『邦ちゃん奮戦記』
著者 石山 等
さわやかな娘たち
「おはようございます!」
朝のグランドにかわいい女の子たちの大きな声が響く。ここは横浜市立高島台中学校。高台にある中学校の校舎からは、ちょうど真南の方角に有名なベイブリッジを臨むことができる。高島台団地を中心にした学区は、とても落ち着いていて、団地を抱えていながら地域の結束は固かった。コンビニなどで夜遅くまでたむろしている若者たちを発見すると、見回り当番のグループが気軽に声をかけられる雰囲気がある。『切れる十七歳』と言う言葉が流行になって、若い人たちに注意することがはばかられる現代にあって、これは貴重な雰囲気だ。
「もう遅いから、早く帰りなさいね。」
高島台中学校の朝は、ソフトボール部の元気のいい挨拶で始まると言っていい。といっても、たいていの運動部はソフト部も含めて、月曜日と土曜日の朝練はやめていたから、正確に言えば、火曜日から金曜日までの朝は、ということになる。顧問の村井邦彦は34歳の独身熱血教師で、年齢が比較的若い割には、部活の礼儀指導は徹底していた。
「いいか、グランドに姿を現す大人たちは、みんな先生だと思うんだぞ。誰かがその姿に気付いたら、『気をつけ!』のかけ声をかけて、一斉に練習の手を止めてから、大きな声で挨拶をするんだ。さわやかな挨拶をすれば、された方も気持ちよく一日のスタートが切れるし、みんなもかわいがってもらえるようになる。それに、大きな声で挨拶をすることは運動選手の基本なんだ。それが一人前にできるようになったら、きっと選手としても一人前になれる。」
ことあるごとに、村井は熱心に挨拶の大切さを部員たちに言って聞かせるのだった。
村井が高島台中に転勤してきた5年前は、ソフト部も活動があまり活発ではなく、グランドに大きな声が響くことはあまりなかった。村井は英語の教師で、若い頃はテニスをやっていたから、ソフトボールの指導はゼロからのスタートだったが、高島台中に転勤する頃には、優秀な指導者として県内に彼の名前は知れ渡っていた。そんな村井の高島台中での指導は、技術ではなくて礼儀作法から始まった。ソフトボール部がさわやかな挨拶で校内でも評判になり始めたのは、村井が転勤してきてから2年ほど過ぎた頃からだった。一つの指導が定着して伝統となるには、長い時間が必要なのだ。おかげで、挨拶がしっかりとできるようになった高島台中ソフト部の躍進は目覚ましいものがあった。現在では県内の強豪として、休みの度にあちこちから練習試合の誘いがある。東京や静岡など、県外への遠征もたまにある。しかし、村井は県大会を勝ち抜いて、関東大会まで駒を進めたことは今まで一度もない。娘が生まれたらソフトボールを握らせるという雰囲気のある、栃木や群馬のような所と違って、神奈川県は最近やっと実力を発揮するようになったばかりだったし、その発展著しい神奈川で、秋の県大会に優勝を飾るか、夏の県大会で決勝まで進まない限り、関東大会への出場権は得られないのだ。それは、村井にとっては近いようで遠い夢のような話だった。しかし、いつかは必ず関東に出てみたいというのが村井の願いであり、部員たちの夢でもあったのだ。
ソフトボール部の朝練を2階の校長室の窓から眺めていた校長の田中信太郎は、そばにいた教頭の久保島浩介に言った。
「やあ、村井君も頑張るねえ。若いっていうことは本当にすばらしい。しかも、村井君は若手であるにもかかわらず、部活の何たるかを実によく心得ている。心・技・体だよ久保島教頭。大切なのは技術の指導だけじゃない。人間としての成長がなければ、いい選手は育たないんだ。ああやって、大きな声で挨拶をされると実にいい気分じゃないか。ソフト部が夏の栄冠を手にするのも、そんなに遠い先のことではなさそうだな。」
「せっかく頑張っているんですから、何とか勝ち進ませてあげたいものですね。ところで田中校長、私は子供たちの日常の活動の様子を写真に撮って、階段の踊り場と校長室前の廊下の壁にギャラリーを作って飾ってみたいと思うんですが、いかがでしょうか。」
「君、それは名案かも知れないぞ。自分たちの活動が注目されていると思うだけでも、子供たちは勇気がわいてくるだろうし、私たち管理職にはそんな陰からの応援しかできないからね。フィルム代や現像代は私がPTA会長の柳田さんに掛け合って何とかするから、どんどんいい写真を撮ってくれたまえ。」
「私のように運動音痴の人間でも、そういうことならいくらでもお役に立てるでしょう。張り切ってやらさせていただきます。」
校長の田中信太郎は、現役時代はバレーボール部の顧問として名声を博した人だった。その上芸術関係にも関心が深く、学校経営の方針として『文武両道』をモットーとしていた。教頭の久保島浩介は文化畑出身の温厚な教師だった。管理職として威張る様子もなく、職員のために細々した仕事をせっせとこなしてくれるので、二人とも職員からの信頼が厚かった。
今日は午後から生憎の雨模様である。ソフト部部長の青島玲子は、放課後職員室の村井の所にやってきて、活動の予定を聞いた。
「先生、今日は雑巾がけにしますか、それとも高速道路下ですか。」
ソフト部は雨の日には筋トレもかねて、廊下の雑巾がけをするか、高速道路下にできた空き地に出かけていって、そこで軽い練習をするかどちらかにしていた。
「そうだなあ、今日は学年の会議もあるし、雑巾がけにしよう。会議が長引きそうだったら、玲子の判断で適当な時間に作業を切り上げてくれるか?」
「わかりました。最後のミーティングはどうしたらいいでしょう。」
「全てが終わったら、とりあえず会議室まで先生を呼びに来てくれ。最後ぐらいみんなの顔を見なくちゃ、寂しいからな。」
玲子は笑顔で頷いて職員室を出ていった。村井の指導が徹底しているので、会議などで村井が練習に顔を出せなくても、子供たちだけでさぼらずにメニューをこなしてくれる。代々の部長も立候補制で、しっかり者がそろっていたから、村井も安心して任せておくことができた。特に3年生の青島玲子は、お姉さんタイプの優しい部長で、後輩たちの信頼も絶大だった。
村井は、いつもこんなに穏やかなわけではない。どちらかと言えば短気な邦彦は、部員を怒鳴り飛ばして職員室に戻ってきてしまうことも度々あった。そんなときに活躍してくれるのが副顧問の山岡真澄である。彼女は29歳の独身の社会科の教師で、現在は村井と同じ2年生の担任をしていた。村井に怒鳴り飛ばされて途方に暮れている部員たちを、やさしく諭すのが真澄の役目だった。真澄は熱血教師の村井にほのかな恋心を抱いていたが、鈍感な村井はそんなことには少しも気付いていない。バレンタインデーのチョコレートのお返しも忘れてしまうくらいだ。
「あっ、今日はホワイトデーでしたっけ。山岡先生、申し訳ない。せっかくバレンタインチョコもらっていたのに、すっかりお返しのこと忘れていました。やあ、実に申し訳ない。今度、何かで埋め合わせをしますから。アハハ。」
「そんなこといいんですよ。それより、今度の夏の大会では玲子たちにいい思いをさせてあげてくださいね。」
真澄は笑顔で答えたものの、内心は《まったくこういうことには鈍い人なんだから。私が他の人のお嫁さんになったら、どうするの?》なんて勝手にぼやいていたものだった。
ここでソフト部のメンバーを紹介しておこう。
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部長 3年 青島玲子(捕手)
副部長 3年 横手 泉(遊撃手)
3年 高井洋子(投手)
3年 沢村美穂(一塁手)
次期部長 2年 安田かおり(二塁手)
次期副部長 2年 中井静香(中堅手)
2年 川田 瞳(左翼手)
2年 木村綾子(右翼手)
2年 立花麗華(三塁手)
2年 山岸妙子(外野手)
1年 西川千秋
1年 篠原こずえ
1年 内田美紀
1年 下田弥生
1年 水島幸子
1年 沢木理香
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一年生はまだまだ使い物にならなかったから、総勢16名のチームは、決して台所事情の楽な状況ではなかった。投手が一名だけというわけにもいかないので、2年生の数名は投手も兼任できる状態には訓練されていた。3年生が4人しかいないチームは、新人戦では苦労のしどうしだったが、厳しい冬の練習を過ぎる頃には、十分に県内のトップレベルの域に達していた。先日の春の大会では、横浜市で準優勝している。横浜市から県大会へは6チームが行けるから、このままの状態で夏を迎えれば、とにかく県大会までは楽々進出できるはずである。しかし、中学生の試合というのは、いつどこで何が起きるか分からない。特にソフトボールの試合は投手の出来不出来に大きく左右されるから、油断していると思わぬところで足をすくわれるかも知れなかった。
「とにかく練習は正直だ。他のチームの2倍は練習しよう。雨が降ろうが槍が降ろうが、どんな形でもいいから練習を続けるんだ。そういう努力が、最後にお前たちを助けてくれる。」
村井はミーティングで熱く語った。怒ったときには鬼のような形相になる村井だったが、部員たちは村井の指導を全面的に信頼していた。《先生についてゆけば、必ず勝たせてくれる》誰もがそう信じていた。
青島玲子たちの新チームがスタートして厳しい夏が終わった頃、村井は珍しく弱音を吐いたことがある。
「玲子たちのチームが勝つのは難しいかも知れないな。玲子と同じ学年の選手があと2人いれば何とかなったのに・・・・。」
市内の新人戦で2回戦負けをしてきた日のことだった。
「先生が弱気になっては困ります。私は、チームのみんなを信じています。先生は、どんなに運動音痴でも、努力をすれば必ず一人前の選手になれるって言ってたじゃないですか。」
「そうだな、俺があきらめたらいかんか。」
「あきらめるなんて、部長としてそんなこと絶対に許しません!」
村井はこのときの玲子の迫力を忘れない。鬼顧問に向かって、「あきらめたら許しません」と言い放ったのだ。《そうだ、玲子のためにも俺は全力を果たさなければ》弱気になりかけた村井の心を勇気づけたのは、玲子だったのだ。
あれからもう9ヶ月が過ぎようとしている。玲子の言ったとおり、チームは立派な強豪に成長していた。あとは普段の自分たちの努力を信じて試合に臨めばいいのだ。
鬼顧問の村井と、なだめ役の真澄と、しっかり者の玲子に支えられながら、地域でも評判のさわやか娘たちは、いよいよ3年生にとっては最後の夏の大会を迎えようとしていた。2年生たちは、とにかく3年生を関東大会まで連れてゆくんだと、全員が固く団結していた。大好きだった先輩たちのために、自分たちはどんな苦しい思いをしたっていい。とにかく、横浜市大会を無事に勝ち抜いて、横浜1位か2位で、県大会にいい場所を確保したかった。
悔し涙の夏の大会
校長室には何種類かのあじさいの鉢植えが置かれていた。6月に開成町のあじさい祭りに出かけた田中校長は、そこで気に入った数鉢のあじさいを購入してきたのだった。特に気に入っているのは、変わり種の柏葉あじさいだった。まるですずらんのような花の付き方が、田中には愛しく思えた。《あじさいの季節が終わればいよいよ夏の大会だな》田中は色とりどりのあじさいの花を感慨深げに眺めながら、一人心の中でつぶやいた。すると、思い立ったように立ち上がって職員室への扉を開けると、机に向かって一生懸命学級通信を書いている村井に声をかけた。
「村井先生、ちょっといいですか。」
「はい、何でしょうか。」
「ちょっと、校長室でお茶でも飲まんかね。」 「はい、喜んで。」
「ああ、山岡先生、コーヒーを二つ入れてくれますか。申し訳ないねえ。」
「ミルクと砂糖はどうしますか。」
「私はブラックでいい。村井先生、君は?」
「僕は両方ともたっぷり入れてください。」
「はいはい、それじゃあおいしいのを入れますから、お二人とも校長室でお待ちください。」
真澄はレストランのウェイトレスにでもなったような気分だったが、決して悪い気はしなかった。大好きな村井のためなら張り切ってしまう。かわいい女心である。もちろん、田中校長は真澄のそんな気持ちなど知るよしもない。
「村井先生、ソフト部の調子はどうかね。」
「バッテリーもなかなかいいようですし、後は緊張せずに実力を出し切ってくれることを祈るだけです。3年生は度胸があるからいいんですが、心配なのはすぐに緊張してしまう2年生なんです。場数が足りませんからね。」
「しかし、勝負は度外視して、いい娘たちに育ったじゃありませんか。中学校の部活動はそれが一番大事なんだ。」
「だからこそ、勝たせてやりたいんです。」
そこへ、いい匂いをさせながら真澄が入ってきた。
「はい、お待ちどおさま。料金は来月のお給料に上乗せして置いてくださいね、校長先生。」 「いやあ、こりゃ参った。」
「うわあ、きれいなあじさい。校長先生が持ってこられたんですか。」
「開成町のあじさい祭りって知ってるかね。」 「田圃の中にあじさいが咲き乱れているところですね。」
「そうなんだ。先日、そこへ行って買ってきたんだよ。私は花が大好きでね。」
「それじゃあ、私は失礼します。お二人ともどうぞごゆっくり。」
「山岡先生、どうもすみません。」
村井はコーヒーに込められた、真澄の愛情を感じ取ることができるだろうか。
「村井先生は、まだ関東大会へは行ったことがないんでしたね。」
「そうなんです。僕は結局ソフトボールではど素人なんで、ここまで来るのが精一杯でした。とにかく、投手を育てるのが難しいんです。」
「ご自分でも投げるのかな。」
「はい。顧問を始めたときから、ずっと校舎の壁を相手にして研究してきました。」
「それは熱心だ。しかし、こんなに短期間に県の強豪にまでしてしまったのだから、村井先生も自信を持たなくては。」
「どうもありがとうございます。とにかく、全力を尽くして頑張ります。」
「私も、村井先生を見ていると、自分の若い頃を思い出しますよ。」
「先生は確かバレーボールでしたよね。」
「そうです。バレー気違いでしたよ。朝から晩までバレーボールをやっていた。関東大会に出場できたときは、天下を取ったような気持ちだった。村井先生にもぜひ味わってもらいたいですなあ。私も陰ながら応援していますから、頑張ってくださいよ。」
「先生、いつも温かいお言葉をかけていただきまして、本当に感謝しています。」
村井は愛情たっぷりのコーヒーを飲み干すと、校長のカップと自分のカップを持って、校長室を後にした。
「山岡先生、どうもごちそうさまでした。愛情がこもっていて、とてもおいしかったですよ。」 真澄はドキッとした。あの鈍感な村井が、まさかコーヒーの中の愛情に気付くなんて。
「な〜んちゃってね。とにかく、おいしかったです。さあ、学級通信の続きを頑張るぞ。」
《何が「な〜んちゃってね」よ。まったく鈍感なんだから》真澄はちょっとふくれっ面をしている。しかし、それにも村井は気付かない。
期末テストも終わり、いよいよ夏の大会が始まった。明日は予選リーグが行われることになっていた。リーグをトップで抜け出せば、決勝トーナメントの第2シードがもらえる。試合に先立って村井はミーティングを開いた。
「いよいよ、始まるな。まだ何かやり残したことがある者はいるか?」
「先生、私たちはやれるだけのことは全部やって来ましたから、もう思い残すことなんかありません。ねえ、みんな、そうだよね。」
玲子の言葉に全員が大きく頷く。
「そうか、それならいい。そういう気持ちがあれば、きっと神様が見方をしてくれるだろう。明日からは、一試合ごとに全神経を集中させるんだ。油断は禁物だぞ。そして、ピンチになったら、お互いに声を掛け合って、今までの苦しい練習を思い出せ。俺の、鬼みたいな顔を思い出してくれ。」
「先生、そんなことしたら、余計に緊張しちゃいます。」
「それじゃあ、俺の天使のような笑顔を思い出してくれ。」
「天使のような笑顔ですか?みんな、今まで村井先生のそんな顔見たことあったっけ?」
玲子の言葉に真澄は思わず吹き出しそうになってしまった。それもそうだろう。怒鳴り散らすばかりか、スコアラー用の机をひっくり返したり、バットを投げ飛ばしたり、ボールケースをひっくり返したりしたのは誰だったか。そんな村井に天使の笑顔はないだろう。しかし、そんな冗談を飛ばしながらも、玲子たちは村井の自分たちに対する優しい愛情を十分に理解していた。《私たちのために、自分の生活を省みずに精一杯頑張ってくれている》玲子は村井に対する感謝の気持ちでいっぱいだった。
「よし、今晩はたっぷりと眠ってくれ。俺は、みんなのためにレモンの蜂蜜漬けを作っておくからな。」
「先生、ありがとうございます。」
ミーティングが終わった後で、村井は真澄と一緒に、買い物に出かけた。レモンと蜂蜜を買うのである。
「先生、私が作ってきますから。」
「いやあ、山岡先生の気持ちは嬉しいんですけど、これは僕のあの子たちに対するせめてもの感謝の気持ちなんです。」
「感謝の気持ち?」
「そうです。僕がここまで頑張って来れたのは、あの子たちのお陰ですから。」
村井は去年の玲子の言葉を思い出していた。 「わかりました。それじゃあ、私の方は飲み物を用意しておきますね。」
「いつもすみません。」
「ずいぶん他人行儀なのね。」
「だって、僕の恋人でもないのに、いつも貴重な時間を僕と過ごさせてしまって。」
《あなたの恋人になってもいいからこうしていつも一緒にいるんじゃないの》真澄は少し寂しい気持ちがしたが、今はそんなことを考えている場合ではない。
「これでOKですね。」
「それじゃあ、村井先生のお手並み拝見です。明日を楽しみにしてますから。」
「それじゃあ、また明日。」
村井のレモンスライスの蜂蜜漬けが効果を発揮したのか、高島台中は見事予選リーグをトップで通過し、決勝トーナメントの第2シードを獲得した。決勝トーナメントは次の日曜日から始まる。
「みんな、よく頑張ったな。これで第2シードをもらえたから、順調に行けば必ず決勝まで行けるだろう。さあ、この一週間で最後の猛練習だ。」
「はい!」
部員たちの返事は喜びに満ちていた。村井の顔も珍しく天使になっている。そんな嬉しそうな村井を見るのが、真澄には幸せだった。
決勝トーナメントまでの一週間はあっという間だった。シードをもらっているので1回戦はなかったが、それが危険と言えば危険なのだ。強いチームが負けるとすれば、それは緊張する初戦だったからだ。相手は1回戦を勝ち上がって調子に乗っている。高島台中はよほど心してかからないと、足をすくわれるかも知れなかった。そして、それが現実に起こるとは・・・・。
初戦の相手は、立花中学校だった。春まではそれほどでもなかったが、夏の大会に向けて急成長してきたチームだ。バッテリーの力も安定している。特に剛速球を繰り出すピッチャーからヒットを続けて打つのは難しそうだった。
高島台中は裏の攻撃をとった。試合は裏の攻撃をとった方が、精神的に有利だ。しかし、高島台中の2年生たちは必要以上に緊張していた。《こんなところで負けられない》そう思えば思うほど、体が固くなってくるのだ。1回表の立花中の攻撃が始まる。最初のバッターはサード前にセイフティーバントを試みてきた。焦った2年の立花麗華はファーストに悪送球してしまう。次のバッターは当然送りバントだ。しかし、最初のエラーで緊張の極に達していた麗華はまたもボールをつかみ損なってしまった。ノーアウト1・2塁で迎えた3番バッターはレフト前のポテンヒットで、セカンドランナーがホームイン。さらにノーアウト2・3塁のピンチが続く。しかし、ここは投手の高井洋子が踏ん張って、何とか4番と5番を内野フライに打ちとる。ツーアウトになった。続く6番打者の当たりはライト前のゴロとなり、ライトの2年木村綾子が急いでファーストに送球するが、セーフ。2点目が入ってしまう。次のバッターはピッチャーゴロで打ちとったが、結局は予想通り緊張した2年生のミスから相手に2点を先行させてしまった。こうなると、剛速球投手を擁する立花中学は俄然勇気がわいてくる。6回の裏にキャプテン青島玲子のホームランで1点を返したものの、最終回の裏を迎えた時点で、高島台中はまだ1点負けていた。村井はあせった。高島台中は下位打線の7番から始まるのだ。
「お前たちは、このまま終わってしまってもいいのか!何のために苦しい練習を積んできたんだ。気合いを入れろ!」
村井は間違っていた。こんなときこそ、ベンチがどっしりと構えていてやらなければならない。「お前たちを信じているから、思いっきりやってこい。必ず勝てるから大丈夫だ。」村井の言うべきせりふはこれだった。ところが、村井は強い言葉をかけてしまったものだから、下位打線の2年生たちはますます緊張して、実力が出し切れない。7番・8番とショートゴロに終わり、いよいよツーアウトで9番だ。簡単にツーストライクをとられてしまった。続いて2球がボール。5球目はチェンジアップだ。バッターボックスの川田瞳がボールを見逃した瞬間、主審はストライクのコールをした。万事休す。主審の集合の合図でホームプレートを挟んで整列した部員たちをぼんやり眺めながら、村井は目の前で起こった負けが信じられずにいた。《本当に負けてしまったのか。これはもしかしたら夢なのではないか。》村井は繰り返し心の中でつぶやくが、目の前の光景は消えることはなかった。ベンチに戻って泣き叫ぶ部員たちを前に、村井は何を言っていいのかわからなかった。
「みんな、よく頑張ったわ。」
見るに見かねて、山岡真澄が声をかける。
「とにかく、みんな学校に戻ろう。」
村井にはそう言うのがやっとだった。
学校に戻った村井は、グランド横の体育館の上がり口に腰を下ろしたまま、じっと考え事をしていた。部員たちはグランドの隅でまだ泣き続けている。《本当に負けてしまったのだろうか。俺は何のためにあの子たちに厳しい練習を課してきたんだ。玲子たちの夏がこんなに短く終わってしまうなんて・・・・》村井の心には次々と後悔の思いがわき起こるだけで、すぐに行動することはできなかった。すると、そのうち玲子たち4人の3年生が村井の所にやってきた。村井は、玲子たちの顔を見た瞬間目から大粒の涙がぽろぽろこぼれてきた。
「先生、今まで本当にありがとうございました。私たち、先生と一緒にソフトボールができて本当に楽しかったです。」
「みんな、本当にごめん。先生がもっとしっかりしていれば、最終回で逆転させてあげられたかも知れないのに、全て先生が悪いんだ。」
「先生、そんなこと言わないでください。勝つとか負けるとか、そんなのはもういいんです。私たちは全力で闘いました。」
「・・・・」
「先生、みんなを集めてミーティングをしてあげてもらえませんか。そして、落ち込んでいる2年生を先生の言葉で励ましてあげてください。」
4人は声をそろえてもう一度言った。
「先生、お願いします。」
「わかったよ。先生がしっかりしなくちゃいけないんだよな。それが、最後に君たちにしてあげられることなんだよな。」
「村井先生、行きましょう。」
真澄も優しく促した。
「みんな、ミーティングするから、集合して。いつまでも泣いてないで、早く!」
玲子の元気な声が飛ぶ。明日からは、もう二度とグランドでは聞くことのできない声だった。 「きをつけ、礼!」
「お願いします!」
いつも通りのミーティングの始まりだった。村井は涙をこらえながら一生懸命話をした。
「みんな、ソフトボールのミスは一人のミスじゃないんだぞ。みんなのミスなんだ。だから、負けたのは自分のせいだなんて思っちゃいけない。最終回は先生も焦っていた。焦ったら実力が出せないのに、そのことを先生自身が忘れていた。だから、悪いのは先生なんだ。もう終わってしまったことはしかたがない。残された者にできることは、来年同じ間違いをしないことだよ。みんなでもう一度ゼロからやり直そう。3年生の4人は・・・・」
村井はそこまで言いかけて、もう涙をこらえきれなかった。
「ごめんな。先生は、みんなに最後の大会で思いっきり笑ってもらいたくて、普段鬼になってきたのに、最後にその約束が果たせなかった。4人の3年生には先生はとても感謝している。このチームをあきらめそうになったとき、先生を励ましてくれたのはキャプテンの玲子だった。先生は、玲子の言葉を一生忘れないよ。ご苦労様でした!」
村井はそう言うと、その場から去ってしまった。取り残された真澄に向かって玲子が最後の号令をかける。
「先生、今まで本当にありがとうございました。気をつけ、礼!」
真澄も次から次へと涙が出てきて、もう何も言葉を発することはできなかった。《あなたたちはどうして最後までそんなに立派なの》真澄は子供たちの精神力に驚くばかりだった。
玲子たち3年生は、4人だけでグランドに向かうと、深々と礼をした。そして、その儀式で緊張の糸が一気に切れてしまったのか、4人は抱き合って大泣きを始めた。引退とはこんなにも悲しいものだったのか。
部員たちが解散して三々五々にグランドを後にしたのを見届けてから、真澄は職員室に戻った。村井が窓からぼうっと外を眺めている。
「村井先生、大丈夫?」
「ああ、山岡先生、生徒たちのこと任せてしまってどうもすみませんでした。」
「先生が行ってしまってから、玲子たち3年生4人でグランドに挨拶してたわ。そうしたら大泣きが始まってしまって・・・・。」
「そうでしたか。ずっと我慢してたんでしょうね。ずっとキャプテンの重荷を背負ってた。僕なんか、さっさと職員室に逃げ帰ってしまって、恥ずかしい限りです。」
「そんなことないわ。先生のショックだって計り知れないんだから。」
「僕には来年の夏もあるけど、玲子たちの夏はこれが最後ですから。」
「勝つことだけが大切なんですか?」
真澄の口調は少しだけきつくなった。
「いや、そういう訳じゃないんですけど。」
「それなら、もうくよくよしていてはいけません。先生には1・2年生が残っているんですよ。新チームがスタートするんです。」
「そうでしたね。またゼロからやり直すんでしたね。くよくよしてたら、玲子に叱られてしまいますね。去年の新人戦のときみたいに。」
真澄は、目を真っ赤に腫らしている村井を見ていていたたまれなくなって、村井の胸に飛び込んだ。村井は突然の真澄の行動に戸惑ったようだったが、次の瞬間しっかりと抱きしめた。
「村井先生、私がずっとそばにいるから、頑張ってくださいね。」
「山岡先生、ありがとう。僕はこうやっていつもあなたに甘えてばかりだ。」
「私はこれでいいんです。私は先生と一緒にいられるだけで・・・・。」
「山岡先生、先生は・・・・。」
二人の唇が合わさるのはごく自然の成り行きだった。村井は初めて真澄の気持ちに気付いたのだ。そして、自分もまた真澄のことを愛しく思っていることにも。夕暮れの薄暗い職員室の中で、二人はいつまでも抱き合っていた。
新チーム発進
村井はしばらくの間は気の抜けたような状態をどうすることもできなかったが、真澄の存在が心の隙間を上手に埋めてくれたこともあって、一週間もすると新チームを発進させる気力が徐々にわいてきた。最初の一週間は、気がつけば玲子たちの姿をグランドに見つけようとしている自分がいて、はっとさせられることが多かった村井だったが、真澄の存在は本当に大きかった。真澄は、落ち込んだ村井の姿を見るのが辛かったので、村井が新チームの構想を練りだしたときには、飛び上がるほど嬉しかった。村井をそこまで勇気づけたのが自分であることには気付かない。
「先生、いよいよスタートね。」
「いよいよスタートだ。いつまでも亡霊を追いかけているわけにはいかんからね。」
「私にできることは何でもしますから。」
「ありがとう。君がいてくれて、僕はどれだけ救われたか知れない。」
「私なんか何にもできなくて。」
「いや、君がいてくれるだけで、それだけでいいんだよ。これからもずっとそばにいて欲しい。わがままかなあ?」
真澄は邦彦の素直な愛情表現が嬉しかった。今までの彼からは想像もできなかった言葉だからだ。二人はあの玲子たちの引退の日以来、ずっと付き合うようになった。教員生活は忙しいが、夜なら比較的時間が自由になる。今はまだ生徒に気付かれたくなかったので、二人はわざわざ遠くの街へ出かけてデートを重ねていた。
まずは、新チームのポジションを決めなければならない。1年生たちもようやく個性が見え始めて来たので、そろそろ目標を与えてもいい頃だった。とにかく2年生は6人しかいないから、9月の新人戦までに少なくとも3人の1年生を一人前に育てておかなければいけない。村井は真澄と相談しながら、次のようにポジションを決定してみた。
部長 2年 安田かおり(捕手)
副部長 2年 中井静香(投手)
2年 川田 瞳(遊撃手)
2年 木村綾子(中堅手)
2年 立花麗華(三塁手)
2年 山岸妙子(右翼手)
1年 西川千秋(二塁手)
1年 篠原こずえ(一塁手)
1年 内田美紀(左翼手)
1年 下田弥生(外野手)
1年 水島幸子(投手)
1年 沢木理香(外野手)
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総勢12名の新チームの発進だ。新部長の安田かおりは親分肌で、やはり後輩たちからも厚い信頼を受けていた。伝統というのは不思議なもので、しっかり者のキャプテンを見て育った選手たちの中からは、やはりしっかり者の新キャプテンが現れるものだ。
新チーム作りの夏休みは本当にしんどい。前のチームのイメージが顧問には残っているので、「こんなこともできないのか!」とついつい怒鳴りたくなる。特に短気な村井は、イライラの連続だった。真澄がそばにいてくれなかったら、どこで爆発していたか分かったものではない。
ある日、2年生で一番運動の苦手な山岸妙子がフライのノックでエラーを連発した。村井は我慢の限界を超えてしまい、大声でわめき散らした。
「お前のような根性なしは、とっととグランドから消えろ!」
「いやです。」
怯えきった妙子は、その場を動けずにただ「いやです」を連発するだけだった。すると、村井はノックバットを手にしたまま、つかつかと外野の守備位置まで近づいてゆく。このままでは殺されるとでも思ったのだろうか、妙子は一目散に逃げ出した。信じられないようなスピードで校舎の裏へ逃げてゆく。周りの部員たちはまずい雰囲気を察して、急いで追いかけていった。村井はそれまでの怒りが嘘のように消えてしまって、一目散に逃げ出した妙子の姿に思わず吹き出しそうになってしまった。
「邦彦さん、ちょっとやりすぎよ。」
「そうだね。妙子は妙子なりに必死にやってるんだから、ほめてあげないといけないね。真澄、戻ってきたら話してやってくれる?」
「任せといて。私はそのためにいるんだから。ところで、本当にバットで何かするつもりだったの?」
「ああ、これ?これ置いてくるの忘れてた。」 「まあ、ひどいわ。妙子はきっとバットでぶん殴られると思ったのよ。怖かったでしょうに。」
「そうか。何だか悪いことしちゃったな。」
「まあ、いいわ。それも話しとくから。」
「悪いけど頼んだよ。」
二人のチームワークは以前よりずっとかみ合わせが良くなっていた。今では恋人同士なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
とにかく、新チームの駆け出しは、こんなことの連続である。顧問はじっと我慢しながら、気長に選手たちの成長を見守らなければならない。「急がば回れ」と言うではないか。時間がかかっても、一度上達し始めると、女子の成長は目を見張るものがあった。
そんな夏のある日、部長の安田かおりが村井の所へやって来た。何やら深刻そうな顔をしている。
「どうかしたか?」
「あのう、先生、私たちのチームはこんなんで何とか形になるんでしょうか?」
「去年だってそうだったじゃないか。先生は、かおりと同じせりふを玲子に言ったら、許さないって叱られちゃったよ。」
「玲子先輩が、先生にそんなこと言ったんですか?」
「そうだよ。立派なもんさ。」
「さすがですね。私にはそんなこと絶対に言えません。殺されちゃう。」
「俺がかおりを殺すのか?」
「そうです。殺されちゃいます。」
「おいおい、物騒なこと言うなよ。先生だって怒鳴り散らしてはいるけど、君らのこと心から愛してるんだから。」
「愛してるんですか?そんなこと言われたの初めてです。先生、照れちゃいます。」
かおりは顔を真っ赤にしている。
「あのな、それはだな、要するに男が女を愛してるとかいうのじゃなくてだな、つまりだな、親が子供を愛するとか、そういう感じの愛してるだよ。お前、何考えてんだ?」
「そうですよね。安心しました。」
かおりは生真面目だった玲子とは違って、茶目っ気がある。そこがまたかわいいと村井は思った。《俺はいつもかわいい娘たちに囲まれていて本当に幸せ者だな。しかも、今は真澄まで俺のそばにいてくれるんだから。》村井は自分の恵まれた境遇に感謝せずにはいられなかった。
ソフトボールで一番怖いのは怪我だ。特に、人数に余裕のない高島台中学のような場合には、レギュラーが怪我をすると、そのポジションを埋めるのに一苦労する。ソフトボールの怪我で一番多いのは指の骨折だが、これは完治するのに1ヶ月はかかるので、夏休み中に骨折したら新人戦にはとても間に合わない。
夏休み後半の練習試合では、新チームは勝利を重ねていった。前のチームで少なくとも2年生のうちの5人はレギュラーをしていたのだから、試合慣れしているのである。ところが、ピッチャーの中井の様子がどうもおかしい。ときどき背中を押さえてそりをするような仕草をする。連投連投で、疲労もたまっていたのだろうが、根性女で絶対に弱音を吐かない中井静香だったので村井は余計に心配した。
「なあ、真澄、最近静香の様子がちょっと変だとは思わないか。ときどき背中を押さえて痛そうなそぶりが見えるんだけど。」
「やっぱり気付いてたのね。」
「何か知ってるの?」
「静香には黙っててくれって頼まれたから、邦彦さんには言えなかったの。あの子なりに顧問に余計な心配をかけてはいけないって、頑張ってたんだと思うわ。」
「で、背中でも痛めてるの?」
「医者に診てもらったら、軽い肉離れだそうよ。本当は少し練習を休んだ方がいいみたい。」 「何でそんな大事なこと黙ってたんだよ。本番で投げられなくなったら大変じゃないか。」
「ごめんなさい。でも静香の気持ちも大切にしたかったから。」
「大きな声出してごめん。君が悪いんじゃないものな。俺が気付くのが遅かったんだ。今ならまだ間に合うから、当分の間は練習試合は1年生の水島をピッチャーに使おう。」
「それがいいかも知れないわね。でも、私がしゃべったって言わないでおいてくれる?あの子たちとの信頼関係を壊したくないの。」
「わかってるよ。僕が気付いたことにする。」
「ありがとう。邦彦さんのそういう優しいところが好きよ。」
「おいおい、ここは学校だぞ。そういう言葉は夜のデートの時までとっといてくれ。」
「そうだったわね。」
静香は背中の故障を指摘されて、最初は下を向いていたが、「本番ではお前で勝負したいんだ。」という村井の言葉に、救いを見いだしたようだった。
「先生、新人戦の時は、絶対に私に投げさせてくださいね。約束ですよ。」
「わかってるさ。その代わり、早く治すんだぞ。お前がいないと勝ち目はないんだからな。」 「はい。」
静香は元気な声で返事をすると、はじけるようにみんなの輪の中に戻っていった。
快進撃の新人戦
新人戦の県大会にも、横浜市から6つのチームが代表として出場することができる。静香の背中の痛みもすっかり取れて、高島台中の新人戦での勢いは他チームの比ではなかった。夏休みの努力の成果が、一気に花開くような感じで、高島台中は快進撃を続けた。そして、決勝戦の相手はあの立花中学だった。
「みんな、よくここまで頑張ったな。いよいよ今日は決勝だ。しかも相手は立花中学ときている。これも何かの縁だろう。玲子たちのお礼をしなくちゃいけないよな。」
かおりは大きく頷いて言った。
「先生、私たちは絶対に負けません。夏の大会の分まで大爆発します。」
「そうだ、その勢いだ。エラーすることを恐れてはいけないぞ。エラーを恐れると、体の自由がきかなくなってしまう。とにかく、自分たちの力を信じて思いきったプレーをすることだ。いいな。気合いを入れて頑張れよ!」
「はい!」
そこには、夏の大会で見られたこわばったような緊張の表情は全くなかった。玲子たちも応援に駆けつけている。かおりは玲子たち3年生の前で立花中学をやっつけて、見事に優勝旗を手にしたかった。
試合は、高島台中の先攻で始まったが、予想とは裏腹に、一方的な試合展開だった。気合い十分の高島台中の勢いを止めることは、今の立花中には不可能なことのように思えた。結果は10対0で高島台中の圧勝だった。かおりたちは大泣きに泣いた。手にした優勝旗は、もちろん玲子たちの所へ持っていった。
「玲子先輩、これ受け取ってください。」
「何言ってるの。あなたたちが自分たちの力で手にした優勝旗じゃない。」
「違うんです。私たちは、玲子先輩たちのお陰でここまで成長してこれたんです。だから、この優勝旗は先輩たちに受け取ってもらいたいんです。」
「ありがとう。その気持ちだけで、私たちは嬉しいわ。あなたたちは、これから追われる身よ。どの学校も必死であなたたちに食い下がってくるわ。それに負けない精神力を鍛えてね。県大会も応援に行くわよ。変な負けかたしたら許さないわよ。」
「許さない・・・・ですか?玲子先輩、それって、去年の秋に先輩が村井先生に言ったせりふなんですよね。」
「あら、どうして知ってるの?」
「邦ちゃん、いえ村井先生が教えてくれました。」
村井は、部員たちの間では『邦ちゃん』と呼ばれている。もちろん、村井に向かって直接そう呼びかける度胸などなかったが。
「邦ちゃん、私の言葉覚えててくれたんだ。」 「絶対忘れないって言ってましたよ。」
「やっぱり邦ちゃんはすごい人ね。生徒の一言を大切にしてくれるなんて。」
「私も、先輩に『許さないわよ』って言われたから、絶対に忘れません。」
「やめてよ。私はそんなつもりで言ったんじゃないんだから。偉そうでいやだわ。」
「とにかく私たち全力で頑張ります。」
「優勝して、関東に行ってね。」
「そうか、優勝したら関東大会に行けるんですよね。何だかやる気出てきました。」
「まったくかおりは現金ね。」
秋の新人戦は県大会で優勝したチームが、翌年の春休みに行われる関東選抜大会に神奈川代表として出場することができる。それは、誰もが夢見る大きな目標だった。
「村井先生、市大会の優勝おめでとう。夏の大会のショックからよく立ち直ってくれたね。私は、実はとても心配していたんですよ。」
校長室に村井を招いた田中校長は、にこにこしながら言った。
「いろいろご心配いただいて、ありがとうございました。夏の大会に負けたときは、確かに一週間ぐらいはどこか別の世界をさまよっているような気分でしたが、部員たちが救ってくれました。」
「部員たちだけですか?山岡先生のことを忘れてはいかんでしょう。彼女とはうまく行ってるのかな?」
「どういう意味ですか?」
「私の目を節穴だと思っているのかね。あなたたちの様子を見ていればそれくらいのことは気がつきますよ。いや、本当は鎌倉であなたたちを見かけたんです。」
「えっ、本当ですか?どうもすみません。」
「何で謝るんですか。恋愛はすばらしいことじゃないですか。生徒たちに悟られないように、必死で気を遣っているあなたたちの努力もよくわかる。しかし、近場でデートができないのは不便でいけませんね。早く結婚したらいい。」
「はあ、来年の秋くらいまでには何とかしたいと思ってるんですが。」
「そんなに待つのは、何か理由でもあるのですかな?」
「今のチームが来年の夏の大会を終えるまでは、このままの関係でいたいんです。部員たちに影響しても困りますから。」
「そうですか、それもいいでしょう。しかし、大切にしてやって下さいよ。私にとっては、あなたたちは息子や娘も同然だ。幸せになってもらいたい。教師が幸せをつかめなくて、生徒に幸せをつかませられるわけもないですからね。」
「そんなものでしょうか。」
「そうですよ。村井先生、男はね所帯を持って初めて一人前になるんです。しかし、若いというのは実にうらやましい。」
「校長先生、その折りには、ぜひ仲人をお願いします。」
「気が早いですねえ。来年のことを言うと鬼が笑うと言いますよ。もちろんOKですが。」 「ありがとうございます。いずれ真澄と一緒に正式にお願いに上がりますので。」
「ところで、県大会の方はどんな予想かな?」 「去年のチームは生真面目なチームでプレッシャーに弱いところがあったんですが、今年のチームは肝が据わってます。1年生の水島幸子というピッチャーも急成長していて、エースの中井静香と二人で投手力も万全です。」
「関東は狙えそうなのですか?」
「それは、やってみなければわかりませんが、とにかく勢いに乗れるように精一杯頑張るつもりです。」
「期待していますよ。私も、応援に行かせてもらうので、よろしく頼みましたよ。」
「はい、ありがとうございます。」
ソフトボール部の県大会出場には、学校中が注目していた。挨拶のしっかりできるさわやか娘たちは、村井の指導してきたとおり、多くの応援団を持っていたのだ。
9月の体育祭も終わり、いよいよ県大会の時期が迫ってきた。新人戦の市内大会が終わってから、村井は打撃面の強化に努めてきた。どんな剛速球の投手にも対応できる打撃力をつけたかったのだ。バント練習も徹底的に行った。そしていよいよ新人戦の県大会がスタートする。
高島台中の快進撃は止まるところを知らなかった。県大会でも、各地区の強豪を次々と倒し、あれよあれよという間に決勝戦まで駒を進めてしまったのである。決勝の相手は、茅ヶ崎市の岸田中学校だった。県大会の常連校である。岸田中学校も人数的には余裕のあるチームではなかったが、少女ソフトを経験した部員が多いので、試合運びが上手だった。全員が素人からスタートする高島台中学とは決定的に違っていた。
高島台中は後攻を選んだ。息詰まるような試合展開である。どちらのチームも投手力が安定していて、なかなかヒットが続かない。試合は0対0のまま最終回にもつれ込んだ。岸田中学は、フォアボールを選んだランナーを果敢に盗塁させて、ノーアウト2塁のチャンスを作った。次の打者は当然送りバントである。ワンナウトランナー3塁。次のバッターはセンターに高々とフライを打ち上げた。すかさず、3塁走者がタッチアップして1点。次のバッターはセカンドゴロに打ちとったものの、重い1点が入ってしまった。最終回裏の高島台中の攻撃は1番からだった。村井は足の速い立花麗華にセイフティーバントのサインを出した。見事に成功である。2番の西川千秋は確実にランナーをセカンドに送った。ここで3番の安田かおりか4番の中井静香に一発が出れば、同点になる。ところが、安田はセカンドゴロでツーアウト。ランナーはサードまで進んだものの、アウトカウントはあと1つしか残っていない。4番の中井の当たりは左中間を破るかと思われたが、センターの好守備にはばまれてゲームセットとなった。何とも惜しい試合ではあった。しかし、村井には負けた悔しさよりも、決勝戦まで勝ち進んだ心地よさの方が強く胸に残っていた。《新チームの闘いはまだ始まったばかりではないか。来年の夏に勝てばいいのだ。》村井は堂々と胸を張って選手たちを激励した。
「みんな、本当によくやったぞ。すばらしい試合の連続で、先生は本当に楽しかった。最後は残念な結果だったけど、秋に優勝してしまうと、夏の連覇は難しくなる。だから、ここで負けたのはかえって良かったかも知れないんだ。神様が最後の夏に必ずもう一度チャンスをくれるから、みんな気を落とさずに頑張ろう。」
村井は自分でも不思議なくらい、素直な褒め言葉が口から出てきた。真澄の支えもあって心に余裕が持てていたのかも知れない。それにしても、県大会の準優勝はすばらしい。田中校長も小躍りして喜んでくれた。
その晩、村井と真澄は渋谷の街を歩いていた。二人ともほろ酔い加減である。
「良かったわね、準優勝できて。」
「君のお陰だよ。君がそばにいてくれなかったら、俺はここまで頑張れなかったと思う。」
「私ってそんなに力があるの?」
「あるとも。大ありさ。」
「そんな風に言ってもらえると嬉しいな。」
真澄は甘えるようにして邦彦に寄りかかっている。
「来年の夏の大会が終わったら、結婚しないか?」
「やだなあ、お酒の勢いでプロポーズするの?」
「そうじゃないさ。君のこと心から愛してるんだ。だから結婚して欲しい。」
「いやだって言ったらどうする?」
「どうもこうもない。うんと言ってくれるまで何度もプロポーズするさ。」
「冗談よ。私で良かったら、どうぞお嫁にもらってください。」
「本当か!」
邦彦は大喜びで、思わず真澄を抱き上げてしまった。周囲の人たちが邦彦たちの方を面白そうに眺めている。さすがに真澄は恥ずかしくなった。
「お願い、邦彦さん、下ろしてちょうだい。」
「いやだ。俺のことを世界で一番愛してると言うまで、絶対に下ろさない。」
「わかったわ。あなたのこと宇宙で一番愛してるから下ろして。」
邦彦はにこにこしながら真澄をゆっくりと下ろした。
「仲人は田中校長にお願いしようと思うんだけど、それでいいね?」
「もちろんだわ。私たちのことずっと見守っていてくれたんだもの。」
「ようし、俺は頑張るぞ!」
「何を頑張るの?」
「何もかもだよ。真澄のために頑張るんだ。」 「まあ、そんなに私を喜ばせて、いったいどういうつもり?」
「君を、本当に愛してるんだ。」
邦彦は真澄をもう一度抱き上げた。今度は真澄も観念して、邦彦のしたいままにさせておいた。真澄にしてみれば、長年の思いが叶ったのである。鈍感な邦彦の目を自分に向けさせるのにどれだけ苦労したことか。それが、今は邦彦の腕に抱かれて宙に舞い上がっている。真澄は最高の幸せを感じていた。それはまた邦彦も同じだった。
ソフトボール部の快進撃は、邦彦と真澄の結束をますます強めた形になった。今までの邦彦は、選手のプレーにイライラすることも多く、その度に怒りを発散させていたが、真澄への愛が深まるに連れて、心に余裕ができた今では、選手たちへの接し方もソフトになっていたのだ。子供を育てる一番の近道は、程良く褒めることだが、短気な邦彦にはそれが一番苦手なことでもあった。それが、真澄との愛が深まれば深まるほど、短気な自分の欠点が少しずつ消えてゆくような不思議な気持ちにさせられるのだった。現在の邦彦は、適度に選手を褒めながら、それでいて厳しさも兼ね備えた立派な指導者に成長していた。人との出会いというのは実に不思議なものである。人は人との出会いによって成長することができる。成長のない教師は、ろくな指導ができない。だから教師は常に成長している必要があるのだ。そして、そういう出会いはいつどこでどんな形で訪れるか分からないのだから、人生というのは面白いものだ。邦彦は玲子のような生徒との出会いによっても成長してきたし、真澄のような女性との出会いによってもまた一回り大きく成長することができた。「歴史の陰には必ず女性がある」と言う人がいるが、確かに男を変えるのも女性なのかも知れない。
いずれにしても、新チームはスタートしたばかりだ。このまま何の問題もなく来年の夏の大会を迎えるとはとても思えない。実際、邦彦はこれから様々な問題と格闘してゆかなければならなくなるのだった。人生に平坦な道などどこにもないのだ。
ソフトボールとボーイフレンド
村井邦彦が、部長の安田かおりと3年生の男子生徒との噂を聞いたのは、新人戦の県大会が終わって1ヶ月ほどしたときのことだった。邦彦が驚いたのは、その3年生の男子というのが、ちょっといわく付きの少年だったことだ。ツッパリではないのだが、決して真面目ではない。いわゆる軟派の部類に属する少年である。谷澤真吾という名のその少年は、無免許でバイクに乗ったり、学校の外で喫煙をしたりと、問題行動の限りを尽くしていた。それでいて、学校内では教師に刃向かうわけでもなく、授業も一応は真面目に受けている。邦彦は、谷澤真吾のような軟弱な男が大嫌いだったので、信頼していたかおりが、そんなやつと付き合っているのかと思うと、まだ真実のほどは分からないが、心穏やかではなかった。まるで恋人か父親のような気持ちにでもなっていたのだろうか。邦彦自身にも自分の気持ちがよく理解できなかった。 邦彦はさっそく安田かおりに電話をしてみた。期末テスト前で部活がなかったので、かおりは早くに家に帰っていた。
「もしもし、安田さんのお宅ですか。私、高島台中ソフト部の村井ですが、かおりさんいらっしゃいますか。」
「あっ、先生、私です。」
「ああ、かおりか。お母さんかと思ったよ。」 「先生、何かあったんですか。」
「あのな、ちょっとかおりのことで良からぬ噂を聞いたものだから、心配になって電話したんだけど。何のことか分かるか?」
「さあ、ちっとも分かりませんけど。」
「かおりさ、お前3年生の男子と付き合ったりしてるか?」
「誰とですか?」
「谷澤真吾っていうやつだよ。」
「・・・・」
「どうやら噂は本当なんだな。」
「すいません。本当です。」
「別に謝ることはないさ。人を好きになるのは悪いことじゃないから。で、いつからなの?」
「1年生の終わり頃からです。」
「そんなに前からなのか。でも、部活でほとんど休みのないかおりが、どうやって付き合うんだ?」
「テスト前の休みとか、塾の帰りなんかに話をしたり・・・・。」
「それだけ?」
「谷澤君の家に遊びに行ったりもしました。」 「お母さんはそのこと知ってるの?」
「知ってます。谷澤君、うちにも食事しに来たことあるんです。とってもいい子だって、うちの母も褒めてました。」
「とってもいい子って、谷澤がいい子なら、この世の中に悪い子なんか一人もいないさ。」
村井の声は自然と厳しい口調になった。
「かおりは、彼がどんなことをしているのか知っているのか?」
「悪いことたくさんしているみたいですね。」 「それを知ってて、ソフトボール部の部長であるお前が、そんないい加減なやつと付き合うっていうのは、どういうつもりなんだ?」
「先生、心配しなくて大丈夫です。私が谷澤君を真面目な子に変えて見せます。」
「馬鹿を言ってるんじゃない。今のかおりがエネルギーを使う場所は他にあるんじゃないのか?部長として恥ずかしいとは思わないのか?かおりがソフトボールに熱中していないのに、どうして部員のまとめ役が務まるんだ?」
「私、ソフトボールをやっているときには、谷澤君のこと考えたりしてません。」
「そりゃ、そうかも知れないけど、かおりの心に隙があるから、こういうことになるんだと先生は思うんだよ。」
「私はいけないことをしてるんでしょうか。」
「ソフト部の部長としてはね。」
「先生、私はどうしたらいいんですか。」
「彼とのつき合いを大切にしたいのなら、今すぐ部長をやめることだね。どっちを選ぶかはかおり自身の問題で先生はこれ以上とやかく言うつもりはないよ。」
受話器の向こうで、かおりのすすり泣きの声がする。中学生には難し過ぎる選択を迫ってしまったのだろうか。しかし、村井は、いい加減な男と付き合っていながら、部長面しているかおりのことを許す気には到底なれなかった。それは父親の厳しさだったかも知れないし、恋人の嫉妬だったかも知れない。とにかく村井はむしゃくしゃした気持ちのまま、かおりに考える時間を与えて受話器を置くことにした。
「なあ、真澄、どう思う。かおりみたいな女の子が谷澤みたいなやつと付き合うっていうのが、俺にはどうしても納得できないんだ。」
「そうねえ、あの子は姉さん肌の子だから、いい加減な男の子を見てると、面倒を見てあげたくなっちゃうんじゃないかしら。」
「でも今のかおりが面倒を見なくちゃいけないのはソフト部の仲間や後輩たちだろう?」
「理屈の上ではそうだけど、理屈じゃ割り切れないのが女心なのよ。」
「かおりは部長をやめると思うか?」
「私は、かおりを信じるわよ。あの子はこんなことで部長を投げ出す子じゃないもの。」
「つまり、谷澤とのつき合いをやめるってことかい?」
「そうなるわね。」
「好きな男を、そう簡単にあきらめられるものなのかなあ?」
「まだ中学生だもの、どの程度好きか分からないじゃない。邦彦さんは、そんなにかおりのことが信じられないの?」
「信じたいよ、もちろん。だけど、女心は分からないじゃないか。俺は男なんだ。」
「男も女もないわよ。邦彦さんがかおりを信じるなら、あの子もあなたの信頼を裏切るようなことは絶対にしないわ。」
「何だか、胸が苦しいよ。」
「邦彦さん、もしかして谷澤君にやきもち焼いてるの?」
「どうしてやきもちなんか焼くんだよ。」
「かおりのこと好きだからよ。」
「俺は顧問で、かおりは部員だぞ。」
「顧問が部員を好きになったって、ちっともおかしくないと思う。」
「俺はそんな自分だったらいやだよ。俺には真澄がいるじゃないか。」
「私は大人の女でしょ。先生が生徒を好きになるときは、もっと別の感情なんだと思うの。だから私もこんなに冷静でいられるのよ。」
「別の感情か。何だか、俺はかおりにあんな選択を迫っている自分がだんだんいやになってきたよ。谷澤とのつき合いを許しちまえば良かったなあ。」
「そんなことをしたら、きっとあなたはもっと後悔していたと思う。自分の判断にもっと自信を持たなくちゃ。あなたは顧問でしょ。顧問が揺れていてどうするの。」
真澄は本当は少し複雑な気持ちでいたが、中学生相手に真剣にやきもちを焼く気にはなれなかった。そんなことをしたら、自分がみじめになるだけだ。しかし、困ったものだ。これで、本当にかおりが部長をやめるようなことになったらどうするのだろう。真澄にも一抹の不安がなかったわけではない。
翌朝、目を腫らしたかおりが村井の所にやってきた。夜通し泣いていたのかも知れなかった。村井はそんなかおりが不憫に思えてきた。
「どうした?結論が出たのか?」
「はい、出ました。私、谷澤君とのつき合いをやめます。私には今さらソフト部の部長を投げ出すつもりにはとてもなれませんから。」
「後悔はしないね?」
「するかも知れませんが、それでもいいんです。私は部長の仕事を最後までやり遂げたいんです。そうでなくちゃ、玲子先輩にも合わせる顔がありません。」
「そうか、辛い決心をさせてしまって悪かったね。先生のことをいくら恨んでも構わない。だけど、ソフト部の部長の仕事だけは大切にして頑張ってくれ。」
「いいえ、先生の言ってることは少しも間違ってないと思います。先生を恨むなんてとんでもありません。」
「山岡先生も心配していたから、自分で行って報告してきなさい。」
きっと村井には告白できない悲しみもあったろう。それが、村井にできるせめてもの計らいだった。
「山岡先生、私・・・・。」
そこまで言いかけると、かおりの目から涙がこぼれ始めた。
「かおりちゃん、先生は最初からあなたを信じていたわ。今は辛いかも知れないけど、こういう問題はちゃんと時間が解決してくれるの。」
「本当ですか?」
「本当よ。先生にも経験あるからよく分かる。あなたは村井先生の言ってることがよく理解できるんでしょう?」
「はい、よく分かります。」
「それなら、先生は安心だわ。あなたならきっと頑張り通すことができる。彼のことも、そのうち全然気にならなくなるわよ。あなたがもっと大人になって、男性を見る目がしっかりしてきたら、きっとすばらしい彼氏を見つけることができるから、それまで待てばいいの。」
「先生、ありがとうございます。私、とにかく頑張ってみます。ソフト部のみんなも関東大会目指して必死なんだから、私だけが浮かれてたのはおかしいですよね。だから決勝戦で負けちゃったのかも知れない。私のせいで・・・・。」
「それは問題が別よ。あまり自分を責めちゃだめ。人を好きになるのは悪いことじゃないのよ。それはあなたが大人になってきた証拠だしね。だけど、今のあなたにはやらなければならないことが他にたくさんある。」
「そうですね。私にはやらなくちゃならないことがたくさんあります。」
「さあ、もう行きなさい。教室に行く前に顔を洗っていくのよ。目が真っ赤だもの。泣いたのがバレバレだわ。」
かおりはこっくりと頷くと、静かに職員室を出ていった。真澄は真剣に悩むかおりが不憫でならなかった。しかし、このまま谷澤とのつき合いを続けていったら、かおり自身の人生にも狂いが生じるのは確かだったろう。後は時間が解決してくれるのを待つしかないと真澄は思った。 放課後の練習に出てきたかおりはいつも通りの元気の良さだったので、村井も真澄も安心した。仲を引き裂かれたと思っているはずの谷澤が、しつこくかおりにつきまとうことは考えられたが、そのときは村井が勝負に出るつもりでいた。しかし、谷澤の反応は意外だった。彼もまた落ち込んだ表情になって、元気のない生活を送るようになったらしい。誰を恨むという様子も見えないと、3年生の先生たちが言っていた。《谷澤にも少しかわいそうなことをしたかな》ふと考えた自分の心をかき消した村井だった。自分が迫った選択なのだから、今さら同情なんかしたらおかしいではないか。
村井は、どこか割り切れない自分の気持ちを何とか整理したくて、知り合いの高校の教師に聞いてみた。すると、彼が言うには、女の子は好きな男ができると女性ホルモンが大量に分泌されるようになって、運動選手としての闘争本能を骨抜きにされてしまうから、彼の部では彼氏を作ることを禁じているという。村井はその話を聞いて少し罪悪感が和らいだような気がした。そう、村井は二人の間に割り込んでしまった自分に罪悪感を抱いていたのだ。それは自己嫌悪に近い感情でもあった。真澄にいくら慰められても、その気持ちが薄らぐことはなかったのだ。顧問が部員の私生活にどこまで口を挟んでいいのか、村井には到底結論は出せなかったが、かおりが部長として説得力のある行動を取りたければ、かおり自身の生活が節操のあるものでなければならないのは明らかだった。かおりにはそれが分かったのである。
村井はそれでも心のどこかにわだかまりが残ったままだったので、たまたま海老名の瀬戸内中学校に練習試合に行ったとき、顧問の神田輝雄に聞いてみたのだった。瀬戸内中と言えば、これまで関東大会に数回駒を進めたことのある名門中の名門だった。神田は村井とほとんど同じ年齢で、もうすでに結婚しており、5歳になる娘が一人いる。村井とは長い間の親友であった。正確には、後からソフトボールに関わりだした村井を、一生懸命に面倒見てくれたのが神田だったのだ。まだ駆け出しの村井を、神田は何度も練習試合に誘ってくれた。おかげで村井は県内のほとんどの強豪チームの顧問と顔なじみになれたのだ。その神田はどんな風に生徒たちのことを見ているのだろう。
「神田先生、顧問が部員に惚れちゃうっていうことあると思いますか。」
「僕なんかしょっちゅう惚れてますよ。」
「そういう意味じゃなくて、本気で好きになってしまうっていうことなんだけど。」
「村井先生は、キャプテンの安田さんのことを言ってるんじゃありませんか。あの子は本当にすばらしい子だと思います。試合が劣勢にあっても絶対にあきらめずに、常に仲間を励ましている。顔だってかわいいし、僕ならいっぺんで好きになってしまいますね。」
「そうなんですよ。あの安田かおりなんです。実はね、かおりのやつ3年の軟派男と付き合ってたのが分かって、僕が間を引き裂いちゃったんですよ。これって、やきもちなのかなあ?」
「やきもちですね。だけど、夢中になって顧問をしていれば、本気で生徒に惚れてしまうし、そうなったら部員たちは恋人みたいなものなんです。村井先生の気持ちはすごくよく分かりますよ。」
「神田先生にも、今までにそんな経験があったんですか。」
「何度もありましたよ。僕にはちゃんと妻がいるのに、それでも生徒に惚れ込んじゃう。そのくらい熱くなくちゃ顧問は務まりません。」
「それを聞いてちょっと安心しました。」
「罪悪感みたいな気持ちを持っていたんですね。でも、安田さんは村井先生の気持ちをきっとよく理解してくれていると思いますよ。あの子はそういう子です。僕はじっくり話したことはないけど、プレーを見ていれば分かる。」
「顧問って自分勝手ですよね。」
「自分勝手と言えば確かにそうかも知れませんけど、夢中になったら自然とそうなってしまうんです。それは村井先生が熱いっていう証拠じゃないですか。」
「そうなんですか。ああ良かった。神田先生がそう言うなら確かですからね。」
「いやいや僕なんてもうだんだん冷めて来ちゃって、最近は村井先生みたいな悩みを抱えることもなくなってしまいました。良くないとは思ってるんですけど。」
二人は夕方のグランドでいつまでも話をしていた。神田と話しているといつも丁寧語になってしまうのだが、二人はお互いによく理解できる貴重な仲間同士だった。価値観もよく似ていたかも知れない。村井は神田と話をして、胸のつかえがだいぶ取れたのを感じた。妻のいる神田でさえ生徒に恋をするのだ。自分の安田への気持ちはしかたのないことだった。村井は何度も自分に言い聞かせるのだった。
真澄の話によれば、安田かおりも最初の一週間くらいはグランドから離れると暗い表情が見えたりすることもあったが、最近ではすっかり立ち直って、元通りの元気娘になっているという。《それにしても、平坦な道のりばかりではないことは分かっていたけど、今回の波は大きかったなあ》村井はしみじみと振り返った。思春期の女の子たちを扱うのだから、いろいろな問題はあって当然だ。それに振り回されてしまった村井は、それだけ純真だったとも言える。慣れた顧問ならもっと上手にことを処理したかも知れなかったが、若い村井にはこれが精一杯だったろう。顧問も大小様々の波を越えながら少しずつ成長してゆく。
親子試合
安田かおりの父親から、正月の親子試合とバーベキューパーティーの打診があったのは、冬休みに入る直前のことだった。かおりの両親は部活動に対するよき理解者で、練習試合のときなども進んでワゴン車を提供してくれていた。部活にとって、親の協力は欠かすことができない。練習試合や公式戦の時もそうだが、普段の朝練がある日にも朝早くから母親たちはお弁当作りに精出さなければならないのだ。親が部活に負担を感じてしまったら、子供たちの頑張りも意味がなくなってしまう。
高島台中ではいつの頃からか、保護者の協力体制が整いつつあった。親にしても、子供の活躍を見るのが楽しみなわけだから、高島台中ソフトボール部が県内の強豪になってゆくに連れて、いわゆる『追っかけ』の親が増えるのは自然の流れだった。しかも、この高島台の学区は保護者のスポーツ熱が盛んな地域でもあった。
かおりの父親の提案に、村井は二つ返事でOKを出した。日時は1月4日の午前9時からということになり、案内はかおりの両親が率先して作成してくれた。試合後のバーベキューパーティーはグランドの隅で行うことになり、段取りは全て親に任せて欲しいと言う。村井は、かおりの両親の努力に心から感謝した。
「かおりの両親は、きっと谷澤君の件で邦彦さんに感謝しているのよ。」
「感謝してるって、どうして?」
「きっと、心配していたんだと思うわ。でも難しい年頃だから、親としてはなかなか率直な意見が言えないじゃない。」
「その役を僕が果たしたっていうわけか。」
「そうだと思うわ。」
「親も大変だな。僕たちにも娘ができたら、いつかはそんなことに気をもむようになるんだろうか。」
「あら、もう子供の話?邦彦さんはきっと気が狂ったようにうろたえちゃうんじゃない。」
「君は平気なのか?」
「私は女同士だから冷静よ。」
「俺も女に生まれりゃ良かったよ。」
「何言ってるの。そしたら、私とは出会えなかったじゃない。それでもいいの?」
「それは困るけどさ。」
「それにしても、親子試合なんてなかなかいいアイデアよね。父親たちも娘たちと試合ができるんで張り切ってるんじゃないかしら。」
「そうだね。娘が生まれたとき、まさかその子と将来キャッチボールができるようになるとは誰も思わなかったろうからね。」
「お父さんたち、張り切りすぎて怪我なんかしなければいいんだけど。」
「大丈夫。怪我するほど活発に動けないさ。」 「試合は娘たちの勝ち?」
「たぶん相手にしてもらえないと思うよ。」
「そんなにあの子たち強いかしら。」
「現役だからね。男だってかなわないさ。だいたい静香の球にバットがかするかどうか。」
「バーベキューパーティーなんて久しぶり。」
「そうだね。そんな余裕なかったからね。」
「親に感謝しなくちゃね。」
「うん、感謝、感謝だよ。おやじたちと酒が飲めるっていうのも楽しみじゃないか。」
「そうね、男親が学校に顔を出して、先生と仲良く談話するなんていう光景、あまり見たことないものね。」
「何だか、楽しみだなあ。」
「私も楽しみ。」
1月4日は快晴だった。村井は父親たちに呼びかけて入念に準備運動を行った。現役とは違うから、本当に怪我でもしたら大変だ。父親チームにはピッチャーがいなかったので、村井自身がピッチャーを務めることになった。村井は試合に先立って部員たちに言っていた。
「いいか今日は先生は敵だ。お前たちの監督は山岡先生がやる。おじさん相手だからって手を抜くなよ。先生も本気で投げるからな。」
「先生、デッドボールだけはやめてくださいね。顔に当たって、お嫁にいけなくなったら困りますから。」
ひょうきん者の中井静香が冷やかした。
「いやわからんぞ。先生はコントロールがいまいちだ。だからお尻を狙って投げることにする。お前たちのがっちりしたお尻なら、当たってもたいして痛くないだろうからな。」
「先生、レディーに向かって失礼です。」
静香はにこにこしながら反論している。
「そうか、お前たちはいつからレディーになったんだ?先生は、今までお前たちを女だなんて思ったことはない。」
「みんな聞いた?今日はこてんぱんにやっつけちゃおうね。」
静香がさらに気勢を上げる。
「それじゃあ、お手並み拝見と行こうかな。冗談はともかくとして、怪我だけには注意してくれよ。あくまでも親善試合なんだから。」
「先生、本気でやれって言いましたよ。」
「ああ、本気の親善試合だ。」
村井は何だか訳の分からないことを言っている。部員たちとこんなじゃれた会話をするのも久しぶりだった。《たまにはこういうのもいいもんだな》村井は一人微笑んでいた。
「さあ、みんな集合して。」
監督に就任した真澄もやけに張り切っている。女の団結というのも怖いかも知れない。
「静香は絶対に手抜きのボールを投げないこと。お父さんたちから三振をばんばん取っておいで。それから、村井先生の投球はずるいからチェンジアップに気をつけてね。村井先生からヒットを打ったら、先生が一本につき一つアイスクリームをご馳走するわ。」
「やったー!」
部員たちから思わず歓声が上がった。女の子は食べ物にはめっぽう弱い。アイスクリームがかかったら、普段よりもいいバッティングをするかも知れなかった。真澄は部員たちのはしゃぎぶりにほっとした。《たまにはこんな風に息を抜かせてあげなくちゃね》いくら鍛え抜かれているとは言っても、所詮は中学生なのだ。子供らしくはしゃぐ場面がなければおかしい。真澄は久しぶりに晴れがましい気持ちだった。
試合は意外と接戦になった。子供たちはますます本気になってくる。父親たちも必死だ。娘の前でいいところを見せようとやっきになっている。しかし、さすがに後半は体力の差が出た。終わってみれば、7対2で娘チームの勝ち。村井はさすがに悔しかったが、まさかダブルヘッダーをするだけの体力は父親チームには残っていなかったので、潔く負けを認めた。
「お前たちはさすがだよ。先生は本気でやったのに、ちっとも歯が立たなかった。だてに県の準優勝はしてないってことだな。」
「先生の球もなかなかでしたよ。だけど、後半は先生たち疲れちゃったみたいですね。」
部長の安田かおりがコメントした。
「そうなんだ。体力というものを忘れていたよ。もうみんな若くはないからな。でも、怪我もなく終わってほっとした。」
「先生、これからバーベキューやるんですよね。私、お腹ぺこぺこです。」
小柄ですばしっこい立花麗華が言った。
「お前たちが勝ったから、今日は食べ放題だ。午後の練習はないから、好きなだけ食べなさい。ただし、豚になっても知らないぞ。」
「先生、今日はやたらとレディーを侮辱する発言が多いです。そんなことばかり言ってると、山岡先生に嫌われちゃいますよ。」
立花麗華が口をとがらせている。村井はドキッとした。まさかこの子たちは自分たちのことを感づいているんじゃないだろうか。別に悪いことをしているわけではないのだから、ばれても構わないのだが、何となく最後の夏の大会が終わるまでは秘密にしておきたかった。
「ほらほら、村井先生をからかっちゃだめ。」 真澄がすかさず口を挟んだ。部員たちの間にどっと笑いがわき上がり、その場は何とか上手に切り抜けることができた。さすがに真澄は機転が利く。
バーベキューパーティーは盛大に盛り上がった。子供たちは、本当にめいっぱい腹に詰め込んでいる。運動をしている中学生の食欲には驚くべきものがある。村井は彼女たちの姿に、頼もしさを感じた。子供たちが食べるのに夢中になっている横で、父親たちと村井は真澄も仲間に入れて談笑していた。手には缶ビールを持っている。
「先生、いつも娘たちが本当にお世話になって、感謝してます。それにしても、こんなに強いなんて思いませんでしたよ。」
「現役ですからね。女性と言えども侮ることはできません。」
「でも先生、難しい年頃の娘を面倒見るのは大変でしょう。」
安田かおりの父親が中心になって話を進めている。
「そんなことありませんよ。みんな素直ないい子たちだし、僕はずいぶん楽させてもらってます。それに、ここにいる山岡先生が陰でいつもフォローしてくれるんで、僕が大爆発しちゃっても、大丈夫なんです。」
すると2年生の木村綾子の父親が発言した。 「先生、うちの娘がソフト部に入るって言い出したときにはびっくりしました。小さい頃からピアノをやっていて、運動の方はからっきしだめだったんです。親に似て運動音痴ですからね。それが、ソフト部で先生にいじめられ、いや鍛えられるようになってから、本当に性格が変わりました。何事に対しても積極的に挑んでゆくようになったんです。私は、涙が出るほど嬉しかったですよ。」
「そうだったんですか。綾子は真面目な努力家ですからね。確かに最初は鈍くさい感じがしましたけど、今では立派なレギュラーです。子供の力は本当に計り知れませんね。」
1年生の水島幸子の父親は野球の経験者だったらしく、感心したように言った。
「先生、女の子をここまで鍛えるなんて驚くべきことですよ。男の子だってなかなかこうはならない。先生の苦労が分かるってもんです。」
「いやあ、それにしてもお父さんたちとこうしてお酒が飲めるなんて、今年は正月からついてますよね。僕は本当に嬉しいです。」
「私たちだって、先生とこうしてお酒が飲めるなんて、普通だとあんまり考えられないことだから、幸せですよ。」
安田かおりの父親は相変わらず腰が低い。
「ところで先生、先生が娘たちに青春をかけてくれるのは有り難いんですけど、先生のお嫁さんの方も我々は心配してるんです。ねえ、山岡先生、村井先生なんかすごくお薦めだと思うんですけど、どうですか?」
真澄は突然自分にスポットライトが当たったのを感じて、顔を赤らめた。かおりの父親はそんな真澄の様子も気にせずに、どんどん話を進めてゆく。
「お二人が一緒になるっていうんなら、私たち親一同は大応援団を結成しますよ。」
「安田さん、冗談はやめてくださいよ。山岡先生が嫌がってます。」
「別に嫌がってなんかいませんけど・・・・。」
「ほら、村井先生、嫌じゃないって言ってますよ。先生も真剣に考えてあげなくちゃ。」
「いや、もう、参ったな。そういう話はまた今度ということにして、今日はとにかく楽しく飲みましょうよ。」
「そうですか。それじゃあ、そうしますか。」 かおりの父親はやっとあきらめたようだった。しかし、もしかしたら真澄の様子に何かを感じたかも知れない。村井は父親たちに嘘をつかなければいけない自分たちの境遇を恨んだ。《みなさん、いずれ正式に発表しますから、とにか《《夏の大会が終わるまでは待っていてください》村井は心の中で父親たちに詫びた。真澄はまだ顔が赤くなっている。ビールの酔いが回っていたのだろうか。
パーティーが終わって一同が解散してしまった頃、安田かおりの母親が村井の所にやって来た。にこにこしている。
「先生、先日はかおりの件で本当にご迷惑をおかけしました。」
「ああ、3年の谷澤の件ですね。」
「はい、そうなんです。あの子も難しい年頃で、私たちが何を言ってもちっとも耳を貸そうとしませんでした。親として本当に情けなく思います。」
「でも、僕はあの子の私生活にまで口を挟んでしまって、出しゃばりすぎたんではないでしょうか。」
「そんなことありません。私もうちのお父さんも、先生には本当に感謝しています。親が言うべきことを、先生がはっきり言ってくれたって。かおりは先生の言うことが絶対なんです。先生のこと心から信頼してますから。」
「僕は、かおりちゃんのボーイフレンドにやきもちを焼いていただけかも知れないんです。」
「先生はきっと父親の心境になってしまったんですね。うちのお父さんも、いつも夜になると私に愚痴をこぼしてたんですよ。」
「父親の心境ですか・・・・。もしかしたら恋人の心境かも知れませんよ。」
「先生、うちの娘が大人になるまで待ってくれますか。」
「そりゃあちょっと無理ですよね。」
「冗談です。でも先生にならかおりを預けてもいいと思いますけどね。」
かおりの母親は村井の表情をのぞき込むようにして見た。
「いやあお母さん、僕にもそのうちいい人が現れると思いますから。」
「それもそうですね。そのときは心から応援しますから、先生絶対に教えてくださいね。」
「約束します。恋人ができて結婚が決まったら、お母さんたちには一番最初に教えますから。待っててくださいね。」
かおりの母親はにこにこしながらグランドを後にした。やはり自分のしたことはあれで良かったのだ。かおりの両親も自分と同じ気持ちだったのだ。村井は、完全に胸のつかえが取れた気がした。
「今日は本当に楽しかったわね。」
「途中で僕らのことが話題になったときは、ちょっとドキッとしたけどね。」
「私は心臓が止まるかと思ったわ。」
「真澄は顔が真っ赤だったぞ。」
「きっとお酒のせいよ。でも、夏の大会が終わったら、真っ先に保護者には発表しましょうね。これだけ私たちのこと心配してくれてるんだもの。いいでしょう?」
「ああ、そうしよう。みんなびっくりするだろうな。それともやっぱりそうだったかってことになるのかな。」
「どうかしらね。」
真冬の冷たい風が二人の頬をなでる。ほろ酔い気分の本当に気持ちいい午後だった。
さざ波を越えて
2月のある朝、1年生の下田弥生が泣きながら朝練にやって来た。
「弥生、どうした?何かあったのか?」
村井は心配そうに尋ねた。
「うちの犬の健太が死んじゃったんです。今朝、散歩に連れて行こうとして犬小屋をのぞいたら、もう冷たくなっていて・・・・。」
弥生はぽろぽろ涙をこぼしている。
「そうだったのか。それはかわいそうなことをしたね。それなのに弥生は朝練に来たんだ。偉いな。よし、今日の午後練は休んでいいから、早く家に帰ってゆっくりと健太のお葬式をやってあげなさい。」
「先生、練習休んでもいいんですか。」
「世の中には練習より大切なことなんかいくらだってあるさ。先生だって、自分の家の犬が死んでしまったら、家族が亡くなったのと同じくらい悲しいと思う。だからいいんだよ。」
弥生は少し落ち着きを取り戻したようだった。朝練は出るというので、村井は弥生のしたいようにさせることにした。
「邦彦さん、弥生どうかしたの?」
「ああ、飼い犬の健太が今朝死んじゃったんだって。」
「それはショックだわね。私も子供の頃に自分の家の犬が死んでしまって、そのときはご飯も喉に通らなかったもの。」
「今日の午後連は休んで、早めに家に帰って健太のお葬式をしていいと言っといたよ。」
「邦彦さん少し優しくなったみたい。」
「僕は前から優しいよ。それとも鬼みたいだった?」
「そういう訳じゃないけど、子供たちを見る目がすごく優しいわよ。」
「君のお陰かな。真澄と付き合うようになって、僕も心にゆとりが出てきたような気がしていたんだ。いずれにしても、僕は子供たちにソフトボールに命をかけろなんて言わないよ。」
真澄は邦彦を見てただにこにこしている。
「俺の顔に何かついてるかい?」
「そうじゃなくて、素敵な顔だなと思ってね。ついつい見とれちゃったの。」
「朝っぱらから、しかも学校で、よくそんなこと平気な顔して言うね。」
「朝っぱらも何もないわ。私は朝から晩まであなたのこと愛してるんだから。」
「おいおい、生徒に聞かれたらどうするんだよ。もうそんなに褒めてくれなくていいから、さっさと朝練に出よう。」
真澄はまだにこにこしている。邦彦はしょうがないやつだと思いながらも、そんな真澄がこの上なく愛しく思えた。
ちょうどその日の放課後になって、安田かおりが深刻そうな面もちで村井の所にやって来た。また何か事件でもあったのだろうか。
「先生、ちょっとお話があるんですけど。」
「職員室でもいいか。それとも相談室?」
「できれば相談室の方が。」
「何だか深刻そうだな。まあいい、とにかく相談室に行こう。」
ちょうど相談室の鍵は開いていた。中にはスクールカウンセラーの玉川善人が置いた鉢植えが、きれいに並べられていた。特にテーブルの上に置かれた真っ赤なベゴニアの花が美しかった。 「で、何か困ったことでも起きたのか?」
「はい。同じ2年の川田さんなんですけど、最近朝練によく遅刻するんです。放課後の練習も何度か具合が悪いと言って早退しましたけど、ちっとも具合悪そうじゃないし、みんなも疑ってます。」
「かおりも、瞳がさぼってると思うのか?」
「そうじゃなくて、きっと何か訳があるんじゃないかと思って。それで先生にお願いに来たんです。瞳が悩んでるんだったら、先生に助けてあげて欲しいんです。」
「そうだったか。先生はてっきり本人の言い分を信じ切っていたんだが、かおりがおかしいと感じるなら、その通りかも知れない。よし、先生が瞳に直接聞いてみよう。」
「お願いします。これで安心しました。瞳、ここへ呼びますか?」
「それじゃあ、そうしてくれ。先生はここで待ってるから。練習の方はいつも通りで頼んだぞ。怪我をしないようにな。山岡先生にノックを頼んでもいいぞ。何だか最近張り切ってるみたいだから。」
「はい、そうします。」
かおりは急いで相談室から出ていった。かおりが姿を消してから瞳が相談室のドアをノックするまでほんの5分もかからなかっただろう。
「入っていいぞ。」
「失礼します。あの、何か?」
「まあ、ちょっとそこに座れよ。最近調子はどうなんだ。時々早退していたみたいだけど。」 「大丈夫です。」
「瞳、先生は何も気付いていないと思ってるのか?日曜日の練習も、お昼に買い弁をすることが多くなっただろう。何かあるんなら、正直に言ってくれ。実は、最近の瞳は朝練にもよく遅刻するんで、みんなも心配してるらしいんだ。」 「そうだったんですか。私もみんなに心配かけたら悪いと思って、ついつい嘘ばかりついてしまいました。」
「やっぱり何かあったんだね。」
「はい。1ヶ月ほど前に母が家を出てしまったんです。今は別の男の人と暮らしていて、家のことは私が全部やっています。朝は何かと忙しくて、ついつい練習に間に合わなかったりするんです。先生、黙っててごめんなさい。」
「先生もちっとも気付いてあげられなくて悪かったね。瞳もずいぶん辛かっただろうに。お父さんはどうしてる?」
「だいぶ落ち込んでるみたいです。弟は小学校の給食があるからいいんですけど、父のお弁当と私のお弁当は、毎朝私が作ります。」
「お母さんは近くに住んでるの?」
「川崎です。父が仕事に出かけているとき、たまに帰ってくることもあるんですけど、やり直すつもりはないみたいです。」
「君のお母さんを悪く言うつもりはないけど、大人は勝手だね。瞳がこんなに頑張っているのに、大人はちっとも頑張ろうとしない。先生も大人の一人として恥ずかしいよ。」
「先生、うちの母は悪くないんです。父がお酒を飲んで母を殴ったりして、母はさんざん苦労してきました。だから、今は自由にさせてあげたい。」
「瞳が苦労してもいいのか?」
「私は平気です。ただ、小学生の弟が母がいなくなって寂しそう。」
「すまんな。先生に何かできることはないか?あったら何でも言ってくれ。」
「先生、いろいろ気を遣っていただいて、本当にありがとうございます。私、ソフトボールだけが支えなんです。だから頑張ります。」
「朝の遅刻は気にしなくていいから、家の仕事を頑張ってやってくれ。」
瞳は深く頷くと、相談室から出ていった。何とむごいことか。なぜ大人は子供のために頑張ることができないのだろう。自分が産んだ子供のためなら、どんな苦労も厭わないのが親なのではないのか。瞳が一人で抱えている苦労を思うと、村井はやりきれない気持ちでいっぱいになるのだった。ちょうど、川田瞳と入れ違いに真澄が入ってきた。
「かおりからちょっと話を聞いて、心配だったので来てみたの。」
「瞳のお母さんね、家を飛び出しちゃったらしいんだ。だから家事は全部瞳がやらなくちゃいけない。そんなのってありか?」
「大人の身勝手か・・・・。瞳がそんな大きな苦労を抱えてるなんて、私ちっとも気付かなかったわ。顧問として恥ずかしいわね。かおりの方がよっぽどみんなのことをよく見てる。」
「そうだね。子供は敏感だからね。それに比べて、大人はなってないよ。何だか体の力が一気に抜けてしまった感じだなあ。」
「みんなそれぞれに苦労を背負って生きているのね。ソフトボールをやっているときは、そんな苦労なんかみじんも感じさせないけど。」
「それが子供の純真さなんだと思うよ。大人だったらすぐに音を上げてしまう。」
「私たちで瞳のことしっかりと支えていきましょうね。私、瞳の代わりにお弁当を作ってもいいわ。瞳が忙しそうだったら、私から声をかけてみるわね。」
「ああ、頼むよ。」
「私たちは、いつまでも仲のいい夫婦でいましょうね。」
「もちろんさ。いつまでも仲良しでいよう。」
「『仲良し』だなんて、何だか幼稚園の子供みたいな言い方ね。」
「いつまでも子供の心は忘れたくないじゃないか。大人のずるさはもうこりごりだよ。」
「そうか、じゃあ『仲良し』でいいわ。」
「ところでノックはどうだった?」
「ばっちりよ。いい憂さ晴らしができたわ。」
何の憂さがたまっているのかと邦彦は真澄に聞こうかと思ったが、やめてすぐにグランドに向かった。子供たちが精一杯頑張っているのだから、自分もグランドで一生懸命汗を流そうと思う。顧問の自分にできることは、そのくらいのことしかないのだと村井は思った。
ソフトボールを離れれば、子供たちは一つの家族の一員だ。それぞれに、いろいろと複雑な背景を抱えている。夫婦円満の明るい家庭で伸び伸びと育っている子供の方が圧倒的に少ないのかも知れない。それを考えると、村井はせめてソフトボールが彼女たちの心の支えになってくれればと祈りたい気持ちになった。やがては一人の女となり、妻となり、母となる部員たちである。ソフトボールが彼女たちの人生にとって大きな宝となってくれれば、村井はそれ以上に望むことはないと思った。勝った負けたは二の次でいい。それよりも、心からソフトボールを楽しんでもらいたい。自分のために。
部員の中には家族を持たない子もいた。高島台中の学区には『子供の家』という孤児院があって、そこからも生徒たちが通学していたのである。1年生の沢木理香はそんな子供の一人だった。ソフトボールはユニフォーム代やらグローブ代、スパイク代など、何かとお金がかかる。村井は理香本人には市からの部活援助費が下りているという嘘をついて、理香の用具代の全てを自腹で払っていた。このことだけは、絶対に理香に知られてはならなかった。子供には子供なりのプライドがある。自分だけが顧問から特別待遇を受けていると知ったら、理香はさぞかし傷つくに違いなかった。
「邦彦さんもいろいろ出費があって大変ね。」 「いやあ、僕は飲みに行ったりしてお金を使うこともないし、お金を使うとしたら真澄とデートするときだけじゃないか。だから大丈夫だよ。それよりも、結婚しても僕がこういうことするの許してくれるかい?」
「私はあなたのそういうところに惚れてるんだから、許すも許さないもないわ。あなたのしたいようにしてくれればいい。私はあなたのそばで、マネージャー役を務めたいの。」
「それを聞いて安心したよ。僕のしていることに気付いている何人かの先生たちは、『独身貴族だからできるんだ』って陰口をたたいてる。僕はそれが悔しいんだ。お金に余裕があるからやってるんじゃない。必要だからやってるんだ。それがなかなか分かってもらえない。」
「確かにお金が自由にならない人にはできないことだものね。だけど、あなたのことだから、お金がなくても何とかしようと努力するんでしょう?」
「そうだね。夜中の道路工事かなんかやっちゃうかも知れないよ。」
「そうだと思った。邦彦さんはそういう人なのよ。でも私が何とか上手に家計をやり繰りするから心配しないでね。」
「それは頼もしいね。頼りにしてるからね。」 「がってんだい!」
真澄も変わったものだ。ぽんぽん冗談を飛ばすようなひょうきんな娘ではなかったはずなのに、邦彦と付き合い始めてからすっかり明るい性格に変わってしまった。人を愛したり、人から愛されたりすることは、人間にとってどれだけ大切なことか知れない。それは、大人でも子供でも同じことだろう。邦彦は真澄はもちろんのこと、ソフト部の部員たちを精一杯愛してあげようと思っている。周囲が何と言おうとも、彼は部員のために良かれと思うことは、絶対に実行するつもりでいた。そういう頑固なところも邦彦のいいところだ。絶えず周囲の目を気にしていれば、大怪我はしなくて済むかも知れないが、それではちっとも面白くない。最近の教師が『サラリーマン教師』などという汚名を浴びてしまうのも、そこらへんの意気地のなさが原因しているのだろう。
高島台中ソフト部は、顧問も生徒もそれぞれにさざ波を乗り越えながら成長している。青春をめいっぱい生きていると言っても良かった。
新入部員
春休みが終えて、新学期が始まるとかおりたちはいよいよ3年生だ。1年生部員の顔も何となくソフト部員らしいたくましさを漂わせるようになっていた。彼女たちも2年生と呼ばれるようになった。この時期になると、新入部員がどのくらい入ってくるのか、それだけが気になるところだ。練習の厳しいソフト部や他の活発な運動部にはなかなか部員が集まらなかった。朝練があるだけで、お弁当を作るのが大変だからと、親の方から拒否反応が出てしまう場合も多いらしい。新入生にとっては、どんな先輩がいるのかということの方が、よほど気になるらしかったが、とにかく女子は単独行動をすることがないから、部員が集まらない年にはほとんどゼロに等しいことがある。ソフト部も部長のかおりを中心として、新入生向けの部活説明会のパフォーマンスを考えるのに夢中になっていた。できるだけ、明るい雰囲気を伝えたい。先輩と後輩が仲のいいところを見てもらいたい。練習は厳しくても、普段は和気あいあいと過ごしていることを知ってもらいたい。そして、顧問の村井先生と山岡先生の名コンビぶりも宣伝したい。かおりの頭の中には、次々と構想が浮かんでは消えていった。
「かおり先輩、モー娘。の踊りなんかやっちゃだめですかね。」
新2年生のリーダー格の西川千秋が言った。 「モー娘。もいいかもね。でも誰が踊りの指導をするの?」
「モー娘。のことなら美紀ちゃんが何でも知ってます。」
内田美紀は俊足のひょうきん娘だった。芸能界の情報にもやたらと詳しい。
「美紀ちゃん、モー娘。の踊りをみんなに指導できる?」
「大丈夫ですよ。かおり先輩たちが恥ずかしさを忘れて頑張ってくれれば、きっとうまくいくと思います。」
ということで、ソフト部のパフォーマンスはモー娘。の踊りをしながら替え歌を歌うことに決まった。内田美紀が選んだ曲は『ラブマシーン』である。かおりからパフォーマンスの話を聞いて村井は説明会が楽しみになってきた。村井も若いアイドルたちが大好きだったのだ。
「モー娘。やるんだってさ。」
「モー娘。って『モーニング娘。』のことね。」
「そうだよ。僕はなっちゃんのファンなんだ。」 「邦彦さんがモー娘。なんか聴くの?」
「僕はね、昔からミーハーなんだよ。」
「全然知らなかったわ。あなたはクラシック音楽か、そうでなければ演歌一辺倒かと思ってたわ。結構いけてるのね。」
「気持ちだけはいつまでも若くいたいからね。CDなんかもよく買ってくるんだ。」
「そうだったわね。朝練の時のテープは全部邦彦さんが編集してるんですものね。」
「ミーハー男は嫌いかい?」
「そんなこと関係ないわ。ミーハーでも何でも、とにかく生徒のために一生懸命になっている邦彦さんがいれば、私はそれでいいの。」
「それにしても、あの子たちがモー娘。を踊る姿なんて想像できないよ。いつもはグランドで気合い入れて怒鳴ってるわけだろう。それがモー娘。のラブマシーンを歌って踊るなんて、ちょっと見物だよね。」
「ユニフォームを脱げば、みんな普通の女の子なのよ。きっとかわいいんじゃないかしら。」
ソフト部のパフォーマンスは大好評だった。新入生たちから一番大きな拍手をもらったのではないだろうか。《これでだいぶ部員が増えそうだぞ》と思った村井だったが、現実はそんなに甘くなかった。結果はソフト部に6人の新入部員の誕生である。やはり、バスケット部以外の運動部は嫌われた。バスケットはきついスポーツだが、子供たちの間では人気ナンバーワンの種目だったのだ。85名の女子の半分以上は文化部に流れてしまった。結果は次の通りである。
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女子バレー部・・・・・・・・・6名
女子バスケット部・・・・・・・ 15名
女子卓球部・・・・・・・・・・4名
陸上部・・・・・・・・・・・・・5名
女子ソフトボール部・・・・・6名
吹奏楽部・・・・・・・・・・・・ 18名
合唱部・・・・・・・・・・・・・7名
美術部・・・・・・・・・・・・・8名
調理部・・・・・・・・・・・・・6名
演劇部・・・・・・・・・・・・・ 10名
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2・3年生もちょうど6名ずつだったから、新入生も6名でバランスは取れているのかも知れない。あまり部員が多くても指導が大変だし、部員が少なければみんなにレギュラーのチャンスが与えられるので、ソフト部としては文句のない結果だった。しかも、練習の厳しさは承知の上で入ってきた6名だ。きっとしっかり者の集まりに違いない。村井は密かに期待していた。
新入部員は次の6名である。
中西こずえ・石川香織・安永涼子
増井恵美・久保田和恵・溝口紗耶香
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今年の1年生は大柄な子が多い。6名のうち3名は身長が165センチ前後はあった。みんなまだあどけない顔をしているが、村井が話をしていると、どの子もしっかりと村井の目を見つめている。集中力がある証拠だった。運動選手にとって一番大切なのは集中力だ。それがあれば練習次第で一流の選手に成長することができる。村井はますます楽しみになった。
「先生、今年の1年生は大きいですよね。」
安田かおりがにこにこしながら村井に話しかけてきた。
「そうだな。ピッチャー候補が3人はいる。みんな集中力もありそうだし、なかなかいいメンバーなんじゃないか。後の教育は部長のかおりに任せたからな。」
「はい、先生。私たちが引退するまでに、一人前の部員に育てて見せます。」
「その意気で頑張ってくれ。」
村井は6名の1年生を集めてじっくりと部活の話をした。
「うちの部は先輩が決して威張らないのが自慢なんだ。どんな小さな仕事でも、先輩たちが率先して見本を示してくれる。君たちは、その先輩たちの姿を見ながら、いろいろな仕事を覚えていってくれ。それから、部長の安田かおりは実に頼れる女だから、困ったことがあったら何でも相談するといい。あと、先生は男だから女の子の君たちには言いにくいこともあるだろう。そんなときは、副顧問の山岡先生に相談しなさい。何か質問はあるかな?」
すぐに手を挙げたのは、6人の中では一番小柄な中西こずえだった。
「先生、私たちも先輩たちみたいに強くなれますか?」
「それは君たちの努力次第だね。ただ、君たちは先生の話を聞くときに、じっと先生の目を見つめている。それはものすごく大切なことなんだ。そういう集中力のある君たちなら、きっと強くなれると思うよ。」
次に手を挙げたのは美人の増井恵美だった。 「先生、私はピアノを習ってるんですけど、部活の練習を早退することはできるんでしょうか。それとも、ピアノはやめた方がいいですか。私は何とか両立させたいんですけど。」
「先生にもし娘がいたらやっぱりピアノを習わせてあげたいと思う。先生も音楽が大好きだからね。ピアノをやめることは絶対にないよ。部活の練習は早退しても構わない。その代わり練習に出れる時間を大切にすればいいんだよ。これで安心したかな?」
「はい、私頑張ります。」
「他に質問がないようなら、これで今日は終わりにしよう。朝練は5月から参加するといい。まずは学校生活に慣れることが大切だからね。先生は怒るととても怖いけど、本当はとても優しい先生だから、心配しなくていいよ。」
1年生たちは顔を見合わせてほっとしたような表情をしていた。本当はそのことも聞きたかったのだろう。しかしさすがに勇気がなかった。村井は1年生たちの純真さに心を洗われる思いがした。《みんなで頑張っていいチームを作ろうな》村井は、下校して正門に向かう1年生の後ろ姿を眺めながら、心の中で語りかけた。
「1年生の反応はどう?」
「何だか、すごくしっかりしているよ。選び抜かれた6人という感じかな。」
「それは良かったわね。新入部員がゼロだったらどうしようかと心配してたの。」
「ゼロだったらまた来年に期待するさ。」
「でもあなたも部員たちもショックでしょう?一生懸命頑張ってるんだから。」
「神様は我々を見捨てなかったってことかな。それに2・3年生がしっかりしているから、同じようにしっかり者の1年生が集まるんじゃないかと思うんだ。類は友を呼ぶんだよ。」
「そうかも知れないわね。それが伝統なのね。邦彦さんが必死になって育て上げた伝統。」
「俺がじゃないさ。俺と君と部員たちみんなで作り上げた伝統だよ。」
「私も入れてくれるのね。」
「当たり前だろう。君がいなければ今の俺はいないも同然なんだから。」
「良かった、あなたの役に立てて。」
「これからもよろしく頼むよ。しっかり者の1年生とは言っても、ソフトボールに関しては全くの素人だからね。これからいろいろ手がかかるよ。」
「大丈夫。継続は力なり、でしょ?」
「そう、粘り続ければ何とかなる。」
「後はかおりたちの最後の大会を目指して頑張るだけね。」
「もう4ヶ月しかないんだね。あの子たちと別れるのかと思うと寂しいよ。」
「こら、弱音を吐いちゃ駄目よ。」
痛恨のミステイク
4月の春の大会でも高島台中学校は横浜市で優勝を飾った。冬休み中の厳しい練習にも不平一つ言わずに頑張ってきたかおりたちだ。氷の張ったグランドに石油をまいて氷を溶かしてから、寒さに震えながら練習試合をしたこともあった。高島台中のユニフォームはハーフパンツだったので、寒い冬の試合はこたえたが、誰一人としてジャージをはかせてくれとは言わなかった。そんな根性娘たちである。春の大会の優勝は当然だったかも知れない。
3年生は5月の下旬に修学旅行に出かけることになっていた。村井は常々学年の先生たちに迷惑をかけないように指導していたが、旅行前に改めて3年生だけのミーティングを開いてじっくりと話をした。
「いいか、最近の修学旅行は引率の先生たちが夜も眠れないほどのひどさだ。お前たちは常にソフト部の看板を背負っているんだから、旅行中に学年の先生たちに迷惑をかけるようなことだけはしてくれるなよ。」
しかし、京都・奈良への修学旅行と言えば、子供たちにとっては一大イベントである。旅行の開放感も手伝ってか、こともあろうに部長の安田かおりと副部長の中井静香が消灯時間後に布団の中で缶詰を食べているのを見つかって、廊下に正座させられたという。まったくどういう了見なんだろう。あれだけ迷惑をかけるなと念を押しておいたにもかかわらず、こういうことが起きてしまうとは。しかも、それがしっかり者の安田かおりと中井静香ときているから、村井はもうかんかんに怒ってしまった。
修学旅行の翌日は代休になっていたが、村井はかおりと静香を学校に呼び出した。
「お前たちはいったい何を考えてるんだ!お前たちの缶詰事件のお陰で、3年生の先生たちは見回りを強化して全然眠れなかったそうじゃないか。他人に平気で迷惑をかけられるような選手を育ててきた覚えはない!」
「先生、本当にどうもすみませんでした。どうしてもお腹が空いてしまって、我慢できなかったんです。」
「だいたい、修学旅行に缶詰を持っていくというのはどういうことなんだ?」
「私、夜になるとやたらとお腹が空くので、つい・・・・。」
かおりの言葉には全く力がなかった。
「お前たちは、部長と副部長という自分たちの立場も分かっていない。そんな奴らが、ソフトボールなんかやる必要はない!これから2週間は部活停止だ。お前たち二人だけじゃなく、部活動自体を停止するからな。どうしてそうなったか、自分たちの口からみんなに説明しろ!もうお前たちの顔も見たくないから、とっとと家に帰れ!」
「先生、何とか他のみんなにだけは部活をやらせてあげてはもらえませんでしょうか。」
「今さら部長ずらするんじゃない!自分のやったことをよく考えるんだな。とにかく部活停止と言ったら停止なんだ。横浜市で優勝したチームが、お前たちのような恥ずかしい選手をそのまま練習させて置くわけにはいかん!とにかく、もう帰れ!帰れと言ったら帰れ!」
村井は一度言い出したら絶対に妥協はしないことくらい、かおりたちは十分に心得ていた。かおりと静香は職員室を出ると、自主的にグランドを30周してから帰途についた。
「ねえ、静香、みんなに何て言って謝ったらいいんだろうね。」
「私たち、とんでもないことしてしまったのね。邦ちゃんが怒鳴り散らすのも無理ないよ。」 「ごめんね。私が缶詰さえ持っていかなければこんなことにはならなかったのに。」
「罪は二人とも一緒。それより、2週間も部活動をやらなかったら、夏の大会で関東を目指してきた私たちの夢もめちゃめちゃに壊れてしまうんじゃないかしら。」
「私たち二人が退部するわけにもいかないものね。逃げるのは卑怯だもの。」
「とにかく土下座してみんなに謝ろう。」
「そうするしかないね。それから、先生が少しでも早く私たちを許してくれるように、無駄かも知れないけど、毎日放課後グランドを30周しようか。」
「いいわよ。そうでもしなくちゃ、私たちのことみんなも許してくれないと思うしね。」
翌日の放課後は部員だけのミーティングが開かれた。かおりと静香が土下座をしてみんなに謝って、部活が2週間停止になることを告げた。かおりは自分の愚かさが本当に情けなくて、みんなの前で大泣きしてしまった。静香も大粒の涙をこぼしている。そんなかおりたちを見て、川田瞳が口を開いた。
「もういいよ、二人とも。起きてしまったことは仕方ないじゃない。今まで私たちはあなたたち二人にたくさん助けてもらったんだもの、こんなことで二人を恨んだりしないわ。それより、部活停止中の自主トレの方法を考えることの方が大切だと思うわ。」
部員たちは全員瞳の意見に頷いていた。
「それじゃあ、私と静香は放課後毎日グランドを30周するから、みんなは高速道路下の空き地で練習をしていてくれる?」
部員たちはかおりの意見に賛成した。これくらいのことで揺らぐようなチームワークではない。かおりは瞳の言葉が嬉しかった。一時は瞳のことを誤解して、みんなで不満を言い合ったりしていたのに、こんな重大な事件を起こした自分を瞳がかばってくれたのだ。かおりは何としてでも村井の心を変えさせなければと思った。どんな苦しい思いをしてもいい。
「静香、どんなに怒られてもいいから、毎日邦ちゃんのところにお願いに行こうね。」
「ひっぱたかれたっていいわ。毎日行こう。」
不思議なもので、修学旅行の缶詰事件をきっかけにしてチームの結束はそれまで以上に強固なものになったようだった。部員たちは見事に村井の作戦にはまってしまったのだ。
「邦彦さん、本当に2週間も練習をやらないつもりなの?」
「まさか、そんなことできるわけないじゃないか。こんな大切な時期に練習をなくしたら、夏の大会の夢をみすみす捨てることになる。」
「だったらどうして?」
「部員たちの結束を固めるためだよ。雨降って地固まるって言うだろう?きっと今頃はみんなで知恵を出し合って相談してるさ。」
「それじゃあ、かおりたちを許してあげるのね?」
「もちろんだよ。夜中に缶詰を食べるなんてまったくいい度胸さ。そのくらいの度胸がなくちゃ、最後の夏の大会は勝ち抜いていけないよ。一日だけ様子を見て、許そうと思ってる。」
「それを聞いて安心したわ。あなたは短気で頑固だから、自分で言い出したことには最後までこだわると思ってた。」
「短気で頑固はないだろう。缶詰一つでいちいち腹を立てていたらきりがないさ。それより、そのことを聞いて僕は腹を抱えて笑い転げてしまったよ。」
「かおりって面白い子なのね。わざわざ夜食用の缶詰を持っていくなんて。あの子が、旅行の前の晩にこっそり缶詰を鞄に詰めている様子を想像するとおかしくなっちゃう。」
「夜になるとやたらとお腹が空くんだって言ってたよ。」
「健康な証拠だわ。でも、二人とも思い詰めて自殺なんかしないでしょうね。」
「おいおい、物騒なこと言わないでくれよ。自殺なんかしないさ。そんなに無責任な連中じゃないよ。きのうもグランドをぐるぐる回ってたみたいだから、今日もきっとやるんじゃないかなあ。そうやって僕の心を変えようと必死になるに決まってる。」
「他のみんなは?」
「ソフト部には、専用グランドがもう一つあるじゃないか。」
「なるほど、高速道路下の空き地で練習するってわけね。」
「たぶんね。かおりの考えそうなことは手に取るように分かるよ。だてに長年顧問はしてないさ。」
「かおりたちは必死なんでしょうね。」
「そりゃあそうだよ。この時期に練習がなくなることの意味は、あの子たちが一番よく知っているはずだからね。」
「でも、なんだか邦彦さんってずるいわ。」
「どうして?大会前にチームが一丸となるいいチャンスじゃないか。」
「でもね、かおりたちの純真さをもてあそんでるような気もするの。」
「そうじゃないよ。僕だって真剣さ。あの子たちが思い通りの行動に出てくれなければ、今までの苦労は水の泡になるんだよ。そういう危険を覚悟の上での賭なんだ。」
「私のことは試さないでね。お願いだから。」 「さあ、どうだろうなあ。」
「意地悪ね、邦彦さんったら。」
「冗談だよ、冗談。真澄は夜中にこっそり缶詰を食べたりはしないだろう?」
真澄は、布団をかぶって缶詰を食べている自分の姿を想像して、思わず吹き出してしまった。
「わからないわよ。お腹が空けば、やるかも知れないわ。一つじゃなくて二つくらい。」
「そのときは僕にも分けてくれよ。」
「いやよ。私の缶詰なんだから。」
「君こそ意地悪じゃないか。」
二人は冗談を言い合って大笑いした。一方ではかおりたちが真剣になってランニングをしている。冗談を言って笑っている場合ではない。
ランニングが終えた後、かおりと静香は職員室の村井の所に部活再会の請願にやってきたが、村井は今日の所は耳を貸さない振りをして二人を帰してしまった。《明日許してやるから、もう一日だけ頑張れ》村井は心の中で応援している。もちろん、そんな村井の気持ちをかおりたちは知るよしもなかったが。
翌日の放課後、同じようにかおりたちが職員室にやってきたので、村井は二人を相談室に連れて行った。
「みんなの有り難さがよく分かったか?」
「はい。誰も私たちのこと責めたりしませんでした。みんないい人たちばかり・・・・。」
かおりはこぼれ落ちる涙を止めることができなかった。静香も泣いている。
「分かったのなら、それでいい。」
「どういうことですか?」
「何をぐずぐずしてるんだ。早くみんなを呼んでこないと日が暮れてしまうぞ。少しでも長く練習をしなければ、夏の大会の夢は消えてしまうんだ。早く行け。」
「先生、ありがとうございます!」
かおりと静香は飛ぶようにして相談室を抜け出すと、まっしぐらに高速道路下の空き地へ走っていった。
「みんな、お許しが出たわ。さあ、早くグランドに戻りましょう。まだまだ練習時間は残ってるわよ。」
かおりの大声を聞いて、みんな飛び上がって喜んだ。《みんな本当に迷惑かけてごめんね。そして村井先生本当にありがとうございます。》かおりは心の中で祈るようにつぶやいた。
たった一つの缶詰が原因で犯してしまった痛恨のミステイク。しかし、それは幸運にも高島台中ソフト部の結束をより一層強める結果となった。《やっぱり君らは僕が信じていたとおりの娘たちだったな。》村井は、嬉しそうにグランドの練習を再開した部員たちの姿を眺めていた。真澄がいうように、村井の作戦はちょっとずるかったかも知れない。しかし、時にはこういう駆け引きも必要なのだ。村井にしても、部員を信頼していたからこそできた賭だった。夏の大会は目前に迫っている。
部活動激励会
夏の大会を目前に控えた高島台中学校では、学校長の田中信太郎の提案で、大会に関係する顧問同士の激励会を開くことになった。要するに飲み会である。幹事を任せられたのは、ソフト部の村井だった。村井は真澄と相談して、横浜駅の近くにある寿司屋を宴会場に選んだ。そこは二人の思い出の場所でもあった。出席者は次の通りである。
村田一雄(野球部)・木島亮介(女バレ)
神崎浩司(男卓球)・西田美香子(女卓球)
新井 徹(女バス)・前川光洋(陸上)
山内香織(吹奏楽)・佐々木信子(演劇)
村井邦彦(ソフト)・山岡真澄(ソフト)
田中信太郎(校長)・久保島浩介(教頭)
柳田三郎(PTA会長)・夏木恵美(事務)
倉木麻紀(養護教諭)・大木大蔵(用務)
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何という豪華なメンバーなのだろう。今年の夏の大会ではやはり女子ソフト部の活躍が一番の期待の的だった。司会役の村井は開会に当たって校長の田中に挨拶をお願いした。
「みなさん、いよいよ運動部の夏の大会がやって来ます。吹奏楽部はコンクールがありますね。みなさんの普段からのご苦労には、私は本当に感謝しておるのです。私も若い頃はバレー気違いと呼ばれたものですが、いくら運動が好きでも、またいくらその分野に長けていても、部活動の運営というのは大変な苦労です。本当なら二倍の給料を出してみなさんの苦労に報いたいのですが、それは私の力の及ばぬ所です。せめて今晩の宴会は、全て私のおごりということで、心ゆくまで楽しんでください。みなさんの健闘を心から祈っています。」
宴会の費用が全て校長の財布から出るなどということは、幹事の村井自身も今初めて耳にすることだった。みんなは大喜びだ。次に挨拶をしたのは、PTA会長の柳田三郎だった。
「私たち保護者は、みなさんの苦労にどれだけ応えられているか分かりません。しかし、先生方のご苦労には本当に心から感謝しているのです。高島台中学校が落ち着いた雰囲気を保っていられるのも、部活で頑張っておられる先生方のお陰だと思っています。どうか、最後の大会を悔いの残らぬものにできるよう、ベストを尽くして頑張ってください。ささやかな応援ではありますが、PTAから各運動部に一つずつ8リットル入りの飲用タンクを贈らせていただきますので、どうぞお使いください。」
飲用タンクがもらえるという話も、ここで初めて聞いた。誰もがみんな部活の顧問たちに精一杯の応援をしてくれているのだ。事務の夏木恵美にしても、学校施設員の大木大蔵にしても、部活動を通じて育つさわやかな子供たちを本当に愛おしく思っていた。養護教諭の倉木麻紀も、顧問たちが部員の怪我にどんなに気を遣っているか、誰よりもよく知っていた。教頭の久保島浩介は、自分の提案で子供たちの活動場面を撮影した写真展を、毎週のように特設ギャラリーで行ってくれた。こんなに部活動の顧問が厚くもてなされている学校が他にあるだろうか。村井だけでなく、どの部の顧問も田中校長を中心に作り出されたそんな雰囲気に感謝したい気持ちだった。
最後は、大会に臨むそれぞれの顧問からの一言ずつの挨拶である。村井は全員に3分間の時間制限を勝手に与えてしまった。みんな気持ちがたかぶっているので、しゃべり出したら止まりそうにない。村井自身も、言いたいことが山ほどもあったのだ。最後に挨拶したのは村井だった。司会役だから最後になっても仕方ない。
「僕は、ソフト部の娘たちを本当に誇りに思っています。試合に勝つからではなく、努力を惜しまないからです。そして、私たちを陰になり日向になり支えてきてくださった皆様のためにも、僕は全精力を注いで最後の夏の大会に臨みたいと思います。そして、できれば関東大会に行ってみたいです。以上。」
閉会の挨拶は教頭の久保島が務めた。あっという間の3時間だったが、今までこんなに楽しい思いをした宴会があったろうか。誰もが笑顔でそれぞれの帰途につくことができたのだった。
学校というところは、実にクールだ。部活をしている顧問は、「好きだからやってるんでしょう?」的な目で見られることさえある。自分が顧問をしていなければ、部活動に関心を持つことさえない。しかし、子供たちにとって部活動の持つ意味の大きさは計り知れない。自分が活躍できる場があるということは、子供にとっても大人にとっても大切なことなのだ。高島台中学校の特殊な雰囲気は、全て学校長の田中信太郎のお陰だった。今時「文武両道」などと言って、部活を奨励する校長は少ない。職員が過労で倒れてしまっても困るから、「どうかみなさん、無理のない範囲でよろしくお願いします。基本的にはご家庭を大切にして下さい。」
などと、責任逃れが見え見えの挨拶をする校長が何と多いことか。「何かあったら、全て自分が責任を取るから、思い通りにやってくれ。」と胸を張って堂々と言い切る校長など、田中信太郎ぐらいのものだろう。そんな校長の熱意は全職員に確実に伝わっていた。だから、高島台中では、夏の大会への職員の応援も非常に盛んである。どんな遠いところの県大会にでも、何人もの職員が足を運んでくれる。村井は、そんな恵まれた雰囲気の中で顧問生活をしてこられた自分が本当に幸せだと思った。そして、周囲の期待に応えるためにも、自分と娘たちの共通の夢を最後まで追い続けたかったのだ。
宴会の翌日、村井は校長室の田中信太郎を訪ねた。
「校長先生、ゆうべは本当にどうもありがとうございました。僕は、先生のような校長の下で働くことができて本当に幸せでした。」
「こらこら、村井先生。あなた、転勤でもするつもりですか。まだまだこの高島台で活躍してもらわなくちゃ困るんだが。」
「いえ、転勤など考えていません。ただ、校長先生のお気持ちがとにかく嬉しくて、一言お礼を言いたかったのです。」
「それはていねいにどうもありがとう。村井先生の関東大会への夢は必ず叶うと信じていますよ。山岡先生と力を合わせて、子供たちの力を十二分に発揮させてあげて下さい。」
「はい、頑張ります。先生は応援に来て下さるんですか?」
「いや、私は県大会の決勝戦以外はソフト部の応援には行かないことに決めました。これは私なりの応援の仕方だと思って下さい。私を引っ張り出したかったら、ぜひ県大会の決勝戦まで駒を進めることですね。」
「どんなことをしてでも、校長先生に見に来ていただきます。」
「楽しみにしてますからね。」
村井は体の底からエネルギーがわいてくるのを感じていた。《絶対にやるぞ!》村井の夢は今まさに現実になろうとしている。
うれし涙の夏の大会
いよいよ夏の大会が始まった。高島台中ソフト部は予選リーグをトップで抜けて、見事に決勝トーナメントの第1シードを獲得した。部員たちの気力も十分である。例の缶詰事件をきっかけに結束を固めた彼女たちは、はた目にも分かるほどのチームワークで試合をこなしていた。安田と中井のバッテリーも冴えまくっている。相手チームの強力打線も、二人の前には不発の花火だった。決勝トーナメントも順調に勝ち進んだ高島台中は、決勝戦で再び立花中学と顔を合わせることになった。この夏の大会で立花を敗ってこそ、初めて玲子たちの雪辱を果たすことができるのだ。試合は緊迫した雰囲気の中で進み、1対0で高島台中がリードしたまま最終回を迎えた。立花中は3番打者からの好打順である。しかし、好投を続ける安田かおりの前に立花中のクリーンナップは三者凡退に終わってしまった。優勝である。玲子たちが悔し涙で引退することを強いた立花中を破っての優勝である。かおりは応援に来ていた玲子と抱き合って喜びを分かち合った。
「玲子先輩、先輩たちのかたき、確かにとりましたよ!」
「ありがとう、かおり。ありがとう、みんな。あなた達も本当にたくましく成長したのね。去年の緊張しまくっていたあなたたちが嘘みたいだわ。私、本当に心から嬉しくて・・・・。」
久しぶりに見る玲子の涙だった。
「玲子先輩、まだ泣かないで下さいよ。先輩たちと一緒に追いかけた関東大会の夢は、まだこれからなんですから。その夢が叶ったとき、思いっきり泣きましょうよ。」
「そうね。あなたたちにとっては、今日の優勝はまだほんの始まりに過ぎないのね。」
「そうです。本番はこれから。私たち、全力で闘いますから、玲子先輩たちもしっかり応援して下さいね。県大会で優勝して、玲子先輩を胴上げしてあげます。」
玲子は本当に驚いていた。何か不思議な力がかおりたちを守っているように見える。それがいったい何なのかはわからなかったが、かおりたちは絶対に負けないという予感がするのだ。玲子の脳裏には、まだ弱々しかった頃のかおりたちの姿が蘇っていた。《みんな、本当に立派になったわね。こんな後輩が持てて私も幸せよ。》玲子は心の底から幸せをかみしめていた。
県大会は県内の8つのブロックから選び抜かれた全26チームのトーナメントで実施される。横浜1位で出場する高島台中は2回戦からのスタートだった。県大会前日の夜、邦彦は真澄と江の島に来ていた。
「緊張する?」
「しないって言ったら嘘になるけど、不思議と落ち着いてる感じだよ。真澄と一緒にいるからかなあ。」
「私も全然緊張しないの。あの子たちが負けるはずないって信じ切ってるから。」
「油断は禁物だなんていう決まり文句は、明日は言わないつもりなんだ。とにかく思いっきり力を出し切ってこいって言おうと思って。」
「最後の大会だから、伸び伸びとやらせてあげたいものね。」
「そうだよ。今まで苦しい練習をたくさん乗り越えてきたんだ。最後くらい楽しませてあげたいじゃないか。」
「邦彦さんも、監督として一回り大きくなったみたいよ。」
「そうかなあ。僕はちっとも変わってないと思うんだけど、ただ短気じゃなくなったかなとは思う。」
「あの子たちを上手に励ましてきたものね。缶詰事件の時はちょっとドキッとしたけど。」
「ああ、あれね。あれはかおりたちが予想通りの行動を取ってくれたんで助かったよね。」
「あなたが一生懸命に育ててきた子たちだもの。あなたの期待を裏切るようなことは絶対にしないわよ。」
「僕は、怖い顧問が一番いいんだってずっと思い続けてた。だけど、本当は真実を見抜けてそれを冷静に指摘できる顧問が一番いいんだよね。そういう顧問の方が、ただ怒鳴り散らす顧問より怖いと思うし。それに、あの子たちがいろいろな問題を一生懸命に乗り越えながら部活をやっている姿を見ていて、本当に心から愛おしく思えるようになったんだ。だから、たくさん褒めてあげたい。」
「やっぱりあなたは変わったわ。変わらないのは私への愛だけ。」
「自信たっぷりだね。」
「そりゃあそうよ。私がこれだけ一生懸命に愛してるんだもの。邦彦さんがそんな私を裏切るはずないじゃない。」
「それもそうだけどさ。」
「夏の大会が終わったら、私たちいよいよ結婚するのね。」
「何だか嘘みたいだよ。去年の今頃だったよね、初めて真澄とキスしたのは。」
「そうよ、職員室でしちゃったのよ。罰が当たるかと思ったわ。」
「真澄が突然僕の腕の中に飛び込んできたんだったよね。」
「だって、そうでもしなくちゃ、邦彦さんは私の気持ちに気付いてくれなかったじゃない。」
「鈍感だからな、俺ってさ。だけど、あのときはっきり分かったんだ。俺も君のことを愛しているんだってね。」
「思いっきり飛び込んで良かった。」
「男は度胸だなんて言うけど、女も度胸が必要なんだよね。」
「そうよ、女も度胸よ。」
「明日は頑張るぞ!」
邦彦は海に向かって思いっきり叫んだ。
「俺はなあ、愛してる真澄のためにも絶対に夢を叶えるぞ!負けるもんか!」
真澄はちょっと恥ずかしかったが、そんな邦彦の大胆さも好きだった。《私があなたを守ってあげるわ。》真澄はそっとつぶやいた。
いよいよ県大会の当日である。昨日の1回戦でベスト16が出そろっていた。高島台中はまずはベスト8をかけて相模原の高浜中学校と対戦する。相変わらず安田と中井のバッテリーは調子が良く、相手になかなか点を与えない。打線も爆発して、2回戦は10対0のコールド勝ちだった。次はベスト4をかけた3回戦である。相手は去年の新人戦の決勝で敗れた茅ヶ崎の岸田中学だった。岸田中学は春の関東選抜で見事に3位になっていた。関東3位の強豪だ。相手にとって不足はない。村井は闘志満々だった。
「みんな、去年の借りを返すからな。」
「先生、大丈夫です。私たちは絶対に負けません。玲子先輩を胴上げするまでは絶対に負けられないんです。みんな、気合い入れて行こうね。」
「よし、その意気だ。思いっきりやってこい。」 試合は意外な展開を見せる。先攻をとった高島台中が初回の表の攻撃で一気に3点を奪ってしまったのだ。そういう試合展開に慣れていなかったエリートチームの岸田中は焦った。そして焦れば焦るほど打線は火を噴かなかった。最終回の表で5番打者の川田瞳がホームランを打って1点を追加した高島台中は、裏の岸田中の攻撃を3人でぴしゃりと押さえて、4対0で勝利を収めた。岸田中は県大会の優勝候補筆頭だっただけに、その落胆ぶりは大変なものだった。しかし、ベンチで泣きじゃくる岸田中のメンバーに同情している暇などない。明日はいよいよ準決勝と決勝が待っている。準決勝の相手は大和市の福井中学校だ。
「さあ、今晩はゆっくり眠って、明日の試合のために十分体力を回復しておけよ。俺たちの夢が叶うまであと一歩だ。みんな頑張ろうな。そうそう、瞳のホームランはすごかったぞ。あれこそまさに目の覚めるようなホームランって言うんだ。苦労してきた甲斐があったな。」
みんなも瞳の家庭の事情はある程度知っていた。瞳はこみ上げてくる涙をぐっと抑えた。
「先生、私、明日も打ちますよ。」
「明日も打ってくれ。そして、ホームランを打ったら思いっきり先生の腕の中に飛び込んでこい。抱きしめてやるぞ。」
瞳は村井に抱きしめられている自分の姿を想像して、少し顔を赤らめた。
「先生、約束して下さいね。」
「ああ、約束するとも。」
瞳は、村井に励まされながらここまで部活を続けてきた。村井の優しさが身にしみて分かっていたのだ。そして、村井に対してほのかな恋心を抱いていた。恋する乙女は恐ろしいから、明日も本当にホームランを打ってしまうかも知れない。ホームランを打った瞳を村井が抱きしめたら、真澄はやきもちを焼くのだろうか。部員たちが帰ってしまってから、真澄が邦彦に言ってきた。ちょっと口をとがらせている。
「ねえ、あんな約束しちゃっていいの?」
「そんなに簡単にホームランなんか打てるもんじゃないさ。」
「私ね、女同士だから分かるのよ。瞳はあなたのこと好きだと思う。だから、あまり瞳の気持ちをもてあそばないでね。」
「もてあそぶだなんて、とんでもないよ。」
「抱きしめてやるなんて言うから、瞳が真っ赤になってたじゃない。ああいうのをもてあそぶって言うのよ。もう、鈍感なんだから。」
「そうなのか。俺って本当に鈍いんだなあ。」 「まあ、いいわ。明日だけは瞳を抱きしめるの許してあげる。明日だけよ。」
福井中学校との準決勝は、息詰まるような接戦になった。ピッチャーの安田に珍しく疲れが見えて、その途端に相手の打線につかまってしまったのだ。試合は3対3で最終回を迎えた。高島台中は後攻を選んでいる。表の福井中学校の攻撃は1番からだった。最初のバッターにはうまくセイフティーバントを決められてしまう。2番打者が送りバントでワンナウト2塁の得点チャンスだ。バッターは県内屈指の強打者である。かおりは自分のストレートに伸びがなくなってきたのに気付くと、思いきってチェンジアップを使ってみた。かおりの作戦は見事に成功して3番打者はサードのファウルフライに打ちとった。ツーアウトをとってほっとした瞬間にかおりには油断があった。4番打者はストレートの初球を左中間にライナーで飛ばした。次の打者はショートゴロで打ちとってチェンジになったものの、試合は3対4でリードされたまま最後の攻撃を迎えることになってしまった。高島台中の攻撃は3番の安田かおりからだ。
「いいかみんな、緊張なんかしたら駄目だぞ。自分たちの今までの練習に自信を持って、とにかく思いっきりバットを振り切ってこい。結果なんか気にしなくていい。とにかく迷わずに行くんだ。いいな。」
「はい!」
かおりは村井の指示通り、2球目の甘いストレートをフルスウィングした。センター前のヒットである。同点のランナーが出て、選手たちの意気はさらに上がった。とにかく同点にしなければならない。村井は4番打者の中井静香に送りバントを命じた。静香は上手なバントを一塁線にころがして、かおりをセカンドに進めた。ワンナウト2塁でバッターはきのうホームランを打っている5番の川田瞳である。瞳は自分の好きなボールが来るまでじっくりと待った。3ボール2ストライクで迎えた6球目は、瞳の狙っていた真ん中やや内角のストレートだった。瞳は思いっきりバットを振り切った。高々と宙に舞った打球はぐんぐん伸びて行く。レフトがフェンスぎりぎりまでバックするが、最後は打球を見送った。瞳は本当にホームランを打ってしまったのだ。しかもそれは値千金のサヨナラ2ランホームランだった。村井はきのう瞳と交わした約束を思い出した。《よし、思いっきり抱きしめてやろう。》ホームべースをしっかりと踏みしめてベンチに帰ってきた瞳は、そのまま村井の腕の中に飛び込んだ。《お前は大した女だよ。瞳、本当によくやったぞ。》村井は目頭に熱いものがこみ上げてきた。そして、瞳を思いっきり抱きしめてやったのだった。
関東大会へは神奈川県から決勝に進んだ2校が出場するので、瞳のサヨナラホームランで高島台中はすでに関東大会への出場権を獲得していた。選手たちは大喜びだったが、その騒ぎもかおりの一言ですぐに収まった。
「まだ仕事が残ってるわ。優勝して、玲子先輩を胴上げするんでしょ。こんなところで大騒ぎしていちゃ駄目よ。みんな気持ちを引き締めて、決勝に臨みましょう。」
村井の言うべきせりふは、全てかおりが言ってしまった。村井はただ黙って頷くだけだった。《かおりもずいぶん成長したものだ。谷澤のことで悩んでいた時代が嘘のようだ。もう顧問の俺は必要ないな。》村井は、心の中でつぶやいていた。子供たちはもう自分たちの翼で飛んでいる。村井はただ見守ってやれば良かった。
決勝の相手は海老名の瀬戸内中学校だ。村井にとっては、いろいろな思いのある学校だった。自分をここまで育ててくれたのは、瀬戸内中学の神田輝雄だったのだ。
「いやあ、村井先生、関東大会出場おめでとうございます。夏の県大会の決勝戦で先生と試合ができるなんて、こんなに嬉しいことはないですよ。」
「僕だって同じです。神田先生とこんな形で対戦できるなんて、夢のようです。今日は胸を借りて思いっきり闘いますよ。」
「村井先生のチームは本当に強い。子供たちが伸び伸びと試合をしているじゃないですか。うちには勝ち目はないかも知れないですね。だけど全力で闘いましょう。」
新チームがスタートしてからこれまでの1年間で、瀬戸内中学とは10試合も練習試合をしている。結果は5勝5敗の五分五分だった。どちらが優勝してもおかしくない。今では、村井も神田と同じくらい貫禄のある指導者に育っていた。勝負の女神がどちらに微笑むか。
ふと応援席を見上げた村井は、そこに約束通り田中校長の姿を発見した。田中校長は村井に向かってしきりに帽子を振っている。実は県大会の2回戦からずっと応援に来ていたのだ。ただ、村井にプレッシャーをかけたくなくて「決勝戦にしか行かない。」と宣言しただけだった。田中校長は高島台中の快進撃に感動していた。特に準決勝の川田瞳のサヨナラホームランには涙を流して喜んだものだ。《村井先生、あなたの夢はとうとう実現しましたね。後は子供たちに任せなさい。今度は子供たちが自分たちの夢を実現する番だ。》田中校長は心の中で村井に向かって祝福の言葉をつぶやいていた。
高島台中も瀬戸内中もともに連戦でピッチャーが疲れていた。恐らくは打撃戦になるだろう。高島台中が先攻をとった試合は、予想通りの打撃戦になった。お互いに点を取り合って、6対6のまま最終回に突入する。高島台中の打順は1番からの好打順だった。1番打者の立花麗華は俊足を活かしてショートへの内野安打を打った。2番打者の西川千秋は当然送りバントかと思われたが、村井は思いきってヒットエンドランのサインを出した。千秋の打球はレフト前に飛び、ノーアウト2・3塁の大きなチャンスを迎えた。3番打者はキャッチャーの安田かおりである。かおりは捕手の自分と投手の静香が失った点数を自分のバットで取り返したかった。そして、初球の甘いストレートに迷わずバットを出した。打球は左中間にころがる2塁打だった。2点の勝ち越しである。続く4番打者の中井はセカンドゴロに終わり、ワンナウトランナー3塁の場面で5番打者の川田瞳の登場だ。瞳はやはり自分の好きな球をじっくりと待った。そして4球目の甘いストレートをセンター前にはじき返した。かおりがホームインして3点目が入る。続く木村綾子と篠原こずえはそれぞれ外野フライに終わったが、最終回の表の3点はずっしりと重かった。
仲間の援護に勇気を得た中井静香は、最終回裏の瀬戸内中学の攻撃を見事に3人で打ちとった。夢にまで見た優勝の瞬間である。部員たちはみんなピッチャーの中井静香のところに集まって泣きながら大喜びしている。その光景を見ていた村井の目にも熱い涙がこみ上げてきた。《とうとうやってしまったんだな、あの子たちは。》村井はこみ上げてくる感動を、どうしていいか分からずに、いつまでも部員たちの喜びの姿を眺めていた。
ホームベースを挟んで整列して、正式に主審からゲームセットの宣言がなされると、かおりはみんなを連れて玲子の所へ駆けていった。
「玲子先輩、やりましたよ!さあ、みんな玲子先輩の胴上げよ。落としたら承知しないからね。さあ、行くわよ!」
玲子は後輩たちの手によって何度も宙に舞った。何とすばらしい後輩たちなのだ。いつまでも自分のことを忘れずにいてくれるなんて。玲子はうれし涙でもう空さえもはっきりとは見えなかった。
そして玲子が胴上げされている同じ瞬間に、高島台中から応援に駆けつけていた職員たちも、村井と真澄を交互に胴上げしていた。それは本当に美しい光景だった。
一通りお祭り騒ぎが終わったところで、村井は最後のミーティングを始めた。
「みんな、優勝おめでとう。みんなが自分たちの力で勝ち取った勝利だよ。本当におめでとう。先生は、本当に嬉しい。君たちは先生の誇りだ。」
もうそれ以上の言葉はなかったし、あと一言口にしたら村井の目からは涙がこぼれ落ちていたことだろう。
「村井先生の言う通りよ。あなた達の闘いぶりは本当に立派だった。後は玲子たちの夢を連れて、関東大会でもう一暴れね。」
村井の心情を察して、真澄が明るい雰囲気を取り戻そうと必死だった。
「村井先生、山岡先生、本当にありがとうございました。私たちは先生たちがいなかったらとっくにどこかで迷子になっていたと思います。頼りない私が部長を務めていたんですから。関東大会では、思いっきりソフトボールを楽しんで来たいと思います。」
かおりはすっかり立派なリーダーに成長しきっていた。顧問の言いたいことは、全部かおりが言ってしまうのだから。よくもここまで育ってくれたものだと、村井も真澄も感心するばかりだった。
立派な優勝旗をかおりが持って、応援団も一緒になって優勝の記念写真を撮った。誰もがみなこの上なく嬉しそうな顔をしている。神奈川1位で出場した関東大会は、準決勝まで勝ち進み、そこで群馬の竹山中学に破れてしまった。全国大会への出場権をかけて闘った3位決定戦も東京の三島中学に敗れ、かおりたちの夏はここに終わりを告げた。関東大会3位は本当に立派な成績である。神奈川のチームが夏の関東大会でベスト4入りを果たしたのは、もうしばらくぶりのことだった。長い長い夏だった。そしてまた新チームがスタートするのだ。
関東大会が終わって、村井は4日間の休暇を部員たちに与えることにした。市内大会からの連戦で、みんな疲れ切っていたからである。もちろん、村井自身も疲れていた。休暇の初日に村井は真澄と一緒に鎌倉に出かけた。久しぶりの鎌倉だった。
「ねえ、子供たちには私たちの結婚のこといつ話しましょうか。」
「新チームのスタートと同時に発表するか。きっとみんなびっくりするだろうな。」
「結婚式が9月だから、あんまり遅くに知らせるのも申し訳ないものね。」
「しかし、ちょっと照れるなあ。鬼顧問の面目は丸つぶれになるだろうし。」
「いいじゃない。これからは優しい顧問に変わっちゃえば。」
「そうはいかないよ。俺はグランドで叫んでるのが似合ってるんだ。」
「まあ、野蛮だこと。私はそんな野蛮人と結婚するわけね。」
「野蛮人はないだろう。真澄はそんな俺のことが好きになったんじゃなかったのか?」
「そうよ。私は野蛮人が大好きなの。」
「やめてくれないかなあ、その野蛮人っていうやつは。せめてワイルドな人とか何とか言い方があるだろうに。」
「冗談よ。野蛮人だなんて本当は思ってないから安心して。それより、結婚式には子供たちも呼ぶのかしらね。」
「呼ばなくたって、絶対に集まって来るさ。玲子やかおりが黙ってるわけないだろう。」
「そうね、しっかり者の二人だものね。」
「だから、ちゃんと招待しよう。披露宴の席にはつけなくても、どこか別室で食事ができるように準備してもらえばいいさ。」
「お金たくさんかかっちゃうけどいいの?」
「独身貴族だからね。お金なら捨てるほどある。いや捨てるほどにはないけど、でも子供たちにご馳走するくらい何でもないよ。」
「分かったわ。あなたの言うとおりにするわ。私は従順な妻だから。」
「いつまで続くかなあ、その従順な妻とやらは。すぐに俺を尻に敷いたりするんじゃないのか?女は怖いからな。」
「まあ失礼ね。私は怖くなんかないわよ。」
二人の会話はいつもこの調子だ。それは幸せの証拠でもあったが。
「ところで、瞳だけど、私たちの結婚を知ったらきっとショックを受けるわよ。私のこと恨むかしら。やだなあ、そんなことになったら。」
「余計な心配するなって。瞳だってきっと分かってくれるさ。」
「そうかなあ。私の経験から言って、しばらくの間はショック状態が続くと思うけど。」
「本当にホームラン打つとは思わなかったよ。子供の精神力ってすごいんだな。」
「私もびっくりしちゃった。でも、瞳のホームランのお陰で決勝まで進めたんだから、あの子には感謝しなくちゃね。」
「本当に不思議な子だよ、あの子は。」
「とにかく邦彦さんの関東大会出場の夢が叶って、私も本当に嬉しかった。」
「ありがとう。夢って本当に現実になるものなんだね。俺はさ、夢は夢のまま終わるんじゃないかって、心のどこかであきらめの気持ちがあったような気がするんだ。それを、あの子たちが実現させてくれた。『先生、夢をあきらめちゃ駄目よ』って、あの子たちから教わったような気がするんだ。」
「あの子たちは、絶対に優勝するんだって、最後まで信じ切っていたものね。胴上げされた玲子の嬉しそうな顔見た?」
「ああ、ぼろぼろ泣いてたね。うちの部ってああいうところがいいよね。後輩が心から先輩を慕っている。去年の夏は悔し涙の夏だったけど、今年はうれし涙の夏になった。玲子もきっと自分のことのように嬉しかったと思うよ。」
「かおりたちがここまで成長できたのも、玲子たち4人の先輩が精一杯頑張る姿をいつも見てきたからですものね。玲子たちがまいた種が見事に成長して大きな花を咲かせたんだわ。青春真っ盛りのあの子たちがうらやましい。」
「俺たちだって青春真っ盛りじゃないか。」
「そうだけど、私たちもあの子たちみたいにきらきら輝いてるのかしら。」
「きらきら・・・・か。関東大会で負けてしまったときのあの子たちも、満足そうにきらきら輝くような笑顔だったよね。」
「全てを出し切ったからよ。あの子たちの夢は、玲子を胴上げしてあなたを関東大会に連れてゆくことだったんだもの。だから、後は勝ち負けなんか関係なかったんだわ。かおりが、関東大会では思いっきりソフトボールを楽しみたいって言ってたじゃない。」
「とにかく子供たちの力ってすさまじいよ。俺が育てたなんて思ってたけど、気がついてみるといつの間にか自分たちの翼で自由に空を飛び回ってるんだ。県大会では本当にそんな感じがしたんだ。」
「巣立ったのよ、あなたのもとから。」
9月1日の始業式の朝の打ち合わせで、ソフト部の夏の大会での大活躍が改めて報告された。田中校長が満面に笑みをたたえて挨拶したのだ。まだあのときの興奮が冷めやらぬといった感じだった。
「みなさんの応援のお陰で、村井先生と山岡先生の長年の夢が実現しました。私はあれほど感動した試合を見たことがない。特に私は、3年生の川田瞳さんのサヨナラホームランが印象に残ってます。聞くところによれば、彼女のご両親は離婚してしまって、彼女は一人で苦労を乗り越えながらソフトボールに打ち込んできたそうです。その話を聞いていたので、私はあの子のホームランが本当に涙が出るほど嬉しかった。あのホームランが大きな自信となって、彼女はこれからもたくましく生きていってくれると信じています。村井先生、山岡先生、子供たちをここまで立派に育ててくれて、本当にどうもありがとう。私はあなたたちを誇りに思います。この高島台中学校で校長をしている自分の幸せを、私は痛切に感じています。
それからみなさん、ついでと言っては何ですが、嬉しい報告がもう一つあるんです。村井先生と山岡先生が今月の末にめでたく結婚式をあげることになりました。もうすでに式の案内状をもらって知っている方もいるとは思いますが、ソフト部の大活躍が二人の幸せに花を添えたと私は思っているんです。どうぞ、お二人とも末永くお幸せに。」
何だか最後は結婚式の挨拶のようになってしまった。職員室のおおかたの人間は村井たちの結婚のことは知っていたが、こうして改めて校長に発表されると、とても照れくさい感じがした。山岡真澄は顔を真っ赤にして下を向いてしまっている。《君を絶対に幸せにするからね。》いじらしい真澄の姿に、村井は心の中で優しく語りかけていた。
始業式が終わった後の表彰式で、かおりたちは市大会と県大会の立派な優勝旗と、県大会の金メダルに関東大会の銅メダルをもらった。
優勝カップも二つあったから、何とも派手な表彰の儀式となった。体育館に全校生徒の拍手がこだまする。かおりはこの瞬間で時が止まってくれればいいと思った。晴れ晴れしい部員たちの笑顔を見て、村井も真澄も本当に幸せな気持ちだった。
その日の放課後、村井と真澄はかおりたちに会議室に呼び出された。村井たちが部屋にはいると、1年生から3年生までのソフト部員が全員そろっている。卒業した玲子たちまでがいるではないか。村井は驚いてしまった。
「先生、ご婚約おめでとうございます。いつまでもお幸せに。」
かおりが代表で挨拶すると、玲子が大きな花束を村井と真澄に手渡した。
「みんな、どうもありがとう。長い間隠してて本当にすまなかった。かおりたちの夏の大会が終わるまではと思って、黙ってたんだ。結婚式にはみんなで押し掛けてきてくれ。」
「先生、私たちずっと騙されてたんですから、お腹いっぱい食べさせてくれますよね。」
「ああ、もちろんだとも。好きなだけ食べるといい。しかし、豚になっても先生たちは責任は取らないからな。」
部屋中に笑い声が響いた。真澄が心配していた川田瞳もにこにこしている。最初に村井たちのことを聞いたときには真澄は寝込むほどのショックを受けたが、相手が優しい山岡先生とあってはあきらめる他はない。瞳のショック状態も3日ほどするとすっかり回復していた。
「先生、あの、代表の挨拶があるんですけど、聞いてくれますか。瞳、お願いね。」
川田瞳が前に出て、村井たちのところにやって来た。どうやらちゃんと便せんに下書きしているらしい。瞳はそこに書かれた文字を、ゆっくりと読み上げていった。
「村井先生、山岡先生、本当にご婚約おめでとうございます。私たちは村井先生のことが大好きだったので、最初に結婚のことを聞いたときにはショックを受けました。でも相手が山岡先生なら仕方ありません。私たちは山岡先生も大好きだからです。村井先生と山岡先生は私たちに空を飛ぶ翼をくれました。私たちはその翼で関東大会まで飛んでゆくことができたんだと思います。今度は、私たちがお二人に幸せの翼をプレゼントする番です。その翼で幸せに向かってお二人で飛んでいってください。先生、今まで本当にどうもありがとうございました。私たちは、いつまでも村井先生と山岡先生のことを忘れません。どうぞお幸せに。」
感激屋の村井は涙で顔をくしゃくしゃにしている。真澄も涙ぐんでいた。部員たちの中にももらい泣きをしている者もいた。
「みんな本当にどうもありがとう。先生も頑張って必ず山岡先生を幸せにするから。」
「私、やっぱり山岡先生がうらやましい。私も大人になったら、村井先生みたいな人のお嫁さんになるんだ。」
川田瞳はくやしそうに言った。顔はにこにこしていたが。
「先生、早く赤ちゃん作ってくださいね。」
「こらかおり、おませなこと言うんじゃないの。山岡先生が顔を真っ赤にしてるでしょう。」 玲子が先輩らしくかおりをたしなめた。
職員室に戻った二人は、隣の印刷室の横に設置された休憩室のソファーに腰掛けていた。
「みんなすごく優しいのね。私、瞳の挨拶を聞いていて本当に嬉しくなっちゃった。」
「かおりのやつ、早く赤ちゃん作ってくれだなんて、どうやって赤ちゃんができるかちゃんと知ってるのかなあ。」
「まあ、学校の先生をしてるくせに、子供たちのこと何も知らないんだから。女の子はね、初潮を迎えたときに全てを知るの。男の子たちとは違うんだから。」
「俺、娘が欲しいなあ。あの子たちみたいなかわいい娘が。」
「それなら一チーム分産みましょうか?」
真澄は照れもせずに大胆なことを言っている。恥ずかしくて、なかなか自分の気持ちを邦彦に伝えられなかった頃の真澄の姿はもうそこにはなかった。たくましく成長したものだ。
「それもいいかも知れないな。『村井ファミリーズ』なんて名前つけて試合したら最高だ。」
「本気なの?9人も産んだら私の体が壊れちゃうかもよ。」
「それも困る。真澄がいなくなってしまったら俺は生きて行けないよ。」
「あら、いつからそんな弱気な発言をするようになったのかしら?あなたも歳をとってしまったのね。」
「やめてくれよ。俺はまだまだ若いんだから。それだけ真澄が大切だって言いたかったんだ。」 「それはどうもありがとう。さあ、そろそろ職員室に戻りましょう。私たちがここにいるとみんなが遠慮して印刷室に入って来れないわ。」 真澄は邦彦とこんな会話をしているときが一番幸せだった。永遠に続いて欲しい幸せだ。
二人だけの幸せの翼
高島台中学校ソフトボール部の新チームも、先輩たちの勢いをそのまま受け継ぐ形で、快進撃を続けていた。9月の新人戦でも、ダントツの実力を発揮し、見事横浜市で優勝の栄冠を手にしていた。村井が考えた新チームの構成は次のようなものだった。
部長 2年 西川千秋(一塁手・投手)
副部長 2年 篠原こずえ(捕手)
2年 内田美紀(遊撃手)
2年 下田弥生(中堅手)
2年 水島幸子(投手)
2年 沢木理香(右翼手)
1年 中西こずえ(二塁手)
1年 石川香織(左翼手)
1年 安永涼子(三塁手)
1年 増井恵美(外野手)
1年 久保田和恵(投手)
1年 溝口紗耶香(投手)
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新チームは1年生に大柄な選手がそろっていたので、投手の育成に全力を注いでみようと思った。かおりたちのチームと比べると大型で、破壊力のあるチームだった。キャプテンの西川千秋はねばり強い根性女だった。そして玲子やかおりのように、親分肌の所があり、部員たちからの信頼も厚かった。副部長の篠原こずえは強気のしっかり者である。強気のキャッチャーはピッチャーの能力を最大限に活かしてくれる。かおりたちのチーム同様に、来年の夏が楽しみなチームだった。
経験というものは恐ろしいもので、関東大会を経験した高島台中ソフト部は、どっしりした貫禄のようなものを身につけていた。決して鼻高々になっているわけではない。油断をしているわけでもない。とにかく、どっしりと地に足を踏ん張った力強さがあったのだ。子供たちは自信に満ちあふれていた。
村井たちの結婚式も9月の末に無事終わり、真澄も堂々と村井姓を名乗ることにした。普通なら同じ学校にいる間は旧姓を名乗るものだが、真澄は堂々と村井の妻であることを主張したかったのだろう。村井真澄・・・・真澄は何度もノートに書いては、その心地よい響きに一人悦に入っていたものだ。真澄のおかげで、職員室での村井たちの呼び方も変わった。村井先生ではどちらを指すのかわからないから、邦彦先生と真澄先生になったのだ。村井は名前を呼ばれるのが最初は少し恥ずかしかったが、慣れというのは恐ろしいもので、そのうち邦彦先生という呼び方が気に入ってしまった。部員たちは相変わらず邦ちゃんと呼んでいる。
邦ちゃん、いや邦彦たちの結婚のことは、10月はじめの全校朝会で田中校長から全校生徒に報告され、生徒たちからは大きな拍手がわき起こった。こんなに多くの人たちに祝福される結婚もめったにあることではない。邦彦と真澄は自分たちの恵まれた環境に感謝した。
実は邦彦にはソフトボール以外にもう一つ大きな夢があったのだ。真澄ともずっと話し合ってきたことだが、英語科の教師でもある邦彦はぜひ海外日本人学校で教鞭を執ってみたかった。いずれにしても、職場結婚をした二人だったので、どちらかは来年の4月に別の学校に転勤しなければならない。それならば、二人で一緒に海外日本人学校へ行ってしまってもいいのではないかということになった。
海外日本人学校の教員に採用されるためには、難関の試験を突破する必要があった。体力的には二人とも問題なかったが、とにかく倍率が高いのである。邦彦は今年の試験にすでに挑戦していた。年末には結果が出るはずである。
川田瞳が挨拶の中で言っていた『幸せの翼』を二人は本当に手にしたいと思った。その幸せの翼に乗って海外に行けたらどんなにか幸せなことだろう。二人の夢はどんどん膨れていった。
しかし、邦彦には迷いもある。ここまで育ててきたソフト部を残して、自分たちが海外に行ってしまっていいものだろうか。それを考えると邦彦は暗い気持ちになった。確かに子供たちにはしっかりした伝統が根付いていたから、別の人間が顧問になっても、ある程度の戦績は残してくれるだろう。ただ、新しい顧問との歯車がうまくかみ合わなければ、夏の大会で関東を目指すことはできないに違いない。チームワークというのは子供たちだけで作るものではなく、その中には監督である顧問も入っているのだ。邦彦は生徒たちとのチームワークが絶妙だったから大きな夢を叶えることができた。田中校長も邦彦が海外日本人学校を希望していることを知ったときには、大変残念がった。
「君みたいな情熱的な教師には、ずっとこの高島台中にいてもらいたいんだが・・・・。しかし、村井先生もまだ若いんだから、大きな夢に向かって迷わず前進すべきなんでしょうね。」
「校長先生、今までこんなにお世話になっておきながら、わがままを言って本当に申し訳ありません。ただ、海外日本人学校は教員になったときからの夢でしたし、年齢的にも制限があります。僕にとってはこれが最後のチャンスかも知れないと思って、決心しました。」
「いいでしょう。私はどんなときもあなたの応援団長だ。村井先生が夢を叶えるためなら、私も全力で応援したい。しかし、惜しい。あなたのような先生がまた現れるとはとても思えないのでね。」
「先生、そんなことはないと思います。僕は突然現れたんじゃなくて、校長先生のもとで働かせてもらったからここまでやってこれたんだと思うんです。校長先生がいらっしゃる限り、僕のような熱血漢は必ず現れます。現れると言うより、校長先生が惹きつけるんです。」
「私もずいぶん高い評価をしてもらえたものですな。私は、ただがむしゃらにやってきただけです。子供たちに少しでも多くの活躍の場を与えることに精一杯だった。」
「校長先生のお陰で、僕たちも精一杯頑張れたんだと思います。先生、自信を持って頑張ってください。」
「何だかおかしなことになってきたなあ。あなたを励ますつもりが、反対に私が励まされている。私も残りの2年間を、この高島台中学校のために捧げるつもりです。」
田中信太郎はもう58歳で定年間近だったのだ。普通の校長なら、あと少しで定年という段になって、革新的な動きを取ることはないだろう。しかし田中信太郎は違っていた。最後の最後まで開拓者魂を失いたくはなかったのだ。高島台中学校に最後の2年間を捧げるという言葉は、真実だった。邦彦にしても、こんな偉大な人と巡り会えることは二度とないかも知れない。田中校長との別れは、邦彦にとっても心苦しいことだった。田中信太郎は邦彦を自分の子供のようにかわいがってきた。邦彦を見ていると自分の若い頃を思い出すのだ。その息子がさらに大きな夢に向かって飛びたいと言う。田中信太郎にはそんな邦彦の思いを遮るつもりなど毛頭なかった。かわいい子には旅をさせろと言うではないか。邦彦も異国の地で3年間の修行を積んでくれば、二まわりも三まわりも大きく成長してくれるに違いない。
「私たちが海外日本人学校に行くことになったら、田中校長先生もきっと寂しがるわね。邦彦さんのこと、まるで自分の息子のようにかわいがっていたから。」
「俺は、そんな温かい校長先生の気持ちを裏切って行くような気がして、何だかすっきりした気持ちになれないんだ。」
「でも、海外日本人学校に行って新しい経験をたくさん積んで、もっとたくましい姿になって戻ってくる方が、校長先生にとっては嬉しいことかも知れないって、私は思ってるの。」
「そうかなあ。そうだといいんだけど。それに残して行くソフト部のことも気になるよ。」
「いざとなれば女は強いんだから、ソフト部の娘たちは大丈夫よ。きっと私たちの分まで頑張ってくれるわ。」
「女ってそんなに強いのか?」
「ええそうよ。女は強くできてるの。神様がね、しっかりと子供を守れるように女を強く作ったんだわ。」
「男は弱虫ってことか。」
「そうじゃないわよ。男は女を守るために必死で頑張るの。私の考え方は古いかも知れないけど、男は自分の夢を追いかけながら、たくましく成長して、女を守ってくれるのよ。邦彦さんも、ちゃんと私を守ってくれるでしょう?」
「もちろんさ。俺は真澄のためならたとえ火の中水の中だ。どんなことにだって耐えてみせる。真澄を幸せにしたいからね。」
「まあ、ずいぶんと嬉しいことを言ってくれるのね。でも私は今のままでも十分幸せよ。あなたと一緒に夢を追いかけている今がとっても幸せなの。」
「君って変わってるね。」
「そんなことないわよ。私は普通の女。好きな人と一緒にいられることに幸せを感じる普通の女よ。」
「でもさ、人間の出会いって不思議だと思わないか?俺は君と出会ってなかったら、こんなに幸せな人生は歩けなかったと思う。」
「そうね、出会いは神様が仕組んでくれるものなのね。」
「それに真澄はいつも俺のそばにいてくれたのに、俺は馬鹿だからこんなに大きな幸せがすぐ近くにあるなんてちっとも気付かなかった。」 「灯台もと暗しって言うから、近くにいすぎて気づかないっていうこともあるのよ。」
夜の横浜港でベイブリッジの灯りを見つめながら、邦彦は優しく真澄を抱き寄せた。
「邦彦さん、どんなことがあっても絶対に私を離さないでね。」
「ああ、絶対に離さない。いつでもこうして抱きしめていてあげるからね。」
「ううん、私はそんな贅沢は言わないわ。いつもそばに置いてくれるだけでいいの。私はあなたのそばでずっとあなたを見つめていたい。」
海外日本人学校の採用通知が邦彦の元に届いたのは12月の始め頃だった。いよいよもう一つの夢が実現する。《今年は夢の大当たり年だなあ。》邦彦はつくづく思った。長年の夢だった関東大会へはかおりたちが連れて行ってくれたし、まだどこになるかはわからなかったが海外日本人学校の教員には採用されたし、真澄とは結婚できたし、人生の全ての運を今年で使い切ってしまうのではないかと不安になるくらいだった。まだ見ぬ遠くの土地が邦彦たちを待っている。そう思うと、邦彦の胸はときめいた。とにかく、真澄と二人だけの幸せの翼は手に入ったのである。あとは、どこへ飛んで行くかが決まるだけだった。どこに行くことになっても、そこには幸せな生活が待っているだろう。二人でいれば、どんな困難も苦ではないのだから。
「合格おめでとう!」
「おめでとうって、僕たち二人の合格だよ。」 「それじゃあ、私にもおめでとうって言ってちょうだい。」
「合格おめでとう、真澄。」
「ありがとう。大きな夢をくれて本当にありがとう。私は本当に幸せよ。」
「二人だけの幸せの翼か・・・・。」
「えっ?」
「ほら、川田瞳が『幸せの翼』って言ってたの覚えてないか?」
「覚えてるわ。そうよね、私たちは幸せの翼をついに手に入れたのよね。」
「神様に感謝しなくちゃな。」
卒業と旅立ち
年を越して新しい年も1月4日には親子試合とバーベキューパーティーが開かれた。今度は西川千秋の両親が中心になって段取りを進めたが、安田かおりの両親も顔を出していた。現役とかOGとかにこだわらず、気軽に集まろうということになったらしい。そしてこの企画は高島台中ソフト部の伝統にするそうだ。一生懸命に動き回っている西川千秋の両親の姿を見ていて、邦彦は海外日本人学校の話をすべきではないかと思ったが、人事に関する他言は厳重に禁じられていた。話が漏れたことがばれれば、採用が取り消しになることもあるという。邦彦は申し訳ない気持ちを一生懸命に抑えた。
2月の初め頃だったろうか、どうやら部長の西川千秋と副部長の篠原こずえが喧嘩をしたらしい。原因は練習中のランニングのかけ声についての意見の食い違いだったようだ。邦彦はすぐに二人を職員室に呼んだ。邦彦の前に立った二人は、心持ちお互いに距離を置いている。
「おい、聞いたぞ、お前たちのこと。」
千秋もこずえもやばいという顔つきをした。 「先生が一番嫌うことは何だ?」
「チーム内のいざこざです。」
「わかっていて、どうして喧嘩なんかするんだ。部長と副部長が反目しあっていたら後輩たちも不安になる。仲の悪い夫婦に子供が不安な気持ちを抱くのと同じだよ。」
「先生、私たち反省してます。大したことが原因じゃないのに、ついつい喧嘩をしてしまって。お互いに素直じゃなかったんです。」
「千秋が悪いんじゃなくて、自分の意見を言い張った私が悪いのよ。先生、私が悪いんです。千秋はちっとも悪くありません。」
「何言ってんのよ。悪いのは私よ。こずえの意見を無視した私がいけないの。」
「もうやめなさい、二人とも。結局そうやってお互いをかばい合ってるじゃないか。お前たちは本当は仲がいいんだよ。もう大丈夫だな?いいか、これからはよく注意するんだぞ。二人のチームワークがそのままチーム全体の和に影響する。それが部長と副部長の責任の重いところだ。お互いの意見や立場を尊重する謙虚な気持ちも忘れてはいけない。こうやって注意してくれる先生がいなくなってしまったら、どうするつもりなんだ?いつまでも喧嘩を続けているのか?それでは困るだろう。」
「先生、どこか別の学校に行ってしまうんですか?」
千秋が泣きそうな顔になって問いただした。 「先生、私たちを見捨てないでくださいね。」 こずえも必死になって懇願する。
「先生、私たち二度と喧嘩なんかしませんから、私たちを置いてどこかに行ってしまわないでくださいね。お願いします。先生、約束してください。お願いします。」
邦彦は胸を引き裂かれる思いだった。この子たちにどうやって海外日本人学校の話をしたらいいのだろう。邦彦の赴任先はロンドン日本人学校に決まっていた。
「いいか、人生には何が起きるか分からないんだ。だから、いつ何が起きても大丈夫なように、普段から自分を鍛えておかなければならない。お前たちもしっかり鍛えておいてくれ。」 千秋たちは何かが起きることを感じていた。しかし、それ以上邦彦に食い下がることはしなかった。二人はそういう大人の心遣いができるまでにはすでに成長していたのだ。
千秋たちとの会話を聞いていた田中校長は、邦彦を校長室に呼び入れた。
「いやあ、邦彦先生、つらいところですな。子供たちには3月の人事解禁になったらすぐに伝えてもいいでしょう。私が特別に許可します。しかし、どうやって伝えるかが難しい。」
「あんな風に言われてしまったら、後ろ髪を引かれるような思いになってしまいます。」
「しかしね、出会いが人間を成長させてくれるのと同じように、別れもまた人を成長させるものです。子供たちの悲しみは分かるが、敢えてそういう試練も必要でしょう。それはあなたにも言えることだ。」
「そうですね。別れも大切なんですね。」
「元気を出しなさい。子供たちは私たちが思っているよりずっとタフにできている。それは夏の県大会で子供たち自身が証明してくれたではありませんか。」
「そうでした。そのことを僕は忘れてました。あの子たちもきっと見事に巣立ってくれるはずなんですね。」
「そうですよ。子供たちの力を信じてやらなければいけません。」
「僕は自分の夢を追いかけるあまり、子供たちを裏切ってしまっていたような、そんな罪悪感にさいなまれていました。でも、校長先生のお話で、少し気が楽になった気がします。」
「それは良かった。邦彦先生、あなたに残された時間は非常に短い。悩んでいる暇があったらできる限りのことをしてあげるといい。」
「校長先生、ありがとうございました。残された時間を精一杯有効に使ってみます。」
校長室を後にする邦彦の後ろ姿を見て、田中校長は心の中でつぶやいていた。《あなたがいなくなって寂しい思いをするのは私も同じなんです。私は子供たちと同じ悲しみを背負うわけだから、みんなで力を合わせて乗り越えて行きますよ。》校長はあくまで優しかった。
3月になっていよいよ卒業式のシーズンとなった。かおりたちともお別れである。何人かは高校でもソフトボールを続けるようだったが、邦彦にとっては中学校で完全燃焼してくれたかおりたちに十分満足していた。あとは彼女たちの人生である。いつの日か、大人になったときに高島台中での青春の日々の栄光が役立ってくれればそれでいい。
かおりたちは卒業式の前日に邦彦たちの所へやって来た。
「先生、ちょっと廊下に出てくれませんか。」 「いいよ。」
「真澄先生も一緒にお願いします。」
「いま行くわ。」
二人が廊下に出てみると、3年生の6名が殊勝な顔をして並んでいる。
「先生、今まで本当にありがとうございました。私たちにたくさんの思い出を作ってくれてみんな心から感謝しています。これはお二人に私たちからの感謝の印です。どうぞ。」
かおりたちがくれたのはベビー服のセットだった。お茶目なかおりの考えそうなことである。みんな一斉に拍手をした。
「何だかちょっと気が早くないか。」
「先生、早く元気な赤ちゃんの顔が見たいです。頑張ってすぐにでも作ってください。」
「そんな、プラモデルを作るのとは訳が違うんだぞ。」
「先生、まさか作り方知らないんですか?」
「こらこら、先生をからかうもんじゃないよ。赤ちゃんの作り方くらい知ってるさ。」
「だったら頑張ってください。気をつけ、礼!ありがとうございました!」
かおりたちは強引にベビー服セットを手渡すと、言いたいことだけ言って姿を消してしまった。邦彦と真澄は顔を見合わせて笑い出してしまった。
「最近の中学生はやっぱりおませさんね。」
「子供の作り方知らないんですかときたからな。俺は参ったよ。」
「でも嬉しいじゃない。私たちのこと精一杯祝福してくれているのよ。それにさ、私も早くあなたの赤ちゃんが欲しいし。」
「真澄までそんなこと言って。ここは学校なんだぞ。赤ちゃんの作り方に関しては、家でゆっくりと相談しよう。」
「相談しただけじゃ赤ちゃんはできなくてよ。頑張らなくっちゃ。」
「やっぱり女にはかなわないな・・・・。」
邦彦はぼそっとつぶやいた。
「えっ?何か言った?」
「いや、何も言ってないよ。女の子はさすがに心遣いが細かいなと思ってさ。」
「うそばっかり。女にはかなわないって言ったじゃない。」
「何だ、ちゃんと聞こえてたんじゃないか。」
「そうよ、女をなめたらいけないわ。」
邦彦はたじたじだった。こういう話題は男の特権かと思っていたが、本当は女性の方が積極的なのだ。邦彦はまだまだ青い。
卒業式は涙を流さずにはいられない感動的なものとなった。高島台中学校では、式の中で卒業生たちの群読がある。3年生の先生たちは次から次へと涙がこぼれてきて、ハンカチを手放すことができなかった。かおりたちの晴れ姿に邦彦も真澄も目頭に熱いものがこみ上げてくる。まだ右も左も分からなかった頃のかおりたちのあどけない表情が思い出された。数々の思い出が走馬燈のように浮かんでは消え、邦彦は胸が詰まるような息苦しさを覚えた。《いよいよお別れだね。高校へ行っても、それぞれの道で頑張るんだぞ。》邦彦は心の中で一生懸命に語りかけている。
卒業生たちが下校してしまった後の、がらんとした3年生の教室には、寂しさが漂っている。3年生の職員たちは気の抜けたような顔をしていたが、邦彦もまた一気に体の力が抜けたような疲労感に襲われていた。邦彦の長年の夢を叶えてくれたかおりたちは、もう学校にはいない。そう思うと、寂しさが一層強まるのだった。
卒業式が終わると、いよいよ職員人事が解禁となる。誰がどこの学校に転勤になるのか、また新しくどんな教師が高島台にやって来るのか、職員室の中はそんな話題で持ちきりだった。邦彦と真澄がロンドンの日本人学校に赴任する話は、ほとんどの人間が知らなかったようで、それが一番のビッグニュースだった。今日の放課後は、部員たちにもロンドン行きを告げなければならない。邦彦は重苦しい気持ちでいっぱいだった。
「今日の放課後の練習が終わったら、帰りのミーティングで俺たちのロンドン行きを発表するからね。」
「こんなに早く言ってしまっていいの?」
「ああ、田中校長が特別に許可してくれたんだ。春休みに突然言われたら、あの子たちだって戸惑ってしまうだろう?」
「確かにそうだわね。何だか言いにくいわ。」 「俺だって言いにくいさ。だけど、ここは勇気を出して正直に話さなくちゃ。」
千秋たちの放課後の練習は気のせいか心もち普段より元気がないように感じた。動物の勘が鋭いように、子供たちの勘も鋭いものだ。グランドで練習を見守る真澄や、ノックバットを握る邦彦の様子に何かを感じたのかも知れなかった。「何だお前ら、そんな元気のなさでボールが捕れると思ってるのか!気合い入れろ!」邦彦は構わずに怒鳴り声を上げた。しかし、部員たちの様子はあまり変わらなかった。練習が終わり、グランド整備が終了すると最後のミーティングが始まる。
「気をつけ、礼!」
「お願いします!」
「今日は大事な話があるんだ。みんなその場に座ってくれ。」
邦彦たちもグランドに腰を下ろした。
「実は、先生たちはこの4月からロンドンの日本人学校に行くことになったんだ。お前たちとももう少しでお別れしなくちゃいけない。千秋たちのチームと一緒に、最後の夏の大会を闘いたかったんだけど、先生のわがままを許してくれ。海外日本人学校は先生がずっと前から夢に抱いていたことなんだ。先生と真澄先生は二人でその夢を一生懸命に追いかける。みんなも自分たちの夢を必死で追いかけて欲しい。みんな、今までこんな先生についてきてくれて本当にどうもありがとう。君たちとの思いでは一生忘れないよ。」
真澄も一言言わずにはいられなかった。
「ごめんね、みんな。いっぺんに二人がいなくなってしまってみんなには大変な迷惑をかけるけど、先生たちも一生懸命ロンドンで頑張るから、みんなも最後まで夢をあきらめずに闘って欲しいの。わがままな私と邦彦先生を、許してください。私は・・・・。」
真澄は涙がこみ上げてきて、それ以上言葉を続けることができなかった。部員たちもみんな泣いている。しばらくの間、ミーティングは沈黙の時間となってしまった。重苦しい雰囲気を壊してくれたのは千秋だった。
「邦彦先生、真澄先生、私たちのことは心配しないで、先生たちの夢を追いかけてください。私たちも先生たちに負けないように、恥ずかしくないように、しっかり頑張ります。もし良かったら、最後の夏の大会は見に来てもらえますか?ロンドンからじゃ無理ですよね・・・・。」
「いや、どんなことをしても来るよ。みんなの立派になった姿を見に必ず来る。だから、それまでにすごいチームになって先生たちを驚かせてくれ。お土産もいっぱい持って帰ってくる。」
「先生、約束ですよ。」
「ああ、約束だ。」
「それじゃあ、私と指切りしてください。」
「指切りか?」
「そうです。嘘ついたら針千本飲ますやつです。先生、お願いします。」
「わかったよ。」
「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます!」
「みんな、もう泣くのはやめようよ。先生たちの幸せな門出なんだから、私たちみんなで喜んであげなくちゃ駄目じゃない。」
みんなは泣くのをやめて千秋の指示に従った。いじらしい部員たちの姿に、今度は邦彦が涙を流している。
「ほら、今度は先生が泣いちゃった。邦彦先生、幸せな門出なんだから泣いちゃ駄目です。また会えるんですから、笑顔でお別れしましょうよ。笑顔でお別れし・・・・。」
千秋も涙がこらえきれなかった。誘われてまたみんな泣き出してしまった。もう誰にも涙を止めることはできなかった。これでいいのだ。涙は別れにつきものなのだから。それに、人は流した涙の数だけ優しくなることができる。
3月27日の成田空港出発ロビーには、千秋たち現役組からかおりや玲子たちOG組まで、大勢のソフト部関係者が詰めかけた。もちろん田中校長も来ている。
「邦彦先生、真澄先生、お体には十分気をつけて、どうぞ思う存分活躍してください。学校の方は私がしっかりと守りますから、心配しないように。」
田中校長が優しい笑顔で言葉をかける。
「邦彦先生、私たちソフト部の娘たちは本当に先生に感謝しています。勝った試合も負けた試合も今では全部いい思い出です。どうか真澄先生を幸せにしてあげてくださいね。真澄先生を泣かすようなことがあったら、私絶対に許しません。」
「玲子先輩、得意の『許しません』が出ましたね。そうですよ、邦彦先生、真澄先生をいじめたら私たちみんな先生を許しませんからね。」 「わかったよ。わかったから、もう言わないでくれ。先生はその言葉に弱いんだ。」
周りにいた部員たちがくすくす笑っている。
「みんなも怪我だけには注意して、春の大会ではまた横浜市で一番になってね。」
「真澄先生、大丈夫ですよ。私たちには怖いOGがたくさんついてますから。」
千秋は言ってしまってからぺろりと舌を出した。だんだんかおりに似てきたなあと邦彦は思う。これなら大丈夫だろう。
「そろそろ出発の時間です。みなさん、本当にいろいろお世話になりました。私たちも頑張りますが、みなさんもどうぞお元気で。」
邦彦と真澄は深々と頭を下げた。
様々な別れの言葉が飛び交う中、邦彦と真澄は搭乗ゲートに向かって歩き始めた。新しい二人の夢に向かっての旅立ちである。ロンドンでも苦労はたくさんあるだろうが、真澄と力を合わせて何とか乗り越えてゆこうと思う。見送りの声はもう聞こえなくなり、邦彦たちはロンドン行きの飛行機の中に姿を消した。
「いよいよ出発ね。私、頑張るわ。」
「俺も頑張るよ。ちゃんと君を幸せにするからね。また『許さない』って言われちゃったからね。二人で力を合わせて幸せになろうな。」
「私はもう十分幸せだってば。」