導してください。」
 「指導だなんて、とんでもない。」
 「それじゃあ、私のことたくさんかわいがってください。」
 涼子は思わぬ言葉を吐いてしまって後悔したが、鈍感な横川はその意味がよく分からなかったので、救われた。
 「かわいがる・・・・んですか?」
 「あの、その、もう知りません!」
 涼子はそう言うと、自分の席に急いで戻ってしまった。《何だか女性の心理はよくわからんなあ・・・・》横川は相変わらず鈍感である。
 
 美香のクラスがいじめ撲滅の方向に進んでいたのとは対照的に、横川のクラスでは陰湿ないじめが後を絶たなかった。月曜日の朝、愛美が下駄箱の上履きを取ろうとすると、中から大量の砂がこぼれ落ちてきた。しかも、上履きの裏にはべったりとのりが塗りつけられていたのである。愛美は悲しかった。こんなことでくじける自分ではないが、そんな情けないことに神経を使っている人間がいるのかと思うと、ただただ悲しかった。
 教室に入っていった愛美は、席について思わず悲鳴を上げてしまった。おしりに鋭い痛みを感じたからだ。見ると、そこには数個の画鋲が置かれていた。
 「いったい誰なの、こんなことするのは!隠れてやっていないで、堂々と名乗り出なさいよ!」 愛美の剣幕にクラスのみんなは唖然としている。芯の強い愛美だったが、怒りを露わにするのはこれが初めてだったからだ。
 谷村美幸たちはにやにやしながら下を向いている。ちょっと間をおいてから、美幸はつかつかと愛美の方へ近寄っていった。
 「坂口さん、誰がやったかそれは知らないけど、あなたがあんまり生意気な口をきくから誰かがむかついてやったんじゃないのかしら。」
 自分でやっておきながら、ふてぶてしい態度である。愛美は負けてはならないと思った。
 「谷村さんは、誰がやったか知ってるみたいね。こういう卑劣なことを許しているあなたが吹奏楽部の部長をやっているなんて、私には信じられないわ。あなたには、そんなリーダーの資格がないと思うもの。」
 「どういうつもりよ。私に何か恨みでもあるの?」
 「それはこっちのせりふだわ。確かに私の挨拶は生意気だったかも知れない。でも、カナダでは自分の個性を主張するのは当たり前のことなの。」
 「間違ってもらっちゃ困るけど、ここはカナダじゃなくて日本なのよ。」
 「そんなことを言ってるから、いつまでたっても日本人は国際人になれないのよ。」
 「私は国際人になんかならなくても結構。」
 「あなたの場合には国際人になる前に、まずは一人前の人間になるべきだけどね。」
 「何ですって!私に喧嘩を売る気?」
 「そうじゃないわ。ただ事実を言っただけ。間違ったことをしているのに誰も注意してくれなくなったらおしまいよ。」
 「私がどんな間違ったことをしてるって言うの?証拠でもあるのかしら?」
 「証拠なんかいらないわ。あなたがしていることは、あなたが一番よく知っているはずよ。」
 「おいおい、何の騒ぎだ。早く席に着きなさい。もう授業が始まっているんだぞ。」
 3年生は今日は特別に朝の学活がなかったので、1時間目の保健の授業をしに横川が入ってきたのだ。
 「先生、私の椅子に画鋲を置いた人がいます。私は大怪我をするところでした。」
 「誰なんだ、そんないたずらをするのは。潔く名乗り出なさい。」
 横川はドスの利いた声で言った。
 「先生、犯人なんて名乗り出るわけありません。こんな卑劣なことをする人に、みんなの前で名乗り出る勇気なんかないはずです。」
 「まあ坂口、落ち着いてくれ。ここは先生に任せてくれないか。」
 「わかりました。でも先生もう一つあるんです。今朝私の上履きに砂が詰められていて、裏にはのりがべったりと塗りつけられていました。きっと同じ人がやったんだと思います。」
 愛美は悔しい気持ちをぐっとこらえて、ここは担任の横川に処置を任せることにした。
 「そうか、このクラスには他人の心の痛みが少しも分からない者がいるようだ。先生は、犯人が名乗り出るまで授業はしない。」
 すると橋爪沙織が手を挙げた。
 「先生、私今朝バスケット部の朝練に来たとき、下駄箱のところで何かこそこそやっている人たちを見かけました。」
 「名前は分かるのか?」
 「分かりますけど、私の口から言われる前に自分で名乗り出るべきです。そうよね谷村さん。」
 谷村はドキッとした。まさか今朝のイタズラを目撃されていたとは思わなかったのだ。
 谷村美幸はゆっくりと立ち上がると、あたかも自分が被害者であるかのような顔をして発言した。
 「下駄箱の所にいたのは、私と西川さんと水沼さんの三人ですけど、私たちは何もしていません。」
 「それじゃあ、朝練もない吹奏楽部の君たちが、そんなに朝早く何をしていたんだね。」
 「先生は、私たちを疑うんですか!」
 「先生はただ真実が知りたいだけだ。先生の質問に早く答えなさい。」
 「私たちは・・・・私たちは・・・・とにかく何もしていないんです。」
 「いいだろう。君がとぼけるならそうするがいい。しかし、神様はちゃんと君たちのしたことを知っているんだよ。いつかは必ず自分たちが辛い目に遭う日が来る。それでも構わないのなら、そのまま無実を訴えるといい。」
 「生徒を疑うなんてひどいわ!」
 谷村は嘘泣きをした。白々しい涙だった。《あなたは吹奏楽部よりも演劇部に行くべきよ》愛美は心の中で谷村に向かって言っていた。
 「誰も名乗り出る者はいないのか。」
 「先生、どうしてうちのクラスの生徒が犯人だと分かるんですか?他のクラスの人が犯人なら、誰も名乗り出ることができません。」
 西川千秋はまだとぼけたことを言っている。愛美は我慢できずに立ち上がった。
 「先生、もう犯人探しはいいです。卑劣なことをやった人はきっと今頃後悔していると思いますから。もうこれで十分です。でも、はっきり言っておきますが、私はこんないじめに参ってしまうほどヤワな神経はしていません。私はぜったいに負けない。だから先生、授業を始めてください。」
 「そうか、坂口がそこまで言うのなら犯人探しはやめにしよう。しかし、みんな聞いてくれ。先生は、他人の気持ちを平気で傷つけるような人間を許すことはできない。もし、少しでも良心があるのなら、いつでもいいから先生の所へ名乗り出てきて欲しい。それだけだ。」
 
 保健の授業が終わると、学級委員の橋爪沙織が愛美の所へ駆け寄った。
 「坂口さんって、本当に勇気があるのね。私、あなたみたいな人尊敬するわ。私も学級委員として絶対にいじめは許さない。坂口さんも絶対に負けないでね。」
 教室の別の隅では谷村たち三人組が何やらひそひそと相談事をしている。ところが、そこにツッパリ少年の太田原浩介が近づいていったのだ。いつもすぐに教室から姿を消してしまうはずの浩介だった。
 「おい、てめえら、いいかげんにしねえと、俺が許さねえぞ。女だってただじゃおかねえ。痛い目に遭いたくなかったら、きたねえまねは二度とするな。分かったか。」
 「・・・・」
 「分かったかと聞いてるんだよ。返事はねえのかよ!この場でぶっ飛ばされてえのか!」
 「分かったから大きな声出さないでよ。」
 「何だと?大きな声を出さなけりゃ、てめえらはきたねえまねを続けるんだろうが!いいか、これ以上坂口に嫌がらせをする気なら、俺を敵に回すと思えよな。俺はいつもお前らを見てるからよ。じゃあな。」
 浩介はすごみをきかせた声で最後の一言を言うと、いつものように教室から姿を消してしまった。谷村美幸たちはすっかり震え上がっている。その様子を見ていた愛美と沙織はくすくす笑ってしまった。
 「太田君って、あんな子だったんだ。」
 「どんな子だと思っていたの?」
 「太田君は小学校の6年生の頃からツッパリ出して、誰とも友達づきあいをしなくなったのよ。だから、あんな正義感の強い人だとは思わなかった。クラスのことには無関心だと思っていたの。でも、今のかっこよかったわね。」
 「そうね、映画のシーンを見ているようだったわ。太田君のおかげですっきりした。」
 職員室に帰った横川はすっかり腹を立てていた。自分の机を思いっきり蹴り上げたので、その音にびっくりして職員室中の目が横川に向けられた。すかさず、横川の所に行ったのは山田涼子である。
 「横川先生、何かあったんですか?」
 「何かあったも何も、ひどいんですよ。坂口愛美の上履きに砂を詰めて裏にはのりをべったり塗りたくって、挙げ句の果ては彼女の椅子の上に画鋲を置くと来てるんです。犯人はとうとう名乗り出ませんでした。僕は、こんな卑劣なことをやる連中にも腹が立つんだけど、それ以上にこんな子供たちしか育てられなかった自分に腹が立つんです。」
 「坂口愛美は大丈夫なんですか?」
 「彼女は強いです。僕なんかよりずっとタフかも知れない。いじめには絶対に負けないと宣言してました。」
 「そうですか。さすがに美香ちゃんのお姉さんだわ。妹を立ち直らせた上に、自分も勇敢に闘っているんですね。」
 「そう、いじめとの闘いです。」
 「犯人は名乗り出てくるでしょうか。」
 「それはないでしょうね。坂口が言っていたように、あんな卑劣なことをする人間に、名乗り出る勇気なんかあるはずがない。」
 「それじゃあ、このまま放っておくしかないんですか。」
 「そうですね。悔しいですけど、これ以上卑劣なことをさせないように注意するしかないと思いますよ。」
 横川は太田原浩介がとっくに犯人をつきとめて、締め上げたことを知らない。谷村たちのいじめは二度と起こらないだろう。浩介にあれだけおどされたら、誰だってびびってしまう。横川が浩介の大岡裁きを知ったのは、愛美の個人ノートを通じてだった。大造は浩介に脅されてびびっている谷村美幸たちの表情を想像して痛快な気分だった。《浩介がねえ・・・・》大造はことの意外な展開に舌を巻いた。

臨時道徳
 
 今朝のニュースは、いじめられていた中学2年生の少年が、マンションの屋上から飛び降りて自殺をしたと伝えていた。九州の中学校の話ではあったが、とても他人事とは思えなかった。小泉校長は、1時間目の授業をカットして、前クラスで一斉に道徳の授業をするように指示した。1時間目に間に合うように、大至急新聞記事のコピーが印刷された。
 1年C組では、山田涼子が切々と事件の悲惨さを伝えていた。
 「うちの学校にもいじめがあります。そのために学校に来れないでいる生徒が何人もいるんです。そして、同じいじめで中学2年生の男の子が自らの命を絶ってしまいました。彼は教科書にイタズラ書きをされたり、自習の時間にプロレスごっこのやられ役になったりしていたそうです。クラスの誰もがそのことを知っていながら、誰一人としてストップをかけられる人間がいなかったのが残念でなりません。みなさんはこの事件についてどう思いますか。」
 坂口美香がすぐに手を挙げた。
 「先生、私は命の大切さということについて最近よく考えます。私たちの命は自然から生まれて自然に帰って行きます。そして、遠い昔の祖先から延々とつながっている命なんです。人はいったんこの世に生を受けたら、それを最後まで全うする義務があると思います。でも、私は自殺をした少年を非難するつもりはありません。彼を自殺に追い込んだ人たちも、これから一生その罪を背負って生きて行くんです。どちらも惨めだと思います。」
 次に手を挙げたのは山下信二だった。
 「僕は自殺した少年が弱かったんだと思います。少しくらいのいじめに耐えられなければ、社会で生きて行くことはできません。いじめた側だって、そんなに悪気はなかったと思うんです。まさか自殺するとは思っていなかった。だから、その少年はもっと頑張るべきでした。」
 「あなたは、多少のいじめはあってもいいと思うのね。それに耐えられない人間は弱いんだと、そう言いたいのね。他に意見はありませんか。はい、門田君。」
 「僕は、どんな形にしてもいじめはあってはいけないことだと思います。いじめられる側の気持ちは、いじめる側には絶対に分かるはずないからです。自殺した少年は、ものすごく悩んでいたんだと思います。それに気付かなかった周りの人間が悪いんです。」
 大川景子が続く。
 「私は、いじめられる側の少年にも何か悪いところがあったんだと思います。自分の悪いところも直さないで、ただ被害者意識だけ持つのはどうなんでしょうか。」
 その意見に猛烈に反論したのは学級委員の鎌田玲子だった。
 「人間には誰にでもいいところと悪いところがあるはずです。悪いところがあるからと言って、その人をいじめてもいいということにはなりません。それだったら、みんなが交代交代にいじめられなければならなくなります。大川さんは、自分がいじめられる側に立ったことがないからそんなことが言えるんだと思います。」
 次に手を挙げたのは、大西翔太だった。
 「僕は意気地なしの弱い人間です。もし、僕がプロレスのやられ役になったりしたら、きっと僕も自殺を考えると思います。世の中には僕みたいな弱い人間もいるんだということを忘れないでもらいたいです。」
 「大西君、あなたはちっとも弱い人ではないわ。こうやって自分の意見を堂々と発表しているじゃないの。先生は、あなたが意気地なしの弱い人間だなんて思いません。とにかく、一つの命は地球よりも重いと言われます。いじめはその大切な命を傷つける行為だということを忘れてはいけません。どんな理由があっても、絶対にいじめは許されてはいけないんです。」
 人間は自分の経験の範囲を超えることはできない動物だ。1年生の頭の中では、涼子の話が十分に理解できない者もいるに違いなかった。しかし、いずれは誰もが弱者の立場を経験して行く。そのときに初めて、他人の心の痛みも理解できるようになる。しかし、だからといって、子供たちが大人になるのを待っていたら、その間にいくつもの若い命が犠牲になることだろう。それは何としても避けなければならないことだった。
 
 職員室に戻った涼子を小泉校長は校長室に招き入れた。
 「山田先生は確か次は空き時間でしたね。ちょっとお話を伺ってもいいですか。」
 「はい、もちろんです。」
 「先生のクラスの坂口美香は何とか立ち直ったようですが、今日の道徳の授業の反響はどうでしたか。」
 「実は、様々な意見が出たんです。自殺した少年が弱すぎるんだという意見もありました。もちろん、大多数はいじめた側を非難する意見でしたけど。」
 「難しいですなあ。年端も行かない子供たちに命の大切さを教えるのは実に難しい。命は大切だと言っておきながら、大人は平気で戦争をしているわけです。駅のホームで因縁をつけて相手を殴り殺すという事件もあったし、自分で産んだ子供を玄関先に捨てるという事件もあった。世の中は、命の軽さを一生懸命教えようとしているかのようだ。そんな時代に、私たち教師には何ができるんでしょう。」
 「校長先生でも、そんな風にお悩みになることがあるんですか?」
 「山田先生、人間の悩みなんて死ぬまで尽きるものじゃありませんよ。私は、いつもみなさんに偉そうなことばかり言っているが、自分にも何が一番大切なのか判断に苦しむことが多いんです。」
 「私は、一人でも多くの子が真剣に命の大切さを考えるようになってくれればそれでいいと思います。他人の心の痛みを理解できるようになるには、いろいろな人生経験が必要です。私たち教師の言葉だけで、心が育つ子たちばかりではありませんから。」
 「いやあ、先生もずいぶん成長なされた。もう立派に中堅どころが務まりますね。ところで、話は変わるんだが、先生もそろそろいい人を見つけなければならんでしょう。」
 「あの、自分でもそうは思っているんですが、なにせ出会いのチャンスというものがないので。」 「お見合いでも良ければ、私がいくつかいい話を持ってきますよ。」
 「いえ、いいんです。私は・・・・。」
 「好きな人がいるんですね。」
 「よく分かりません。自分自身の気持ちがよく分からないんです。」
 「若いということはすばらしい。どうか先生、ご自分の気持ちを大切になさって下さい。いや、長い時間を取らせてしまって申し訳ない。私からはそれだけです。」
 「それじゃあ、失礼します。」
 臨時道徳の授業は、どこのクラスでも活発な議論を巻き起こしたが、多かれ少なかれ山田涼子のクラスと似たような展開だった。他人を思いやる気持ちは、小さな頃から親が教えるべきことなのだ。一通りの理屈がこねられるような年齢になって、ああだこうだと言ったところで何が始まるわけでもない。道徳の授業に感化されて心の成長を遂げる生徒は、よほど素直な性格の持ち主に限られるし、そういう生徒は、親の教育もしっかりしているものだ。問題なのは、親の教育をしっかりと受けられなかった子供たちだろう。「三つ子の魂百まで」と言うが、子供の頃に身につけた考え方は、そうそう簡単に修正できるものではない。文部省は道徳の授業を強化して「心の教育」を徹底しろと言うが、それよりも親の教育を徹底した方がよっぽど実益がありそうだ。《私たちはとにかくあきらめずに訴え続けるしかない》小泉校長は自分に言い聞かせるように心の中でつぶやいた。日本の未来が教育にかかっている。

叔父の死
 
 坂口家に訃報が届いたのは、美香たちが京都から帰ってきた次の週の水曜日だった。東京に住んでいる父方の叔父が交通事故で亡くなったのだ。会社からの帰宅の途中、横断歩道を渡っているときに、信号無視をして突っ込んできた暴走族のバイクにはねられて即死だった。犯人の少年たちは無免許運転だったそうだ。愛美たちがカナダに行くときまで、叔父は自分の娘のように愛美や美香をかわいがってくれた。その叔父が死んでしまったなんて、未だに信じられない気持ちだった。通夜は、木曜日に叔父の自宅のある浅草で行われることになった。愛美たちは学校を忌引きで欠席して叔父の家に急いだ。愛美も美香も、亡くなった叔父の顔を見るのが怖い気がした。
 通夜の祭壇には叔父の遺影が飾られていた。笑顔の叔父は、小さい頃に愛美たちをかわいがってくれた叔父のままだった。幸い顔には外傷はなく、叔父はまるで静かに眠っているかのようだった。目を真っ赤にしてハンカチで涙を拭っている叔母の姿があまりにも哀れだった。誰もが予想しない、突然の死だったのだ。残された遺族のショックは計り知れない。叔父には小学生の兄弟が二人いた。弟の坂口一雄が小3で、兄の坂口雄太が小6である。二人とも母親のそばにしっかりとついて離れようとしない。
 翌日の金曜日に行われた告別式には、大勢の知人が駆けつけた。一雄と雄太の学校の先生もいる。愛美たちは、叔父の横たわるお棺に切り花を詰める儀式になると、涙が次から次へとあふれてくるのだった。叔父の顔を見れるのはこれが最後になる。叔父の枕元には叔父が大好きだった坂本龍馬の本が置かれていた。釣りが好きだった叔父のフィッシングベストや愛煙していたセブンスターも一緒にお棺に入れられた。
叔母の聡子の悲鳴にも似た嗚咽の声の響く中、叔父のお棺には釘が打ち付けられた。いよいよお別れである。
 火葬場で小さな骨の固まりになった叔父を見るのは本当に辛かった。愛美は美香と一緒に木の箸で叔父の骨を一つ拾って骨壺に納めた。叔父の位牌を持つ聡子と遺影を持つ雄太の後ろ姿は、やけに小さく見えた。人の命というものはこんなにも簡単に消えてしまうものなのだろうか。《叔父さん、天国で安らかに眠って下さいね。叔母さんはきっと雄太君たちが守ってくれますから、安心して下さい。》叔父の遺影の前で手を合わせながら、愛美は一生懸命に心の中で念じていた。坂口道雄、40歳。それはあまりにも早い死の訪れだった。
 帰りの電車の中で、愛美は父の秀雄に話しかけた。
 「お父さん、気を落とさないでね。叔父さんはきっと天国で釣りを楽しんでいるわ。」
 「そうだなあ。セブンスターでもくわえて、のんびり釣りでもしているかも知れないな。」
 「叔母さんたち、大丈夫かなあ。」
 「うん、今は緊張しているから何とか頑張っていられるだろうけど、少しして緊張がなくなったときにがっくり来るかも知れない。お父さんが会社の帰りにときどき寄るから、心配しなくてもいいよ。」
 「一雄君や雄太君にお土産をたくさん持っていってあげてね。」
 「わかってるよ。愛美たちも何かいいアイデアがあったら教えてくれ。」
 「お父さんは、事故で死んだりしないでね。絶対に約束して。愛美がお嫁に行って、赤ちゃんができるまでは絶対に死んじゃいやよ。」
 「おいおい、そんなに言われると、お父さんも不安になってくるよ。だけどな、人間には寿命というものがあるんだ。道雄叔父さんも寿命だったんだよ。人間は神様の定めた寿命に逆らうことはできないんだ。だから、毎日毎日を一生懸命に生きなくてはいけない。限りある命だからこそ、大切にしなくてはね。」
 「限りある命か・・・・。私もいつかは死んでしまうのよね。死んだら何も考えられなくなってしまうのかしら。」
 「愛美はさっき天国の話をしていたじゃないか。人間の魂は不滅だと思う。だから、肉体は滅びても魂は天国で次の人生をスタートするんじゃないだろうか。そして、神様に認められた人たちだけが、また生まれ変わることを許される。お父さんはそんな風に信じてるんだ。」
 「本当にそうだといいんだけど。」
 「ところで、愛美たちは詩仙堂で何を話して来たんだ?」
 「詩仙堂でね、京都のおばあちゃんと出会ったの。そしたら、琴さんていうそのおばあちゃんが、竹のように真っ直ぐに柳のようにしなやかに生きるのが人生だって言ってたわ。」
 「へえ、そんな立派なことを教えてくれたおばあちゃんがいたのか。」
 「お父さんは、詩仙堂でお母さんにプロポーズしたんでしょう?」
 「何で知ってるんだ?そうか、お母さんがしゃべったんだな。」
 「それで何て言ったの?」
 「知りたいか?」
 「とっても。」
 「来年は夫婦になってもう一度この詩仙堂に来ようって言ったんだっけかな。」
 「うわあ、やっぱりお父さんってロマンチストなのね。もっとも、詩仙堂に行ったら、どんな人でもロマンチストになっちゃうと思うけど。」 「そしたらお母さんは何て言ったと思う?」
 「何て言ったの?」
 「『来年まで待たなければいけませんか?』って言ったんだ。お父さんはもうドキドキしてしまったよ。それに、とても嬉しかった。」
 「お母さんってすごく積極的なんだ。」
 「愛美はお母さんの血を引いてるんじゃないかな。愛美にもそろそろ好きな男の子ができてもおかしくないだろう。」
 「いやだお父さん。カナダから帰ってきたばかりで、急にボーイフレンドなんかできるわけないじゃない。」
 「そりゃそうだ。ちょっと安心した。」
 「安心したって?」
 「愛美にボーイフレンドができたら、お父さんはきっとすごくやきもちを焼くからさ。」
 「愛美のことがそんなにかわいいんだ。」
 「そうだよ。愛美と美香はお父さんの宝物だからな。恋人みたいなもんさ。」
 「お父さんが恋人なの?まあいいか。」
 「まあいいかとは何だよ。お父さんじゃ不満か?」
 「そんなことない。私、ロマンチックで頼りがいのある人大好きだから。」
 「そこまではっきり言われると、ちょっと照れるなあ。嬉しいけどね。」
 横でさっきからぐっすり眠り込んでいた美香と裕子が目を覚ました。
 「あなた、何か私のこと話してた?」
 「いや、何も。なあ愛美。」
 「そうよ、お母さんのことなんか話してない。安心してちょうだい。」

恋心
 
 ある日の夕方、愛美は大好きな夕陽を見に七里ヶ浜の海岸まで出かけていた。すっかり日が暮れて、帰途についたとき、江ノ電の踏切でばったり太田原浩介と出くわしたのだ。そのとき愛美はぼうっと江ノ電を眺めていた。
 「おいお前坂口じゃねえか。」
 「あら、太田原君、こんなところでどうしたの?」
 「こんなところでどうしたのはねえだろう。お前こそぼうっと電車なんか見つめちゃって、まさか踏切に飛び込もうってんじゃねえだろうなあ。もう谷村たちのいじめはねえから心配すんなって。俺がたっぷり脅しといた。」
 「踏切に飛び込むなんて、まさかそんなことしないわよ。親からもらった命を粗末に扱ったら罰が当たるわ。」
 「まあ、気の強いお前のことだから、自殺なんかするわきゃねえだろうけどさ。」
 「太田原君、この前はどうもありがとう。谷村さんたちに脅しをかけてくれたでしょ?」
 「お前聞いてたのか?」
 「あんなに大きな声でドスを利かしてるんだもの、教室中に聞こえてたわ。」
 「俺、そんなに声大きいか?」
 「大きいよ。でも、どうして私のことかばってくれたの?」
 「別にかばったわけじゃねえさ。ただ、俺は卑怯なことが大嫌いなんだ。谷村たちの悪さにはいい加減腹が立っただけだ。」
 「太田原君って、本当は優しいのね。」
 「やめろよ。そんなんじゃねえって言ってんだろうが。俺はただのツッパリさ。」
 「ところで、太田原君、そんなに大きな箱を抱えてどこに行くの?」
 「ああ、これか。これはおふくろの店の材料だよ。俺のおふくろは、この近くで居酒屋をやってんだ。5年前におやじのやつが事故で死んじまったから、おふくろが金を稼がなくちゃならなくなった。」
 「私の叔父さんも、つい先日交通事故で亡くなったの。無免許運転の暴走族にはねられて、即死だったわ。」
 「俺のおやじは、過労の居眠り運転で電信柱に激突さ。いくらトラックだって、電信柱に激突すりゃあ、ひとたまりもねえ。おやじも即死だったよ。」
 「太田原君は、どうしてツッパリなんかやってるわけ?」
 「おめえも変なやつだなあ。俺のことが怖くねえのか?」
 「全然怖くなんかないわ。」
 「まったく、どうしてツッパリやってるかなんて聞いてきたのは、おめえが初めてだ。」
 「どうしてなの?」
 「俺にもよくわかんねえ。俺の頬を見てみろよ。すげえ傷があんだろう?俺がまだ4歳のときに台所で遊んでいて、誤っておふくろの手にした包丁でやっちまったんだ。おふくろは気が狂ったように俺を抱きかかえて、医者に直行さ。だけど、俺の傷はそのまま残っちまった。ガキの頃はよく『やくざの浩介』って言われてからかわれたもんだ。そんな俺を見ておふくろはいつも泣いてたよ。別におふくろが悪いわけじゃねえ。遊んでいたのは俺なんだからな。俺は学校に行くのがいやだった。会えば『やくざの浩介』だろう。みんなそうやって傷のあるやつをいじめるのさ。ところが、俺がでかくなってからは誰も俺のことをからかわなくなった。怖かったんだろうよ。俺はその頃から誰も信用しなくなってた。おふくろ以外はな。そんで気がついたらツッパリになってたんだ。何でこんなに詳しくおめえなんかに話さなくちゃいけねえんだよ。まったく俺もどうかしてるぜ。」
 「浩介君もいじめられてたんだ・・・・。だから優しいのね。浩介君はツッパリなんかじゃない。私、浩介君みたいな人大好きよ。」
 「おいおい、おめえ頭どうかしちまったんじゃねえのか?俺のことが大好きだって?なめてんじゃねえよ。俺はツッパリの浩介だぞ。」
 「優しいツッパリね。」
 「何だかおめえと話してると調子が狂ってくるぜ。だけど、おめえの最初の挨拶はなかなかいかしてたぞ。みんな意気地のねえやつばっかりだから、あんなにものをはっきり言うおめえを見て、俺は胸がすっとした。」
 「ありがとう。でも、私も調子に乗っていろいろ言い過ぎちゃったかも知れないわ。」
 「言いたいことは堂々と言うのが一番なんだ。陰でこそこそすんのが一番むかつく。」
 「私、何だか浩介君と気が合いそうだな。」
 「おいおい、勘弁してくれよ。俺はツッパリだって言ってんだろうが。俺みたいなやつと話してると、おめえもツッパリ女だと思われちまうぞ。困るだろうが、そうなったら。」
 「ツッパリ女なんて、結構かっこいいかもね。」 「おめえってやつは、本当に訳がわかんねえな。とにかく俺はおふくろに材料を届けなくちゃいけねえから、これで終わりだ。じゃあな。」 「浩介君。」
 「何だよ、まだ何か文句あんのかよ。」
 「頑張ってね。」
 「ああ。ありがとよ。おめえも遅いから早く帰りな。ここら辺も痴漢が出るんで有名なんだぞ。早く行けよ。」
 「心配ならここで待ってるからうちまで送ってよ。」
 「ばかやろう!甘えてんじゃねえや。とっとと帰りな。じゃ、俺は行くぜ。」
 
 愛美は小走りに走り去る浩介の頼もしい後ろ姿をずっと眺めていた。《本当は心の優しい人なんだ》愛美は何となくほろにがいものを胸の中に感じた。もしかしたら、ツッパリの浩介に恋心を抱いたのかも知れなかった。両親が聞いたら卒倒するかも知れなかったが。
 浩介がツッパリを始めたのは、人間不信からだった。弱いものをいじめて強いものにはこびる周囲の人間が信じられなくなったのだ。そこへ父親の事故死に出くわす。もはや浩介を支えるものは何もなかった。それどころか、浩介自身が母親の静恵を支えてゆかなければならない。静恵はまだ37歳の若さだったが、浩介が一人前になるまでは再婚はしないつもりでいた。学校ではツッパリのレッテルを貼られている浩介だが、静恵に対してはいつも優しい浩介だった。そんな事情があって、浩介は弱いものいじめが大嫌いだ。強いものには立ち向かってゆく。だから、正義感の強い担任の横川大造のことを、浩介は密かに慕っていた。横川に父親の姿をだぶらせていたのかも知れない。
 「おふくろ、材料持ってきたよ。」
 「ずいぶん遅かったね。お前さっき踏切のところでかわいい女の子と話をしてたろ。ガールフレンドかい?」
 「やめてくれよ。ツッパリの俺にあんなかわいいガールフレンドができるわけねえだろうが。だいたい、あいつは変わってんだよ。俺のことを大好きだなんて言いやがって。馬鹿にすんのもいいかげんにしてもらいてえよな。」
 「お前もムキになるとこを見ると、まんざらじゃあないんじゃないのかい?」
 「おふくろも、くだらねえこと言ってねえで、早く料理の準備をしろよ。お客さんが来ちまうぞ。」
 「わかったよ。」
 《まったくあいつのおかげでおふくろまで変なこと言いやがる。いいやつだけど、俺なんかにはもったいねえんだ。あいつと俺じゃあ住む世界が違うんだよな。俺はツッパリの浩介だからな。ツッパリにはツッパリの女が似合うぜ。》本当は浩介も愛美のことが気に入っていたのだ。しかし、今さらツッパリの看板を下ろすわけにもいかなかった。ツッパリの看板を背負っている限りは、愛美のようなまともな女の子をガールフレンドにすることは許されないと、浩介は固く信じていた。浩介にできることは、愛美を谷村たちの陰湿ないじめから守ってやることだけだったのだ。いじらしいではないか。

涙の体育祭
 
 新学期が始まって1ヶ月が過ぎた。美香に対するいやがらせも愛美に対するいじめも、すっかり影を潜めていた。しかし、相変わらず各学年には数名の不登校の生徒がいたし、学校のどこかではいじめに苦しむ生徒の姿があった。
 5月と言えば、七里ヶ浜中学校は体育祭の時期である。二学期に盛大に文化祭と合唱コンクールを実施する関係で、数年前から体育祭は一学期の5月に行われるようになった。七里ヶ浜中学校の体育祭の名物はむかで競走だった。これは「仮装むかで」と呼ばれていて、各クラス男女1つずつのチームが、思い思いの格好でむかでに挑むのである。昨年はバニーガール姿の3年生男子チームが登場して話題を呼んでいた。今年はどんなチームが登場するのか。
 体育祭の選手決めをするにあたって、横川はクラスのみんなに体育祭に臨む決意を確認しておきたかった。
 「今年もいよいよ体育祭の季節だぞ。3年生と言えば最後の体育祭だ。みんな全力投球で頑張ってもらいたい。ただ、クラスには運動の得意なものもいればそうでないものもいる。先生は勝負にはこだわりたくない。とにかく精一杯力を合わせて頑張ることができれば、それだけで満足だと思っている。それじゃあ、さっそく来週から練習が始まる仮装むかでの先頭だけでも決めておこう。後の順番は練習しながら調節すればいい。仮装のアイデアは来週募集するから、みんなそれぞれに考えておくように。」
 「先生、俺が先頭じゃ駄目か?」
 横川はびっくりした。いきなり発言をしたのは、ツッパリの太田原浩介だったからだ。いつもは話し合いなどに参加する気配もない。それがむかでの先頭に立候補するなんて。
 「いやあ、浩介なら文句ないだろう。浩介に引っ張られて動かないむかではないと思う。みんなどうだ、太田原に男子チームの先頭を任せていいか?」
 太田原浩介は身長が180センチ近い巨漢である。それにすごみのある声で「駄目か?」と言われて、反対できるものなどいるわけがなかった。愛美は浩介の積極さが嬉しかった。《やっぱり私の思ったとおりの人だったんだわ》浩介自身も、踏切で愛美と話してから徐々に素直になって行く自分の心が不思議でならなかった。
《むかでの先頭に立候補するなんて、俺のツッパリ稼業もそろそろ焼きがまわっちまったかな》
浩介は、何となく前向きに生きてみたい気がしてきたのだ。それもまた愛美の影響だった。
 「それじゃあ、女子の方はどうだろう。」
 「先生、私がやります。」
 立候補したのはもちろん坂口愛美だった。愛美は身長も165センチほどあったし、女子としては立派な体格だ。気の強い性格もむかでの先頭にもってこいだった。
 「他に立候補は?」
 「先生、私は坂口さんで賛成です。坂口さんは馬力もあって声も大きいからです。」
 援護射撃をしたのは学級委員の橋爪沙織だった。浩介にあれだけ脅されては、谷村美幸たちもあからさまに不快な表情を見せるわけにはいかない。愛美の立候補は結局賛成多数で認められた。《私と浩介君が二人してむかでの先頭を務めるなんて、これも何かの縁だわ》愛美は浮き浮きしている。京都に旅してからの愛美は出会いの不思議とか、人と人との縁というものを強く意識するようになっていた。旅は人を成長させてくれる。「かわいい子には旅をさせろ」という諺は伊達ではなかった。
 
 翌週の月曜日の朝は、浩介の髪の毛の話題でもちきりだった。浩介の茶髪が真っ黒に染められているのである。しかも、スポーツ刈りのさっぱりした髪型になっていた。浩介がふと黒板を見上げると、そこには浩介と愛美の相合い傘が描いてある。浩介はすかさず黒板の所へ歩いていって、何もなかったようにそのイタズラ描きを消した。
 「おいみんな、よく聞け。二度とこんなふざけたまねしやがったら俺は絶対に許さねえ。坂口にも迷惑がかかる。それから、今日から俺はツッパリをやめた。以上。」
 みんなは何が起こったのか分からなかった。浩介がツッパリをやめると宣言したのだから、誰もが唖然とするのも無理はなかった。愛美は一人でくすくす笑っていた。浩介のぶっきらぼうな行動が愉快でならなかったのだ。
 「ねえ、浩介君、どうしてツッパリやめちゃったの?」
 「お前と話してたら、俺の頭までどうかしちまったらしい。」
 「私のせいなんだ・・・・。」
 「別にお前が悪いとは言ってないぜ。お前が頑張ってるのを見てたら、ぐだぐだしてるのがいやになってきた、ただそれだけのことさ。」
 「でもその髪型似合うわよ。」
 「どうしてお前はそうやって俺をからかうんだよ。俺のことが怖くねえのか?」
 「ツッパリやめたんでしょう。だったら、ちっとも怖くないわ。」
 「俺、お前に感謝してるよ。」
 「えっ?」
 「感謝してるって言ったんだよ。同じことを何度も言わせるな。」
 「感謝してるのは私の方。浩介君がいなかったら、あのまま踏切に飛び込んでいたかも。」
 「おい、それ本当なのか?」
 「うそよ。」
 「お前ってやつは、どこまで俺をおちょくったら気が済むんだよ。」
 「おちょくってなんかいない。浩介君のおかげで私はいやな思いをしなくて済むようになったんだもの。私、浩介君がむかでの先頭に立候補したときも、とっても嬉しかった。浩介君って男らしくて、私大好きよ。」
 「おいおい、やめてくれよ。お前がそんなこと言うから、相合い傘なんか描かれるんだ。」
 「別に描かれたっていいじゃない。」
 愛美はやっぱり母親似だった。秀雄のプロポーズに、「来年まで待たなければいけませんか?」と答えた裕子。愛美の大胆さと積極性は母親譲りに違いなかった。
 
 今日の放課後からいよいよむかで練習の始まりである。七里ヶ浜中学校では体育祭のある5月下旬までの2週間は、放課後の15分間をむかでの練習にあてていた。体育祭の看板競技だから力の入れようもひとしおだ。横川は、クラスが自分たちで動き出したのを感じて、しばらくは生徒に任せてみることにした。
 「みんな、ちょっと集まってくれるかい。」
 グランドに出たみんなに集合の合図をかけたのは学級委員の門田淳一だった。
 「みんな集まったかなあ。それじゃあ、これからむかで主任の太田原君から作戦の指示があるんで、聞いてください。」
 「女は坂口を中心にしてとにかく足を合わせる練習とかけ声の練習をすればいい。問題は俺たち男だ。うちのクラスには運動音痴の大島亮介がいる。亮介、ちょっと来いよ。この亮介は去年もその前もむかでの足を引っ張った。だけど、それはクラスの作戦がなってなかったからだ。今年はスピードを落とす。みんなが亮介のスピードで走るんだ。その代わり、絶対に途中で止まっちゃ駄目だ。最後まで同じペースで走り続ける。勝つとか負けるとか、そんなことは問題じゃねえ。大事なのは、亮介と一緒にゴールすることだから、そこのところ間違えるなよ。」
 浩介はすっかり変わっていた。もともと正義感の強かった浩介である。周りの友達が信用できなくなって、気がついてみたらツッパリを演じるようになっていた。それが、愛美の出現でもう一度前向きに歩く勇気がわいてきたのだ。それに、仲間を信用する気持ちも。いったん方向転換したら、浩介の指導力には目を見張るものがあった。横川は相変わらず愛美の個人ノートを通じて浩介の活躍ぶりを知らされていた。《子供の成長というのは、本当に意外なところから起こるものだ》横川は、子供たちのたくましさにただただ感心するばかりだった。そして心の底から浩介に声援を送っていた。
 浩介は何度失敗しても、決して大島亮介を非難することを許さなかった。
 「いいか、亮介がこけるのは、俺たちが決まったペースで走れないからだ。亮介に文句を言ったら承知しねえぞ。」
 ツッパリをやめたとは言っても、浩介に言われると誰も何も言えなくなる。浩介にはそれだけの迫力があった。ねばり強い浩介のリードのおかげで、2週間の練習期間が終わる頃には、横川のクラスのむかではマイペースでグランドを何周もできるまでに上達していた。
 「あんなスピードでいくら走ったって、意味ねえよ。まったくあいつらは何を考えてんだ。」
 他クラスの生徒たちから聞こえてくる悪口も、浩介の耳には少しも入らなかった。《とにかく亮介だけには惨めな思いはさせねえ》浩介は必死だった。久しぶりの全力投球だった。
 放課後の練習が終わったある日、愛美は浩介に話しかけた。
 「ねえ、浩介君、男子の方のむかでは順調にいってる?」
 「まあな。お前たちの方はけっこう速そうじゃないか。かけ声も決まってるし、なかなかかっこいいぜ。」
 「何たって私が先頭だからね。」
 「お前ってやつは、本当に遠慮ってものがねえな。まあ、そこがお前のいいところだけどよ。」
 「大島君は頑張ってる?」
 「ああ、精一杯やってるさ。あいつのせいで、いつもクラスはむかででびりっけつだった。みんなが亮介にプレッシャーをかけるから、余計に緊張して足がもつれちまうんだ。俺はあいつのと同じクラスになったのは今年が初めてなんだけど、今年こそは亮介に惨めな思いはさせねえ。亮介を見てると、ガキの頃にみんなにからかわれてしぼんでた俺自身を見てるような気がすんだよ。だから助けてやりてえんだ。」
 「浩介君、本当に変わった。」
 「何がだよ。」
 「ツッパリやめてから、素直になったもん。」
 「まあ、ちょっとは変わったかも知れねえ。」
 「ちょっとじゃないよ。うんと変わった。私、ますます浩介君のファンになっちゃった。」
 「ばかやろう。俺はジャニーズJr.じゃねえんだぞ。ファンなんかいてたまるか。」
 「いいじゃないの。浩介君って照れ屋だね。褒められるとすぐに『ばかやろう』って言う。そこんところはまだ素直じゃないな。」
 「まったくお前にかかったらかなわねえ。ところで谷村たちとはうまくやってんのか?」
 「うまくやってるとは言えないかも知れないけど、むかでの練習の時は休戦状態ね。浩介君があれだけ脅したんだもの。私に何か文句言ってこれるわけないじゃないの。」
 「脅したなんて人聞きが悪いぜ。俺は文句を言ってやっただけだ。」
 愛美はくすくす笑うだけだった。
 体育祭の当日はまさに五月晴れだった。むかで競走は全ての競技の最後に行われる。メインイベントだったからだ。橋爪沙織がスターターを務めて愛美がアンカーを引き受けた女子の400メートルリレーでA組は優勝していたこともあって、仮装むかでの前の時点で、クラスは学年総合2位につけていた。むかでの結果次第では総合優勝も夢ではない。A組の女子はウェイトレスの格好をすることになった。男子の方は浩介のたっての希望で祭りの法被姿だ。仮装むかでは女子から先に行われる。たどたどしい1年生のむかでと比べると、3年生のむかでには観衆を魅了する迫力があった。1年C組の美香のクラスは女子がプリマドンナの衣装を身につけて頑張って準優勝だった。みんな抱き合って喜んでいる。『しかと運動』のあったクラスだなんてとても信じられない。これが行事の良さなのだ。行事で協力し合うことで、それまでかみ合わなかった歯車が一挙にかみ合うようになったりする。それは担任と生徒の関係も同じだった。夢中で応援する担任が、生徒たちといつの間にか一丸となってしまうことはよくあった。愛美は美香の嬉しそうな表情を見て安心した。《良かったね美香。お姉ちゃんも頑張るよ。》
 いよいよ3年生の女子のスタートである。ピストルの音と共に勢いよくスタートした愛美のクラスは、そのまま一気にゴールまで突進してしまった。圧勝である。横川は飛び上がって喜んでいる。愛美たちもみんながひとつになれた気がした。優勝して応援席に戻った愛美の所に、谷村美幸がやってきた。
 「坂口さん、私、今までごめんね。あなたのこと誤解してわ。あなたはすごい人よ。私は、あなたのすごさにやきもちを焼いていたんだと思う。すごく恥ずかしいわ。」
 「私もいろんなことはっきり言い過ぎるからいけないの。もうお互いに過去は忘れましょう。それより、男子の応援をしなくちゃ。みんなで大声でチアリーダーやりましょうよ。浩介君は照れちゃうかも知れないけどね。」
 「うちのクラスの女子はすごい応援だね。チアリーダーの真似事なんかやっちゃって、かっこいいなあ。」
 学級委員の門田淳一がしきりに感心している。浩介は恥ずかしかった。
 「まったくあいつら何考えてんだ。どうせ坂口がけしかけたに違いねえ。まあいいか。好きなようにさせとくぜ。さあ、みんな気合い入れろよな。マイペースを崩すんじゃねえぞ。」
 男子がスタートした。他クラスは一気に飛ばしてゆく。しかし、横川のクラスだけはマイペースでびりっけつを走っている。差はどんどん広がっていった。《みんな焦るなよ。ころびさえしなければ、必ず何とかなるからな》浩介は必死に心の中で叫んでいた。すると、最後のカーブを曲がったところで先頭のクラスがこけてしまって、それにつられるように他の3つのクラスも次々にころんでしまった。浩介たちはつぶれた他クラスのむかでを横目に、マイペースで走りすぎてゆく。まさかの展開だった。優勝だ。浩介は涙が出るほど嬉しかった。そして実際に涙がぼろぼろ出てきた。不思議と、誰に見られても恥ずかしいとは思わなかった。
 「おいみんな、亮介を胴上げするぞ!」
 浩介のかけ声でみんなは一斉に大島亮介を空に舞い上げてしまった。亮介はこれ以上嬉しいことはなかった。過去の2年間は自分のせいでクラスが落ち込むことになった。それが、今年は優勝して胴上げまでされているのだ。ひととおり大騒ぎが済むと、亮介は浩介の所に駆け寄った。
 「太田原君、本当にどうもありがとう。」
 「お礼なんか言うんじゃねえ。みんなで頑張ったからできたことじゃねえか。お前だってやればできるんだよ。でも良かったな、最後の体育祭で笑うことができてよ。」
 「うん。みんな浩介君のおかげだよ。」
 大島亮介の胴上げを見ていた横川は涙が止まらなかった。こんな感動的な場面を今までに見たことがあったろうか。生徒たちが浩介を中心に自分たちで手にした栄冠だった。横川が何を指示したわけではなかったが、そういうクラスの雰囲気を作ったのは、横川自身なのだ。大造はクラスの子供たちを誇りに思った。
 3年生の学年総合優勝はもちろんA組の横川級だった。優勝カップをみんなで触って大喜びする生徒たち。しかし、横川が嬉しかったのは総合優勝という栄誉ではなく、クラスが一つにまとまった事実だった。ついこの間までは、坂口愛美に対するいじめで、暗い雰囲気を作り出していたA組の姿はもうそこにはない。元気いっぱいの明るいクラスがあるだけだった。
 「ねえみんな、横川先生も胴上げしちゃおうよ。浩介君、大丈夫だよね。」
 「俺たちがしっかり支えるから平気だよ。」
 生徒たちはあっという間に横川を取り囲んでしまった。
 「先生、総合優勝おめでとう!」
 愛美のかけ声と共に横川の体が宙に舞った。止まった涙がまた泉のようにわき出してきた。

夕焼けの少女
 
 体育祭の終わった夜、裕子と秀雄はコーヒーを飲みながらくつろいでいた。
 「ねえ、あなた、愛美の噂知ってる?」
 「噂って、何の噂だ?」
 「愛美がね、同じクラスの太田原浩介という男の子にほの字なんですって。」
 「あいつもそういう年頃だからなあ。」
 「それがね、その男の子はついこの間までは茶髪のツッパリ少年だったらしいの。」
 「『だった』っていうことは、今は違うのか?」 「噂だと、愛美の影響で突然ツッパリをやめてしまったんですって。」
 「それで、お前は心配だと言うんだな。」
 「だって、どんな子が分からないじゃない。」
 「お前は自分の娘が信じられないのか?愛美は軽率に男の子を選ぶようなタイプじゃない。それがほれたとなれば、相手の男の子にそれだけの魅力があったということじゃないか。」
 「そうね、愛美は私たちの娘ですものね。」
 「恋に積極的なのはお前に似たんだよ。」
 「私ってそんなに積極的だった?」
 「お前、詩仙堂で俺に何て言ったか覚えてないのか?」
 「あなたが私にプロポーズしたときのこと?」 「そうだよ。」
 「さあ、何て言ったかしら。」
 裕子は真面目な顔をして必死で思い出そうとしている。その様子がおかしくて、秀雄は思わず吹き出してしまった。
 「お前もとぼけたやつだなあ。『来年まで待てない』って言ったじゃないか。」
 「あら、私そんなこと言ったかしら。」
 「俺は飛び上がるほど嬉しかったけど、お前があんまり積極的なんでびっくりした。」
 「私って思いこんだら一途なのよね。」
 「だから愛美はお前と一緒だよ。」
 「それじゃあ心配しなくていいのね。」
 「ああ、心配いらないさ。」
 翌日は体育祭の代休で学校は休みだった。天気もいいし、今日はいい夕焼けが見られそうだ。愛美は朝から浮き浮きしていた。
 「お姉ちゃん、何嬉しそうにしているの?」
 「だって、こんなにいいお天気なんだもの。夕方にはきれいな夕陽が見られそうじゃない。」
 「朝から夕陽を楽しみにする人なんて、この世の中にお姉ちゃんぐらいしかいないんじゃないの。」
 「美香は今朝の朝日は見たの?」
 「疲れてて寝坊しちゃった。」
 「気合い入ってないなあ。わざわざ朝日の見えるお部屋をもらっておいて、寝坊するなんて情けないぞ。」
 「だってきのうは全精力を使い果たしてしまったんだもん。京都に旅したときより、もっと疲れたわ。」
 「京都の旅か・・・・。懐かしいわね。あの頃の美香は元気なかったんだったね。」
 「今は元気いっぱいよ。お姉ちゃんのクラスも総合優勝できて良かったね。みんなすごく嬉しそうだった。横川先生、泣いてたよ。」
 「そうね。横川先生は感激屋さんだから。」
 「男の先生が泣くなんて変だよね。」
 「そうかなあ。男泣きってやつなんじゃないの。私は自分の感情を隠せない人の方が好きだなあ。」
 「好きって言えば、お姉ちゃんと太田原君の噂は本当?」
 「噂って、どんな?」
 「付き合ってるって。」
 「そんな噂が流れてるんだ。」
 「本当なの?」
 「太田原君はね、女の子とでれでれ付き合ったりできない人なの。照れ屋だし。でも、私のことを一生懸命守ってくれたわ。」
 「だからほれちゃった?」
 「そうかな。ほれちゃったのかな。だってね、すごく男らしいんだもの。それに優しいし。私ね、正義感の強い人大好きなの。」
 「でも気の強いお姉ちゃんと付き合うんじゃ相手の男の子も大変だよね。」
 「そんなことないわよ。私だって優しいし。」
 「そりゃあ、お姉ちゃんは優しいけど、相手が男の子でもずばずばものを言うでしょう?」 「そうなのよね。お母さんに似ちゃったんだわ、そういうとこ。」
 「お母さんがどうかしたの?」
 「おっと、これは父上と私の秘密であった。」
 「ねえ、教えてよう。」
 「だめだめ、お母さんに直接聞いて。」
 「お姉ちゃんの意地悪。」
 「お母さんにね、詩仙堂でのお父さんとの会話は何だったのかって聞いてみるといいわ。」
 「そうすれば教えてくれるの?」
 「さあ、素直に白状するかしら。」
 「そんなにすごい会話だったの?」
 「そうよ。とってもロマンチックな会話。」
 「へ〜え、お母さん何て言ったんだろう。」
 「聞いたらびっくりするわよ。」
 愛美はやけにもったいぶっている。しかし、そんな両親のロマンスの結果としてこの世に生を受けたことが嬉しかった。
 「ねえ、美香、今日の夕方太田原君を誘って七里ヶ浜まで散歩に出かけない?」
 「私がデートの邪魔をしちゃっていいの?」
 「デートじゃないよ。それに、私と二人だけだったら、太田原君は絶対に来てくれないもの。また『ばかやろう』って言われちゃう。」
 「いいわよ。お姉ちゃんと太田原君の愛のキューピット役なら喜んで務めますとも。」
 「生意気言ってる。」
 
 愛美はさっそく浩介に電話をした。
 「もしもし、太田原君のお宅ですか?あの、私同じクラスの坂口と申します。お母さんですか。初めまして。浩介君いますか?」
 受話器の向こうからは若い母親の優しそうな声が聞こえてきた。
 「ちょっと待ってくださいね。」
 静恵は寝ぼけ眼の浩介を呼んだ。
 「浩介、電話だよ。かわいい女の子の声。お前のガールフレンドじゃないのかい。坂口さんとか何とか言ってたよ。」
 「坂口が俺に何の用なんだろうなあ。」
 「いいから早くでなさいよ。」
 「もしもし、俺に何の用だ?」
 「あのね、今日の夕方七里ヶ浜を一緒に散歩しないかなと思って。」
 「散歩か?お前と俺が?」
 「心配しないで。妹の美香も一緒だから。」
 「お前、変な噂が流れてるの知らねえのか?」 「変な噂って?」
 「お前と俺が付き合ってるとか何とか。」
 「ああ、そのこと。それなら知ってるけど、別に他人が何て言っても関係ないわ。」
 「俺みたいな馬鹿と噂になって平気なのか?」 「浩介君となら光栄よ。」
 「お前って、本当に変わってるな。」
 「そうかしら。私はただきれいな夕陽を浩介君と一緒に見たいだけ。どこか変かしら。」
 「それは要するにデートってことじゃねえか。俺なんかとデーとして何が楽しいんだ?」
 「楽しいから楽しいの。理由なんかないわ。」
 「まったく面倒な女だなあ。」
 「いやなの?」
 「いやとは言ってねえ。ただ、みんなに見られたらちょっと恥ずかしいかなと思ってよ。」
 「浩介君が恥ずかしいだなんて。」
 「俺だってな、元ツッパリのプライドっちゅううもんがあんだよ。お前は何にもわかってねえんだからな。」
 「プライドなんか捨てちゃいなさいよ。それじゃあ、5時に踏切のところで待ってるね。」
 「おい、ちょっと待て、まだ行くとは・・・・。」 愛美は勝手に時間を決めて受話器を置いてしまった。《まったく強引なやつだよな》そう思いながらも、浩介は胸のときめきを押さえることはできなかった。愛美と夕陽が見れるなんてこんなに嬉しいことはない。今までずっとツッパリ街道を歩いてきた浩介は、そういう幸せを求めたこともなかったし、これから先そういう幸せがやって来るとも思っていなかったのだ。
 「おふくろ、俺夕方ちょっと出かけてくるからな。」
 「あら、デートが決まったのね。」
 「デートなんかじゃねえさ。あいつが勝手に決めちまったんだ。だけどずっと踏切の所に待たしとくわけにもいかねえじゃねえか。」
 「そうかい、そうかい。何でもいいから気をつけて行って来なよ。」
 「おふくろ、俺、何着てったらいいかな。」
 「お前が着るものに迷うなんて、珍しいこともあるもんだね。こりゃあ、よっぽど重傷だわ。いいねえ、若いってことは。」
 「ジーパンでいいかなあ。」
 「何でもいいじゃないか。どうせ夕方じゃあはっきり見えないよ。」
 「それもそうか。俺も焼きが回っちまった。」 「あんたもかわいいとこあんだね。」
 浩介は時間通りに踏切の所に着いた。愛美と美香はもうすでに来て浩介を待っていた。
 「時間ぴったりね。」
 「こんにちは。私、妹の美香です。」
 「俺、太田原浩介。よろしくな。」
 「それじゃあ、海岸に下りましょうか。」
 浩介は愛美たちから少し離れてのこのこついてくる。
 「浩介君、何やってんのよ。早く、早く。」
 「わかったからがみがみ言わねえでくれ。」
 
 三人は並んで浜辺に腰を下ろした。今日の夕陽はまた格別に美しかった。
 「うわあ、きれいな夕焼け。朝焼けもいいけど、お姉ちゃんが言うように、夕焼けもすてきだわ。」
 「浩介君、私ね、日本に帰ってくる前はいつもオンタリオ湖に行って、こうやって岸辺に座って夕陽を眺めていたの。真っ赤な夕陽を見ていると、何だかエネルギーがわいてくるような気がしてね。浩介君はどう?」
 「俺はゆっくり夕焼けなんか見たことなかった。ずっとここに住んでたのに、こんなにきれいな夕焼けがあるなんて知らなかったよ。」
 「何かこう、力がわいてくるような気がしない?」
 「そうだなあ、ちょっと勇気みてえのがわいてくる感じがするかな。」
 「やっぱり浩介君を連れてきて良かった。」
 「お姉ちゃん、私、やっぱりお邪魔虫じゃないかしら。先に帰っててもいいんだけど。」
 「そんな寂しいこと言わないで。みんなで見るから余計に美しいんじゃないの。」
 「美香ちゃんだっけ。一緒にいてくれよ。こいつと二人になると、いつもやられちまうんだ。」 「お姉ちゃんが何かするんですか?」
 「そうじゃなくて、何だかこいつのペースに巻き込まれちまうっていうか、俺が俺でなくなっちまうんだよ。だから一緒にいてくれ。」
 「まあ、失礼ね。私がいつ浩介君をいじめたって言うの?」
 「いじめたなんて言ってねえよ。ただ、その・・・・ああ、もう何でもいいぜ。お前にはとにかくかなわねえんだ。」
 「私ってそんなに強いかしら。」
 「強いなんてもんじゃねえ。」
 「二人の会話っておもしろい。だって、浩介さんお姉ちゃんにたじたじなんだもん。」
 「そうだろう。俺の気持ちがわかってくれて嬉しいよ。」
 「太田原先輩って、ぜんぜん怖くないんですね。お姉ちゃんが言ってたとおりだわ。」
 「俺のこと何か言ったのか?」
 「優しい人だって言ったのよ。」
 「俺は優しくなんか・・・・。」
 
 浜辺に並んで座った三人の顔を夕陽が真っ赤に照らしていた。美しい夕焼けの中に若い命が確実に脈打っている。愛美は大好きな夕陽をこうして三人で見られることが幸せだった。