「桃山社中」
《まえがき》
この小説の題名を見たら、天国でゆっくり休んでいる坂本龍馬が「亀山社中を真似て名付けるからには、それなりの対策になるんじゃろうな。つまらん作品を書いたら、許さんぜよ!」と叫ぶかも知れませんね。私は坂本龍馬の大ファンですから、決して彼の作った亀山社中を冷やかすつもりで、このタイトルを選んだ訳ではないのです。現代という時代は、熱血漢を装った偽善者が非常に多いので、そういう輩をやじって敢えて「桃山社中」と名付けました。これはある私塾の名前です。塾頭はもちろん坂本龍馬の大ファンで、自分も彼のような偉大な人物だと思いこんでいるのですが、実態は本人の思いこみとはてんでかけ離れているのです。迷惑なのは、桃山社中で働くことになってしまった純粋な若い連中ですね。塾頭の熱い演説に騙されて一生懸命に献身的な働きをするのですが、塾頭には経営の才能はほとんどない。坂本龍馬は机上の空論を嫌った人だと思います。実際、彼には商売の才能があった。それは実家が商家だったということも影響しているでしょう。そして、常識とか世間体とかいう枠にとらわれない自由な発想ができた人物でした。彼の目はきっといつも遠いどこかを見つめていたのではないでしょうか。
皆さんは、高知県桂浜のすぐそばにある坂本龍馬の記念館を訪ねたことがありますか。上の公園には坂本龍馬が土佐の海を眺めて堂々と立っている。残念ながら、私が訪ねたときには龍馬の銅像は工事中でしたが、写真などで見る限りは、彼の目は遙か海の彼方を見つめているようです。大きな夢を抱いていたのでしょうね。ある学者の言うところでは、坂本龍馬が明治維新後も生存していたならば、おそらく「三菱財閥」は「坂本財閥」という名前で会社を立ち上げることになっていただろうということでした。坂本龍馬は百年先を見通した人物だと言われていますが、封建体制からやっと抜け出したばかりの日本にあって、彼ほど商売で富国強兵を真剣に画そうとした人間はいなかったのではないでしょうか。彼はただの「攘夷派」ではなかったのです。日本が諸外国と対等に渡り合っていくためには、まだまだ攘夷の旗を大きく振り回すのは早いと考えたのでしょう。今はまだ外国から様々な知識を吸収する時期だと。そこが、彼の素晴らしいところです。
さて、話は「桃山社中」に移りますが、京都の霊山護国神社にある坂本龍馬と中岡慎太郎の墓地までの道には、若い人たちが龍馬にあてたメッセージが大理石に書かれて何枚も立てかけられています。今の若者達の中にも坂本龍馬の生き方に共鳴する人たちがこんなにたくさんいるのかと、何度訪れても感心させられるのです。そういう若い純粋なエネルギーを本当に上手に活かしたら、日本もまだまだいろいろな活躍ができるのでしょうが、現代の企業家は企業の利益だけを考えて、働く人間の成長を考えないところが、坂本龍馬との大きな違いです。いくら「徳川家康」の本を読んでも、坂本龍馬にあこがれても、生まれ持った器が変わるわけではないでしょう。「指導者の器」というものがやはり世の中にはあるのではないでしょうか。上手に部下の能力を発揮させて会社の利益に結びつかせる手腕がなければ、本当の意味での成長株の企業を作り上げることはできないでしょう。なぜなら、自分たちを消耗品としてしか考えない指導者に、若者達はやがては愛想を尽かし巣立っていくはずだからです。会社の将来を考えたら、どこに投資すべきかをよく考えなければなりません。
しかし、この小説は軽いテンポで進んでいくことでしょう。気軽に読み進めながら、共感できるところでは大いに歓声を上げて下さい。さあ、いざ出航です。
《桃山勇・二十八歳》
桃山勇は、桃山浩一郎・妙子夫婦の一人息子である。浩一郎は警視庁捜査一課長という要職についているが、妙子との出会いは大学時代の歴史フォーラムだった。妙子は、名門城北女子大学文学部史学科に在籍していて、幕末日本史が専攻だった。二人は、意気投合し、大学卒業後すぐに結婚して一人息子の勇を設けたのだった。二人は幕末の新撰組組長近藤勇にいたく惚れ込んでいたので、彼の名前にちなんで息子に「勇」と名付けたのだが、さすがに名字まで近藤にするわけにはいかないので、ちょっとバランスの悪い名前ができあがってしまった。桃山は時代がかなり古いからだ。しかし、子供は親の思うとおりには育たないもので、勇の尊敬する人物は何と、宿敵坂本龍馬だった。勇も龍馬のような大きな生き方をしたい。ところが両親は龍馬の暗殺に係わったと噂された新撰組の熱心なサポーターときている。おまけに、父親は近藤勇のファンらしく、警視庁のお偉方である。浩一老夫婦は、息子が幕末の異端児坂本龍馬にのめり込んでいる様子を見ては、不満げな顔をしていたが、さすがに親の趣味趣向を子供に押しつけるわけにはいかない。それこそ、龍馬のように脱藩ならぬ家出でもされたらたまったものではない。若者というものは、思いこんだら命がけのようなところがあるから、浩一郎も妙子も発言には十分に気を遣っていた。しかし、幕末時代劇などがテレビで放映されていると、三人で一緒に見ていると非常に不穏な雰囲気が流れてしまう。それこそ、果たし合いが始まりそうな雰囲気なのだ。そんなときは、妙子が気を遣ってお茶を入れてきたりする。全くもって妙な一家だ。
そんな勇は、血は争えないもので、有名国立大学の文学部史学科を卒業して、塾を開業すると言い出した。名付けて「桃山社中」。坂本龍馬が立ち上げた「亀山社中」にあやかったつもりらしい。塾頭になるべき勇は、なんだか自分自身が幕末の時代を風を切って勇ましく生きているような錯覚に陥って、たまに悦にいることがあった。浩一郎は、私塾という、完全な市民権を得たような得ていないような不安定な職業を認めたくなかったので、一応は勇に反論してみた。もちろん、親に似て頑固な勇がそう簡単に決心を翻すとは思えなかったが。
「なあ、勇。こんな不景気な時代だから、もっと確実な職業を選んだらどうなんだ。先生になって子供達と関わりたいのなら、教員採用試験を受けて、公立学校の教師になる方がいいと思うんだが、どうだ」
「お父さんは、やっぱり保守的だね。僕は革新的な人生を歩みたいんだ。そりゃあ公立学校の先生になれば生活は安定するかも知れないけど、そんな安定した生活から大物は育たない。僕は坂本龍馬のように大海原に船出してみたいんだよ」
「お前なあ、そんな夢みたいなこと言ってたって、現実の世の中は大海原とはちょっと訳が違うぞ」
「お父さんは、僕が近藤勇のライバルだった坂本龍馬に心酔しているのが気に入らないんでしょう?だから、僕が桃山社中なんていう塾を開くと聞いて、新撰組が危うくなるんじゃないかと心配しているんじゃないの」
「何だかよくわからんことを言うやつだなあ。新撰組は何の関係もない。お前が誰を尊敬しようとそれはお前の自由だが、お父さんはお前の将来を思って…」
「おっとそこまで。僕が頑固なのはお父さん譲りなんだよ。お父さんだって、僕の決心が変わらないことくらい、わかっているんじゃないの」
「まあ、それはそうなんだが…」
「ほら、かわいい子には旅をさせろって言うじゃない。僕にも旅をさせてよ。もしかしたら、本当に坂本龍馬みたいな大きな人物に化けるかも知れないんだからさ」
そこにすかさず妙子が割り込んできた。
「あなたは、大学の研究室に残る気は全くなかったの?」
「僕はねお母さん、研究室で机に向かっているのなんて嫌なんだよ。坂本龍馬は日本国中を飛び回って大活躍したんだよ。僕も龍馬みたいにあちこち飛び回りたいんだ」
「だって、その桃山社中とか言う塾を作ってしまったら、やっぱり教室に座っての仕事になるんじゃない?」
「いや、そうとは限らないよ。営業であちこち回ることだってあるだろうし、とにかくいろいろな人間と出会って、どんどん大きな塾にしていきたいんだよ」
「あなたには商売の才能はないと思うんだけど」
「失礼だなあお母さんは。自分の子供の能力も信じられないの?龍馬だって子供の頃ははな垂れのいじめられっ子だったじゃないか。それにお父さんやお母さんが大好きな近藤勇だって、身分のない身から武士の身分を獲得するまで頑張ったんでしょう?まあ、龍馬ほどのスケールの大きさはなかったと思うけどさ」
「あらまあ、そんなことなくてよ。新撰組の若いエネルギーがあったからこそ、無事に明治維新だって成し遂げさせてあげられたんじゃない。新撰組が戦わなかったら、簡単に新しい時代が始まってしまって、きっとみんなそのありがたさがわからずにすぐに崩壊していたわよ」
「おいおい、妙子、今は勇の話をしているんだぞ」
「私だって勇の話をしているんだわ」
当人の勇は、父と母の会話を聞いていて思わず吹き出してしまった。
「二人ともそう争わないで。とにかく、僕の人生なんだから、僕の思うとおりにやらせてよ。駄目だと思ったら、素直に退陣して安全な道を歩くからさ。暗殺されちゃうのはいやだからね」
「この子ったら、坂本龍馬を信奉している割には意気地無しなのね」
「おいおい、妙子、そう勇を煽るような発言をしないでくれ」
「そうだよ、お母さん。お母さんはいったい僕の選択に賛成なの、それとも反対?」
「反対で、賛成よ」
「何だかよくわからないなあ。だから、新撰組も思慮が足りなかったと思うんだよな」
「勇!それ以上新撰組の悪口を言うと、お母さん許しませんよ!」
「はいはい、わかりました。龍馬を暗殺したのは幕府の見回り組と言うことで、新撰組は関係なかった。それでいいんでしょう?」
「そうですよ。近藤勇がそんな卑怯なことするわけないの」
「ずいぶん仲間を殺してるって話だけど」
「また何か言った?」
「いや、独り言だよ。それじゃあ僕はそろそろ出かけるから、後は二人で仲良く近藤勇と土方歳三の話でもしててよ。でもさ、お父さん、新撰組の熱心なファンだったお父さんが警察官になるんだから、ちゃんと神様は見ていてくれるんだね」
「まあ、そうとも言えるかも知れないな」
「それじゃあ、僕も尊敬する人と同じ生き方をしていいわけだ。ありがとう、お父さん」
「全く、お前には負けたよ。好きにするがいい。その代わり、男が一度決めたら、簡単にしっぽを巻いて逃げるような真似だけはするなよな。そんなことをしたら、お父さんが全国指名手配して、必ず逮捕するぞ」
「縁起でもないこと言わないでよ。逮捕するだなんて物騒だなあ」
「心配するな。刺客を放つようなことはしないから」
「お父さんもお母さんも、少し散歩でもして頭を冷やしてきた方がいいよ。どうも話がおかしくなって困る。じゃあね」
《桃山社中》
桃山勇は、両親に借りたお金で新宿のビルのワンフロアーを借りて、「桃山社中」を設立した。設立といっても、社員は勇ただ一人である。勇は、まずは中学生の英語と数学の授業をするクラスを作ることにした。内容は次の通りである。
◎中学校一年生から三年生までの英語と数学のクラスを設置する
◎授業は六十分を一単位として、一クラ スの人数は十名以内の少人数に抑える
◎授業は各教科週二回を原則とする
◎授業料は一教科につき月二万円で、二教科を選択する場合は二教科で三万円に設定する
◎授業は以下の通り設置する
一時間目…5時〜6時
二時間目…6時10分〜7時10分
三時間目…7時20分〜8時20分
四時間目…8時30分〜9時30分
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授業は火曜日〜土曜日までの週五日間実施するので、合計で週二十時間。十クラスの開設が可能になる。一クラスに平均七名が集まったとして、生徒の部人数は七十人だから、科目の重複を考えなければ、月収は百四十万円にもなる。桃山勇は自画自賛したい気持ちだった。本人は、坂本龍馬のような大物になりたいと言いながら、しっかり週休二日の営業体制をとっている自分の甘さに気づかない。それに、実績のない「桃山社中」に果たして生徒が集まるかどうか。問題はまだある。桃山勇の大学時代の専攻は日本史だから、英語も数学もいわば無免許運転なのだ。教材に何を使うか、どのような指導法を用いるか、勇はそこいらへんの事になると、全く研究をしていない。
「お父さん、どう思う。月収百四十万円は見込めるんだよ。商売なんてちょろいもんさ」
「お前はまだ社会の怖さを知らんのだ。お前の思うとおりに生徒が集まる保障はないし、第一、自分一人で事務関係の仕事も全部こなしていくつもりなのか」
「いや、それは難しいと思うから、事務専門の人間を一人雇おうと思うんだ。月給三十万円だったらいいんじゃないかな」
「手取り三十万円っていうことか?それだと税込み四十万以上は支払うようだぞ。法人税とか、ビルの賃貸料とか、その他の出費を考えているのか?」
「まあ、その辺はおちおち考えることにするから、心配はいらないよ」
「お父さんは不安でいっぱいだが、まあやるだけやってみるさ。何かあったら相談に乗るから言ってきなさい」
「ありがとう。でも、きっとうまくいくと思うよ」
「ちなみに勇、宣伝はどうするんだ?新聞に折り込み広告をはさんでもらうとなると、それなりの出費を覚悟しなければならんぞ。まさかその資金まで親にねだる気じゃないだろうな」
「ちょっと待ってよ。今は収入ゼロなんだからさ、後で出世払いするということで、お父さん、お願いだから援助してくれないかな」
「全く、お前というやつは、とことん甘くできてるんだなあ。まあ、お父さん達がそんな風に育ててしまったんだから、お前を責めるわけにはいかないけどな」
「甘いだなんて、まだ僕を過小評価するのは早いんじゃないの。すごい業績を一年目にして上げてみせるから、そのときに評価してよ。頑張るぞ!」
張り切った気持ちはいいのだが、勇の尊敬していた坂本龍馬は、勇のようないい加減な計画で動いてはいない。常にブレインをそばに置き、「餅は餅屋」で計画を進めて行ったことだろう。その辺の商売の才覚が勇には決定的に欠けていた。また、その欠点を自覚していないところが若さ故の怖さだった。
勇は新聞の折り込み広告代として、二百万円を両親から借りた。もちろん、親子の間とは言っても、お金の問題なので、きちんと借用証明書を書いてのことだ。勇は物事を簡単に考えているから、「借用証明書なんて堅苦しいなあ。そんなものなくても、二倍にして返すからさ」と主張したが、父親の浩一郎はそういう勇の甘さを決して許さなかった。失敗してもいくらでも取り返しがつくことは確かだが、浩一郎は勇にいい社会勉強をさせたかった。妙子は、親子の間で借用証明書なんてとんでもないと言ったが、浩一郎はがんとして主張を変えなかった。さすがに新撰組は身内に厳しい。
浩一郎の不安をよそに、折り込み広告が功を奏して、生徒は次々に集まってきた。勇が思ったよりは少なかったが、全員で五十二名でのスタートだ。事務には二十五歳の女性を採用した。高卒で一般企業の事務職についたが、報酬が悪いので勇の募集広告にいち早く食いついてきた女性だった。コンピューターのデータ入力にも長けているし、勇にとっては心強い味方だった。また、七年間の経験から、電話の応対なども非常にしっかりしていた。その上美人と来ているので、勇は大喜びだった。女性の弱いのは坂本龍馬によく似ているかも知れない。
授業が始まってから一ヶ月ほどは難なく過ぎていったが、一ヶ月を過ぎる頃から、一人また一人と、生徒が塾を辞め始めたのだ。理由は簡単だった。「学校の授業とほとんど変わらない」「学校の授業よりかえってわかりにくい」というのが主な理由だった。無免許運転の勇が教えているのだから、当然予想された事態なのだが、勇のショックは隠せなかった。三ヶ月を過ぎる頃には生徒は二十名足らずになっていた。残った生徒達もさすがに不安は隠せない。残った生徒達の多くは、学校の授業に取り残されてしまった者が多かったので、よりわかりやすい授業を必要としていたが、幸い「わからない」ことに慣れているので、勇のいい加減な授業がいいのか悪いのか判断することができないでいたのだ。勇は、二十名弱の生徒でも、自分を評価してくれる生徒がいるというだけでいいのだと自分を慰めたが、それは大きな勘違いだった。
世の中の商売は、払った代金に見合った商品を手にして初めて成り立つものだ。勇の桃山社中は、高い授業料に見合った「わかりやすい授業」を提供することに大失敗していたのである。勇がその点を真剣に反省しない限り、あるいは反省した上で自分の教授法を磨く努力をしない限りは、桃山社中が生き残る道はないように思われた…少なくとも、事務職の佐々木祐子にははっきりとそれがわかっていた。しかし、まさか塾頭の勇にそんな生意気な意見を言うわけにはいかない。ただ、このままではいずれは自分の給料もまともに支払ってはもらえない状況になるのも明らかだったので、祐子は何とかして勇の力になりたいと思っていた。まさに、龍馬を支えたお竜のように、面倒見のいい女性だった。
五ヶ月を過ぎて生徒数が十五名になってしまったとき、勇はさすがに自分の授業に問題があるのではないかと真剣に考え始めた。
「ねえ、佐々木さん、どこか授業研修ができる場所はないかなあ」
「あのう、生意気言うようですが、桃山社中の授業がない時間帯を、他の大手進学塾で時間講師でもして活用したらどうでしょうか。そうすれば、講師としての研修も受けられると思うんですけど」
「大手進学塾の時間講師か…。それはいい考えだね。よし、それに決めた。そうすれば、使う教材の知識も得られるから、一石二鳥だよ。どうして今まで気づかなかったのかな。佐々木さん、どうもありがとう。今度なんかの形でお礼をするからね」
今度…日本人の「今度」ほどあてにならないものはない。英語でも"Maybe next time." と言われたら、もう次はないと思った方がいい。佐々木祐子も勇の「今度」は別に本気で当てにはしていなかった。ただ、張り切っている勇のために少しでも役に立てればそれでいいと思った。それにしても、祐子のアイデアを少しも検討することなく、二つ返事でOKしてしまうのだから、勇も素直というか単純というか、何と言って評価していいのやら全くわからない男だった。
祐子の薦めで大手進学塾の薩長セミナーの時間講師を務めることになった勇は、研修研修の連続で参ってしまった。講師をすると言うことがこんなに大変なことだとは思っていなかったのだ。そこが勇の浅はかなところである。勇の授業の下手さは、薩長セミナーが驚くほどだったから、勇も教師という職業にはよほど縁がなかったのだろう。それが桃山社中を経営するというのだから、世の中も恐ろしい。
勇は英語と社会の講師研修を受けたが、要点をまとめてわかりやすく説明することがどうしてもできない。ついつい、余計な話をしてしまって焦点がぼけてしまうのだ。特に、幕末史のところになると、勇の十八番とあって、受験とは全く関係のない話が次々と口から飛び出してくる。これには、薩長セミナーのベテラン講師陣も感心すると同時に、あきれてしまった。話をしている勇はどうやら悦に入っているらしいが、話を聞かされている生徒達は、「そんなこともうどうでもいいですから、早く先に進んで下さい」という顔をしている。しかし、話に夢中になっている勇にはそんな生徒の表情を読み取ることなど全く不可能だったのだ。
英語の授業となると、専門外の勇の説明は全く要を得ていなかった。薩長セミナーは対抗策として勇には決して中学三年生の生徒を担当させないことにしたくらいだった。
《薩長セミナーのノウハウ》
桃山勇が研修を兼ねて時間講師として契約した薩長セミナーの会社運営は徹底していた。まず、講師の研修は頻繁に実施され、特に新人講師の研修は非常に厳しい。模擬授業を何度も繰り返しては、先輩講師からの率直な助言が飛び交うのだ。その言葉が、あまりに率直すぎて、勇は最初ぶち切れそうになってしまった。「桃山先生の授業は、はっきり言って売り物にはなりませんね。あなた本当に大学で勉強したんですか」「桃山先生には教育に対する熱意のようなものが微塵も感じられない。そんなんじゃ、うちの生徒達が逃げてしまいますよ」「助言以前の問題ですね」ていねい語を使ってくれていても、発言の内容は勇を打ちのめすのに十分だった。
ところが、勇が何とか授業にこぎ着けた頃になると、勇にも薩長セミナーの内部が少しずつ見えるようになってきた。周囲の講師達を見ると、本当に厳しい研修を受けたのかと思うようなお粗末な授業をやっている講師も少なくない。勇がお粗末だと感じるくらいだから、レベルは相当低いと思っていい。しかも、どの講師も口調が全く同じなのだ。まるで宗教団体のお説教を聞いているようで、勇は背筋がぞくっとした。見方によっては、デパートの実演販売にも似ているかも知れない。早口で説明をまくしたてて、それはまるで生徒からの突然の質問を回避するための目くらましのようにも思えた。しかし、勇は他人の批判をしている場合ではない。何しろ自分の授業が薩長セミナー開校以来の最低水準ときているのだから、クビにならないうちに何とか技術を磨かなければならない。だいたい、勇には教育に対する熱意などはなからないのだから、そういう内面的な変化を勇に期待するのはかなり無理がある。ただ、薩長セミナー独特のリズムで授業を展開する技術を真似ることだったら何とかできそうな気がした。二ヶ月が過ぎ、三ヶ月が過ぎ、勇の授業も少しずつ薩長セミナーの講師らしい授業へと変化していった。もちろん、最低水準であることには変わりはない。
勇は正式社員(専任講師)ではなく、時間講師の扱いだったから、社会保険もつかなければボーナスももらえない。研修生としての最初の三ヶ月間の時給は一、二〇〇円。一日二時間の授業で週四日勤務を希望したので、月給は4万円弱だった。あれだけ過酷な研修を積まされて月給が4万円を超えないのだから、これはほとんど搾取に近いと勇は思ったが、普通に立派な授業ができる講師ならまだしも、勇のように売り物にならない授業で低空飛行を続けている人間には、給料がどうのこうのと文句をつける資格はなかった。さすがに世間知らずの勇でも、その辺の恥ずかしさぐらいはわきまえていたようだ。
「まあいいさ。研修をさせてもらって四万円のお小遣いがもらえると思えば、こんなに得なことはない。どうせ、あと半年もすればこんなところはおさらばなんだから、せいぜい薩長セミナーの秘密を盗めばいいんだ」勇は自分に言い聞かせていた。もちろん、薩長セミナーでの研修を続けている間も、桃山社中の授業をやめていた訳ではない。薩長セミナーでは二時間だけの授業だから、桃山社中の授業と掛け持ちで自転車操業をやっていたことになる。しかし、仕事はかなりハードだったが、薩長セミナーの厳しい研修のおかげで、桃山社中を退塾する生徒の数は一時的にゼロになっていた。さすがに大手進学塾の研修の効果は素晴らしい。それだけは、勇も素直に認めないわけにはいかなかった。
三ヶ月の研修期間が終わり、勇の時給も正規の一、六〇〇円にアップした。実力アップの度合いに比べたら、給料アップの比率の方がはるかに上のように思えたが、薩長セミナーとしては雇用規定に反するような低待遇をするわけにはいかなかったし、ましてやそう簡単にクビにするわけにもいかない。厳しい授業に耐えかねて桃山勇が退職を申し出てくれればいいと、人事の人間達は密かに願っているという始末だった。
そんなある時、英語の授業中に勇はちょっとした落とし穴にはまってしまった。いつものように、薩長セミナーのテンポのいい授業を展開していて、不覚にも一息ついてしまったのだ。そこへ、すかさず利発な女生徒が質問を浴びせてきた。
「先生、うちのお母さんが今どき関係代名詞の"whom"なんか使わないって言うんです。アメリカでは"whom"の代わりに"who"を使うって。それは本当ですか?」
勇は焦ってしまった。授業マニュアルでは関係代名詞の主格は"who"、所有格が"whose"、そして目的格が"whom"と教えるようになっていて、彼女の質問に該当する事柄は記載されていなかった。
「それは何かの間違えだね。"whom"を使うのが決まりになっているんだよ」
「そうですか。うちのお母さんはアメリカの大学を出ているんですが、やっぱりお母さんの勘違いなんですね」
「あ、ああ、そうだね。勘違いだね」
その場はそれで済んだのだが、勇はとんでもない発言をしてしまったことに気づいていなかった。実際、"whom" などという言葉は受験英語の世界の遺物で、ネイティブスピーカーたちにすれば「シェークスピア時代の英語を習っているのか」ということになる。質問した女性との母親が言うとおり、関係代名詞の目的格は、主格の"who"が代用するようになっているのが現代英語だ。勇は専門的な知識など全くないし、教材研究にも関心はなかったから、薩長セミナーのマニュアル通りに教えただけなのだが、これが後でとんでもないトラブルに発展することになる。
翌日の夕刻、質問した少女の母親が薩長セミナーにやってきた。
「あの、娘の英語を担当している桃山先生はいらっしゃいますか」
「桃山はただいま授業中ですが、何かございましたでしょうか」
教室長の深井健一が丁重に尋ねた。
「実は、きのうの授業で娘が関係代名詞についての質問をしたのですが。桃山先生はでたらめを教えたらしいんです。確かに日本の受験英語では"whom"という関係代名詞を教えているのは知っていますが、それはもはや時代遅れの言葉で、日常会話では"who"を使うんです。まさか薩長セミナーの講師ともあろう人が、そんな知識も持ち合わせていないんでしょうか」
「ああ、今授業が終わったようなので、どうぞこちらにお越し下さい」
深井は静かな物言いの中にも剣を含んだ母親の様子にただならぬものを感じ、母親を別の空き教室に案内した。
「あ、桃山先生、ちょっとこちらへ」
室長の深井健一に呼ばれた勇は、何となくいやな雰囲気を感じたが、招じられるままに母親のいる教室に入っていった。
「お母さん、こちらが桃山です。桃山先生、こちら武田信子さんのお母さんです。きのうの先生の英語の授業についてちょっとお話があるそうなんですが」
「どうも、初めまして。私が英語と社会を担当している桃山です」
「さっそくですが桃山先生、先生は私が娘に言ったことは私の勘違いだとおっしゃったそうですが、先生は英語の専門でいらっしゃしますの?」
「いえ、その、私は歴史が専門です」
「そうですか。それで現代英語の知識は全くないわけですね。関係代名詞の"whom"など日常会話で使うネイティブはおりませんよ」
「あの、ネイティブとおっしゃいますと?」「先生、冗談はやめて下さい。まさかネイティブも知らないんですか」
「はあ、薩長セミナーのマニュアルには書いてないもんですから」
室長の深井はあわてて会話の中に入った。
「桃山先生、次の授業がありますから、後は私がお話をさせていただきますので、先生はどうぞ授業に行って下さい」
「はあ、わかりました。それじゃあ、どうも失礼します」
勇は、何となく割り切れない気持ちで教室を後にした。
「深井先生、これはいったいどういうことですか。あんないい加減な先生を薩長セミナーでは雇っているんですか。英語のエの字も知らないじゃありませんか」
「まあ、お母さん、そこはお母さんのおっしゃるとおりで、こちらの不手際です。実は最近塾の講師に応募する人間が少ないものですから、研修は十分に積んでいるのですが、まだまだ未熟な講師もおりまして」
「それで多額の月謝を取るというのは、ほとんど詐欺に等しいのではありませんか」
「まあ、そうおっしゃらずに。どうか、この件は内密におさめていただけませんでしょうか。桃山先生は、英語の授業からはずすことにしますので、それでどうかお許しいただけませんでしょうか」
「そりゃあ、今まで深井先生にはずいぶんお世話になっていますから、先生のたってのお願いとなれば、私もその通りにしますが、薩長セミナーの看板に泥を塗るような講師はお雇いにならないことですね」
「はい、もっともなご指摘をどうもありがとうございます」
深井は深々と頭を下げ、武田信子の母親は怒りを収めて帰っていった。ところが、数日後武田信子は退塾を申し入れてきた。父親がどうしても許さないということだった。しかも、武田信子の父親は雑誌の編集を仕事にしている。薩長セミナーの実態を暴かれでもしたら大変だ。かといって、父親に和解を申し入れることも大きな危険性をはらんでいる。深井健一はすぐに桃山勇を事務室に呼んだ。
「桃山先生、言いにくいことなんですが、武田信子さんの件で、現在薩長セミナーはとんでもない危機にさらされています。この際、念のためにあなたには退職していただかなければならないと本社の方から言い渡されました。これはあなたのミスでもあるので、どうかその通りにしていただけますか」
「つまり、クビということですよね。でも僕は、自分が英語の授業を望んだ訳ではありませんよ。僕は社会だけを希望したのに、深井先生がマニュアルを見ながらやれば大丈夫だからということで無理矢理英語も持たされたわけですよね。これは、不当解雇にあたると思いますが」
「ですから、自主的に退職していただきたいとお願いしているのです」
「条件によりますね」
「つまり、退職手当を出せと、そうおっしゃりたいのですね」
「私の方があなたより法律には詳しい。武田さんが雑誌に薩長セミナーの記事を載せたら大問題になるのは間違いないでしょうが、私が武田さんに私が英語を受け持ったいきさつを話せば事態はもっと深刻になるのではありませんか」
深井はむっとした表情をしたが、冷静に感情を抑えて、桃山の申し入れを受けることにした。
「それでは、金額は上と相談した上で後日提示させていただきますので、それまでは授業をなさらないで結構ですから」
「そうですか。ずいぶんな扱いなんですね」「まあ、私塾は会社と同じで信用を売り物にしていますから、未熟な講師を雇っておくわけにはいかないんです」
「私が未熟者だと言うのですね」
「いや、それは、すみません、私の失言でした」
「まあ、どんな額が提示されるか楽しみにしていましょう。ただし、私を甘く見たら後で後悔することになりますから、その点は十分考慮した上で決断をお願いしますよ」
勇も面の皮が厚い。基本的に、未熟な講師であることは事実だし、勇の教材研究不足が原因で起こしてしまった不祥事なのだから、退職手当など請求すること自体非常識なのだ。法律に詳しいなどと言っている勇は、確かに法律の文言には詳しいかも知れないが、実社会の常識に関してはまったく無知に等しいと言ってもいい。迷惑なのは、薩長セミナーだろう。宣伝通り充実した講師陣で経営をしてきた薩長セミナーが、謝って勇を雇ってしまった。まさか、こんなにレベルの低い人間が講師に応募してくるとは予想もしていなかったからだ。そういう意味では、人を見る目がなかった薩長セミナーの人事担当にも責任の半分はあるかも知れない。勇に提示されてきた金額は八〇万円だった。勇は大喜びで条件を受け入れた。詐欺は勇の方かも知れない。
《立て直し》
「いやあ、参ったよ。研修研修で本当に人使いが荒いんだ。そのくせ月給が四万円に届かないっていうんだから、ぼったくり塾だな」
「でも、社長に腹を立てたその武田とかいう人は結局どうなったんですか」
「うん、薩長セミナー側と話し合いが成功したらしくて、娘は塾に戻ったらしいよ。馬鹿にしてるよなあ。俺がやめた途端に塾に戻るってことは、まるで俺が薩長セミナーのガン細胞だったっていうことじゃないか」
事務の佐々木祐子は思わず吹き出しそうになってしまった。
「それで、収穫はあったんですか」
「うん、まあね。さすがに大手進学塾だけあって、教材もしっかりしたオリジナルのものが用意されてるし、講師達の訓練も徹底してるよ。何だか宗教団体みたいでちょっと気味悪かったけど、それも慣れてしまうと、不思議と授業がスムーズに行くようになるんだからね。誰が考え出したのかは知らないけど、大したノウハウだと思うよ」
「それで、これからうちの塾はどんな風にしていくおつもりなんですか」
「うん、まずは教材作りからかな。これは、本当ならオリジナルがいいんだけど、それはちょっと無理だから、教材会社と交渉して市販されていないものを手に入れようと思うんだ。それから、専任の講師だよ。教科も英語・数学・理科・社会・国語」の5教科に拡張して、社会は僕が担当する。それ以外の教科は、きちんと専門的な知識を持った大学生を雇おうと思うんだ」
「要するに、あと4人雇うわけですね。そうすると人件費の捻出が難しくなると思うんですけど、大丈夫ですか」
「相手は大学生だから、時給一、五〇〇円ほども出せば十分じゃないか。そうすれば、一日に三時間の授業を四人がやったとしても、一八、〇〇〇円にしかならないだろう。それを月に二十日間やるとすると、三十六万円だよ。つまり学生一人あたり九万円さ。家族のある正社員で月給九万円だったら、誰も働かないだろうけど、学生の身分で月に九万円も稼げれば十分だよ。月に二百万円以上の売り上げがあれば、それでも百五十万円は残ることになる。その中から、佐々木さんに三十五万円は支払えると思うよ。もちろん手取りでだけど、どう?」
「それ、本当ですか?手取り三十五万なんて夢みたいな話です」
「その代わり、この話は雇うことになる学生達には内緒だからね。これで運営が成功すれば、別の場所に第二教室を作ることも可能だと思ってる。そして、雇うのは全部大学生にするんだ。そうすれば、人件費は最低限に抑えられるじゃないか。学生は、子供と接しているうちに、そのことに意義を見いだすだろうから、時給に文句をつけるやつはいないだろう。それに一年以上勤続した学生には、時給を百円か二百円アップしてやればいいんだよ。学生なんてそれで十分さ。また、担当クラスの生徒数が増えたときには、そのクラスを担当している学生に五千円くらいの報奨金を出すっていう手もある。とにかく金で学生を上手に操ればいいのさ」
「採用はどうやって?」
「一応塾の威厳を保つために、教員採用試験に似た採用試験を実施しようと思うんだ。その結果が極端に悪いやつは別として、まあまあの出来だったら、それで無事採用ということになる。講師の身分証明書なんかも作ってやれば、喜ぶんじゃないかな」
「社長も、だんだん頼もしくなってきましたね。私、どこまでもついていきますから」
「そりゃあ嬉しいことを言ってくれるなあ。ついでに私生活でも僕についてきてくれるなんてことはないかなあ…」
「またまた、そういう話はまだちょっと早すぎるんじゃないかしら」
祐子の方が二歳年上だったが、それでも祐子は勇にならついていってもいいという気持ちになりかけていた。最初はいいとこのおぼっちゃまという感じだった勇も、名前にふさわしいたくましさを身につけてきている。それに、桃山社中が大成功すれば、一生お金にも困らない。祐子も、そういう点では抜け目がなかった。
それにしても、勇は教育技術の面ではいろいろ未熟さはあるものの、経営の悪知恵だけは一人前に働くようになっていた。薩長セミナーで研修をしている間に、なぜ大学生が歓迎されるのか嫌と言うほど思い知らされたのだ。薩長セミナーというネームバリューの助けもあって、どんなに安い時給でも学生達は喜んで働く。薩長セミナーの講師という肩書きが、学生の間での一種のアイデンティティーになっているのだろう。学生を上手に使えば、大幅に人件費を削減することができるのだ。それが塾経営の成功の秘訣だと知った。 桃山勇が作った講師募集のチラシはこんな具合だった。
私塾「桃山社中」講師募集
・募集教科 国語・英語・数学・理科
・授業対象 中学1年〜3年生
・時給 1,500円以上
(研修三ヶ月は1,300円)
・交通費完全支給
・報奨金制度あり
・電話予約の上入社試験実施
・資格 大学在学生のみ
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本当にこれで講師が集まるのかと、佐々木祐子も多少の不安を抱いていたが、祐子の予想に反して入社試験の電話予約が殺到した。全部で二十五人。「入社試験」というハードルがきちんとした企業であるというイメージを学生達に与えたに違いない。誰でもOKと書かれていたら、おそらくこんなに多くの応募は得られなかったに違いない。
試験はチラシを公開してからちょうど一ヶ月後に実施された。内容は中学生程度の一般教養と簡単な教職教養、それに専門教科の試験である。試験問題は、過去の教員採用試験に出た問題を真似した勇が作成した。それにしても、採点をしていて勇はため息をつきたくなってしまった。大学生なのだから当然知っていていいはずの知識が、全く欠落している学生が多いのだ。二十五人の応募者の中から四人を選ぶのは、それ故に非常に簡単だった。採用されたのは次の四人である。
国語 徳川秀子(関東女学院国文科二年)
数学 桂隆太郎(東京科学大学三年)
理科 西郷翔太(埼玉理科大学二年)
英語 中岡雄介(千葉外国語大学一年)
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選抜後に名簿を眺めながら、勇はずいぶんと妙な巡り合わせだと感心してしまった。尊敬する坂本龍馬の親友中岡がいる。薩摩藩の西郷も長州藩の桂もいる、おまけに将軍の徳川までいるのだから、いったいどういう塾になってしまうのか、考えもつかなかった。どの学生も非常に優秀で、四人とも卒業後は公立中学校の教員を志望していた。「これなら絶対に大丈夫だ」勇は自分の選んだ四人の講師を頭に思い浮かべながら、自画自賛していた。確かに、四人の情熱が一つにまとまれば、立派な私塾ができあがるに違いなかった。もちろん、彼らを束ねる勇が、四人の能力を十分に引き出す手腕を発揮することが絶対条件になるのだが、そこが一番の不安の種だった。経営の悪知恵は豊富だが、人を惹きつける魅力が勇には決定的に欠けていたからだ。教育に対する熱弁をふるうわけでもなく、かといって冷徹な印象の敏腕ビジネスマンという印象も与えない。勇の父親が指摘するように、人の上に立つ器ではなかったのだ。さて、これから勇はどんな経営をするのだろう。
《トップとの亀裂》
桃山社中に採用された四人の大学生講師たちは、無事に三ヶ月の研修期間を乗り切って順風満帆の航海に出立していた。もちろん、研修期間とは名ばかりで、一応桃山勇塾頭に毎日の反省用紙を提出してはいたが、特に塾側からの情報提供や技術指導があったわけではなかった。それでも、教員志望の四人は、そんな矛盾には目もくれず、生徒たちとのふれあいに没頭していった。彼らの若いエネルギーのおかげで、桃山社中の名前は次第に実を伴うものになり、生徒数も徐々に増加していった。もちろん、約束通り生徒一人が増加するたびに、そのクラスの講師には報奨金が出た。一、五〇〇円の報奨金とは言え、学生にとってはありがたい収入であることは間違いない。
しかしながら、四ヶ月、五ヶ月と時が経過するに連れて、少人数制を謳っていたはずのクラスに、どんどん生徒を受け入れたり、一日の授業の記録を丹念にしても、どうやら塾頭である桃山勇はその記述に目を通していないことは、確認印が押されていないことからもはっきり見て取れるようになった。「もしかしたら、自分たちはただ利用されているだけなのではないか」学生達の誰もが疑問に思い始めた頃、国語の徳川秀子の提案で、四人だけの飲み会を実施することにした。もちろん、飲み会とは言っても、中心は桃山社中に関する討論会である。のんきな勇は、講師達が氾濫を企てつつあることになど、一向に気づいていない。それもそうだろう。講師達が毎日一生懸命に綴ってくれている授業記録にさえ目を通さない勇に、講師達の気持ちなどわかるはずがないのだ。金さえ払っていれば人間は文句を言わずに働くものだと思いこんでいる。しかし、実際には金よりも信条で働く人間も少なくはないのだが、勇自身がそういう純粋な動機を持っていない人間だから、そこまで思慮が及ばない。
飲み会の場では、まず最初に徳川秀子が口火を切った。
「私ね、時給がどうのこうのなんて、全然気にしてないの。子供達に教える経験を積めるだけで、本当にありがたいと思ってる。それはみんなも同じでしょう?」
数学の桂隆太郎が後を継いだ。
「僕も同じだよ。もちろん時給はいい方がいいけどね。本を買うお金だって馬鹿にならないし。だけど、生徒達は本当にかわいいよ。僕みたいな未熟な先生でも、心から頼ってくれるからね。頑張らなくちゃいけないっていう使命感みたいなものが湧いてくる。だけど塾頭は本当に子供のことを考えているとは思えないんだ」
「それはどういうところから判断してるんだい?僕も同意見なんだけど、まずは桂君の意見を聞かせてくれよ」
英語の中岡雄介が言った。
「まず、少人数だから意味がある桃山社中の授業が、最近では一クラスに十名以上を詰め込んだ状況だよね。しかも、机は長机だから生徒達は肩を寄せ合うように座っている。これははっきり言って、宣伝と違うから詐欺行為だと思うんだ。それに、僕たちが毎日書いている授業記録に塾頭が赤ペンを走らすことはまずないよね。それはつまり、あれは形だけで、塾頭は何も見ていないんじゃないかと思ってさ」
「やっぱり君もそうか。僕も全く同じ事を感じていたよ」
そこへ理科の西郷翔太が割り込んだ。西郷は雑学博士で、法律にも詳しかった。
「法律的には、確かに詐欺行為で訴えられても不思議はないね。チラシに謳っている条件とは明らかに違うわけだから、保護者は塾を訴えることができる。でもそんなことをされたら、僕らの今までの努力も水の泡だよ」
「そうね、桃山社中をつぶさないで、何とか私たちで改革ができないかしら」
「労働者である僕たちには、団体交渉権が認められているから、みんなで塾頭に掛け合ってみるのはいいアイデアかも知れない」
さすがに理科の西郷翔太は冷静な意見を言ってくれる。みんなも、西郷の意見に賛成して、その場の討論会は終わりになった。後は普通の学生の飲み会だ。まじめな四人にも、酒を飲んだ騒いでストレスを発散する機会は必要だろう。本来なら、塾頭の桃山勇が歓迎会のような名目で四人を食事に誘ってもいいのだが、とにかく勇には人の心をつかむ手腕のかけらさえもない。小さな出費がやがては大きな利益につながることを知らなければ、本当の意味での立派な経営者になることはできないのだが、勇にそんな経営技術を指導する人間はいなかった。
翌日の夜、授業が終わってから四人の講師は桃山勇のところに「団体交渉」に行った。
「あの、桃山塾頭、ちょっとお話があるんですが」
「四人みんなで?」
「はい、そうです。桃山社中のことに関してなので、四人一緒でお願いします」
「今日はちょっと時間がないんだけど、まあ三十分くらいならいいでしょう。向こうの空き教室を使いましょうか」
四人は緊張した面持ちで、勇に指定された空き教室に移動した。
「で、話というのは何ですか」
答えたのは冷静沈着な西郷翔太だった。
「はい、桃山社中の経営についてなんですが、少人数制を謳っていて、現実には一クラスに十名以上の生徒が入っています。これは問題ではないかと。それから、僕たちが毎日書いている授業報告にきちんと目を通していただきたいのです」
「桃山社中の塾頭は私だよ。君たちは講師の分際で塾の経営方針にまで口を出すというのですか」
「あの、僕たち労働者には団体交渉権が認められていると思うんですが」
「君は、ちょっとかじったくらいの法律の知識でものを言うもんじゃない。団体交渉権は労働条件に関してのものであって、会社の経営方針にまで口を出していいとは法律は規定していないと思うんですけどね」
「それは、その…」
さすがに法律の専門的な知識になると、社会科が専門の桃山勇に分があった。
「それで、あなたたちは時給に不満があるとそう言いたいのですか」
徳川秀子が憤慨して言った。
「そうではありません。私たちは、子供達と接する機会を与えて下さった塾頭には心から感謝しているんです。でも、手狭な教室にすし詰め状態になって授業を受けている子供達を見ると申し訳なくなってしまって」
「そんなことは、君たちが心配する事じゃないでしょう。君たちは、自分の足下だけを見ていればいいんです。それから、君たちが書いてくれている授業報告は、保護者との面談の際に利用させてもらうためのものですから、決して私が手抜きをしているということではないので、どうか誤解のないように。話はそれだけですか?」
「あの、それでは、チラシに書かれていた少人数制授業という謳い文句は、無視しても構わないということなんですか」
「だから、それは私の考えることで、いちいち君たちに口出しされるべき内容ではないと言っているじゃないですか。そんなに文句があるのなら、自分で塾を開きなさい。自分が経営者になれば、いくらでも理想的な教育ができる。ここで働きたい人間は他にもいくらでもいるんですからね」
「そんな言い方は…」
英語の中岡は反論しかけて、そのまま口をつぐんでしまった。もうこれ以上桃山勇に何かを訴えても無駄だろう。四人の目論見は大失敗に終わってしまったのだ。
四人は、桃山社中のあるビルを一緒に出ると、自然に先日作戦会議を開いた居酒屋に足を向けていた。
「一杯ひっかけてから帰りましょう」
徳川秀子がいつになく乱暴な言葉でみんなを誘ったので、三人は思わずうなずいてしまった。
「まったく、何を考えてるのかしら、あの桃山のおやじ」
「桃山のおやじか…おやじって言っても、僕らと大して年齢は変わらないはずだよ。それにしても徳川さん、今夜はずいぶん荒れ模様だね」
英語の中岡雄介がからかい半分に言うと、徳川秀子はむっとした表情で中岡にくってかかった。
「中岡君は腹が立たないの!だって、私たちの意見なんかちっとも聞いてくれないじゃない。せめて、後で検討するくらいの解答を出してもいいんじゃない?それなのに、余計な口出しをするなだなんて、あいつは教育者の仮面をかぶった偽善者よ」
「確かに、ちょっと強引すぎるよな。少人数制の授業をやると謳っているんだから、その通りにする義務があると思うし、実際に少人数のクラスを実施しても、もうけは十分にあるはずなんだ」
先ほどは、桃山にうまく言いくるめられてしまった西郷が気を吐いた。
「桂君はどう思う?」
「ビジネスライクっていう感じかな。頭には金儲けのことしかないんだよ。だから、同じもうかるなら少しでも多い方がいいと思ってるんじゃないのかな。僕たちの時給だって、一、五〇〇はあまりにも安いと思う。よその塾で講師をしている友達に聞いたら、相場は最低でも二、〇〇〇円だってさ。僕らは、低賃金でうまく利用されてるんだ」
「それじゃあ、みんなでやめちゃいましょうか」
「徳川さん、僕もそれを考えたけど、僕らがやめてしまえば迷惑を被るのは、桃川よりもむしろ生徒達だと思うんだ。仮にも僕らは教員を目指しているんだから、それだけはやってはいけないんじゃないかって、そう思い直したよ」
「西郷君は偉いのね。私はもう我慢ならないわ。たぶん、来月にはもうこの桃山社中にはいないと思う」
「徳川さん、本気でやめるの?せっかく四人で頑張ってきたのに、もう少し何とかしてみないか」
徳川秀子を説得しようとしたのは、英語の中岡だった。中岡雄介は、さっぱりした性格の徳川秀子に惹かれている。できれば、同じ職場で一緒に働いていたかった。
「もう少し粘っていれば、桃山塾頭の考え方も変わるかも知れないじゃないか」
「私にはとてもそうは思えないわ。あんなクソおやじにはもうついていけない」
「でもさ、徳川さん、短気は損気って言うだろう?お願いだからさ、もう少し、もう少しだけ頑張らないか」
「中岡君、どうしてそんなに私を引き留めるわけ?あーっ、わかった。私に惚れちゃってるんでしょ」
「ず、ずいぶんはっきり言うんだね」
「やだ、中岡君ったら、本気にしないでよ。冗談なんだから、冗談」
「僕は、本気なんだけど…」
「えっ、今何か言った?」
中岡雄介の声は小さすぎて、徳川秀子にははっきり聞こえなかった。男子たるもの、こんな小心者ではいけない。
「いや、別に何も言ってないよ。それで、もう少し続けることにした?」
「中岡君にそこまで言われたら、私としても簡単にやめるわけにはいかないでしょ」
「そうか、それなら安心した。きっと何とかなるよ。きっとね」
《新人講師採用》
別に四人に「団体交渉権」を行使されたからというわけではないが、桃山勇もさすがに教室が手狭になっていたことは感じていたので、一階下のワンフロアーをさらに借りて、教室の拡張をすることにした。それにあたって、さらに四人の講師を募集したが、今回は前回を上回る三十五人の学生が応募してきた。桃山社中という名前が、少しずつネームバリューを獲得しつつある証拠だった。しかし、その価値は最初の四人の講師達の純粋なエネルギーがもたらしたものであって、決して桃山勇の功労などではない。しかし、勇自身は自分の経営手腕が優れているのだと完全に錯覚していた。かつて、哲人ソクラテスは「無知の知」を説いたが、能力のない人間に限って、自分の無能さを自覚できていないのが世の中の常である。勇もその例を出なかった。
新しい講師募集では、何と社会科の講師まで応募対象になっていた。どうやら、勇は自分は授業から手を引いて、経営に専念するつもりらしい。ここが素人の浅はかさで、自分も授業をしていてこそ、講師達が抱える問題点を理解することもできるし、何より講師達からの信頼も得られるのだ。それが、授業の一線から退いてしまえば、それは戦争の前線から後陣の本部に引き上げて、そこから無線で前線の兵士達に作戦を指示するようなもので、そんな情感を兵士達が尊敬するわけはない。勇はその辺の人情の機微が全くと言っていいほどわかっていなかった。聖書にも言うではないか。「人はパンのみにて生きるにあらず」と。人を動かすには、それなりの心が必要だ。
新人講師の入社試験は第一回同様に実施されたが、勇はとんでもない手抜きをした。つまり、採用試験の問題に第一回と全く同じものを使ったのだ。応募した学生達は当然の事ながら、第一回採用試験を研究してきているから、試験会場からは問題用紙が配られた瞬間にどよめきがわき起こった。これでは、新人の講師達にさえ塾の経営方針を馬鹿にされてしまいかねない。勇は少しばかり後悔したが、それほど深刻には受け取っていないようだった。全くもって鈍い男だ。
採用試験の結果次の六名が新人講師として桃山社中で働くことになった。
国語 佐々木道子(関東女学院国文科一年)
数学 岡田静夫(豊国大学二年)
理科 後藤光彦(海浜大学三年)
英語 武市孝太郎(ニューヨーク大学東京分校二年)
社会 土方貴之(新開大学二年)
社会 沖田伸介(新開大学一年)
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新しく採用された六人の名簿を見ながら、一期生の四人は何やら品評会のようなものを開いて盛り上がっていた。
「ねえ、私たちもそうだけど、どうしてこの桃山社中には幕末に関係した人間と同じ名字の人ばかりが集まるのかしら」
「塾頭が、桃山社中なんていう名前をつけるから、そのたたりなんじゃないか」
数学の桂隆太郎が言った。
「塾頭は坂本龍馬の大ファンなんだ。ところが親は新撰組の近藤勇のファンだったから、名前を勇にしてしまった。でも本人はあくまでも坂本龍馬のファンだから、龍馬の亀山社中をもじって桃山社中にしたんだってさ」
「桂君、ずいぶん詳しいのね」
「ああ、一度塾頭と二人きりになったときになぜか詳しく話してくれたんだ」
「そうすると、私たちはみんな塾頭とは敵対関係にはないわけね。でも今度の人たちを見てよ」
理科の西郷翔太が割り込んできた。
「本当だね。確か坂本龍馬を暗殺したのは京都守護職配下の佐々木只三郎だということになっているから、佐々木さんは一番の敵ということになるね」
英語の中岡雄介もおもしろそうに話に加わった。
「ていうことは、土方君と沖田君は名前の上では塾頭の見方だけど、基本的には敵と言うことになるのかなあ」
徳川秀子がそれに応じた。
「ねえ、岡田以蔵って、確か幕末の殺し屋だったんじゃない。でも坂本龍馬と確か同郷よね。それにしても気味悪いわ」
「塾頭はそういうことまでちゃんと考えて採用してるのかなあ」
西郷の疑問に答えたのは桂だった。
「そんなことあるわけないだろう。塾頭の頭には商売のことしかないのさ。だからそんな細かいことに気を配るような繊細な神経なんか持ち合わせていないよ」
「私もそう思うわ。あいつにはそんなデリカシーなんかかけらもないに決まってる」
四人の評価は別としても、問題なのは社会科で採用された土方貴之と沖田伸介の二人だった。二人とも茶髪でピアスのまさに現代風大学生で、どう見ても品が良さそうには見えない。桃山社中では、授業はスーツで行うことになっていたから、服装だけはきちんとしているのだが、沖田伸介に至ってはあごひげまではやしている始末だ。しかも、二人とも見かけだけでなく、一期生の四人の講師達に対して非常に反抗的な態度をあからさまにするのだった。ある時、正義感の強い国語の徳川秀子と新開大学の二人が議論になった。
「あなたたちね、その茶髪とピアスはどうにかしたらどうなの?」
「あんた塾頭でもないのに、俺たちにそんなこと言う権利があるのか」
最初に口答えしたのは土方だった。
「だいたいさ、所詮は塾の講師のくせに、先生ぶってるあんたたちの偽善者ぶりは鼻につくんだよ」
「土方君、少しは先輩を敬う気持ちがないのかしら」
「先輩って何のことだよ。同じ大学二年生じゃねえか。偉そうな口はきいてもらいたくないね。第一、俺たちは塾頭の桃山さんに見込まれて採用されたんだから、あんたみたいな平の講師にあれこれ文句を言われる筋合いなんかないね」
沖田が追い打ちをかけるように言った。
「あんたさ、大学二年にもなってこんな塾で働いてるって事は、彼氏の一人もいないってことだろう?」
「失礼ね。私に彼氏がいようがいまいが、それこそ余計なお世話だわ。あんたたちそれでも社会科の教師なの」
「だから言ってるだろう。俺たちは講師であって教師ではないってさ。塾の講師なんか普通の会社員と一緒なんだから、変に教師ぶった口をきくのはやめてくれよ」
「あんたたちみたいな自覚のない人たちは、すぐにこの桃山社中を出て行くべきだわ」
「それは桃山塾頭の了解を得て発言しているのかな」
「何よ、理屈っぽいのね」
「世の中は全て理屈だよ。理屈に合わないことは通らないのさ。逆に理屈に合えば、どんなことでも許されるってこと。だいたいね、茶髪とピアスはだめだなんて、募集要項にはどこにも謳ってなかったし、桃山塾頭もそれに関しては何も言ってなかったぜ」
「これだから女のヒスは困るんだ」
「沖田君、もう一度言ってみなさい!あんたね、まだ高校を卒業したばかりでお尻が青いくせして生意気なこと言うんじゃないわよ」
「おやおや、徳川のお姉様は俺様のお尻を拝見したことでもおありなのでしょうか」
「馬鹿にしないでよ!あんたの発言はセクハラなんだからね。訴えてやるわ!」
「喧嘩を売ってきたのはそっちの方だろう。訴えられるもんなら訴えてみな。恥をかくのはそっちの方だぞ。俺たちは社会の専門家なんだから、法律に関してはあんたたちよりよっぽど詳しいんだ。下手なことは言わないことだね」
「あんたたちみたいな野蛮人には何を言っても無駄ね。でもいいこと、お願いだから生徒達には丁寧に接してね。私たちが築いてきた桃山社中の伝統をあんたたちみたいな無礼者に壊して欲しくないのよ」
「そういう言い方が気にくわねえって言ってんだよ!お前だって、女神様みたいなこと言ってたって、男の前じゃ裸になって下品なあえぎ声を上げるんだろ!」
「何て事を言うの!このセクハラ新撰組!」 土方も沖田も、「新撰組」という言葉を聞いて、一瞬お互いの顔を見合わせてしまった。「おい沖田、新撰組だってさ」
「先輩、確かに俺たちの名前は新撰組ですよね。塾頭は桃山勇だから俺たち新撰組の親分ってことになりますかね」
「この女は徳川だから、幕末のゴミだな」
「まあ、生かしておいてやってもいいけど、新しい時代には順応できない骨董品みたいなもんでしょうね」
「骨董品か。沖田、お前なかなかおもしろいこと言うじゃないか」
「土方さん、何か俺燃えてきましたよ。新撰組として、偽善者連中に天誅を下してやりたくなってきました」
「まあ、そう焦るなよ。どっちが生き残るかは神様が決めてくれる」
「二人とも、せいぜい今のうちに粋がっていることね。あんたたちこそ偽善者だわ。あんたたちの本性はすぐに子供達が見抜いてくれるから、待ってるといいわ」
「馬鹿女だなあこいつは。ガキなんか、そんなに利口じゃないさ。適当に受験の知識を教えてやってればそれで満足するに決まってるだろうが」
「そのうちわかるわよ。野蛮人!」
徳川秀子は、土方・沖田の新撰組コンビと口論した夜も、一期生四人で居酒屋「黒船」に出かけた。
「ちょっと聞いてくれる。あの土方と沖田の二人は、まるで野蛮人そのものなのよ」
「そんなにひどいこと言われたの?」
英語の中岡が心配そうに聞いた。
「私のこと、ヒスだの幕末の骨董品だの、もうめちゃくちゃなの。それで自分たちは新撰組だから、桃山勇塾頭は自分たちの親分だって。ガキは馬鹿だから適当にあしらってればいいとまで言ったのよ」
「そりゃあ、大した玉だね。さすがに、桃山塾頭が採用するだけのことはある。彼は本当に人を見る目がないんだよ。それで茶髪とピアスは塾頭が認めたって言ってたかい?」
理科の西郷が、徳川秀子の怒りを静めようとするかのように、冷静に発言した。
「募集要項に茶髪やピアスに関する規制は記されていないから、文句を言われる筋合いはないって威張ってたわ。私もう切れまくっちゃった」
「徳川さん、こういう場合は切れた方が負けだよ。それじゃあ相手の術中にはまるばかりだ。わざと冷静にして沈黙を保っている方が相手にとっては不気味なんだ」
「さすが西郷君は落ち着いてるね」
感心したように数学の桂が言った。
「それにしても、土方と沖田っていう名前がどうも気になるね。何か悪いことが起きるような予感がするよ」
「桂君ももっと冷静に考えた方がいい。彼らはどうってことないただの学生さ。名前なんかで怖じ気づくことはないと思うよ」
やはり、あくまでも西郷は落ち着いている。それよりも、なぜ桃山勇があんないい加減な学生を採用したのか、その意図の方を探りたいと思っていた。
「桃山塾頭も馬鹿ではないから、土方や沖田がいい加減な学生だということはわかっているはずだよね。その上で採用したとなると、裏に何かあるんじゃないかと思うんだ」
「西郷君も考えすぎなんじゃないの?桃山塾頭がそこまでの策士だとはとても思えないんだけど」
桂隆太郎は返事を促すように西郷に言った。「いや、あの桃山勇という男を見くびると、とんでもないことになると思うんだ。彼は確かに指導者としての人格には欠けるけど、経営の悪知恵に関しては侮れない存在だと思ってね。だから、一期生の僕らは全員が教員志望の熱血人間タイプじゃないか。まずは、桃山社中の名前を世間に宣伝するために、僕らの情熱はうまく彼に利用されたんだよ」
「それじゃあ、今度はいい加減な講師でお茶を濁そうってわけ?でも、時給は私たちといずれは同じになるんでしょう」
「問題はそこなんだ。研修期間は確かに三ヶ月で同じだけど、募集要項にはその後の時給についての記述がなかったんだよ。好待遇としか書かれていなかった。だからもしかしたら、僕らよりも時給にして百円から二百円低く設定されている可能性もあると思うんだ」「でも、もしそれがあの人達に知れたら、やめちゃうんじゃない?」
「だから、採用試験で成績の悪かった連中に恩を売る形で採用の話を持ちかけたんじゃないかなあ」
「でも西郷君の言ってることは、あくまでも想像だよね。採点結果の一覧表でも手に入ればいいけど」
英語の中岡雄介がつぶやいた次の瞬間、数学の桂がびっくりするような大きな声で発言した。
「だいじょうぶだよ。事務の佐々木さんは僕らよりも早く帰ってしまうよね。その後で、桃山塾頭に教材研究を理由に居残りを申し出るんだ。そうすれば、塾のコンピューターを開けると思う」
「そうかしら。あの桃山勇のことだから、アクセスのパスワードを設定してるに決まってるわ。それでも侵入できるの?」
「わからないけど、坂本龍馬の大ファンの塾頭だから、パスワードも龍馬にまつわる言葉の可能性が高いと思うんだ。いくつか試してみて、それで駄目だったらあきらめればいいんじゃないかなあ」
「うん、それは名案かも知れないね。少なくとも実行してみる価値はあると僕は思う」
西郷の目が心なしか生き生きしてきたような気がした。
桂隆太郎の案に残りの三人全員が賛成し、さっそく翌日の夜に実行されることになった。名付けて「平成戊辰戦争」。もちろん、徳川秀子はあまりいい顔はしなかったが、実際には明治維新後も徳川十五代将軍慶喜は生き延び、大正の時代まで迎えている。だから、そんなに気にすることはない。それよりも、新撰組を追いつめる作戦だから、名前としては悪くはない。これは西郷の案だった。
《平成戊辰戦争》
翌日の夜、全ての授業が終わった後で、作戦は実行に移された。桃山勇は、教材研究をしたいという徳川秀子たち四人の申し出を、何の疑いもなく信じて許可したまま、帰ってしまった。四人は、桃山が帰ったから三十分は様子を見て、それから作戦に取りかかった。コンピューターの画面の前に座ったのは、数学の桂隆太郎だった。
「さあ、みんな始めるよ。まずは、龍馬の嫁さんだった『おりょう』で行ってみようか」「どうだ?」
「だめみたいだね。次はどうする?」
「『いけだや』か『てらだや』でやってみてくれないか」
「よしきた。う〜ん、これも駄目だよ」
「それなら『かいえんたい』でいこう」
「それも駄目だね」
四人は思いつくままにいろいろな言葉を口にしたが、どの言葉もパスワードには設定されていなかった。
「ねえ、龍馬が殺されたのはどこだったっけ」「確か近江屋だったと思うけど」
「それじゃあ『おうみや』でやってみて」
「まさか龍馬が暗殺された宿の名前をパスワードにしているとは思えないけど。やっぱりだめだよ」
「そう、駄目なの。ねえ、普通私たちもパスワードには数字を入れるじゃない。何か数字がからんでいるんじゃないかしら」
「数字か…。それなら『せんちゅう8』で行ってみよう。船中八策は龍馬が先人の案を三項にして作ったんだけど、それが五箇条の御誓文の基本になったんだ」
「西郷君はずいぶん詳しいのね」
「実は、僕も坂本龍馬のファンなんだよ。だけど桃山塾頭がそうだと聞いて、何だかおもしろくなくて言えなかったんだ」
「でも西郷君、それもだめみたいだ」
「ねえ西郷君、龍馬が近江屋で殺されたのはいつのことなの」
「それは慶応三年十一月十五日だとされているけど」
「なら『おうみや1115』でどうかしら」
「桂君、やってみてくれよ」
「いいよ。ええと、『おうみや1115』だったね。ビンゴ!すごいよ徳川さん、パスワード解読成功だ!」
「それじゃあ、さっそく第二回採用試験の採点結果一覧表があるかどうか調べてくれ」
西郷が先をせかした。桃山のことだから、変なところで勘が働いて、いつ戻ってくるかも知れない。
「あった、あった。あれ、おかしいぞ、採用された六人は、全員ビリから六番目までの人間じゃないか」
「やっぱりそうか。僕の思った通りだ」
「これをプリントアウトして、証拠として訴えましょうよ」
徳川秀子が興奮して言った。
「徳川さん、それはだめだよ。第一、採用試験の結果、上位六名を採用しなければならないという決まりはどこにもないんだ。それより、塾頭に内緒でパスワードを解読して塾のコンピューターを覗いた僕らの方が、窃盗罪で訴えられかねないと思う」
「どうして窃盗罪なの」
「知的財産を盗んだからさ。とにかく、この件は僕ら四人の秘密にしておこう」
「他にもどんなものがあるか調べてみようか」
「いや、調子に乗らずに、ここでコンピューターは閉じてくれ。何となくいやな予感がするんだ」
西郷の予感は当たっていた。桂がコンピューターのスイッチを切ってから五分ほどして、忘れ物をしたと言って桃山勇が戻ってきたのだ。忘れ物などどうせ嘘だろう。四人がそろって塾に残ったことをよくよく考えて、何か良からぬことが進行しているのではないかと疑惑を抱いたに違いない。
桃山勇は四人の様子を見極めてから、一緒に塾を出ようと誘った。もちろん、四人とももう用はないから、桃山の誘いに従った。塾の外に出た四人は、桃山と別れるといつもの通り「黒船」に集まった。
「それにしても、西郷君の勘ってすごいのね」「ほら、虫の知らせってよく言うだろう。あれだよ、あれ。桃山は変なところで悪知恵が働く男だから、きっと僕ら四人の動きがおかしいことに気づくんじゃないかと思ったんだ。やっぱりただの馬鹿野郎じゃなかったね」
「危機一髪だったわ」
「それにしても、あのパスワードはどういうつもりなのかなあ。坂本龍馬の命日をパスワードにするなんて、あの桃山はどこか精神的に病んでるんじゃないのかなあ」
キーボード操作を行った桂は、しきりにパスワードのことを気にしていた。確かに、龍馬が刺客に殺された場所と日付をパスワードに設定するのは尋常ではないかも知れない。 徳川秀子が問題提起をした。
「ねえ、私たちこれからどうする?西郷君としてはどういう考えなの?」
「そうだね、僕は道は二つあると思ってる。一つはこのまま知らんぷりして、働き続けること。基本的に僕たちは時間講師なんだから、もらうものさえきちんともらえれば文句はないと思うんだ。生徒の扱いが雑だと保護者が苦情を言ってきたとしても、その責任は桃山塾頭がとればいいことだしね。そして、もう一つは、僕ら四人で独立して別の塾を立ち上げること。もちろん、生徒達の多くも一緒に連れて行くことになる。これは桃山社中に対する反乱だね。まあ、幕末で言うなら脱藩ということになるかな。アホな藩主に見切りをつけて、独立するんだ」
「それで、西郷君はどっちに傾いてるの?」
「うん、今のところはどちらとも言えないけど、僕の信念からすれば、生徒達のことを考えずにただ金儲けをするだけの塾に長くとどまりたいとは思わないよ」
「つまり脱藩ね」
「そういうことになるかな。徳川さんや桂君や中岡君はどうなんだい」
「僕はもう少し様子を見てから判断しようと思ってる。新しい講師達がどういう授業をするか見てみたい気もするしね」
桂が言った。
「僕は、西郷君と同じで、脱藩を選ぶかな。いくらお金がもらえても、子供達を裏切るような場所に長居は無用だよ。徳川さんはどうするの」
「私は、もう少し様子を見て、何とか桃川に打撃を与える形で脱藩したいわ。そのためにもっと念入りに作戦を考えたいの」
「徳川さんもだんだん策士になってきたね。感情に走らなくなったのはとてもいいことだと思うけど」
西郷がにこにこしながら言った。四人の意見はどうやらまとまったようだ。このまま様子を見ながら、ある程度の時期で見切りをつけて、桃山社中の生徒達を引き連れる形で脱藩することになりそうだ。もちろん、桃山勇自身は、一期生の四人がそんな反乱を企てているなどとは露にも思ってはいない。そういう人の心の動きが読めるほどの器ではなかったからだ。
新しい六人の講師達は、案の定とんでもなく未熟な授業を展開して、生徒達の不評を買っていた。桃山社中ができたときのように、一人また一人と生徒がやめていく。それでも一期生の四人の熱心な授業の評判のおかげでその他の生徒達は何とか退塾をとどまってくれていた。
六人の中でも最悪だったのが、社会の新撰組コンビだった。とにかく口の利き方からしてとんでもない。生徒のことは「おまえ」呼ばわりで、授業中の言葉も若者言葉そのままだ。あるとき、学力は低いが非常にまじめに取り組んでいた女生徒に向かって土方がとんでもない発言をしてしまった。
「おめえな、そんなこともわかんねえのか。馬鹿じゃねえ。そんな簡単な問題も解けないようなやつはよ、高校なんか行かなくてもいいんじゃねえ。馬鹿は馬鹿なりの生き方ってのがあるんだよ」
信じがたい発言だが、土方にとことんなじられたその女生徒は、まもなく塾を辞めてしまった。その話を聞いて、徳川秀子は土方を殴り飛ばしてやりたいと思ったが、西郷に止められて様子を見ることにした。そんなときその女生徒の母親が桃山社中に乗り込んできたのだ。名前は福沢頼子。地域の子供の人権を守る運動の中心的人物だった。
「あの、失礼ですが、塾頭の桃山勇はいますか」
かなりの剣幕である。こういう事態になると、桃山勇は全く意気地がない。どうしようか迷った挙げ句、やっとのことで福沢頼子の前に姿を現した。
「初めまして。私が塾頭の桃山勇です。辞められた福沢さんのお母さんでいらっしゃいますね。どういうご用件でしょうか」
「どういう用件とは、何ですか!お宅の土方とかいう学生がうちの娘に何て言ったか、あなたはご存じなんですか。事によったら、大きな問題にしますよ」
「まあ、お母さん、立ち話も何ですから、どうぞこちらにおいで下さい。おい、佐々木君お茶を二つ用意してくれないか」
この期に及んで自分もお茶を飲もうというのだから、この男は本当に事の深刻さが理解できていないらしい。桃山に招じられるままに空き教室に入った福沢頼子は、ものすごい剣幕で桃山にくってかかった。
「お宅の塾では、あんなやくざのような講師を雇っておいでなんですか。うちの娘に馬鹿には馬鹿なりの生き方があるから、高校になんか行く必要はない、と言ったそうですが」「そんなひどいことを…」
「あなたは塾頭でありながら、そういう講師の言動を全く把握していないのですか。仮にも教育に携わる人間が、子供の人格を踏みにじるような行為を許していいとでも思っているのですか!その、土方とかいう学生を今すぐここに呼んで下さいな」
「土方先生は今授業中なので…」
「あなた、自分の塾の講師を先生付けで呼びましたね。あなた自身が社会的常識に決定的に欠けているようですね。授業中だろうが何だろうが、大変な問題なんですから、今すぐここに呼びなさい!」
福沢頼子が一段と大きな声で怒鳴ったので、桃山はすっかりびびってしまった。
「はい、ただいま呼んで参りますので、少々お待ち下さい」
「まったく、講師も講師なら塾頭も塾頭ね。桃山社中が聞いてあきれるわ」
福沢頼子の怒りは、頼りない桃山勇の態度を見て、さらに激化したようだった。
そこへ、桃山に呼ばれた土方が入ってきた。「ああ、どうも、僕が土方貴之ですが」
「あなたね、うちの娘を馬鹿呼ばわりして、どういう了見なの」
「どういう了見と言われましても、つい口が滑ってしまって」
「口が滑ったとは何事ですか。それでは心の中ではその通りのことを思っていたということじゃないの。あなたそれでよく塾の講師が務まるわね」
「はあ、まあそれなりにきちんと教えてますから」
「知識を売ればそれで済むということではないでしょう。子供達に自身をつけてこそ教師なんじゃありませんか」
「僕は教師ではなく講師ですから」
「馬鹿おっしゃい!講師も教師も教育に携わる仕事なんですから違いはありません!」
「そうですかね。教師は高い給料をもらっているけど、僕らはアルバイトだから」
「おい、土方君、少しは神妙な態度で臨んだらどうかね」
「ああ、どうも、すみませんでした。僕の言葉がちょっときつすぎました」
「ちょっとですって!あなたね、人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!私は、あなたのような人間を講師だなんて絶対に認めませんからね!」
「別に僕は福沢さんに雇われてるわけじゃないし。そこまで言わなくてもいいなじゃないっすか」
「ないっすかですって?あなた言葉遣いも知らないで生徒達に先生って呼ばせてるのね」
「僕が頼んで呼んでもらってるわけじゃねえし、あ、いや、ないしですね…」
「もう結構です。お宅がどんなにひどい塾だかよくわかりました。この問題は地域で取り上げさせてもらいます。いずれ弁護士同伴でまた伺いますからね。桃山塾頭、クビを洗って待っていらっしゃいな」
「福沢さん、ここはどうか事をお荒立てにならずに、何とか和解していただけませんか」
「まあ、和解だなんて、政治家みたいなことをおっしゃるのね。私にお金でも渡して口封じでもする気なのかしら」
「いくらならいいですか」
「馬鹿にしないでちょうだい!この桃山社中は絶対につぶして見せますからね」
福沢頼子は捨てぜりふを残して立ち去ってしまった。桃山勇はどうしたらいいものか途方に暮れていたが、土方本人は全く反省している様子もなかった。
「土方君、困るじゃないか。自分が悪いと思っていなくても、保護者にはそれなりの対応をしてくれなくては」
「塾頭、僕らを安い時給で働かせておきながら、保護者への対応までどうのこうのと言われたんじゃ、割に合いませんよ」
「君は、塾頭の私に口答えするのか」
「あんただって、俺たちと大して歳は変わらないんだろう?だったら、そんな聖人君主みたいな口をきくのはやめたらどうなんだよ。要するにあんたは儲かればいいんだろう?福沢がやめたときだって、頭の悪い子は辞めてもらった方が助かるって言ってたのは、あんたじゃないか。親に怒鳴り込まれたくらいでびびってんじゃねえよ」
「土方君、そういう口の利き方はやめてもらいたいね。君らを雇ったのはこの私なんだ。あんなひどい採用試験の点数で雇ってくれる塾なんか他にはないんだよ」
「そりゃあ、それについてはありがたいとは思ってるけどさあ、俺はね子供が好きだとか教育がどうのとか、そういう話を聞くと鳥肌が立ってくるんだよ」
「まあ、そう言わずに。今度、福沢さんが来たときは、口の利き方にだけは十分注意してくれたまえよ」
「はいはい、わかりましたよ。まったくどいつもこいつも、むかつくぜ!」
《緊急会議》
対応に困った桃山勇は、事務の佐々木祐子も含めて、全ての職員の参加を義務づけた緊急会議を開催した。自分の悪知恵が招いた結果の責任を、他の講師達に押しつけようとするなんて、全く経営者の風上にもおけない。
「みんなも知っての通り、この土方君のちょっとした失言から、福沢頼子という母親が大騒ぎをしている。しかも、彼女は地域のこどもの人権を守る運動の中心人物で、弁護士を従えてこの桃山社中を訴えるつもりらしい」 西郷が口を挟んだ。
「あの、発言してもよろしいでしょうか」
「どうぞ西郷君。君たちみんなの意見を聞くための緊急会議だからね」
「塾頭は、今回の問題の原因がどこにあるとお考えなんですか」
「おめえよ、俺が悪いって言いてえんだろうが。そんならそうとはっきり言えよ。回りくどい言い方しやがってむかつくぜ」
土方貴之がふてくされて発言した。
「おい、土方、お前調子に乗るのもいい加減にしろよ。俺は柔道三段だ。お前みたいな軟弱なガキを投げ飛ばして半殺しにするぐらい簡単なんだぞ。もう一度、そんな口をきいたらただじゃおかないから、そう思え」
「おっと怖い怖い」
「まじめに返事をしろ!この馬鹿野郎が!」
さすがの土方も西郷の今までにない剣幕に内心びびりきっていた。
「まあ、西郷君、争いごとはいけないな」
「塾頭、いい加減にしてくれませんか!あなたが講師の採用をもっと慎重にして、こんなどうしようもないやつを雇ったりしなければこんなことにはならなかったんだ。その責任をとるのはあなたの仕事でしょう。はっきり言って私たちには関係ない。いい迷惑だ」
「君、発言に気をつけなさい。私は塾頭で、君たちは雇われの身なんだよ」
「それじゃあ、新しく採用された土方以外の五人に聞きたいんだけど、君たちのうちで、本気で子供達の教育に取り組みたいと心から思っている人がいたら手を挙げてくれ」
手を挙げたのは、国語の佐々木道子だけだった。
「他のみんなは、要するに単なるアルバイトなんだね」
「西郷さんだって時間講師なんだから、そんな偉そうな口をきくことはないと思うんですけどねえ」
口答えをしたのは新撰組の片割れ、沖田伸介だった。
「土方君も沖田君も名前負けだな。君らの姿を見たら、天国の土方歳三や沖田総司はきっと涙を流して嘆くだろうよ」
徳川秀子が後を継いだ。
「桃山塾頭、私たちは塾頭がどういう経営方針でこの桃山社中を運営しているのか、もう一度ここで確認したいんですが」
「君も、ずいぶん生意気なことを言うね。僕は子供達の教育に人生をかけたくてこの桃山社中を立ち上げたんだ」
「きれいごとはもうやめてください。いい加減な講師の採用をしておきながら、教育なんか語らないで欲しいわ」
今度は数学の中岡雄介が割り込んだ。
「僕は英語の武市孝太郎君に質問があります。君は確かニューヨーク大学の東京分校に在籍しているんだったよね。僕の友達で君と同じ二年生の山口浩一っていうやつがいるんだけど、君はもちろん知ってるだろう?東京分校で首席をとっている秀才だからね」
「ああ、あの山口さんですか、もちろん知っていますよ。それがどうかしましたか」
「そうですか。知っているんですか。山口浩一は今僕が創った架空の人物なんだけどなあ」
「そんな、僕は、その、あの…」
「学歴詐称ってどういう罪だか知ってるんだよね、武市君も」
「すみません。僕はただどうしても採用して欲しくて」
「桃山塾頭は、当然彼が専門学校の生徒だと言うことを知っていたのでしょう?」
「いや、それは初耳だね」
泣きそうになった武市孝太郎が、ぐっと桃山をにらみつけた。
「塾頭、それは話が違うじゃありませんか。肩書きは大学在学にしておけと言ったのは塾頭の方でしょう」
「あきれたものですね。あなたは全くの詐欺師だ。僕たちはもうこれ以上あなたと共に堕落の人生を送るつもりはありません」
西郷が意を決したように言った。
「それは、どういう意味なんだ」
「つまり、私たち一期生は四人とも塾を辞めるということです。もちろん、私たちを慕ってくれていた生徒達も一緒に退塾すると思いますけど、それは私たちが扇動したわけではありませんから、どうぞ誤解のありませんように」
徳川秀子が西郷に代わって答えた。
「君たちは、人の恩も忘れて、この桃山社中を見捨てようと言うのか!」
「脱藩ですよ、脱藩。塾頭のあこがれている坂本龍馬も腐った土佐藩を脱藩したじゃありませんか。腐った桃山社中を僕らが脱藩するのも坂本龍馬と全く同じ動機です」
数学の桂隆太郎が堂々と言い切った。
「勝手にするがいい。その代わり、退職手当などは一切でないから、そのつもりでいてくれよ」
「あなたからお金などもらいたくはない。僕らは、四人で新しい塾を始めます。名前は、そうですね『海援隊』とでもしましょうか」「何だと!君らは私に喧嘩を売るつもりか」「あなたなど、喧嘩をするにも値しない。あなたの口から坂本龍馬という名前を聞くのもまっぴらごめんだ」
西郷は今までの恨み辛みを全てこの言葉に込めたつもりだった。
緊急会議はそれで解散になってしまった。桃山勇が一方的に、会議を切り上げてしまったからだ。仕方なく四人はいつもの「黒船」に向かおうとしたとき、四人の後ろから国語の佐々木道子と数学の岡田静夫、理科の後藤光彦、英語の武市孝太郎が駆け足でやってきた。代表で口を開いたのは英語の武市だった。
「あの、先輩達には本当に申し訳ないんですが、僕たちは本当は真剣に塾で働きたいと思っていました。もしよろしかったら、新しい塾で僕たちも使ってもらえないでしょうか。四人で話し合いました。時給はいくらでも構いません。僕たちはこのままで終わってしまったら、一生後悔すると思うんです。先輩達のどんな厳しい研修にもついて行きますから、どうか僕たちも一緒に連れて行って下さい」 武市の言葉に一期生の四人は顔を見合わせてしまった。
「どうする西郷君。この人達はどうやら真剣に塾のことを考えているみたいよ」
「西郷君、僕も中岡君も、君さえ良ければこの人達を仲間に入れることには賛成したいと思うんだけど」
「わかったよ。武市君、君が代表ということでいいんだね。僕たちはとりあえず、今夜四人で相談するから、その結果は君に連絡するということでどうだろう。結論は今夜中に出すから、明日君のアパートに電話をするよ。このメモ用紙に君のアパートか携帯電話の番号を書いてくれないか」
「はいわかりました。これがそうです。どうかよろしくお願いします」
武市の号令で、四人とも同時に深々と頭を下げた。もちろん西郷の腹はすでに決まっていたのだが、一呼吸置くことも必要かと思って、翌日に連絡するということにしたのだった。
「さあ、君たちはもう帰っていいよ。僕らはこれから秘密会議だ。脱藩するからには、それなりの作戦を練らないとね」
武市孝太郎たちを先に返すと、一期生四人組は早速「黒船」のいつものテーブルを囲んで秘密会議を始めた。
「あの桃山のやつ、とうとう本性をむき出しにしたわね。私、自分の中身もないくせに、偉そうにしようとするやつは大嫌いなの」
「桃山も、徳川さんには完全に嫌われちゃったみたいだね」
「西郷君ったら、からかわないでよ。みんなだって、あんなペテン師大嫌いでしょう?」 英語の中岡が徳川秀子を応援するように発言した。
「徳川さんの言うとおりだよ。僕らだって、あんないかさま野郎は大嫌いさ。だけど、西郷君、新しい塾の名前、ほら『海援隊』だったよね、あれ、いつ決めたっけ」
「ああ、あれね。あれはその場の思いつきだよ。ちょっと桃山をからかってやろうかと思ってさ。僕にしてみれば、あんなやつが坂本龍馬をあがめ奉っているということ自体許し難いんだ。坂本龍馬は、自分の利益なんか考えなかった。いつも日本の将来を心配していた。そういう立派な男だったのに、自分の利益しか考えないような桃山がどうして龍馬に共感しなければならないのか、僕にはちっとも合点がいかないよ。言行不一致もあそこまでいくと天然記念物並みだね」
「あら、西郷君がそんなにはっきり悪口を並べるなんて珍しいわね。いつもはもっと冷静なのに」
「うん、坂本龍馬みたいな立派な人を全面に押し出して、自分は陰で詐欺師同然の商売をしているなんて、絶対に許せないじゃないか」
数学の桂が割り込んだ。
「ところでさ、あの四人だけど、どうしようか。武市君なんかは、学歴詐称だったわけだし、そういう連中を信じていいのかな。第一採用試験の結果を見る限りでは、彼らの知識は高校生並みじゃないか」
「まあ、そう言うなよ。わざわざ僕らの後を追いかけてきて頭を下げたんだ。とても芝居とは思えないし、武市君の学歴詐称は恐らくは本人が言っていたように、桃山勇の指図だと思うんだ。僕は学歴なんかどうだっていいと思ってる。それより、本当に子供達の教育に関わりたいという情熱があるかどうかが問題なんじゃないかなあ」
いつも通りの冷静な西郷の意見を聞いて、桂は自分の発言を恥ずかしく思った。
「そうだね、西郷君の言うとおりだよ。なあみんな、僕はここで二つの提案があるんだ。一つは、新しい僕らの塾の名前は本当に『海援隊』にすること。そしてもう一つは、新しい塾頭は西郷君に任せようということ。みんなどうだい」
「私は賛成よ」
「僕も賛成だな」
「西郷君、ごらんの通り三人とも賛成だから君さえ承諾してくれれば、僕の案でいこうと思うんだけど、どうかな」
「僕なんかに塾頭が務まるかどうかわからないけど、みんなの気持ちをありがたく受けて何とか頑張ってみるよ。途中で僕が腐りかけたら、いつでも僕をリコールしてくれ。それから『海援隊』もいいと思う。『皆援隊』とかけてその名前に決定しよう」
「そうか、みんなで子供達を援助する隊ということだね」
「そう考えると、『海援隊』ってすごく夢のある名前だわ。私、断然気に入っちゃった」「僕が思いつきで言った名前なのに、何だか申し訳ない気がするけど、それこそ坂本龍馬の意志を尊重するのは僕らの方だという、アピールにもなるからね。桃山勇に挑戦だよ」
桃山勇が福沢頼子にいくら金を積んだのかは知らないが、とにかく桃山社中は民事訴訟に持ち込まれずに済んだ。桃山は、性懲りもなくまた講師募集のチラシを作って、今度は新しい問題で採用試験を実施したらしい。どんなにうさんくさい塾経営をしていようとも、保護者や生徒には経営の実態などわかるはずもないし、塾が本音を語るわけもない。それは世の中の全ての企業に共通して言えることで、自分の企業の不利になるようなマイナス情報を敢えて提供する会社はないだろう。
しかし、問題なのは「塾」というのは、未来の日本を支える子供達の「教育」という、神聖な事業であるということだ。そう言う意味では、利潤を追求するだけの一般企業とは一線を画さなければならない。もちろん、ボランティア活動ではないから、利益を生み出す工夫も必要だろう。しかし、それは決して保護者や生徒の犠牲の上に成り立ってはいけないのだ。そういう強い信念の持ち主でなければ、塾の経営はしてはいけないと思う。一期生の四人は、そんな情熱では全く一致していた。ただ、保護者にしてみれば、子供を塾に通わせているということが、一種の「保険」なのだ。これで勉強は何とかなるだろうと考えてしまうところに問題がある。親ももっと勉強しなければならないし、塾選びの目を肥やさなければならないと思う。ところが、この不景気の時代にあって、そこまでじっくり時間をかけて塾選びをする親はそんなに多くはない。桃山社中が生き残っていられるのも、そういう時代背景があってのことだった。もちろん塾頭の桃山勇は、そこまで深く時代の分析をしているわけではない。ただ単に、お金儲けしか考えていないのだ。
桃山社中が生き残っているもう一つの要因は、桃山勇の教材選びにあった。教材会社と交渉して、できるだけ市販されていない独特な教材を手に入れたことが、功を奏したのだった。塾は講師の質によっても左右されるが、何よりも一番大切なのは「教材」である。教材さえしっかりしていれば、未熟な講師でも教材研究さえしっかりこなせば、何とか立派な授業が成り立つことになる。もちろんそこに工夫を凝らすことはできないだろうが、教えるポイントをはずすことがないという点で、しっかりした教材を用意することは非常に大きな意味を持っている。ここを押さえ損なった塾は、おそらく弱肉強食の塾業界の中で死滅の運命をたどったことだろう。
塾によっては講師の話し方まで徹底的に訓練しているところもあるが、これには賛否両論がある。デパートなどでよく見るような実演販売さながらの、テンポのいいしゃべりを訓練している塾は、それだけで十分売り物になる。しかし、よく観察してみると、テンポのいいしゃべりは、子供達からの質問の余地をなくす結果にもなっている。それが意図的に仕組まれたものかどうかは別として、短時間で大量の知識を効率的に子供達の頭脳にインプットする方法としては非常に優れていると言わざるを得ないだろう。まさにプロの技である。漫才師のしゃべりに思わず聞き入ってしまうのと同じで、子供達は講師のしゃべりについつい引き込まれてしまうのだ。
《『海援隊』設立》
今晩もいつものように、徳川秀子達四人組は「黒船」で、新しい塾の構想を練っていた。「ねえ、西郷君、どうして桃山社中はその後も無事に営業を続けていられるわけ?」
「世の中はね、たいていのことはお金で解決するんだよ。おそらくは、桃山勇のことだから福沢頼子に大金を積んだんだろう。福沢さんだって、子供の人権を守る運動の活動資金が必要だから、下手に民事訴訟など起こして娘に不利な状況を作るよりは、お金で解決した方が得策だと判断したんじゃないかな」
「それで、あの新撰組のお馬鹿コンビは相変わらず桃山社中で講師を続けているのかしらねえ」
「噂によると、二人は桃山勇と喧嘩をして辞めてしまったらしいよ」
情報通の桂が言った。
「それじゃあ、新しい講師陣で再スタートっていうことね。おもしろくないわ」
「徳川さん、そんなこと言うもんじゃないよ。大切なのは生徒達だろう。それなら、桃山社中を信用して残っている子供達が、再スタートで新しい講師達と巡り会えるんだから、いいことじゃないか」
「さすが西郷君は度量が大きいわ。私なんかすぐ感情的になって、自分でも嫌になっちゃうもん」
「いや、徳川さんみたいに、正義感に満ちた人も絶対に必要なんだ。人にはみなそれぞれに天から与えられた使命みたいなものがあると思うんだ。だから、自分の個性は大切にしなくちゃいけないし、自己嫌悪に陥る必要もないと思うんだ」
「西郷君て、本当に西郷隆盛の、いやそうじゃないわ、坂本龍馬の生まれ変わりなんじゃなくて?ほらほら龍馬さんこっちを向いて。あなたは本当は坂本龍馬さんなんでしょう?」「徳川さん、からかうのはやめてくれよ。僕は紛れもなく理科の西郷翔太だよ」
「何だ、つまらないの。西郷君が坂本龍馬の生まれ変わりだったら、私たち四人はきっと歴史に残ると思ったのに」
「それよりも、桃山社中をやめて早く新しい塾に入りたいと思っている子供達のためにも、来週早々には『海援隊』を立ち上げなくてはいけないと思うんだ。そこでチラシなんだけど、それはPCの腕前を買って桂君と徳川さんにレイアウトから新聞社への交渉までお願いしたいんだけど、いいかな」
「西郷君、僕がチラシを作るのは簡単だけど、新聞社に織り込み広告を依頼する費用はどこから捻出するつもりなんだい」
「そこは僕に任せてくれ。桃山社中にいるときに教材会社『薩長連合』の社長と懇意になってね、その板垣社長が全面的にバックアップしてくれることになってる」
「『薩長連合』の板垣社長か。何だか時代感覚がなくなってきそうだなあ」
「桂君の言うとおりだね。僕らはみんな幕末の偉人達に関連した名前を持っているし、関係する企業もみんな当時の結社や同盟と同じ名前だから、もしかしたら神様が明治維新ならぬ教育維新を僕らにやらせようとしているのかも知れないよ」
「うん、その考え気に入ったわ。私そういう使命感みたいの大好きなの。私たちが歴史を作るのね」
「まあ、歴史を作るまでいくかどうかはわからないけど、本当に子供達の成長を見守ることができる私塾を作りたいね」
「それで西郷君、月謝とかはどうする?桃山社中と同じじゃあまり意味がないような気がするんだけど」
「中岡君の意見は?」
「僕は桃山社中の月謝より価格を下げて、こんな風に考えてみたんだ」
用意のいい中岡は、自分で考えた月謝の体系一覧をみんなに見せた。それによると、次のようになっている。
『海援隊』授業料(月謝)
・一教科選択の場合…15,000円
・二教科選択の場合…20,000円
・数学と英語以外の教科は週一回として
一教科につき5,000円の追加
※全五教科を選択した場合は特別に
月額30,000円とする
|
西郷はじっと一覧表を見つめながら唸った。「五教科全部を選択すれば、毎日塾に来ることになるね。それで三万円は決して高くはないと思うよ。僕は中岡君の案に賛成だ」
「私たちも賛成。それにしても中岡君、いつこんなもの考えたの」
「僕はね、会社経営にとても興味があって、きちんと利益を得て、講師達にもそれなりの報酬が払える状況を想定した上で、ぎりぎりの線を考えてみたんだ。これなら、『海援隊』の運営も黒字は間違いないと思うよ」
「みんなどうだろう。会計関係は、中岡君に主任になってもらおうと思うんだけど」
「西郷塾頭が言うんだから、僕らに異論はないよ」
桂がにこにこしながら言った。桂と西郷と言えば、幕末では一触即発の状況にあったにもかかわらず、この『海援隊』ではしっかりスクラムを組んでいる。教材会社の名前ではないが、まさに薩長連合である。歴史の上でも薩長連合の立役者は坂本龍馬と中岡慎太郎の二人ということになっているから、海援隊という名前も非常に意味がある。中岡慎太郎は陸援隊を組織したが、ここに至っては文句は言わないはずだ。
「ところで、講師達はどうしようかしら。私たち四人で足りるのかなあ」
「徳川さん、あと四人いることを忘れちゃいけないよ。僕ら八人で船出さ。八人いれば十分だよ。中岡君も八人の計算だよね」
「もちろんです、塾頭!」
「それとね、もう一つあの四人の研修をどうしたらいいかと思って。この間の採用試験の結果を見る限りだと、四人に任せておくわけにはいかないと思うの」
「確かに徳川さんの言うとおりだね。だけどね、僕は四人に技術を仕込もうとは思っていないんだ。授業はそれぞれの個性で実施してもらっていい。問題は教材研究だよ。どこがポイントでどこをわかりやすく教えてあげたらいいか、そこがつかめていないと講師としては機能しないと思うんだ。教材は板垣社長が面倒を見てくれるけど、その研究のしかたをそれぞれの担当教科で指導してあげたらどうかと思うんだけど。後は個人の努力の問題だよ。最後まで面倒を見てはいけないと思う。それは講師の成長の機会を奪うことにもなりかねないからね」
「わかったわ。私たち四人が中心になって、一緒に教材研究をしていくつもりでいけばいいのね」
「徳川さんの言い方なかなかいいよ。僕も一緒にやっていくという発想に賛成だね」
数学の桂隆太郎が応援演説をした。
「それで、社会科なんだけど、それは歴史に詳しい西郷塾頭に任せてもいいのかなあ」
中岡が申し訳なさそうに西郷を見た。
「ああ、任せてくれ。実を言うと、僕は中学生の頃から理科よりも社会の方が得意だったんだ。だから、理科と社会科は僕が両方とも責任を持つ。塾頭自らが陣頭指揮にあたるようじゃなくちゃ、僕らの海援隊も桃山社中と同じになっちまうからね」
「そうよね、桃山のやつ、結局は自分で授業をするのをやめちゃったものね。あれじゃあ、子供達の心の変化とかがつかめなくなるのは当たり前だし、ただの経営者に成り下がるのも無理はないわ」
「そうだね、『本当の指導者とは人の心のわかる人なり』だよ」
「それ、誰の言葉なんだい」
英語の中岡が興味深げに聞いた。
「これはね、僕が教育実習でお世話になった指導教官が、お別れに僕にくれた色紙に書いてあったんだ。素晴らしい言葉だと思って、それ以来僕の座右の銘にしているよ」
「いい言葉ね。それは私たち全員にあてはまる言葉だわ。ねえ、西郷君、もし良かったらその先生の言葉を私たちの海援隊にいただくわけにはいかないかしら。塾訓にしたらどうかと思って」
「それはいいアイデアだね」
桂が手を打って賛成した。
「わかった。みんながそう望むなら、先生に許可をもらって、塾訓にしよう。僕から先生にお願いして、先生の達筆で大きな掛軸に書いてもらってくるよ」
「すてきね。私そういうの大好き。何だかわくわくしてきたわ」
「徳川さんは本当に感激屋さんだね。徳川さんがいることで海援隊が明るくなるよ」
「それって褒められてるのかしら」
「もちろんだよ。紅一点って言うけど、やっぱり職場には華がなくちゃね」
徳川秀子をやたらと持ち上げているのは、もちろん英語の中岡雄介である。雄介は秀子にほの字なのだが、気が小さいからなかなか告白できずにいる。しかし、こんな発言をしていたら周りが気づかないわけはない。
「おい、中岡君、君はずいぶん徳川さんをよいしょするけど、それってもしかしたら、ほれちゃってるってことかい」
「な、なにを言うんだよ、西郷君。そんなこと言ったら、徳川さんに悪いだろう」
「あら、そんなことないわ。中岡君にほれられちゃったら、私すごく嬉しいもの」
「徳川さん、それ本気ですか」
中岡雄介の目は急にまじめになった。
「さあ、どうかしらねえ」
「まったくからかうのはやめてくださいよ、徳川さん。嫌になっちゃうなあ、もう」
そしていよいよ記念すべき『海援隊』出航の日がやってきた。徳川と桂が新聞の折り込み広告用に作ったチラシの効果もあって、生徒は社会を除く四教科が二クラスずつで、一クラスの平均生徒数が七名前後、社会が一クラスで生徒人数が九名、合計で六十八名の生徒が集まったのだ。もちろん、桃山社中時代に一期生の四人を慕っていた生徒達も、桃山社中をやめて海援隊に移籍していた。こんなに順調な滑り出しで本当にいいのだろうかと、西郷が不安になるほどの盛況ぶりだった。損なお祭り騒ぎの海援隊に、予想もしなかったお客が訪ねてくる。桃山社中で事務を担当していた佐々木祐子だった。
「こんにちは、西郷先生。あの、ちょっとお話ししたいことがあって来たのですが、いま時間ありますか」
「いいですよ。向こうに相談室がありますから、どうぞそちらへおいで下さい」
西郷は佐々木祐子の意図を探りながら、ゆっくりと祐子を相談室まで案内した。
「で、話というのは何ですか」
「あの、私、桃山社中を辞めようと思うんです。それで、もし良かったら、西郷先生の海援隊で働かせてもらいたいと思って」
「佐々木さんは桃山塾頭と、その、仲がよろしかったんじゃないんですか」
「それは誤解です。あの人は私のことをどう思っていたかは知りませんが、私は信念のない人は嫌いです。桃山さんはお金儲けのことしか頭にないから…。立場が立場なんで、私は意見を控えていましたけど」
「そうですか、ちょうどうちには事務職がいなかったんで、佐々木さんが来てくれれば鬼に金棒なんだけど、そんなことをしたら桃山のやつが逆上するんじゃないかなあ」
「そうでしょうか。あの人は、あまり人間にはこだわらないんじゃないかっていう気がするんですけど。私がやめても、すぐに次の若い子を雇うだけじゃないかと」
「それならいいんですけど。つまり、今は海援隊の運営に集中したいので、桃山とは無用な争いはできるだけ避けたいんです」
「そうですね。私がトラブルの種になってもいけないから、やっぱり無理なお願いでしたね」
「いや、そんなことはありませんよ。せっかく僕を訪ねてきてくれて、そのまま帰したとなっては男が廃ります」
「それじゃあ、ここで雇っていただけるんですか」
「でも、最初は満足のいくようなお給料は出せないと思いますけど、それでもいいですか」
「もちろんです。お金のためだったら、桃山社中に残って、桃山にごまをすってればそれで良かったわけですから」
「それなら問題ありません。生徒が予想以上に大勢集まってしまったんで、そのデータ整理にてんてこ舞いしていたんです。それじゃあ、いつからでも来て下さい」
初日の授業が全て終わって、アラームを設定した後、一期生四人はまたまた「黒船」に集まって、作戦会議を始めた。
「ねえ、西郷君、あの佐々木祐子っていう事務さん、本当に信用していいのかしら」
「うん、僕が直接面談した限りでは、腹に何か抱えているようには見えなかったし、桃山にしたって佐々木祐子を打ちの海援隊に潜入させても何の利益もないんじゃないかなあ」 数学の桂が西郷の発言を受けて口を開いた。「でも西郷君、彼女はPCには詳しいし、海援隊の塾生の個人情報を桃山に流すことは可能だと思うんだけど。もし個人情報が流出すれば、海援隊の存在自体が危機にさらされることにはならないかなあ」
英語の中岡が素朴な疑問を投げかけた。
「でもさあ、佐々木祐子が桃山の指示で個人情報の流出に関わったということになれば、IT犯罪防止法に抵触することになって、桃山の方がまずい立場になるんじゃないか」
「そうだなあ、何とも言えないけど、今の僕らには生徒の個人情報を手際よく整理してくれる事務方が必要であることは確かだし、彼女は桃山社中を辞めてきた生徒達には顔なじみだから、事務方も移籍してきたという話が保護者に伝われば、それは逆に保護者にとっての安心材料になるんじゃないかとも思うんだ。ここは彼女を信用するしかないんじゃないだろうか」
「私はあくまでも反対よ。別に女同士だからって反発しているんじゃなくて、どうせ事務方を雇うのなら、桃山社中とは関係のない人にすべきだと思うわ。あの桃山のやつを甘く見ると、とんでもないことになりそうな嫌な予感がするの」
「わかったよ徳川さん。ここは徳川さんの意見を尊重して、ちょっとばかり試験をしてみようかと思うんだけど」
「試験ていうと?」
桂が身を乗り出した。
「ここは桂君の腕を借りて、うちのコンピューターに偽の生徒情報を入力してもらうんだ。もちろん桃山社中から流れてきた子供達のデータについては、名字だけは同じにして、名前の一時だけを違う感じに置き換えるというちょっと面倒くさい作業をしてもらう。住所や電話番号はすべてでたらめで、選択しているコースもでたらめ。志望校も全ていい加減なものを適当に入力して、一週間ほど様子を見るってのはどうだろう」
「でもそれじゃあ、海援隊の経営自体が行き詰まってしまうんじゃないの?」
徳川秀子が今ひとつわからないという顔で質問した。
「そこは桂君に別のノートパソコンを使って正式なデータ入力はそちらに行うんだ。一週間して佐々木祐子に何の動きもないことがわかったら、その時点で佐々木さんには訳を説明して、正確なデータを移し替えればいい。一週間じゃ短すぎると思うかい?」
「いや、何か動きを見せるとしたら、一週間で十分だと思う。桃山はそんなに気が長いやつじゃないからね。恐らくは二〜三日のうちに個人情報を盗んで、それを公開して海援隊の情報管理のずさんさを主張するつもりだと思うよ」
さすがに桂の分析は理にかなっていた。桃山はじっと結果を我慢することができる人間ではなかったからだ。
「佐々木さんには申し訳ないけど、この作戦でいくことにしようか。名付けて『只三郎いぶりだし作戦』かな」
中岡が不思議そうな顔をして言った。
「何だい、その『只三郎…なんとか』っていう作戦は」
「坂本龍馬を暗殺したのは、京都守護職の配下の剣客だったという説が濃厚なんだ。その中心的人物が剣の達人佐々木只三郎ってわけさ。だから佐々木さんをいぶりだすから『只三郎いぶりだし作戦』ってわけだよ」
「あくまで坂本龍馬にこだわるわけね」
「だってさ、僕らの名字はみんな幕末に関係してるし、桃山社中だって海援隊だってみんなそうだ。もしかしたら天国にいる坂本龍馬や中岡慎太郎や西郷隆盛や、その他大勢の志士たちが、僕らに平成の教育維新を期待しているのかも知れないじゃないか」
「まあ、西郷君がそんな発言するのって珍しいわ。いつも冷静沈着なのに、龍馬のことになると熱くなっちゃうのね」
「うん、坂本龍馬って言う人は、百年以上たった今でも、多くの人々の心を動かす不思議な力を持っているんだ。いつだったか、桂浜の上の記念公園に行って、土佐湾を見渡す龍馬の銅像を見上げたとき、何だか体に電気が走ったような気がしたよ」
「西郷君がそこまで言うなんて、私たち良かったら今度みんなで土佐に旅してみない?みんなで夜の桂浜で酒盛りして、よさこい節かなんか歌うの。うん、決めた。そうしよう」「そうだ、桂君、うちのコンピューターに入力するデータに、僕ら四人の名字の生徒も混ぜてくれないか。もちろん、住所は僕らの本当の住所を入れる。たぶん、あわてて作業をするだろうし、肝心なところでは抜けが多い桃山のことだから、何か悪巧みをするなら、それでまんまと罠にはまってくれるはずさ」
「わかったよ。なるべくばれないように、学年や選択している教科を変えておくね」
「うん、そうしてくれ」
「何だか知らないけど、探偵社みたいでおもしろくなってきたわ」
「おいおい、徳川さん。そういうゲーム感覚でやってるわけじゃあないんだから、有頂天になるのもほどほどにしないとね。第一、僕が考えているように桃山が動くかどうかもわからないんだし、佐々木祐子が桃山のスパイじゃない可能性だって残ってるんだから」
「ごめんね。私って単細胞だから、すぐに興奮しちゃうの。反省しま〜す」
《ダイレクトメール》
海援隊も無事出航して、一ヶ月ほどたったある日のことだった、徳川秀子が息を切らして西郷のところに飛んできた。手には一通のダイレクトメールが握られている。
「西郷君、これ見てよ。今朝、うちの郵便受けに入っていたの。中を見て驚かないでね」
西郷は、同じダイレクトメールを徳川秀子に見せてにっこり笑った。
「あれ、西郷君のところにも?」
「ああ。おそらく他の二人のところにも同じようなダイレクトメールが配達されていると思うよ。まんまと罠にはまってくれたね。それにしても単純な男だよ、桃山ってやつは」 出しレクトメールの中には、次のような文書が入っていた。
☆私塾に期待する皆さんへ
最近、いい加減な大学生講師を雇ったくわせものの塾が横行しています。特に『海援隊』という塾はこうしてみなさんの大切な個人情報を漏らしている有様です。お子さんのためにも、塾選びは慎重にしましょう。
ちなみに、私どもの『桃山社中』は内容も一新されて、新たに良心的な塾経営に日夜努力しております。キャンペーン期間として、一ヶ月以内に入塾される方は授業料を六ヶ月間半額でお引き受けしたいと思います。これは不景気な時代にあって、私塾にできる精一杯のサービスかと思います。私どもの塾では、講師は全て採用試験を実施して優秀な人材を集めておりますので、どうぞご安心下さい。詳しくは桃山社中までご連絡頂ければ幸いです。
また、『海援隊』の経営者達は、私どもの桃山社中の企業データを全て持ち去った人間達です。このような犯罪行為を許しておくわけにもいきません。彼らに扇動されて移籍された生徒さんたちも、私どもの桃山社中では再度お引き受けする用意がございます。どうかよろしくご検討のほどお願いします。
平成十六年十月吉日
桃山社中塾頭 桃山 勇
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「ねえ、西郷君、これって名誉毀損にはならないの?だって、事実とは反することを記載しているわけだし」
「難しいね。桃山社中の生徒達を海援隊に移籍させたのは事実だし、それを企業データーの持ち出しと表現されても、文句は言えないかも知れないよ。それよりも、問題はうちのコンピューターから個人情報を盗んだ方だろうね。こちらは、IT犯罪防止法に確実にひっかかるから、これで桃山を締め上げることはできるはずだ」
「それじゃあ、早速今夜みんなで佐々木祐子を締め上げましょうよ」
「そうだね。彼女の証言がないと、犯罪の立証も難しいからね」
「桂君達が出勤したら、授業の前に全員僕のところに集まるように伝えてくれるかな」
「いいわよ。これ、本当におもしろくなってきたわ。あっ、ごめんなさい。また不謹慎なこと言っちゃったわ」
「いや、今度の発言はOKだよ。本当におもしろいことになってきた。後は、佐々木祐子がどこまで正直に事実を話すかということだね。彼女も桃山には大金をつかまされているだろうし、これで僕らに全ての事実を話してしまえば、もう二度と桃山のところにも戻ることはできないはずだよ。それに、僕らも彼女をこのまま使うつもりはないしね」
「当然よ。あんなスパイ女、誰が雇うもんですか!もっといい人は、世の中いくらでもいるはずだわ」
「これで桃山も一巻の終わりかな。でも桃山社中をつぶすのは僕の本意じゃないんだ」
その日の授業が終わる前に、西郷は佐々木祐子に、大切な相談があるから今日は残業で授業が終わるまで待っていてくれるように言っておいた。そして、いつものように、教室のアラームをセットすると、四人は佐々木祐子を連れて「黒船」に出かけた。今夜は、いつもの席ではなく、座敷を使わせてもらうことにした。
「あの、大切な相談って何ですか」
佐々木祐子が何かを察したのか、不安そうな声で西郷に聞いた。
「このダイレクトメールに見覚えは?」
佐々木祐子の顔が一瞬こわばったが、次の瞬間気持ちを建て直して、祐子が答えた。
「いいえ、知りませんけど」
「そうかなあ。僕ら四人の住所にこのダイレクトメールが郵送されてきたんだよ。桂君、どういうことか説明してあげたら」
「いいよ、西郷君。あのね佐々木さん、うちのコンピューターに入力されていた生徒のデータは全部僕がでっちあげたものなんだ。それを誰かが盗んで、桃山社中の桃山勇に渡したらしい。それができるのは誰か、佐々木さんに聞きたくて、今日は付き合ってもらったってわけだよ」
「佐々木さん、もういい加減とぼけるのはやめたらどう?女だって、往生際が悪いのは見苦しいわよ」
徳川秀子が鋭い剣のような口調で佐々木祐子に迫った。
「私、桃山に言われて、仕方なくやったんです。どうか見逃して下さい。このまま海援隊で使って下さい。もう桃山のところへは戻れませんから」
西郷はきっぱりした口調で言った。
「佐々木さん、あなたは立派な窃盗罪を働いたんだ。このまま海援隊で預かるわけにはいかないよ。あなたが桃山のところに帰れないのはわかっている。でも、自業自得なんだから今後の身の振り方はあなた自身で考えるべきだと思うよ。僕が確認したいのは、あなたが今回の罪を素直に認めてくれれば、僕たちはあなたを刑事告発しないということだ」
「でも、桃山を訴えれば、当然私の名前も出てくるんじゃありませんか」
「誰が桃山を訴えると言った?桃山を訴えれば、桃山社中は完全に終わりだよ。そうなったら、桃山社中を信じて通ってきている生徒達はどうなるんだ。生徒達全員をうちで面倒見れるのなら問題はないけど、教室の規模から言ってもそれは無理だよ。だから、桃山にはこれ以上嫌がらせをせずに、まじめに塾経営に専念するように申し入れるつもりさ。彼がそれを断るなら、刑事告発もやむを得ないけどね。佐々木さん、あなたからも彼に助言した方がいいんじゃないの。さもないと、刑事告発することになれば、あなたが心配しているように、あなたの犯罪も追求されることになるわけだしね」
「私に桃山のところへ行けと言うのですか」「佐々木さん、甘ったれないでよ。あなた達のしたことは最低なのよ。人道に反したことをしといて、自分だけ安全なところに逃げるつもりなの。あんたそれでも女?」
三人は顔を見合わせてしまった。「それでも男なのか」という言い方なら聞いたことはあるが、「それでも女?」というせりふを耳にするのは初めてだったからだ。徳川秀子は名前に負けず、なかなか気合いが入っていると三人とも同じように感じていた。
「わかりました。できるだけのことはしてみます。でも、お願いですから、事を荒立てずに終わらせて下さい。一生のお願いです」
「佐々木さん、そのお願いに今すぐ返事をすることはできないね。全ては桃山の出方次第なんだから。ところで、間違っても自殺なんかしないで下さいよ。そんなことをしたら、桃山社中もあなたと心中することになる。第一、命をかけるほど価値のある男だとは思えないしね、桃山勇という人間は」
西郷は冷静に話しているが、腹は怒りでみなぎっているのだろう。佐々木祐子の涙声にも一向に動揺するそぶりがなかった。
「それで佐々木さん、桃山には来週早々にこちらから会いに行くと伝えてくれないか。逃げれば訴えると、それだけは釘を刺しておいて欲しい」
「あの、西郷さん達は最初から私のことを疑っていたのですか」
「疑っていたわけではないけど、桃山のことだから用心に越したことはないという結論になったんだ。あなたさえ罠にかからなければこのまま海援隊は航海を続けていたはずなんだけどね」
「あの、こんな立場で言うのは何ですけど、私もあなたたちの秘密を握っています。あなた達は桃山社中のコンピューターに侵入したでしょう?私はそのことについてはまだ桃山に話していないんです。だから、せめてその分だけでも私に温情をかけて下さい」
桂が佐々木祐子をにらみつけながら言った。「佐々木さん、コンピューターにアクセスした記録は残っていても、それが誰のアクセスかは記録されていないはずですよ。それに、桃山社中のコンピューターにアクセスした人間が誰だかは知らないけど、そのために桃山社中が不利益を被ったという事実もないわけだし、あなたの主張は全く意味がないと思いますけどね」
「あなたたちは、どこまで冷酷なの」
「いい加減にしなさいよ!冷酷なのはあなたたちの方じゃない。いやしくも私塾を経営していながら、あなたも桃山も真剣に子供達のことを考えたことがあって?」
「それは…」
「徳川さん、もういいよ。佐々木さんは単なる事務員で、最初から生徒のことなんか考えてはいないさ。そんな思いやりのある人ならこんな犯罪に手を貸すわけはないんだから」 佐々木祐子は泣き出してしまった。
《偽善者》
約束通り、西郷達四人は週明けの月曜日に桃山社中を久しぶりに訪れた。もちろん教室の配置などは全く変わってはいなかったが、教室の壁には落書きが至る所にしてあった。それを見て、西郷は心底悲しくなった。子供達の心がすさみつつあるのを知ったからだ。「四人おそろいでおでましか。まあいいだろう。向こうの空き教室に来てくれたまえ」
犯罪を犯した桃山の方が態度がでかいのは気に入らなかったが、最初から桃山の歓迎など期待していなかった四人は、桃山の失礼な態度にさほど腹を立てることもなく、言われるとおり空き教室に入っていった。もちろん口火を切ったのは海援隊塾頭の西郷翔太だった。
「桃山さん、話は佐々木さんからもう聞いているとは思うが、あんたのやり方は許し難いところだが、桃山社中の生徒達のことを思って、僕らはここは話し合いで解決しようと決めてきました」
「何が生徒達のことを思ってだ。偽善者とはまさにお前達のことだな。要するに、いくら欲しいんだ?」
「桃山さん、あんたはどこまで腐っているんだ。僕たちがあんたからお金を巻き上げるとでも思っているんですか。僕らは、そんな卑怯なことは絶対にしない」
「きれい事を言うもんじゃないよ。世の中は金で解決できないことなんかないんだ。お前達だって、金儲けのために塾を開いているんじゃないのかね」
「世の中の人間がみんなあんたみたいに金の亡者だと決めつけるのはやめてもらいたい」「生意気言うんじゃない!お前達をここまで育てたのは誰だと思ってるんだ」
「育てたとは言い草ですね。桃山さんが僕らのためにしたことと言えば、安い時給で利用するだけ利用したということだけじゃなかったんですか」
「安かろうが高かろうが、お前達に金を払って塾の講師としてのスタートを切らせてやったのは、紛れもないこの私じゃないか。その恩も忘れて、何を威張ってるんだ」
「あんたも本当にわからない人だなあ。自分の立場がわかっていないんですか。僕たちが個人情報の窃盗及び意図的な流出に対して、あなたと佐々木さんを刑事告発すれば、まず間違いなくあなたたちは前科者になる。そういう立場をまずわきまえてもらいたいですね」「ケツの青い若造が、何を生意気な」
「ケツが青いのはお互い様でしょう。桃山さんだって、僕らより四つか五つ年上なだけじゃないか。それで世の中の全てを知ったような口をきいてもらいたくはないですね。あなたが坂本龍馬の信奉者だなんて、僕は悔しくて涙が出そうですよ」
「余計な話はもういい!私も忙しいんだ。要するにお前達は私にどうしろと言うんだね」「まじめに桃山社中の経営に没頭してもらえればそれで結構です」
「塾経営に関して、お前達のような半端なやつらからつべこべ言われる筋合いはない」
「まったく頭の悪い人だ。それなら僕らが刑事告発に踏み切ればいいと、そう言いたいのですね」
「それは、ちょっと待ってくれ」
「ほらごらんなさい。その意気地のない姿があなたの本性なんだ。偉そうなことを言っていたって、社会から抹殺されるのは怖いんでしょう。近藤勇が天国で泣いてますよ」
「近藤勇など、私には関係ない!新撰組など、世間知らずのお前達と全く同じだよ」
「世間知らずはお互い様ですよ。結局、もうこれ以上きたない真似はしないと約束してくれるんですか、それとも物別れに終わっていいと言うんですか。はっきりして下さい」
西郷の語気が一層強くなった。相手に強く出られると、桃山勇はてんで意気地がなくなってしまう。
「わかった。もうお前達とは関わりは持たないと約束しよう。その代わり、今回の件もなかったことにすると約束するんだろうな。そうとなれば、文書で約束を交わしてもらいたいんだが」
「あんたも、本当にわからない人だ。あんたは偉そうに僕らに何かを要求する立場にはないんだ。約束の文書など絶対に作らないからそう思って下さい。ただ、僕らはあなたとは違って、決して嘘はつかない」
「何だと!人を嘘つき呼ばわりするのか!」
「あのダイレクトメールの内容は、嘘以外の何物でもないでしょう。それとも、何か申し開きができますか」
「ふん、勝手にするがいい。お前達のような青二才が経営に乗り出したところで、いずれ船も沈没するだけだろうよ。そのときになってほえづらかくなよ。俺は絶対に手助けなんかしないからな」
「こちらからお断りしますよ」
さすがの桃山も、西郷の強気な発言には完全に切れてしまったようだった。しかし、西郷の言うように、強気を通せる立場ではないことぐらいは、世間知らずの桃山にもわかっていた。とにかく、ここは騒ぎを大きくしない方がいいだろう。桃山は、いつか思い知らせてやると心に誓って、帰って行く四人の後ろ姿をじっとにらみつけていた。
「あの男、本当に約束を守るかしら」
「さあどうだろうね。でもこっちにはこれがあるからね」
西郷はスーツの胸ポケットから、小型のボイスレコーダーを取り出してみんなに見せた。「西郷君、今の会話を全部録音していたのか。君も全く抜け目がないなあ」
桂隆太郎がしきりに感心している。
「もしものときのためだよ。こんなもの使わないに越したことはないよ。それより、僕らは海援隊のことに集中しないとね」
ずっと黙っていた中岡雄介がやっと口を開いた。
「僕はああいう緊張した雰囲気がどうも苦手でいけないなあ。西郷君は言いたいことがずばずば口から出てきて尊敬するよ」
「そんなことはないさ。人間、口は災いの元って言うから、あんまりぺらぺらものをしゃべるのは賢いとは言えないかも知れない。特に口論しているときに口数が増えると、取り返しのつかない失言をしてしまうことがあるからね」
「でも、西郷君はどんなに熱が入ってきてもどこか冷静なところがあって、安心して聞いていられるわ。私がしゃべったら、もう失言の嵐で大変だと思うもの。ねえ、桂君」
「そうだね、と相づちを打ったら、徳川さんに叱られちゃいそうだからやめとくよ。それにしても、桃山のやつ昔と比べるとずいぶん態度がふてぶてしくなったよね。お金が人間をあんな風に変えてしまうんだろうか」
「それもあるかもね。金は魔物だよ。あればあるに越したことはないけど、人間性まで失ってしまうんじゃ元も子もないからね。ただ経営にもやはり波があるから、羽振りのいいときはあれでも通用するけど、経営が悪化したときには、周囲に援助を求めても、あんな態度じゃ誰も相手にしてくれないと思うよ」
「桃山社中ってそんなに儲かっているのかしらねえ」
計算に強い桂が答えた。
「そりゃあそうだよ。学生の講師を安い時給で働かせているんだから、利益は莫大さ。普通の経営者なら、その利益を次の投資に回すんだけど、桃山の場合は自分のふところに入れてしまって、桃山社中の拡大再生産にはあまりお金をつぎ込んでいないみたいな漢字だったね」
「ああ、僕もそう思った。みんなも教室の壁の落書きに気がついただろう?僕らがやっている頃には、あんな落書きはなかったじゃないか。生徒達も真剣だったから、塾の教室の壁を汚すなんて考えられなかったんだと思うんだ。教室をみんなで大切にしようっていう雰囲気が自然と生まれていたしね」
「子供達って、そばにいる大人であんなに変わってしまうのね。落書きは、生徒達の心が荒れている証拠だもの」
「徳川さんもそう思ったんだね。僕も同感だよ。あの教室の状態を見る限りでは、子供達はあまり塾を信用していないような気がした。それに、教材を置いてある棚を見たかい?僕らの頃は、気がついた人間がいつも整理していたよね。それが、上下はばらばら、種類もごちゃまぜで、とても教育に関係した機関の本棚とは思えなかったね。何と言っても僕らの巣立った場所だから、ちょっと寂しい感じがしたなあ」
「西郷君でもそんな感傷的なこと言うのか。いや、僕も同じようにわびしさを感じたんだ。やっぱり僕らが育った場所であることは確かだものなあ」
すると中岡も同感だとばかり発言した。
「僕も同じ意見だね。桃山に育てられたんじゃないにしろ、僕ら四人が出会って、そして生徒達が周囲にいてくれて、いつも緊張の中でお互いに切磋琢磨していたと思うんだ。本当に僕らを育ててくれた場所なんだよね。西郷君が、桃山社中をつぶしたくはないと言っていた気持ちが、とてもよくわかったよ」
「私も、このまま桃山が少しはまともになってくれて、ライバルながら桃山社中が少しでも発展してくれたらいいと思うわ」
「あれ、徳川さん、さっきまでの怒りはすっかり収まったんだね」
「やだ、桂君ったら、人をからかわないで。自分で言うのも何だけど、私みたいな単細胞人間は小さなやかんと一緒で、熱くなるのも早いけど、冷めるのも早いのよ」
「冷静になるのは大切だよ。僕らも、いつまでも同じ事をしていて安心してしまったら、その時点で腐り出してしまう。よどんだ水が腐るのと同じ原理かな。だから、常に前進してないと駄目だと思うんだ。これからも、いつもみんなで新しい発想を大切にしながら、海援隊を経営していきたいね」
西郷の言うとおりだった。公教育が混乱している昨今では、確かに親は私塾を頼らざるを得ない。しかし、親も子供も馬鹿ではないから、私塾の「自然淘汰」の原理はしっかり生きているのだ。いい加減な塾は、やがては親にも子供にも見捨てられて、衰退の運命をたどることになる。常に発展するためには、斬新なアイデアに挑戦する気持ちを忘れてはいけない。
「私ね、実はこっそり授業記録票を覗いちゃったの。そしたらね、講師達はまあまあ一生懸命に書いてるんだけど、相変わらず桃山のやつサインもしてないのよ。あれじゃあ、みんなどんどん書かなくなっていくわね。私たちの時は意地でもしっかり書いたけど」
「他人の振り見て我がふり直せという格言の通り、僕らも今の海援隊のシステムをもう一度総点検して見た方がいいかもね」
「そうね、個人記録のファイルも写真を貼ったりするだけで、その生徒のイメージが湧きやすくなるし」
中岡が感心したように言った。
「それはグッドアイデアだよ。でも徳川さん、どうして今まで提案しなかったの」
「今までは新しい海援隊の出航の準備に精一杯だったし、それに桃山のことでかりかりしていたから、いいアイデアが思いつかなかっただけ。これからは、ばんばん新しい発想に挑戦したいわ。掲示物の工夫なんかもしたいし、海援隊文庫みたいのを作って、読書嫌いの子供達に読書の習慣も身につけさせたいと思ってるの」
「何だか徳川さんはアイデアの宝庫だね。今言ったことのどれ一つをとっても、素晴らしいと思うよ。ぜひ実行しよう」
《海援隊の大改革》
西郷・徳川・桂・中岡の四人は、新メンバーに採用することにした岡田・後藤・武市・佐々木道子の四人を交えた八人で話し合った結果、海援隊の新しい方針として次のような項目を新たに設けた。
【海援隊・新方針】
一、生徒の学習状況などを記すファイルには、それぞれの生徒の写真を貼り、その子のイメージを抱きやすくすると共に、記述はできるだけ具体的に行い、西郷塾頭は必ず全員分のファイルを定期的にチェックし、所定の欄に押印すること。
二、掲示物担当として新たに徳川秀子が就任し、常に教室の美化と、子供達への啓蒙活動に努めること。また、教室の壁に落書き等が見つかったときは、すぐにきれいに消してしまうこと。
三、子供達に対しては必ず「〜君・さん」という呼び方をし、決して「お前」とか「〜じゃねえか」などに類する乱暴な言葉遣いは絶対に慎むこと。
四、職員研修として、毎週土曜日の午前十時から正午までの二時間は、新規採用の講師である勝真之介先生の講義を受けること。尚、この講習は八人の講 師全員が例外なく受講すること。
五、決して学校や学校の教師の悪口を言わないこと。また、生徒達がそのような悪口を言っている場面を目撃したら、必ず注意すること。子供達には様々な大人達に感謝する気持ちを教えることを第一とする。
六、事務室の壁側に新たに海援隊文庫を設置し、子供達は図書カードを使って自由に本を借りることができるものとする。また蔵書の管理については、新しい事務職の池田こずえ女史が担当する。
七、子供達の模範となるよう、全ての講師は常に自己研鑽に励み、後ろ姿で教育できる人間になるよう努力すること。
八、週に一回授業公開日を設け、保護者やその他の一般の人々に授業を公開し、アンケートの結果を次の授業への三項にすること。
九、給与の時給制は廃止し、全員月給制とする。ただし、普通のアルバイトと比べて破格な給与が与えられている意味を常に肝に銘じること。
十、海援隊講師は常に身分証明書を携行し、海援隊の恥になるような行為は絶対に慎むこと。万が一、海援隊の看板を汚すような行為があった場合には、全員の話し合いによって処分を決定する。すなわち、塾頭による人事権の独占はこれを認めない。
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これが八人の大学生によって作られたことを考えると、日本の将来もまだまだ捨てたものではないし、現役の教育者と呼ばれる人々全てに呼んで欲しい内容である。ここに書かれた項目が全て完璧に実行に移されることは非常に難しいかも知れないが、少なくともこの十項目を目標にして努力しようとする姿勢は大いに評価できるだろう。
ちなみに、研修講師の勝真之介という人物は、西郷の求人広告に応募して来た四人の人物の中から選抜した人材だったが、元は学校の英語の教師だったそうで、その博識ぶりは西郷が度肝を抜かされたほどだった。特に幕末史に関しては、どこの本にも書かれていないような細かな事実まで知っており、まさに研究者でありまた立派な人格者でもあった。年齢は五十二歳である。また、事務の池田こずえは高校卒業後、すぐにコンピューターの専門学校に入り、二年間の勉強を終えて卒業したばかりの若手だった。大変な美人であるにもかかわらず、謙虚な姿勢が西郷に気に入られた。これで、海援隊の陣営はほぼ完全に揃ったことになる。
特に、勝真之介による毎週一回の講義は、講師達に大好評で、教育のみならず、日本の将来についての深い洞察力には目を見張るものがあった。最初の講習が終わった後で、こんな会話があった。質問したのは、数学の桂隆太郎である。
「勝先生、先生のような方が政治家になられたら、日本の政治はもっと変わると思うのですが、いかがですか」
「私は事情があって政治家にはなれないのですよ。それに、私は自分が何かをするよりも、何かをする人材を育成する方が大切だと、そう自分の使命を感じているのです。みなさんが私の話を聞いて、海援隊の進展の参考になるのなら、私はそれで十分満足です。それから、桃山社中に新しい講師坂本遼太郎が入ったそうです。年齢は三十二歳で、これまた切れ者です。彼は英語と社会の担当で、桃山勇塾頭も彼には一目置いているようですね。何せ、名前が坂本遼太郎ですから、尊敬する坂本龍馬と同姓ということで、ないがしろにはできないのでしょうな。おや、ちょっと余計なことまでしゃべりましたかな」
「あの、勝先生はどうしてそんな情報まで入手できるのですか」
「時代を見据える基本は、情報収集能力です。私は常に四方八方にアンテナを張り巡らせている。インターネットとかで情報を集めるより、新聞やニュースやあるいは街の人々のうわさ話などから情報を入手する方が、よほど確実ですわ」
誰もが感じたことだが、この勝真之介という人物は、つかみどころのない不思議な人物だった。月給にしても、大した額は支払えないのに、それでも一向に構わないと言う。また、桂が指摘したように、情報に関してはテレビ局より詳しい感じがした。
また、事務職の池田こずえに関しては、その気配りの細かさが、講師全員の間で評判になっていたし、子供達もいつも笑顔で挨拶をしてくれるこずえにすぐに親近感を抱いたようだった。とりわけ、桂隆太郎はどうやら一目惚れしてしまったらしく、池田こずえの一挙手一投足に常に気を配っている有様で、もしかしたら近い将来めでたい話でも持ち上がるかも知れなかった。それも一つでなく二つほどだ。もちろん、もう一つは中岡雄介と徳川秀子のことを言っている。
西郷は、一つの企業が成り立っていくためには、いかに「人材」が大切であるか、改めて痛感させられた思いだった。桃山勇はケツの青い大学生に会社経営など所詮無理だと言っていたが、大学生であろうと一般社会人であろうと、志ある者が集まって団結すれば、立派な企業ができあがることが証明されたのだ。そして、常に新しい風を取り入れる姿勢を忘れてはいけないことも承知していた。
《ギャンブルの罠》
新しく英語の講師になった武市孝太郎に関して、中岡雄介がおかしなことを言い出したのは、海援隊の新しい方針が決まってから一ヶ月ほどした頃だった。
「西郷君、ちょっと最近気になることがあるんだ。英語の武市君のことなんだけど」
「武市君がどうかしたのかい」
「うん、どうも最近出勤時刻がぎりぎりだし、実際には三回ほど遅刻もしている。着ているスーツは強烈なたばこのにおいがして、生徒達の間でも噂になっているんだよ」
「彼が何かしているとでも?」
「うん、僕の想像だと、パチンコにはまってるんじゃないかと思ってね。僕も一時期パチンコにはまったことがあったんだけど、あれは体中にたばこのにおいが染みついてしまうんだ。それにいったんはまると、麻薬と同じでなかなか足を洗えないんだよ。特に大きな借金を抱えた連中はね」
「わかったよ。僕が直接本人に確認してみよう。彼に、授業が終わったら僕のところに来るように伝えてくれるかなあ」
「もちろんだよ。よろしく頼んだよ」
授業が終わって西郷の元にやってきた武市孝太郎は、心なしか顔色もさえない感じがした。西郷は思いきって話題を切り出してみた。「武市君、一部の噂だと君はギャンブルにはまっているということだが、それは本当なのかい?」
「誰からそれを聞いたんですか」
「誰でもいいよ。問題なのは、それが事実かどうかっていうことなんだからね。もし事実だとしたら、今どういう状況なのか正直に話して欲しいんだ」
「あの、迷惑ばかりかけていて本当に申し訳ないと思ってはいるんですが、僕がギャンブルにはまっているという話は本当です」
「競馬、競輪、パチンコ、ギャンブルにもいろいろあるけど」
「パチンコです」
「相当やられてるのかな」
「ええ。もうサラ金に借金が八十万円ほどたまってるんです。情けない限りです」
「それじゃあ、どうしてやめないんだ」
「やめたら、借金の返済が長引くだけだと思って、つい」
「ついパチンコで返そうと思ったのが、逆にはまってしまったんだね」
「はい、その通りです」
「パチンコをやるのが海援隊の規則に反するわけじゃないけど、生徒達の前にたばこ臭いスーツで現れるのはあまり感心できないね」
「僕は、桃山社中時代にも学歴をごまかして迷惑をかけてしまいましたし、今回の件で海援隊もクビになりますか」
「それは、子供達の間にどういう形で君の噂が広まってるかにかかってるから、少し調査をさせてくれないか。講師として恥ずかしくない態度で臨もうとみんなで決めたんだから、それを破るのは確かに軽い罪ではないと思うしね。みんなにも相談してみたい。とにかく結論が出るまでは、パチンコ屋に立ち入らないでいることはできるかい?それもできないということなら、この場で辞めてもらうしかないんだけど」
「大丈夫です。結論が出るまでは、何とか仕事に熱中しようと思います」
「しっかりしてくれよ、武市君。学歴なんかにこだわらずに、ゼロからやり直そうと決心した君の気持ちが、ギャンブルでゼロになってしまうのはもったいないじゃないか」
武市孝太郎は、西郷の優しい言葉に、ぐっと涙をこらえて、下を向いたままだった。
武市孝太郎の件に関する話し合いは、研修担当講師の勝真之介にもアドバイザーとして参加してもらって、週末に開かれた。
「みんな、武市君に関する大まかな事はわかってもらえたかと思うんですが、先日我々みんなで作ったばかりの塾則第十条には明らかに反する行為です。となれば、辞めてもらうことも考えなければならないことになるのですが、桂君に子供達の情報を入手してもらってありますから、その報告を参考にして下さい。それじゃあ、桂君、頼むよ」
「わかりました。武市君がむせるような強烈なたばこの臭いをスーツに染みこませて授業に現れるということが、得の女子生徒達の間で不評を買っていました。その話は、一部の保護者達の間でも話題になっていて、どうやらパチンコにはまっているのではないかという話もかなり広まっているようです。今や、パチンコは主婦達の道楽になっていますから、現実に彼が授業の前にパチンコ屋に入り浸っている姿も、保護者の誰かに目撃されているようなんです」
「桂君、どうもありがとう。さて、以上の事情もふまえた上で、海援隊のこれからのことも考えて、武市君の処分を決めたいと思いますが、それでいいですか」
それまでじっと話し合いの成り行きを観察していた勝真之介が口を開いた。
「ちょっといいですか」
「はい、勝先生お願いします」
「確かに武市君の行動は塾則に反しているでしょう。しかし、問題なのはなぜ彼がそこまで金策に困ったかという理由が明確になっていないということです。それに、一緒に海援隊を始めた仲間である武市君が、塾則に背いた行為をしたということで、すぐに海援隊を追われるというのは、幕末の新撰組の近藤勇たちの綱紀粛正事件に非常によく似ている。近藤は自分たちの正義感を全てに優先させてしまって、ちょっとでもミスをした仲間を決して許すことができなかった。それは、一種の独善でしょう。彼の独善のおかげで、どれだけの貴重な若い命が無駄に散っていったことか。みなさんが武市君にどういう処分を決めようと、そこに私が口を挟むべきではないということは承知していますが、せめてなぜ彼がパチンコにはまってしまったかという理由ぐらいは、彼本人の口から聞いてあげてもいいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか」
「確かに、勝先生のおっしゃるとおりですね。僕らは、武市君がパチンコにはまった理由については何も調べてはいませんでしたから」
「西郷先生、人間というものは必ずミスを犯す存在なのですよ。そのミスを認め合ってこそ初めて一つの組織が固い結束で結ばれていく。西郷先生は坂本龍馬君のファンだそうですね。坂本君は、亀山社中の連中が国外脱出を図ったまんじゅう屋が、坂本君の留守中に自刃に追いやられたという話を聞いて激怒しました。人の命は大切にしなければいけないというのが彼の持論でしたからね。許されないミスなど、世の中には存在しないのではありませんか。人間は誰もがミスだらけだ」
勝真之介の話には不思議な説得力があった。それに、西郷が信奉している坂本龍馬のことを「坂本君」と呼んだりするものだから、西郷達はまるで幕末に生きた勝海舟が直接自分たち人語りかけているような錯覚に陥ってしまった。
結局、話し合いはその場で一時中断ということになって、まずは西郷翔太と桂隆太郎の二人が、直接武市孝太郎から事情を聞くことになった。彼の処分を決定するのはそれからでも遅くはない。
「武市君、話し合いの流れはだいたいわかってもらえたかと思うんだけど、君がなぜパチンコにはまるようになってしまったのか、その辺の事情を許せる範囲で話してはもらえないだろうか」
西郷が穏やかな口調で武市に質問した。
「実は、僕には妹がいるのですが、名前は洋子と言います。その洋子がやはり東京で短大に通っているのです。実家は裕福ではないので、僕が洋子の学費の面倒も見なければならなくて、それでお金が必要だったわけなんですが、海援隊でいただく給料だけでは、自分の専門学校の学費と生活費を捻出するのがやっとだったので、それでつい簡単にお金を手に入れる方法をパチンコに求めてしまいました。今思えば、本当に馬鹿なことをしたと思っています。負けを取り戻そうとあがけばあがくほど、あり地獄にはまった蟻のような状態になってしまったんです。西郷さん、このことだけは洋子には知らせないで下さい。あいつは、とても兄貴思いのいいやつなんで、そんな話を聞いたらきっと短大をやめて働くと言い出すに決まっていますから」
「そうだったんですか。武市君、最初に事情を聞かないで本当に申し訳なかった。とりあえず、パチンコでサラ金に作ってしまった百万円近い借金は、一時的に海援隊が肩代わりしましょう。だから、武市君は一生懸命海援隊の仕事に精出して、その中から何とか妹さんへの学費の援助もできるように頑張ってもらいたい。武市君の頑張り次第で、昇給も考えたいと思いますから。それで、立ち直ることができますか」
「西郷さん、そこまで考えていただいて本当に恐縮です。でも、借金を海援隊が肩代わりするというのは、あまりにも心苦しくて」
「それはいずれ返してもらいますから、心配することはない。とにかく今は、子供達や一部の保護者に流れているよからぬうわさ話を払拭する必要があるでしょう。武市君は、そのことだけに専念してもらいたい」
「それじゃあ、これからもこの海援隊で働かせていただけるのですか」
「それは、今この場で僕が決定するわけにはいきません。塾則では塾頭には人事権の独占が許されていませんからね。しかし、君の事情を話せば他の先生達も十分理解してくれるでしょう。お礼を言うなら、勝真之介先生に言って下さい」
二回目の話し合いで、武市孝太郎に対する西郷の提言が承認されたのはもちろんのことだった。
「みなさん、どうもありがとう。武市君の妹さんのためにも、武市君には今まで以上に頑張ってもらいたい。武市君に代わって、僕からみなさんの寛大な決定にお礼を言います」「いやあ、西郷先生、立派な結論です」
話を聞いていた勝真之介が発言した。
「新撰組の近藤達とは大違いだ。もちろん近藤君達も、正義感に駆られての行為ではあったのですが、人のミスを許せない人間は、必ず自分のミスのために自らの命を落とすことになるというのが世の常です。武市先生のミスを許したことで、きっと海援隊の皆さんはいつかは自分たちが救われることになるでしょう。いやあ、実に立派、立派」
勝真之介は本当に満足そうだった。それにしても、この男はいったい何者なのだろう。発言に不思議なほどの重さがあるのだ。
《坂本遼太郎の反乱》
一方、桃山社中では新人の坂本遼太郎が大暴れして、桃山勇を困らせていた。とにかく気がつくことがあると、桃山の許可も得ずにどんどん実行に移してしまうのだ。その行動力のすごさたるや、桃山のコントロールなどとうてい及ばないほどだった。今日は、教室中の壁磨きを始めている。落書きだらけだった壁が、遼太郎のてきぱきした動きで、みるみるうちにきれいになっていく。
「坂本先生、仕事に精出してくれるのはありがたいんですが、せめてやる前に塾頭である僕の許可を得て欲しいですね」
年上の坂本に対しては、さすがの桃山もていねいな言葉遣いをしないわけにはいかない。「坂本先生、返事ぐらいしたらどうですか。僕は塾頭なんだ。坂本先生、あんた耳がないんですか!坂本先生!」
「ほだえな!わしが一生懸命働いちょるのを見張ってる暇があるんなら、ちっとは手伝ったら良かろうに。塾頭塾頭と、威張ってる人間に大物はおらんきにのう」
「坂本先生、先生はいつから土佐弁になったんですか。今までは標準語だったくせに」
「つべこべぬかすな!わしは、もう東京弁には飽きたきに。これからは土佐弁でいく」
「坂本先生は土佐の出身なんですか」
「そんなことどうでもよかろうが。桃山さん、あんたわしの手伝いをする気があるのかないのか、はっきりせいよ」
「塾頭が壁磨きなどできるわけないでしょう」「ほほう、それはおもしろい。新撰組の近藤達と同じじゃのう。威張ってばかりで、自分たちはちっとも小さな心遣いができん。そう言えば、桃山さんの名前も勇じゃったのう。そんな名前をもらうから、どうしようもない塾頭になるんじゃ」
「坂本さん、あんた塾頭の私を馬鹿にする気ですか。我慢にも限界というものがある。少しは言葉を慎んだらどうですか」
「ほう、上等じゃのう。わしと一戦交えるっちゅうことか。おまんのような弱虫は一太刀で叩ききってやるきに。おっと、刀は持ってきておらんかった。おまんも運のいいやつよ」「何を訳のわからないことをつべこべ言ってるのですか。ふざけないでくれ」
「おまんの尊敬する人物は誰じゃったかのう」「それがあたんたに何の関係があるんですか」「ごちゃごちゃ言うとらんで、答えんか」
「坂本龍馬ですよ。同じ坂本でも、あんたとは大違いだ。命がけで今の日本を作ってくれた立派な人物です。まあ、あんたなど彼の足下にも及ばないでしょうけどね」
「おまんも、本当に鈍い男じゃのう。目の前にいる人物が誰かもわからんのか」
「目の前って、私の目の前のあんたのことですか」
「おまんの目の前にはわし一人しかおらんじゃろうが。この馬鹿たれが」
「この野郎、塾頭の僕をつかまえて馬鹿たれとは何だ!坂本先生、あんたはたった今限りでクビだ!」
「おまんのようなアホのために、近江屋で殺されたのかと思うと、情けなくなるわい」
「あんた、いったい何者なんだ」
「そいじゃきに、さっきから言っとるじゃろうが。おまんの尊敬する坂本龍馬とは、わしのことじゃ。わからんのか、馬鹿たれ」
「何をふざけたこと言ってるんだ。どうして死んだ人間が生き返ってくるんだよ。あんたみたいなやつをペテン師って言うんだ。さあつべこべ言ってないで、とっとと消え失せてくれ」
「ほう、わしのことを嘘つき呼ばわりする気じゃな。それなら、おまんの大嫌いな近藤勇と土方歳三を呼んじゃるきに、ちと待っとれや。お〜い、近藤、土方、おまんらの悪口を言っちょったこの馬鹿たれが、おまんらと会いたいそうじゃ」
「あんた頭は確かなのか。どこに近藤勇と土方歳三がいるんだよ。誰もいないじゃないか。全くあんたの頭はどうかしてるよ」
「ほんま鈍いやっちゃのう。二人ともおまんのすぐ後ろにいるわい」
気味の悪いことを言われて桃山は後ろを振り返ったが、やはりそこには誰もいなかった。というより見えなかったという方が正しい。「おい、近藤、土方、どうせこのアホにはおまんらの姿は見えんじゃろ。そこにあるコンピューターとかいうマシーンをたたき壊して見せちゃれや」
次の瞬間、最新式のコンピューターが火花をあげてばらばらに壊れてしまった。金属の棒か何かで叩き壊されたという感じだ。桃山勇はやっと事の重大さに気づき始めた。
「あんた、いったい何をしたんだ。器物損壊で訴えるぞ」
「まだわからんのか。近藤、土方、今度はこいつの頭から冷たい水でもかけてやっちょくれ。少しはアホが直るかも知れんきに」
次の瞬間、桃山勇の頭からバケツ一杯ほどの水が浴びせられた。どう見ても、坂本遼太郎は何の手も下していない。桃山勇は本当に気味悪くなってしまった。
「な、な、何の真似だよ。いったいどうなってるんだ。あんたはいったい誰なんだ」
「そいじゃから、さっきから言っちょるじゃろうが。おまんの尊敬しちょる坂本龍馬ちゅうのは、わしのことじゃきに」
「だって、あんたの風貌はどう見ても坂本龍馬とは大違いじゃないか」
「当たり前じゃろうが。わしが本物の姿格好で今の時代に現れちょったら、大変な騒ぎになる。じゃきに、わしと勝先生は仮の姿でおまんらの元に降りてきたんじゃ。少しは感謝せんかのう」
「ど、どうして、そんな馬鹿馬鹿しいことが信用できるんだ。あんたが坂本龍馬だっていう証拠でもあるのか」
「おまんも、ほんまに疑い深いやっちゃのう。証拠なんぞあるわけないじゃろうが。おまんが信じるかどうか、ただそれだけの問題じゃ。だが、これだけは言っとくきに、よく聞いとけや。おまんが桃山社中とか偉そうな名前をつけて、いい加減な商いを続けるなら、今度は太刀を持っておまんの枕元に立つ。そんときは、おまんのクビが飛ぶときじゃきに、よう覚悟を決めとくんじゃな。わしの作った亀山社中の名前を借りたからには、いい加減なことは許さんぜよ。それとも、わしの代わりにおまんの大嫌いな新撰組の連中を枕元に立たせてもいいんじゃ。どっちがええかのう」「どっちもごめんだ。お前らみたいな訳のわからん連中は、とにかくとっとと僕の前から消えてくれ!」
「頼まれなくても、消えちゃるきに。わしもおまんのような不甲斐ない男とは、つきあいたいとは思わん。まあ、せいぜい長生きするこっちゃのう。いいか、いい加減な商いをしたら、これじゃぞ」
坂本遼太郎は、いや坂本龍馬は刀で首を斬る素振りをして見せた。桃山は自分が悪夢にでもうなされているのかと何度も疑ってみたが、ほっぺたをいくらつねっても、どうやら夢ではないらしい。目の前の人物が本当に坂本龍馬だとしたら、このままいい加減な経営をしていたら、本当に首を斬られてしまうかも知れない。小心者の桃山勇は、もう少しで小便を漏らすところだった。
なぜ、こんな不思議なことが起きたのか、龍馬自身にもよくわからなかった。ただ、桃山社中と海援隊の様子を興味深く見守っているうちに、勝海舟と二人で現世に一月だけ下って、双方の融和を図るように、天からの指令が下ったのだ。龍馬にしてみれば、薩摩と長州の仲を取り持つよりは簡単なことのように思えたが、桃山勇は想像以上に頑固な馬鹿者であった。しかし、これだけ脅しておけばもう道を誤る心配はないだろう。龍馬達に残された時間もあと三日しかなかった。
桃山勇を脅すだけ脅して桃山社中を飛び出した龍馬は、ちょうど研修の講義で勝真之介、すなわち勝海舟の出勤している海援隊を訪れた。龍馬にとっては、忘れようにも忘れることのできない名前である。龍馬がものすごい勢いで飛び込んできたものだから、受付の池田こずえもあっけにとられて、用件を聞く暇もなかった。
「あの、どちらさまで…」
こずえがお決まりのせりふを言い終わるまもなく、龍馬は控え室で西郷と談笑している勝海舟のところへやってきた。
「いやあ勝先生、ここが海援隊ですかいのう。さすがに名前がいいだけあって、なかなか立派じゃのう」
西郷は、突然の来客にびっくりしている。「あの、あなたはもしや坂本遼太郎先生でいらっしゃいますか」
「その通り、いや実はちょいと違うんじゃが、まあいいじゃろ。おんしが噂の西郷君かい」「はあ、勝先生にはいつも大変お世話になっています」
「勝先生、先生の言うちょった通り、なかなかの好青年じゃのう。これならわしの海援隊も安心して任せられるきに。あの桃山勇のアホたれじゃ、安心して見ていることもできんぜよ」
「あの、坂本先生は高知県の出身なのですか」「わしは土佐の出身じゃ。まあ脱藩してしもうたから、出身も何もないけんどな」
「勝先生、何だかよくわからないのですが、先生達はいったい…」
勝海舟と坂本龍馬は顔を見合わせて、うなずきあった。
「龍馬よ、説明してあげなさい」
「勝先生、わしらの正体をばらしてええのですか」
「あと三日しかいられないんだから、ちっとも構わんよ。この西郷君ならきちんと秘密は守ってくれるだろうよ」
「そうですか。そいじゃあ、自己紹介といくかのう。わしらは見てくれは仮の姿なんじゃが、わしが坂本龍馬でこちらが勝海舟先生じゃ。賢いおんしの事じゃから、ちっとは気づいちょったんじゃなかろうか」
「本当なのですか!いや、もしやとは思いましたが、そんなことがあり得るわけないし、深く考えるのはやめていたんです。あなたが坂本龍馬先生でしたか」
「その龍馬先生っちゅうのは、ちょっと照れるぜよ。坂本龍馬でええ。西郷君もわしのことを慕ってくれとるらしいが、桃山のアホたれと違って、あんたは立派な若者じゃ」
「あの、僕はまだ頭が混乱しているのですが、いったいどうしてこのようなことが起きたのですか」
「それがわしらにもようわからんきに。桃山社中と海援隊には、幕末の志士たちと同姓の人間しか関わっちょらんことが、何か関係しとるようじゃ。とにかくわしと勝先生が一月ばかり下界に降りて、桃山社中と海援隊の融和を図ってこいという天からの命令じゃ。まあ、言うなれば、薩長連合っちゅうとこかいのう。実際には、西郷と桂をひっつけるよりはずっと簡単じゃ。ただ、桃山勇のアホたれはどうにかせにゃならんと思うたんで、ちょびっとばかり脅しておいたぜよ。やつは意気地のない男じゃきに、もうめったなことはせんじゃろう。それより、わしの海援隊の名を引き継いでくれるとは、何とも嬉しい限りじゃ。勝先生、記念に先生の達筆で看板を書いていかれちゃどうかのう」
「うん、それはいい考えかも知れないな」
「あの、それで先生方はあと何日くらい現世にいられるのですか」
「三日ぜよ。たったの三日じゃきに、京の都や薩摩に旅しちょる暇はないんじゃ。それだけがちっと心残りじゃ。ところで、一つ西郷君に聞きたいことがあるんじゃが、あの一万円札とかいう銭に描かれちょるのは、福沢君じゃあるまいな」
「確かに、福沢諭吉です」
「ほう、私が咸臨丸でメリケンに連れて行った福沢諭吉君か。彼も立派になったもんだ」「どうしてわしらの顔が描かれずに、板垣とか福沢が描かれるんじゃろうか」
「坂本先生の図案も候補に上がったのですが、なぜか採用されなかったと聞きます。でも、今の日本には勝先生や坂本先生の信奉者は数え切れないほど大勢いるんです。本屋を覗けばわかりますよ。お二人に関する本が山ほど並んでいますから。そう言えば、今年は新撰組の熱が高くて、京都でも新撰組に関するイベントがたくさんありました」
「新撰組もかわいそうなもんよ。勝先生にしっかりついていれば助かったかも知れん」
「近藤勇君も土方歳三君も沖田総司君も、みな立派な若者でしたよ。生まれた時代が悪かった。あのころは、ちょっとした主張の違いが殺し合いにまで発展していたからね。みんなこの日本国の将来を案じていたのに、つまらない殺し合いが多すぎた。この坂本龍馬君にしても、京都守護職がつまらん幕府のメンツにさえこだわらなければ、新政府の要人になっていたことでしょう」
「あの、坂本先生を暗殺した人間がいまだに謎なのですが」
「ああ、佐々木只三郎のことかい。あれも剣の腕は日本で一、二を争うほどじゃから、わしらが酒を飲んでおらんかったとしても、やられちょったかも知れんきに。それにしても、中岡には悪いことをしたと思っちょる。あいつはわしの暗殺事件に巻き込まれただけなんじゃ。いいやつじゃったがのう」
「坂本先生はどうして懐のピストルを使わなかったのですか」
「ほう、そこまで知っとるんかい。実はのうしこたま酔うとったきに、ピストルを忍ばせちょることを忘れとったんじゃ。第一、忘れてなかったとしても、そんなものに手を伸ばす余裕などなかったじゃろう。佐々木のやつ、いきなり斬りつけてきおったからのう」
「あのう、僕は毎年京都に出かけます。それで、行くたびに必ず鴨川べりのホテルに泊まるのですが、そこから坂本先生と中岡先生のお墓のある霊山護国神社まで歩いてほんの数分なので、いつも必ずお参りさせていただいてます。坂本先生、もしよろしかったら、うちの海援隊の塾訓を先生の筆で書いてもらうわけにはいきませんか」
「わしのへたくそな字でいいんか」
「坂本龍馬先生の字だからこそ、どれほどの価値があることか。もちろん誰に言っても信用はしてくれないでしょうけどね」
「西郷君、私たち二人のことは勝真之介と坂本遼太郎で通しておいてくれないか。下手に騒ぎを起こしたくはないし、正体は絶対にばらすなと言われてきている。君だけは信用ができると踏んだから、正直に話したが、他の人間には黙っていてもらえるかね」
「勝先生、お二人は残りの三日間をどのようにしてお過ごしになるのですか」
「そうだなあ、京の街でもぶらぶらして、それから最後に寺田屋あたりで姿を消すとするかなあ。どうだい龍馬、それでいいかな」
「寺田屋へ行けるのなら、そいでかまいません。近江屋には行きたくはないけんどな」
「大丈夫ですよ坂本先生。近江屋は、もう影も形もありませんから」
「そうか、それで安心したぜよ。こう、近江屋という名前を聞いただけで、眉間に痛みが走る気がするんじゃ」
「京都までは新幹線で二時間ちょっとですから、すぐですよ」
「便利な時代になったのう。やはり外国から学んだのが正解じゃったのう。明治政府はちと期待はずれじゃったがのう」
「まあいいじゃないか。時代が変わるのにはそれだけ時間がかかるということさ。西郷君のような若者がいるというだけでも、日本国は十分立派な国になったということだろう。あとは時代が人を育てる。時代が必要とする人物が必ず現れる。それが歴史と言うものだよ。逆に、必要のない人間は歴史から消えるんだ。私と龍馬のようにな」
「ところで、同じ土佐の後藤象二郎が作った何とかという会社がピンチだと聞いたんじゃが、そっちは大丈夫なのかのう」
「坂本先生、たぶんそれは大丈夫だと思います。そんなやわな会社ではありませんから、きっと不死鳥のように立ち直るでしょう」
「不死鳥とはなかなかしゃれた言葉を使いよるのう。西郷君はなかなか気に入ったぜよ」
「ありがとうございます。坂本先生にそんな言葉を言っていただけるなんて、僕はもういつ死んでも構いません」
「アホ。人間、簡単に命を落としたらいかんぜよ。日本国のためにできることは何でもするんじゃ。全ての仕事が終われば、自然と天から迎えが来るもんよ。待っちょれ」
《特別講師坂本遼太郎》
西郷は、強引に龍馬に頼み込んで、今日一日だけ勝海舟と一緒に、海援隊の講師達で受講する講習会の特別研修講師になってもらうことにした。本人が坂本龍馬自身であることを明かすことができれば、そしてそれをみんなが信じることがあるなら、この研修会は歴史に残るのだが、それは無理な注文だった。せめて、歴史上の偉大な二人の人物の生の声をみんなの心の中にいつまでもとどめておいて欲しかった。もちろん、自分の心の中には死ぬまで大切に保管しておくのはもちろんのことだ。天から与えられた、この奇跡的な運命に、西郷は心から感謝した。
「みんな、今日は特別ゲストで、桃山社中を辞めてきたばかりの坂本遼太郎先生をお迎えしました。坂本先生は『百年先を読め』をモットーにしておられます。それでは今日はまず、坂本先生のお話から伺いたいと思います。では、坂本先生お願いします」
「わしは、坂本遼太郎と申します。出身は土佐じゃきに、土佐弁を許してもらいたい。そいから、堅苦しい話は苦手じゃきに、少々乱暴な言葉遣いになるのは勘弁してくんさい。
西郷君は、『百年先を読め』なんぞと、ちいとばかり大袈裟な言い方をしちょりましたが、要は目の前のちっこい利益にばかり目がいっちょると、大きな志を見失ってしまうっちゅうことじゃろうか。諸君は、みんな前をしっかり向いて生きちょる。そのエネルギーを大事にして、命ある限りこの日本国のために精一杯頑張ってもらいたいんじゃ。
後は、人の財産は人との出会いじゃということを、絶対に忘れてはいかんぜよ。人は書物からも学ぶことが多いけんど、人から学ぶことはそれ以上に多い。それを忘れたら、大きな損をするきに、十分注意するんじゃ。わしが言いたいのはそれだけじゃ。そうそう、下らんことで無用な争いをするのも絶対にいかんぜよ。そいでは終わります」
龍馬の演説は、非常に短く、またお世辞にも上手だとは言えなかったが、人生の真実を的確についていた。それは聞いていた講師達の目が真剣だったことからも窺い知れる。さすがに歴史を動かした大物だけのことはある。龍馬は、言葉よりも実行の人だった。彼の無言の人間としての重さが、講師達にも十分に伝わったようだった。
「坂本先生、どうもありがとうございました。それでは、勝先生に最後のお話をしていただきます。実は、お二人の先生は、これで地方に転勤されてしまうことになりました。だから、よく心に焼き付けておいて下さい。勝先生、どうぞよろしくお願いします」
西郷は、これが二人の話を直接聞ける最後のチャンスだと思うと、本当に涙が出そうになった。後にも先にも恐らくは二度と出会えない奇跡の中に自分たちはいるのだ。
「みなさん、今まで本当にどうもありがとう。私は、皆さんたちのような若者達がいることを知って、とても嬉しかった。私が言いたいのは一つだけです。それは既成の概念に決してこだわっていては、いつまでも進歩はないということです。常に新しい視点で物事を見るように努めて頂きたい。
そしてもう一つ、同士を増やすこと。先ほど坂本君が言われたように、つまらないことで争うのは馬鹿げています。争うということは、それだけエネルギーがあるということです。お互いにそのエネルギーを切磋琢磨することに使ってもらいたい。そして、今これからあなたたちがすることが、やがては将来の日本を築くのだということを、決して忘れずにいて欲しいということです。後は、命を絶対に無駄にしないこと。人は天からの使命を受けてこの世に生を受けます。その生を全うするのが人の役目。そのことだけは、絶対に忘れてはいけない。それだけです。どうかみなさんお元気で」
教室内は不思議な静けさに支配されていた。勝海舟と坂本龍馬。歴史を動かした二人の偉人の迫力に、誰もが圧倒されてしまったのだろう。しかも、二人の言葉は行動に裏付けされた真実の言葉でもあった。机上の空論などではなかったから、余計に聴く者の旨に染み渡ったのだろう。
研修会が終わろうとする頃、突然桂隆太郎が手を挙げて質問した。
「あの、勝先生、どうして新撰組は歴史の順風に乗れなかったのですか」
「おもしろい質問ですね。近藤君たちは、実に情熱的でまじめな青年たちだった。私は彼らの命がはかなく散ってしまったことを、心から残念に思っています。新撰組は、仲間同士で力が入りすぎたのですなあ。正義感にかられるのは結構。しかし、ときには現実に目を向け、他人を許すこともできなければ、人はついてはきてくれません。新撰組が時代に生き残れなかった理由は、まさにそこにあるでしょう。答えになりましたかな」
翌日、勝真之介(勝海舟)と坂本遼太郎(坂本龍馬)の二人は、予定通り東京から新幹線に乗り、京都への旅に出立した。東京駅まで見送りにいった西郷達は、本当に別れが惜しかったが、天には逆らえない。せめて、二人の直筆で書いてもらった「海援隊」の看板と「塾訓」が残っただけでも、幸せだと思わなければいけない。現世にいかなる足跡を残すことも禁じられていた二人だから、西郷を見込んでの特別な計らいだった。
現在の京の街並みは、二人の目にはどんな風に映るのだろうか。おそらく昔と少しも変わっていないのは、鴨川の流れだけに違いない。懐かしい祇園の街並み、大政奉還が行われた二条城の立派なたたずまい、近代化された京都駅の西洋風の建築物、そして龍馬が本拠地にしていた伏見の寺田屋。何もかもが懐かしく、また驚きの連続だろう。西郷は、改めて幕末の志士たちが築いてくれた近代日本の歴史に思いをはせるのだった。
西郷は、新幹線の東京駅で勝真之介と坂本遼太郎にもう一度確認した。
「勝先生、坂本先生、もうお二人にお会いすることは、絶対にできないのでしょうか」
「それは私たちには何とも言えないね。天の命ずるままに動くだけだからね。しかし、西郷君、もう君たちには私や龍馬は必要ない」
「そうじゃ、おまん一人で切り盛りしていけるぜよ。わしが最後まで面倒を見れなかった海援隊を、何とか最後まで守ってくれんか。もし良かったら、もう一つ教室を増やすときには、中岡の『陸援隊』の名を使うちょくれや。中岡が喜ぶきに」
「はい、ありがとうございます。先生方のことは一生忘れません」
「いや、そうはいかんのだよ。私たち二人が現世から消えた瞬間に、君たちの中にある私たちについての記憶は抹消されるのさ。残るのは私と龍馬の書いた字だけだ。その方がいいんだよ。ただし、桃山は龍馬を恐れ続けるようにしておく。いい加減なことをしたら、すぐさまこの龍馬が太刀を持って枕元に立つか、あるいは夢の中で斬首するようにするから、悪いことは一切できんだろうね」
「あの桃山のアホは、そのくらいのことをせねば、どうにもならんぜよ。わしの亀山社中の名を参考にしておきながら、けしからんやつじゃ。とにかく、あいつの監視はわしが責任を持ってやるきに、心配はいらんぜよ」
「何だか、今でも信じられませんよ。歴史の教科書や本でしか出会ったことのないお二人と、こうして百年以上の時を隔てて、直接お話しているなんて」
「わしも勝先生も、もう一度この世に足をおろすことができるとは、思ってもおらんかったんじゃ。いい思い出になったぜよ。西郷君には感謝じゃ」
「西郷君、忘れるなよ。人は大きく育てねばならん。人は才能を伸ばさねばならん。現状で評価を決定してはならん。いいね」
《若い息吹》
勝海舟が言っていたように、二人の偉大な人間が、現世への奇跡的な復活を終えたとき、西郷達の勝真之介と坂本遼太郎に関する記憶はいっさい消えていた。西郷は、海援隊の入り口に飾られた『海援隊』の看板と、事務室の壁に掛けられた『海援隊塾訓』が誰によって書かれたものか、どうしても思い出せずに悩んでいた。しかし、その立派なできばえには誰もが驚嘆の声を上げた。西郷は筆の主が誰であってもいいと思うようにした。
海援隊の若い講師達は、自分たちで作った塾訓に従って、次々に新しい取り組みに挑戦していった。それはもはや学生のアルバイト集団ではなく、立派な私塾であった。保護者に特に評判が良かったのは、授業報告のファイルである。毎回の授業で学習した項目や、子供達の様子が事細かに記されたファイルを、生徒一人一人が持っている。家では保護者がそのファイルを見て、子供達の塾での様子が手に取るようにわかるというシステムで、今では同様のシステムを取り入れている塾も徐々に増え始めている。しかし、海援隊の場合は記述の細かさと、形式的な言葉が並んでいないことが、保護者からの信頼を更に暑いものにしていた。子供達も、少人数制の集団授業でありながら、講師の先生が一人一人の生徒に気を配っていることを肌で感じることができたので、講師と生徒の信頼関係のきずなも次第に太く強いものに育っていったのだ。 また、授業報告ファイルには保護者からの通信欄も設けられているので、親は気軽にいろいろな疑問や相談をメモすることができる。それに関しては担当の講師か、塾頭の西郷自身が必ず返信するようにしていた。文章で不足であれば電話で話をしたり、臨時の面談を設けたりしたので、海援隊の面倒見の良さは急速に口コミで地域に伝わっていくことになった。もはや、海援隊の存在は私塾業界の中でも一目を置かれるまでになっている。
授業のスタイルもそれぞれに個性があって二期生組の四人の授業も、生徒の評判がなかなか良かった。特に、ギャンブルにはまって一時はどうなるかと心配された武市孝太郎の変貌ぶりは、周囲の仲間が目を見張るほどのすごさだった。とにかく教材研究だけでなく、授業の工夫の視点がなかなかおもしろい。四年制大学にストレートで進学した学生と違って、勉強で苦労した経験が、できるだけわかりやすい授業をするにはどうしたらいいかというアイデアを生み出すエネルギー源になっているようだった。「人間万事塞翁が馬」という中国の故事があるが、本当に人生は何が幸いするかわからない。しかも武市孝太郎に関してはもう一つ興味深い変化があった。非常におしゃれに気を遣うようになったのである。ムスクの香水を軽く付けて、スーツも清潔感があり、ネクタイは誰に選んでもらっているのか、常にYシャツとのコンビネーションが見事だった。たばこ臭いと生徒達から不評を買っていた武市はいったいどこへ言ってしまったのだろう。西郷が、武市のギャンブルで作った借金を肩代わりしたことが、武市にとっては何よりも嬉しかったのだ。自分を認めてくれる人がいる、自分のことを我が身のように心配してくれる人がいる、そう思うことで、武市は何とかして海援隊のために、西郷のために役に立ちたいと強く決心していたのだろう。人はまさに心で動く。西郷の記憶にはないが、勝海舟が西郷に念を押していった指導者としての心得は、西郷の中で着実に大きな果実を実らせていたのだ。
切磋琢磨という言葉があるが、仲間の頑張りは本当に伝染する。武市の頑張りが他の講師達にもいい刺激になり、みなそれぞれに競って授業の工夫をするようになっている。統一した教材は使用しているが、教材を教えるのではなく、教材を使って教える教育の基本が自然と身に付いてきたようだった。西郷はと言えば、坂本遼太郎の話など覚えていないはずなのに、教室の壁磨きに専念している。龍馬が、西郷の深層心理に何かしかけでもしていったのだろうか。それとも、意識上の記憶には残っていなくても、深層心理の記憶には勝海舟と坂本龍馬との奇跡的な出会いが、しっかりと記憶されているのかも知れなかった。
ある日、徳川秀子が西郷に言った。
「何だかみんなの目つきがすっかり代わってしまって、怖いくらい」
「そうだね、こういうのをチームワークって言うんだね。僕は、恥ずかしい話だけど、チームワークとか仲間意識とかいう言葉の意味を初めて知った気がするよ」
「西郷君もそうなの?実は私もなんだ。それがとっても嬉しいの。ねえ西郷君、私たちみんな教員志望なんだけど、もしかしたらみんなこのままこの海援隊を私立学校に成長させていくこともできるんじゃないかしら」
「うん、そうだねえ。それもおもしろいね」「とにかく、私たちみんな卒業するまで何とかこの海援隊を守っていきましょうね」
「僕らを頼ってくれている保護者や生徒達への責任もあるからね」
「ところで、私ね、教室の模様替えをしたいと思うんだけど、予算はあるかなあ」
「どういう風に?」
「ほら、グリーンは目にいいって言うでしょう。だから、全体を薄いグリーンの壁紙にして、そこに森や滝や渓谷の写真を飾るの。そうすれば、勉強に疲れたときなんか、きっと気持ちが癒されると思うのね」
「壁紙を購入するということだね。あとは額縁があれば、写真はデジカメで撮ったものをインクジェットプリンターでプリントすればいいよね。大丈夫、予算は池田さんに請求してよ」
「ありがとう、西郷君。それから、もう一つ提案があるの」
「何だい?」
「各教科ごとに、一週間にB5判の大きさで通信を書いてもらってね、先頭のページは西郷君か私が担当して、週一で海援隊だよりを発行するっていうのはどうかと思って」
「みんなの負担はだいじょうぶかな」
「みんなが負担に感じるようだったら、二週間に一度でも、一ヶ月に一度でもいいの。とにかく私たちの考え方や、海援隊の雰囲気を逐一家庭に伝えたいのよ」
「それはなかなかいい提案だよ。今度のミーティングでみんなにはかってみよう。他には何かないの?」
「とりあえずはその二つ。欲張るといいことないから」
「はい、西郷塾頭、確かに了解いたしました」
と、こんな具合に、それぞれの講師が海援隊の向上のために、必死で案を練ってくれる。西郷は頼もしい仲間を持ったことを、神様に感謝したい気持ちだった。
週末のミーティングで、徳川秀子の週一の『海援隊だより』も壁の模様替えも、快く了承された。そして、みんなが苦労して書き上げる『海援隊だより』は、四号を刊行するころには、保護者や生徒達の間でも大好評になっていた。各教科は、問題の解き方だけでなく、その教科にまつわる楽しい逸話も紹介していたので、読者は毎週のたよりを心待ちにしてくれるようになっていた。この『海援隊だより』の噂は、口コミで教育雑誌社にも伝わり、取材を受けることになったほどだ。海援隊はもはや小さな私塾ではなかった。また学習環境に対する配慮も取材の対象になり、その雑誌に掲載された記事が大きな宣伝効果となり、生徒数はどのクラスも定員ぎりぎりの十名ずつの構成になっていた。新しい講師を雇って、クラス数を増やすこともできたが、西郷はひとまず今の規模を維持することに専念する方が賢明だと判断し、これ以上の生徒は受け入れないことで仲間の了解を得た。
海援隊の収入は次のようになっている。
全学級数60クラス(各教科12クラス)
延べ生徒数 364名
英語のみの受講者 18名
授業料収入 270,000万円
数学のみの受講者 59名
授業料収入 885,000円
国語のみの受講者 60名
授業料収入 900,000円
社会のみの受講者 47名
授業料収入 705,000円
理科のみの受講者 48名
授業料収入 720,000万円
英数二教科受講者 61名
授業料収入 1,220,000円
英国二教科受講者 28名
授業料収入 560,000円
理社二教科受講者 43名
授業料収入 860,000円
☆授業料収入総額 6,120,000円
☆講師一人当たり月給 350,000円
九名分人件費合計 3,150,000円
☆消耗品 500,000円
☆教室賃貸料 500,000円
☆通信費 100,000円
☆コピー機リース代金 200,000円
☆生徒テキスト代 728,000円
★差引残高 912,000円
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月給は事務職も塾頭も講師も全て平等に支給された。三十五万円という金額は、学生にとっては破格な月給だ。しかし、いい教育をするためには、やはり講師の待遇はそれなりに保障されていなければならない。西郷はできるだけ講師達を好待遇したかった。実際には西郷と桂が社会の授業を半分ずつ掛け持ちしていたから、二人は少し大目にもらってもいいのだが、そこは二人の合意事項で、平等を期することにしたのだ。しかし、実際には西郷は桂だけには特別手当として毎月三万円を上乗せしていた。もちろん、自分自身は三十万円の月給で我慢している。そこが西郷の正義感であり、講師仲間から厚い信頼を寄せられるところでもあった。毎月の貯蓄も九十万円以上できるし、いつ施設の拡充や修繕の費用が必要になっても、大丈夫な状況を作ることができていた。
しかし、つい先日のミーティングで、西郷の予想もしなかった提案が飛び出した。
「西郷君、大変な事務職をこなしてくれている池田さんを除いた、私たち七名の講師は、西郷君が何と言おうと月給から八千円ずつ、合計五万六千円を拠出します。それを塾頭に渉外費として使って欲しいの。つまり、塾頭の月給は四十万六千円にしてもらいたいの」「そんなの僕の信念に反するよ」
「いえ、苦労してくれている西郷君には私たちより多くの給料をもらってもらわないと、私たち自身の気持ちが許さないわ。みんなで話し合って決めたことだから、承諾してもらいたいの。いいでしょう?」
「みんなありがとう。みんなの気持ちは決して無駄にはしないよ。余分にもらう分は、僕なりに有意義に使わせてもらいます。みんな本当にどうもありがとう」
もちろん、西郷に借金を立て替えてもらった武市孝太郎は、毎月三万円ずつ西郷に返済することになっていた。それでも、妹の学費を援助する余裕は十分残っている。武市は西郷に心から感謝していた。一クラスの人数をあと二名か三名増やせば、総収入も大幅にアップするのだが、そこは海援隊のこだわりで十名を最高限度にする原則は変えないことにした。また、様子を見て、新しい講師を雇えば、クラス数を増やすことはできる。海援隊の評判を聞いて、入塾を希望している生徒達はかなりの数に上っていたので、いずれクラス増については、臨時会議を開いて真剣に検討しなければならなくなるだろう。ただ、西郷の考えでは、現在の講師達がそれぞれの立場をしっかりと確立してから、クラス増に取りかかりたいと思っていた。
それにしても、私塾の経営は難しい。少人数制の充実した授業にこだわれば、海援隊の授業料収入と人件費の関係を見てもわかるように、余裕の経営ができるわけではない。もちろん、海援隊の場合には、塾頭の西郷の配慮から講師全員が月給制になっているので、人件費がかさむわけだが、私塾で大きな儲けを出すためには、一番手っ取り早い方法は、桃山勇がやったように、あまり意識の高くない学生達を安い時給で働かせるのがいい。ただし、学生の質が落ちれば、すぐに授業に響いてしまうから、教材だけは優れたものを用意しておいて、極端な言い方をすれば、答え合わせをするだけでも、ある程度の実力が生徒につくような配慮だけはしておく必要がある。つまり、教材勝負の世界なのだ。それさえクリアできていれば、私塾で莫大な利益をあげるのは実に簡単なことだろう。公立の学校に対する不信感と不安感が渦巻く時代だけに、親たちの私塾にかける期待度は益々高まるばかりだし、私塾の良し悪しを見抜く目が全ての保護者に備わっているとは言えないからだ。
ただし、龍馬が脅すだけ脅していったことと、たまに太刀を構えて枕元に立つようにしたことで、桃山勇の塾経営はいい加減にすますことはできなくなってしまった。勇は、睡眠不足で少々ノイローゼ気味である。しかし、その一方で桃山社中の運営は次第に健全になっていった。何しろ、今までは大した働きもしなかった桃山が、ある日突然教室の壁磨きを始めたものだから、周りの講師達がびっくりしたのも当然だろう。龍馬のおどしは相当に効果があるらしい。しかし、桃山自身、坂本龍馬の純粋さとスケールの大きな生き方に感動するくらいだから、元々悪い人間ではないのだ。龍馬がいろいろ脅してくれるおかげで、桃山勇は初心に返ることができたと考えるのが正しいのかも知れなかった。桃山社中もいよいよ改革が始まるのだろうか。
しかし、人間の本性がそう簡単に変わるわけもなく、桃山社中の講師は相変わらず、そこそこの力を持った(あまり優秀すぎない)
学生を、一般のアルバイトの時給より五百円ほど高い時給で雇っている状態で、教材と講師の質が勝負の塾経営にあって、健全な運営をしているとはとても言い難かった。
龍馬はそんな桃山勇を見ていて歯がゆかったが、人間いつどんなきっかけで変わるかも知れないというかすかな可能性にかけて、もう少し様子を見ることにした。もちろん、定期的に太刀を手に桃山の枕元に立つことは忘れてはいない。
「わしの名に恥じるようなことがあったら、しょうちせんぜよ。そんときは、おまんの首はこの龍馬の太刀でざっくりと切り落としちゃるきに、覚悟をしとれよ」
《海援隊だより》
次の文章は、『海援隊だより』の記念すべき創刊号に西郷が寄せたコラムである。
【ちょっとした心遣いを大切に】
私はバイクで通勤していますが、横断歩道で待っている人がいると、自動車学校で教わった通りに、必ず止まって歩行者を優先させるようにしています。でも、残念なことに、「あたりまえでしょ」というすました顔で横断する人の何と多いことか。ちょっと手を挙げたり、頭を軽く下げたり、少し足早にしたりするだけで、止まったドライバーはどんなに温かい気持ちになるか知れません。どちらかと言えば、小さな子供達の方が何らかのお礼のサインを返してくれて、思わずにこっとしてしまいます。人間関係の基本は、ちょっとしたことから始まります。
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この西郷の文章に対する反響は実に大きかった。保護者の数名が感想を寄せてくれたし、このコラムを読んで、西郷翔太という人物に対する評価をワンランクもツーランクも上げた保護者は非常に多かったようだ。徳川秀子の提唱ではじめた『海援隊だより』は、海援隊に予想外の大きな成果をもたらしてくれたのだった。
数学の岡田静夫が書いたコラムも非常に評判が良かった。
【答えは一つではない】
数学と言えば、公式を覚えて答えを出す教科のように思われていますが、実際には答えの出し方はいくつもある場合がほとんどです。どんな遠回りなやり方でも答えが出れば正解。何も早道だけが最高とは限りません。それは人生と同じ。自分なりの生き方を大切にしましょう。
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短いコラムだったが、悩みを抱えていた生徒達や、仕事に悩んでいた親たちが、この身近なコラムでどれだけ勇気づけられたことか知れなかった。
海援隊はもはや私塾の領域を超えていた。私塾と言えば学習の補強がその最大の使命になるわけだが、海援隊の場合にはほとんど公立の学校と同じ「人間教育」を目標に掲げているからだ。勉強を教えて、賢い問題の解き方の技術を仕込んで、それで収益を上げている私塾はいくらでもあるが、生徒や保護者の心にメッセージを送り続ける私塾は非常に少ない。そういう意味では、海援隊は私塾というよりも、江戸時代の寺子屋に似ていたかも知れない。講師達のコラムは、講師仲間でも話題になることが多かった。
国語の佐々木道子が西郷に言った。
「西郷先生、創刊号のコラム私も同感です。何だか世の中の人が、お互いに無関心になっているんじゃないかと、私もずっと感じていました。西郷先生のコラムはとてもわかりやすい具体例だったので、私は溜飲を下げた思いでした」
「溜飲を下げたは大袈裟だね。だけど、佐々木さんが言うように、確かに人間関係はどんどん希薄になっているかな。ちょっとしたことで、円滑な人間関係を築けるのにね」
「多くの人が、わずらわしい人間関係を欲していないんじゃないでしょうか」
「そうかも知れないね。人は人の中で育つようにできているのに、その人を遠ざけてしまったら、人間らしい生き方ができなくなってしまうよ」
「保護者の方からの感想にも、そういう内容のお手紙がありましたよね」
「僕は、岡田君のコラムにも感動したな」
「いやあ、大したことを書いた訳じゃないんですけどね」
「岡田君が大したことではないと感じるのは、それは君自身が普段から当たり前のようにそう考えている証拠さ。力まずに書いたからこそ、あの短いコラムの中に熱い思いがたっぷり込められて、保護者や生徒の大きな反響を呼んだんだと思うよ」
「そんなに褒められると照れます」
「いいものはいいんだから、そう照れるなよ」 三人の会話を聞いていた徳川秀子が、口をとがらせて会話に割り込んできた。
「あ〜あ、私が提唱した『海援隊だより』だったのに、話題になるのは私のコラムじゃないなんて、ちょっと悔しいな。私も早く話題になるようなコラムが書いてみたいわ」
「あれ、徳川さん焼き餅やいてるのかな」
「そうですよ。焼き餅やいてます。いつか、西郷先生を超えるようなコラムを書いて、大評判になって見せますからね」
「へえ、そりゃあ楽しみだね。僕をびっくりさせるようなのを一つ頼むよ」
「本当にびっくりさせちゃおうかしら」
【日本語をもっと大切にしましょう】
私もまだ現役の大学生ですが、女子高生や友人の使っている日本語を聞いていて、がっかりすることがよくあります。
「ねえねえ、ヨン様ってすげぇ、かっこよくねぇー?」「うん、ちょーいけてるよねぇ」あれあれ、こんな日本語が定着してしまったらどうしましょう。最近では、手紙を書くこと自体少なくなったように感じますが、書いたとしても話し言葉のまま文字にしているケースが多いようです。
言葉はその国文化を代表するものではないでしょうか。だとしたら、もっときれいな日本語を使うように心がけるべきだと思うのです。少なくとも、話し言葉と書き言葉の区別くらいはできるようになりたいものです。私の知人の元民放のアナウンサーが、最近の若いアナウンサーは、某国営放送のアナウンサーでない限り、言葉遣いの基本が全くできていないと、嘆いていました。話すことを職業とする人々の世界でも、日本語が乱れてきているのです。
その一方で、本物かどうかわからないようなカタカナ英語が氾濫しています。このままでは日本の文化はすたれてしまうのではないでしょうか。
きれいな日本語を話すためには、大量のきれいな日本語に接するのが一番です。それは、絵描きになる人が、有名な画家の素晴らしい作品の鑑賞から始めるのと同じ理屈ですね。本を読まない世代だと言われますが、中学生の皆さんはぜひ素晴らしい本と、たくさん出会って欲しいと思います。そして、美しい日本語の良さを知って、日本の文化を守っていって下さい。共に頑張りましょう。
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この長いコラムは徳川秀子がきばって書いたものである。他教科の講師が素晴らしいコラムを書いていて、国語の自分が黙って見ているわけにはいかない。しかし、決して格好をつけて書いた文章ではなく、秀子が普段から感じていたことを素直に文字にしただけだ。今や、海援隊はお互いが真の意味で切磋琢磨しながら成長する場になりつつある。そういう講師の前向きな姿を見ていて、子供達もいい影響を受けないはずがない。「後ろ姿で教育する」という言葉が、自信を持って使われることの少なくなった時代に、海援隊の若者達は、その言葉の内容を実践していた。
海援隊だよりに載せられたコラムのうち、非常に反響の大きかったものを選び、ある出版社が一冊の本にまとめたいと申し入れてきた。もちろん、講師達は大喜びである。海援隊の宣伝にもなるし、何より自分たちの足跡が活字になって世に残るのだ。塾頭の西郷は快く出版社の申し入れを承諾した。
《少人数制クラス『陸援隊』誕生》
ある日の授業後、数学の桂隆太郎が企画書のようなものを携えて、西郷のところにやってきた。
「あの、西郷君、一つ提案があるんだけど、聞いてくれないかな」
「いいよ、どんな提案なの」
「うん、今の授業では十分に理解ができない生徒達を対象にして、三人一クラスの少人数制クラスを結成したどうかと思うんだ。名付けて『陸援隊』なんだけど、どう思う?」
「少人数制クラスか…。そのためには、新しい講師も採用しなければならないね。一クラスが一人二万円で合計六万円だとして、一人の講師分の月給を稼ぐには六クラス十八名が必要なわけだよね、単純計算でも。実際には教材費や運営費も計算に入れると、利潤込みで七クラス二十一名は必要になる。果たしてそれが可能だろうか。桂君のことだから、どうせ綿密な企画書ができているんだろう?見せてくれよ」
「まあ、完璧とは言えないけどこんな具合に授業を組んだらどうかなあ」
桂は今までの教室割り当て一覧表の空所に陸援隊の授業をはめた新しい一覧表を西郷に見せながら説明した。
「一日四時間の授業だから、全六教室で合計百四十四コマの授業があるよね。そのうち、現在埋まっているのは各教科A〜Dまでの四クラスが週に二回ずつの授業だから、全部で百二十コマ。つまり二十四コマが余っているんだ。つまり、一週間に二コマずつ組み合わせると十二クラスできることになるよね。それに、新しい講師を採用する必要もないと思うんだ。現在一人当たり平均十五コマの授業を持っているから、あと平均三コマ増えて十八コマになるだけだろう。学校の先生なら、当たり前にこなしている授業数だよ。もちろん夕方からの短時間で集中してやるから疲労度は大きいかも知れないけど、西郷君はそれに見合った月給を払ってくれているじゃないか。一人当たりあと二万円も上乗せすれば、十分やっていけるんじゃないかな」
「コマの位置は後で調整することにして、とにかく『陸援隊』が二十四コマ、つまり十二クラスというわけだね。そして新しい講師は雇わなくてもいいということか。でも、もしみんなの負担が大きくなるようなら、時給で働いてもらうような時間講師を雇ってもいいとは思うんだ。そこも検討してみてくれないかな。細部を調整して、今週末のミーティングに提案してみたいんだけど、詳しいプレゼンの資料を作ってもらえるかい。今週末までで大丈夫?」
「西郷君、そういうことなら任せてくれ。立派なプレゼンをして、何とかみんなから賛成を得られるように頑張るよ。いずれにしても突然の僕の提案に耳を貸してくれて、本当に感謝してる」
「何を言ってるんだよ。僕は塾頭だけど、それは渉外的な面での肩書きであって、塾の運営はみんなでやっているんじゃないか。新しい提案はみんなで出し合って検討するのが当たり前だよ。そうそう、もし新しい講師を採用するとなったら、できればその方法も具体的に提案して欲しいんだ。いいかな」
「もちろんだとも。僕の頭の中にある設計図を全部プレゼンで見せるからね」
「桂君の提案が通って、海援隊と陸援隊がうまくからんで機能するようになれば、僕らの塾もまた一つ大きな特色を出すことができるし、本当にきめ細かな指導が必要な学力の低い子供達も引き受けることができるようになるはずだね」
「教材の方は、一般クラスとは違うものを使わなければならないと思うんだけど、もし提案が通ったら、そちらの手配は西郷君に任せてもいいかな」
「そういうことならお安いご用だよ。どんな教材でもお望みのものを用意するさ」
週末のミーティングで桂が提案した時間割表によれば、今まで講師一人当たりの平均コマ数が十五コマ。ただし、社会に関しては一期生の四人の講師が一クラス六コマずつ分担したから、正確には一期生組の四人が週当たり十八コマずつで、二期生組の四人が週当たり十二コマずつをこなしてきた。ここに、空き時間の二十四コマの陸援隊の授業を二期生の四人で六コマずつ担当すれば、全講師の担当コマ数が一週間当たり十八コマに統一されるということになる。陸援隊十二クラスが満杯になると仮定すれば、授業料収入は三十六人分七十二万円の増収になり、ここから各講師への給与を三万円ずつアップして一人当たり月給三十八万円にしても、純利益は四十五万円の増になる。そこから、テキスト代や消耗品代などの約十万円を差し引けば、三十五万円が貯蓄に回されることになり、元々の九十万円強と会わせて百二十五万円強の貯蓄が可能になる。これは海援隊にとっても、塾生にとっても有り難い話だった。西郷は、新しいコンピューターをあと二台と、新しいカラーレーザープリンターを二台購入したかったので、それもすぐに実現可能だろう。
ただ、問題がないわけではない。現役の学生が一週間当たり十八コマを担当するということは、六日間の全てに勤務するということを意味し、それは本業の勉学に大きな影響を与える可能性があった。そこに関しては八人の意見を寄せ合ったが、何と全員がそれでも何とかしていきたいという意見で、新しい講師を雇ってもらいたいという意見は一人も出さなかった。西郷は、みんなの若い情熱を改めて直に感じたのだった。担当授業の他にも『海援隊だより』作りがある。また、西郷は教材の調達や模擬試験の実施などの渉外の仕事が、また桂はIT関連機器の調達の仕事があった。それでも、誰も文句を言うどころか喜んで新しい桂の案に賛成したのだから、海援隊のエネルギーは莫大だった。
海援隊から陸援隊に移籍したいという生徒も出てくる可能性があるが、そこは授業料に格差をつけることで、少しでも歯止めをかけようということになった。海援隊の一教科の授業料が月額一万五千円であるのに対して、陸援隊の授業料は月額二万円である。少人数制だから当然のことだが、普通のクラスの授業で何とか対応できる生徒は、この五千円の格差で何とか普通クラスに残ってもらいたかった。なぜなら、個人対応を必要とする生徒は、他にも大勢いたからだ。そして、そういう生徒の場合は、名実共に地域で最高の評価を得ていた海援隊に入塾を希望するのをためらっていたに違いない。それが、新しく勉強の苦手な子たちのための陸援隊が発足するということで、入塾を気軽に希望することができるのだ。桂の案でも、少人数制の陸援隊を難関私立高校のエリート育成クラスにする考えは全くなかった。エリートは、学習意欲を育てることで、十分普通クラスの中から誕生させることができたからだ。
最近の塾は何か勘違いしていると西郷は思っている。受験に必要な知識を詰め込むことが、私塾の使命だと思っている塾がほとんどだが、基本的に教育とはその子の可能性を引き出すことが目的だ。授業で刺激を受けて、自ら進んで学習する習慣を身につけた生徒には、もはや詰め込みの授業は必要ない。そういう積極的な姿勢を持つようになれば、後は素晴らしい教材さえあれば、家庭学習でいくらでも受験勉強ができるのだ。西郷は、海援隊の目標も、子供たちにやる気を起こさせることだと信じていたし、他の講師たちも西郷のその方針に賛成していた。だから、海援隊では詰め込み式の呪文を唱えるような教え方は絶対にしない。「なぜ?」を大切にした授業をするように、全ての講師が心がけている。なぜそうなるのか理解することで、子供たちは勉強の真の楽しさを知るようになる。それこそが教育の本来の使命でもあった。
こうして『陸援隊』の設置が決まり、生徒の募集も順調に進んだ結果、陸援隊の定員は満員御礼の状況になった。いよいよ新しいシステムのスタートだ。陸援隊の少人数制授業を担当した佐々木・岡田・後藤・武市の四人は、懇切丁寧な指導でなかなか評判も良く、自分の専門外の教科を教えることで、彼ら自身の研修にもなった。特に武市は、自分自身が成績がふるわずに劣等感を抱いた経験があったので、同じように勉強に自身をなくしている生徒たちを見ると、どうしても他人事には思えなかったのだ。だから、自然と熱と愛情が入ることになる。武市の真剣な姿勢が、他の三人のいい刺激になり、四人の新人講師による陸援隊は急速に好評を博するようになり、かつてから学生による月給制の私塾として業界の話題になっていた海援隊が、さらに注目の新システムを導入したということで、教育雑誌からの取材の申し入れも何件かあった。もちろん、西郷は快く承諾した。
《桃山社中からの要請》
西郷たちの海援隊が、私塾業界で急速に名声を高める中、桃山勇の桃山社中は今ひとつ人気が伸び悩んでいた。それもそのはずで、桃山は教材選びだけはしっかりしたものの、講師の採用・待遇や授業形態の工夫、その他あらゆる面での企業努力が全く不足していたからだ。しかし、定期的に枕元に鋭い太刀を振り上げた坂本龍馬に立たれては、現状に甘んじているわけにもいかず、情けないことに海援隊の西郷に泣きを入れてきた。
「やあ、西郷君、久しぶりだね」
「ああ、桃山さん、これはこれは珍しいことで。またうちの海援隊に何か苦情でも?」
「そういう皮肉っぽい言い方はなしにしてくれよ。私は、こうして見栄もプライドも捨てて、自ら海援隊を訪ねてきたのだからね」
まだ三十歳の声も聞いていないというのに、なぜか桃山勇の口調はくたびれた中年の響きを持っていて、あまりいい印象を与えない。「それで、何かご用ですか」
「いや、ここでは何だから、もし良かったら向かいの喫茶店にでも行かないか。コーヒー代ぐらいは私が持つから」
「いいですよ。でも、来客の予定があるので、あまり長話は困りますけど」
「大丈夫。時間になったら言ってくれ」
二人は向かいの『鴨川』という名の喫茶店に入った。マスターが京都の出身らしく、店内には京都の様々な写真が飾られていて、なかなかいい雰囲気の店だった。すぐ向かいのビルに塾を構えていながら、西郷はこの店に入ったことがない。今までは、それほど忙しかったということなのだ。
「それで、用件というのは」
「うん、実はね、妙な話だと思うかも知れないが、どうやら私は死んだ坂本龍馬の霊に見張られているようなんだ」
「どういう意味ですか」
「それがね、頻繁に枕元に太刀を振りかざした龍馬が現れて、桃山社中と名付けたからには、いい加減な塾経営をしたら、首を一太刀で切り落とすと言うんだよ。それが、とても夢とは思えないリアルな表情なんだ」
「それと僕が何か関係でもあるのですか」
「いや、実を言うと、西郷君たちの海援隊とは大違いで、うちの桃山社中は商売あがったりの状況なんだよ。それで、みっともない相談なんだが、ぜひ西郷君の海援隊をうちの塾の傘下に入れたいんだ。いや、図々しいお願いだというのは承知している。しかし、うちが海援隊の傘下に入ったとなると、私の名前にも傷が付くし、周囲に会わす顔がない。そこで今回のお願いとなったんだ」
「桃山さんは相変わらずですね。どうして、ご自分で企業努力をなさらないのですか。桃山社中は時給で大学生講師を雇っているわけだから、収益は莫大だったでしょうに。その資金を使えば、いくらでも塾を刷新することができるじゃありませんか。それに、うちの講師たちは、申し訳ありませんが、桃山さんのことを良く思ってはいないでしょう。桃山社中の傘下に入るなどという話を聞いたら、それこそ刀でも持って桃山社中に殴り込みでもしかけるかも知れない。それに、私自身その提案を受け入れる気持ちはありません」
「君ね、少なくとも、最初に塾の基礎をたたきこんでやったのは、この私だと言うことを忘れたのかね」
「正直言わせてもらいますが、僕は桃山さんのそういう横柄さが大嫌いなんです。あなたは僕たちを利用するだけ利用した。だから、僕たちは本気で子供たちのことを考えようとしないあなたの元を去ったのです。それを、今更坂本龍馬が枕元に立つからというような馬鹿げた理由から、あなたと手を組むことなどできるわけないじゃありませんか」
「そこを曲げて、どうにかならんかね」
「どうにもなりませんね。それより、桃山さん、いい加減に目を覚まして下さい。私たちにできたことが、あなたにできないはずないじゃありませんか。それだけの資金力があれば、優秀な講師を雇うこともできるでしょうし、新しい企画も実行できるはずだ。私たちの海援隊では、講師みんなで毎週末にミーティングを開きながら、常に新しい海援隊の姿を模索しています。桃山さんも、私たちの海援隊とはまた違ったセールスポイントを考案する気はないんですか」
「君は私に説教をする気なのかね」
「だから言っているではありませんか。そういう横柄なあなたとは一緒にやれないと。私の言葉を説教だと受け取るあなたは、基本的に私たちとは感性が違うんだ。もう一度はっきり言いますが、桃山社中と海援隊が手を組む余地は全くありません。少なくとも、あなたが桃山社中の塾頭を務めている限りはね」「こちらが下手に出ていれば生意気ばかり言いやがって、もういい!お前には頼まん」
「それが賢明ですね。まあ、せいぜい坂本龍馬の霊に首を切り落とされないように祈っていますよ」
「人を馬鹿にするな!」
桃山は、人を馬鹿にしているのが自分の方だとは気づかない。全くもっておめでたい男なのだ。それにしても、男である限りは、言い意味でのプライドは持ち続けなければならないのだが、桃山勇にはそんな心意気は全くと言っていいほど存在していなかった。しかも、窮地に追い込まれているのなら、自分の塾の傘下に入れなどという厚顔無恥な提案などできる立場ではない。プライドは持つ必要があるが、下らない見栄は捨てなければならない。それに、西郷が言うように、桃山社中の資金力をもってすれば、アイデア次第でいくらでも実用的な改革ができる。採用する講師の質を上げて、待遇を改善するだけでも、授業は一変してしまうだろう。まずは、私塾の経営は教材選びと講師の質で決まるという基本を、もう一度再確認する必要がある。
ところが、数日後、桃山勇からまた西郷に連絡が入った。この男は、見栄を張る割には節操がない。もう一度話を聞いて欲しいというのだ。西郷は、一応先輩に敬意を表して、前回と同じ『鴨川』で話し合いを持つことを承諾した。
「いやあ、西郷君、先日はどうも失礼。私もついかっとなってしまってね」
「いいえ、そんなことはどうでもいいですから、用件をお願いします」
「それじゃあ、さっそくなんだが、海援隊にうちの傘下に入ってもらう話はもうあきらめたよ。それでだね、代わりにうちの講師たちを週に二回ほど海援隊で研修させてやって欲しいんだ。要するに授業参観という形でいいから。別に海援隊のノウハウを盗もうとか、そういうこすい魂胆からの提案ではないんだよ。それくらいの道理はわきまえているつまりだからね」
「それで、講師の学生たちには研修のための時給はお払いになるんですか」
「西郷君、君は何を言ってるんだ。研修させてやるんだから、こっちが金をもらいたいくらいだ。時給など払うわけがないじゃないか」「しかし、桃山さんは彼らの時間を研修という名の下に拘束することになるわけですから、やはり時給を払うのが道理だと思いますが」「どうも君の考えが理解できないね」
「桃山さん、桃山さん自身がもし彼らの立場だったら、安い時給で働かされた上に、無給で研修まで義務づけられて、やる気に慣れますか」
「それは、彼らの意識の問題だろう。仮にも教育に携わる人間なんだから、そのくらいの情熱は持ってもらわないとね」
「桃山さん、そこが桃山さんの考え違いだと僕は思うんです。いくら情熱があっても、労働に見合った報酬があってこそのやる気なんじゃないでしょうか。それが人間だと思うのです。塾は教材と講師が命です。その講師を育てようとしたら、講師に対する投資を渋ってはいけない。生意気を言うようですが、講師たちを酷使したら、彼らは積極的に桃山社中のために働こうという意欲をなくしていくだけだと思います。そして、それはやがては桃山社中の利益にならないと思うのです。結論から言わせてもらうと、もし彼らに時給を払わないおつもりなら、研修の受け入れはお断りします」
「君も、ずいぶん頑固な人間だね。時給を払うか払わないかは私の権限であって、君が口を挟む問題ではないだろう」
「そういうところがあなたの駄目なところなんですよ。経営者として、まだ指導者として何か決定的に大事なものが欠けている」
「よくわからない人だなあ。私にも我慢の限界というものがあるんだからね」
桃山は、相変わらず自分の立場をわかっていない。人にものを頼むのに、自分の方が威張っていてどうするのだ。そういう人格的な欠点が、桃山からだんだんと仲間を遠ざけてしまうのだ。定期的に太刀を振りかざして枕元に立つ坂本龍馬も、桃山の人格まではなかなか矯正できないらしい。
「桃山さん、僕はあなたが桃山社中の講師たちを好待遇するようになれば、桃山社中の経営が確実に向上すると言いたいのです。僕たちはそういうやり方で海援隊をここまで大きくしてきました。そして、大きくなった今でも、塾頭も講師も月給は同額です。僕はあなたのように、莫大な収入の上にあぐらをかいたりはしない」
「いい加減にしたまえ。君は先輩の私にまた説教をする気だな。私は桃山社中の塾頭、つまり社長なんだから、莫大な収入を得る権利がある。それを君にとやかく言われる筋合いはないだろう」
「桃山さんはそういう態度だから、講師たちが信頼しないのですよ。信頼しない相手のために、奉仕精神を発揮して一生懸命働こうとする人間など世の中にはいないと思います。あなたの尊敬する坂本龍馬は、人を育てるのが非常に上手だった。彼は、人の可能性を見抜く目に長けていて、能力があると判断すると、その人間に惜しみない投資をした。本人がびっくりしてしまうほどの信頼を与えたではありませんか。だから、相手はそんな坂本龍馬のために身を粉にして働こうとしたのではありませんか。どうしてあなたは坂本龍馬のそういう立派なところを学ぼうとはしないのですか」
「何をわかったような口をきいているんだ。そんな甘っちょろいことを言っていたら、いつか仲間の講師たちに寝首をかかれることになるぞ」
「僕は、そういう発想は持っていません。僕は仲間を信じていますからね」
「そんなことはいいから、返事はどうなんだね。研修させてくれれば、報酬ははずむよ」「あなたはどうかしてる。答えはノーです」「西郷君、君は本当に頭が固いなあ。そんな理想ばかり言っていると、損するのは自分だぞ。世の中は金で動くんだ。金は少しでも多い方がいいに決まってるじゃないか」
「どうしてあなたはそんなに欲張りなんですか。もう十分稼いでいるのだから、そろそろ教育の理想に目覚めたらどうなんですか」
「何をかっこつけてるんだよ。親はね、塾を保育園代わりに利用してるだけさ。塾に通わせていれば安心する。いわば保険みたいなもんだね。その子供たちを預かってやってるんだから、それだけでも当然の報酬だよ。ボランティアじゃないんだから、報酬以上の苦労をすることはないのさ」
「だから、桃山社中は下降線をたどっているんじゃないんですか。僕らは確かに理想を追い求めている。だけど、ちゃんと経営も成り立つように計算しています。実際、桃山さんのところの講師たちと違って、うちの講師たちは学生でありながら月給三十五万円ほどを稼いでいるんですよ。それでも、塾は余裕で再投資ができる蓄えを持っている。僕たちはこれ以上の報酬は望みませんよ」
「何だって、学生の分際で月給三十五万円だって。そんなに甘やかしていいのかね」
「僕らは、それに見合った労働をしていますからね。みんな次々に新しい企画を実行に移している。そして、それが保護者からも生徒たちからもきちんと評価されているんだから素晴らしいとは思いませんか」
「どうして、君たちはそんなに苦労を背負いたいんだ。もっと楽をしたってお金儲けはできるじゃないか」
「確かにお金を儲けることは必要です。でも自分たちの仕事に誇りを持てなければ、いくら稼いでも意味がないんじゃないですか。桃山さんは、自分の人生に満足しているんですか。今のままで構わないのですか」
「もちろん満足しているとも」
「なら、どうして海援隊との関係を築こうと画策するのですか。桃山社中は、桃山さんの思うように運営していればそれでいい。海援隊のことは放っておいて下さい。基本的にあなたとは発想が違うんです。水と油は所詮は混じり合うことはできませんよ」
「どこまでも生意気な学生だな。もういい、勝手にすればいいさ。そのうち、金に困ってほえずらかくなよ」
「保護者や生徒に見放されるような海援隊に成り下がったときは、僕らが看板を下ろすときですよ」
「何をかっこつけてるんだ。自分たちだけが正義の味方みたいな顔をするのはやめてくれないか。反吐が出る」
「失礼な人だなあ。僕らからすれば、あなたのような偽教育者の発言を耳にする事の方がよほど反吐が出る。あなたみたいな人が、同じ業界に存在するということだけでも、気分が悪いですよ」
「言ってくれるじゃないか。まあいいさ」
桃山は、馬鹿にしたような捨てぜりふを残して、海援隊を後にした。いったいどういうつもりで桃山社中の経営をしているのだろう。そんなに金儲けをしたいのなら、IT技術を駆使したベンチャービジネスにでも手を出せばいいではないか。何も教育業界に首を突っ込んで、詐欺まがいの塾経営をする必要などないのだ。西郷は、桃山のような人間が、尊敬する人物として坂本龍馬の名前を口にすることだけでも悔しかった。坂本龍馬は私利私欲に走ることなど決してなかった。龍馬の頭の中にあったのは、常に国事を憂う気持ちだけだったのだ。日本国の明るい未来のためになら、大事な命を投げ出してもいいと覚悟を決めていた。だからこそ、あれだけの活躍ができたのだし、暗殺の対象にもなったのだ。桃山は夜な夜な枕元に立つ龍馬の姿にうなされると言っていたが、本当に龍馬の太刀で首を落とされてしまえばいいのだ。その方が桃山社中の生徒たちのためになる。
《龍馬の奥の手》
ここは雲の上の、いわゆる「天国」である。龍馬が何やら深刻な面持ちで、姉の乙女と相談事をしている。時代の流れを考えると妙なことではあるが、その話し合いの場に、新撰組の近藤勇と沖田総司が同席しているから、人間関係というのは実におもしろい。しかし、考えてみれば討幕派を取り締まる役を引き受けた新撰組の若者たちも、幕府に折れてもらって大政奉還を目指した龍馬たちも、国を思う気持ちには何の変わりもなかったのだから、死後の世界で意気投合してもちっとも不思議ではないのだ。
「乙女姉、あの桃山という男は、本当に似ても焼いても食えんぜよ。わしがあれだけ脅しちょるのに、相変わらずあこぎな商売をしちょる。いったい、どうしらいいかのう」
「龍馬、お前は本気であの桃山を一人前の塾頭にしたいと思っちょるんか」
「ああ、思っちょる。わしの亀山社中にあやかって桃山社中などと名付けたからには、いい加減な塾頭でいられたらかなわんぜよ」
「坂本さん、僕らも協力するから、もっと徹底的に脅しをかけたらどうだろう。だいたい、僕と同じ勇という名を親からもらっていながら、正義感のかけらもないなんて、本来ならば天誅を下すべきところだからね」
「近藤さんは相変わらずだな。でも、近藤さんより短気な俺は、いっそのこと本当に首をはねてやった方がいいと思ってるんだ。どうだろう坂本さん」
「いやあ、おんしらの怒りはよう理解できるんじゃが、この時代に殺しはまずいじゃろ。それに塾頭が消えたら、誰が桃山社中の商いを続けるんじゃ。わしらがやるわけにはいかんきに」
「よし、龍馬、乙女姉ちゃんが一肌脱いじゃるきに。近藤さんと沖田さんも一緒に来てくれんじゃろうか」
「そりゃあ、お仁王さんのお頼みとあっては断るわけには参りません」
「そのお仁王さんちゅうのは、やめてくれんかね。うちも一応女じゃきに」
「いや、これは失礼申した」
近藤と沖田はお互いの顔を見合って、くすくす笑っている。龍馬たちの作戦は至って単純だ。龍馬と乙女と近藤と沖田の四人で、今夜桃山勇の枕元に出向く。そこで、乙女がしっかり説教をし、その隣には龍馬が腕組みをして座っている。そして、二人の背後で、桃山勇が大の苦手な新撰組の近藤勇と沖田総司が刀を振り上げて、それこそ仁王像のように立っているという絵を想像して欲しい。もし乙女の説教を少しでもおろそかに聞こうものなら、いつでも近藤と沖田が斬りかかるという異様な雰囲気を作り上げるわけだ。もし、二人が斬りかかる芝居をしなければならなくなったら、初めて龍馬が二人の前に立ちはだかり、「わしに免じて、ここはこらえてはくれんじゃろうか」と仲裁に入る。要するに桃山勇の命の恩人になるという筋書きだ。
その夜、龍馬たちの作戦は実行に移された。寝苦しくて目を覚ました桃山勇は、部屋の中の異様な空気を感じて背筋に冷たいものが走った。いつもと違って、今晩は龍馬以外にも数名の人間がいる。桃山は驚いて飛び起きてしまった。本人は、それが夢の中だと思っているのだが、頭が混乱して何が何だかわからない。
「あなたが桃山勇じゃね」
「あ、あ、あんたは」
「龍馬を尊敬していて、姉の乙女の顔も知らんちゅうのは、失礼じゃねえ。龍馬、どう思う。こんな男はいっそのこと殺してしまった方がいいんじゃなかろうか」
「まあ、乙女姉、そう言わんと、話だけでもしてやってくれんかのう。この男にも最後のチャンスを与えてやりたいんじゃ」
「さ、さ、最後のチャンス…ですか」
「当然じゃろ。おんしは、わしが何度説教をたれても、ちいとも反省しちょらん。相変わらずあこぎな商売をしちょるきに。もうそろそろ天誅を下さにゃならんぜよ」
「あ、あの、後ろにおられる御仁はどなた様なんで」
「おう、新撰組の近藤勇と沖田総司じゃ。おんしが、新撰組を馬鹿にしちょると聞いて、今晩の話次第ではおんしを斬ると言うちょる」「貴様が桃山勇か。僕は、新撰組局長の近藤勇だ。同じ勇という名前をもらっておきながら、あこぎな商売をするとは許しておけん。しかも貴様は新撰組を馬鹿にしていると、坂本さんから聞いている」
「おい、桃山よ、俺は近藤さんほど気が長くはないぞ。お前がちょっとでも気に食わんことを言えば、その場で首をはねる。俺は病で早死にしたから、刀が血に飢えてるんだ」
「まあ、二人ともそう怒らんと。とにかく、乙女姉の話を聞かせようや」
「桃山さん、あんたはいやしくも人を育てる学校の塾頭をしちょると聞いた。人を育てる人間が、自らの人格を磨かずに何とするつもりなんじゃね。龍馬も初めは剣術だけが取り柄の男じゃったが、勝先生や西郷さんたちのおかげで立派な人間に成長したんじゃ。それだからこそ、亀山社中の仲間も龍馬を慕って必死で働いた。あんたが龍馬を慕う気持ちがあるっちゅうなら、龍馬を見習わんかね」
「は、はい、その通りにしたいと思いますが、何しろお金がなければ世の中で生きていくことができませんので」
「ええか、桃山さん、勘違いしちゃならん。人が金を稼ぐのではなく、金が人に集まるんじゃ。あんたのように人間の道にはずれた男からは、いずれは金は去っていく。それもわからんと商いをしちょるんかね」
「はあ、何というか、その…」
後ろで話を聞いていていらいらした近藤と沖田が、問答無用で桃山に斬りかかる芝居をした。そこへ、台本通り龍馬が立ちはだかって二人の説得をする。
「ちょっと待っちょくれ。ここはわしの顔に免じて、何とかこらえてくれんかのう。最後のチャンスを生かすも殺すも、この桃山勇の気持ち一つじゃ。乙女姉のせっかくの話を聞いても、生まれ変われんっちゅうなら、近藤君や沖田君の力を借りるまでもなく、わしのこの太刀で天誅を下しちゃるきに」
「龍馬、そろそろ行こうか。もうこれ以上話しても無駄じゃろうが」
「坂本さん、僕も総司もお仁王様に賛成だ。後はこの男の出方を見ようじゃないか。殺すのはいつでもできる」
「ええか、桃山よ、みんなの気持ちは一つにまとまっちょる。おんしがこれ以上いい加減な商いをすれば、命はないと思っちょれ」
龍馬のその言葉を合図に、四人の姿はさっと消えてしまった。桃山勇はすっかりびびって小便を漏らしている。今の出来事が夢なのか現実なのか判断することなどとてもできる状態ではない。ただ呆然と布団の上に座り込んでいた。どうやら、四人の作戦は功を奏したようだ。果たして、これで桃山勇の目が覚めるかどうか。
翌朝目が覚めた桃山は、昨夜の悪夢が未だに頭から離れなかった。夢に違いないのに、なぜか下着が濡れている。そして、枕元に龍馬の字で書かれた「天誅」という半紙が置かれていた。桃山はもう頭が混乱してしまって、どうしていいかわからなかった。とにかく、このまま今のような状態が続けば、いつかは自分も気がふれてしまうに違いない。それは天誅で殺されるよりも恐ろしいことだった。桃山は、さっそく桃山社中に出かけて、もう一度冷静な頭で昨夜の出来事を整理してみた。夢とはとても思えない人の気配。乙女の言葉が、桃山の頭の中に鉛のように重く留まっていた。そして近藤と沖田の殺気。もう、自分の頭は半分おかしくなりかけているのかも知れない。桃山は、急激に不安に陥った。
そして、桃山がとった行動は、何と精神科の医師をしている友人に相談することだった。勇の卒業した某国立大学の医学部と言えば、全国の医師の卵たちのあこがれの聖地である。緒方雅彦というその医師も、精神科の医師としては、日本で数本の指に入ると評される人物だった。若くしてである。
「いやあ、桃山久しぶりだな。おっと、患者として来てくれたお前に、久しぶりなんて挨拶はいけないか。元気か?」
久しぶりの再会に、緒方も自分の質問が矛盾していることに気づかない。
「元気なわけないだろう。元気じゃないから緒方のところに来たんじゃないか」
「なるほど、そりゃそうだな。すまん、すまん。で、どんな具合なんだ」
「それが説明するのも難しいくらい妙なんだ。お前も俺が坂本龍馬に心酔していることは知ってたよな。その龍馬が、ほとんど毎晩のように枕元に現れて、俺にまともな商いをしろと脅迫するんだ。しかも大太刀をふりかざしてだぞ。この間なんか、姉の乙女と新撰組の近藤勇と沖田総司まで連れてきて、本当に殺されるかと思ったよ。もちろん夢に決まってると思ってはいるんだが、枕元に『天誅』と筆書きされた半紙が置いてあったり、どうも夢だとばかりは言えないような妙な案配なんだよ。どう思う?」
「そうだなあ、まず最初に言えることは、こうしてお前が話しているのを聞いているだけでも、お前が正常であることははっきり言えるよ。現実のような夢か…。そんな話を聞いたことがあるような気もするが、考えられるのはお前自身が、今の商売に罪悪感を強く感じているということだろうな。その罪悪感がお前の尊敬する坂本龍馬にお前自身を脅迫させるという形で、自分自身を責めていると考えるのが一番現実的だと思うよ」
「おれが正常だと言うのは確かか?脳波の検査とか、やらなくても大丈夫なのか」
「馬鹿だなあ、お前は。自分のことを冷静に分析できるような人間が、精神に異常を来しているわけはないだろうが。第一、お前は自分でも夢に違いないと思うと言ったじゃないか。もし、お前の精神が壊れかけているとしたら、お前の口から夢だと思うというような言葉は出てこないんだ。絶対に現実だと言い張るだろう」
「なるほど、そういう理屈か。それじゃあ、俺はどうすればいいと思う?このままじゃあ本当に頭がおかしくなってしまうよ」
「答えは簡単だな。お前確か学習塾を経営してたんだったよな。その経営方針を、坂本龍馬流に大胆に改革することだ。おそらくお前はそのことで罪悪感を感じているんだろうからな」
「わかった。何だか先が明るくなってきたよ。持つべき者は友だな。感謝するよ、緒方」
「そんなに感謝しなくてもいい。診察代はちゃんと頂くからさ」
緒方雅彦もとんでもない誤診をしてくれたものだ。しかし、緒方雅彦の誤診のおかげで、桃山勇は本気で桃山社中の改革を考えるようになったのだから、そういう意味では本当に指折りの名医かも知れない。
勇は考えられる限りの改革を実行した。まずは、講師の学生の時給を二、五〇〇円にアップすること。次に、講師の採用基準を、新規採用者から教員免許取得希望者に限ったこと。そして、教室内の模様替えをしたこと。事務職の月給を五万円もアップしたこと。一クラスあたりの生徒の人数を、規定通り十名以内に納めるようにしたこと。講師の学生の中で、これはと思えるような新しい企画を考案した者には、一万円の報奨金を出すようにしたこと。そして、毎週末にあらゆるところから講師を招き、研修会を実施することにしたこと。もちろん、その研修に参加することに対しても、学生たちには時給を支給することにした。これはちょっとサービスしすぎのような気もするが、坂本龍馬が人材の育成に全力を注いだことを考えると、そのくらいしても罰は当たらないと考えたのだ。そして、最後の改革が、桃山勇自身も、授業を担当するようにしたことだ。実を言えば、最初と最後の改革が最も大事だった。学生の時給をアップして働きがいを感じさせてやることと、桃山勇自身が子供たちと触れ合う醍醐味をもう一度味わうことが、桃山社中の将来を一変させることになるのだ。自分も講師の立場を経験するからこそ、雇っている講師たちの気持ちもよく理解できるようになる。経営者とはそうでなければならない。下積みの時代の経験をすぐに忘れてしまうような人間には、指導者は務まらないのだ。そして、自分自身の研鑽を辞めてしまうような人間にも、人は決してついてはこない。常に自己研鑽に努める姿勢が人を惹きつけ、その人間の指導者としてのカリスマ性を高めていく。勇もようやく人生の階段を一つ上ることができた。
その頃、雲の上では龍馬たちが祝宴をあげていたのはもちろんのことだ。
「乙女姉、それに近藤君と沖田君、協力本当に感謝するぜよ。それにしても、人の一生は何が幸いするかわからんのう。薩摩の西郷が入水自殺に失敗して薩摩には欠かせぬ大人物になったり、ペルリの黒船が日本国を民主主義に目覚めさせたり、勝海舟先生を斬りに行ったわしが、先生の一番の弟子になってしまったり、ほんに何がどう幸いするかわからんきに」
「いやあ、坂本さん、僕も沖田も、こんなことくらいであのぼんくら男が正義に目覚めるとは思いませんでした。さすがに坂本さんの人を見抜く目は鋭い」
「いやあ、あの晩はおんしらが本当に桃山を斬るんじゃないかとひやひやじゃったぞ」
「こら龍馬、近藤さんも沖田さんも、そんな理にかなわぬ殺生をする御仁ではありません」「そりゃそうじゃ。失礼」
「いやいや、お仁王様、それは耳の痛い話です。私も沖田も、正義感にかられるままに、殺してはいけない傑物たちを何人も斬ってしまいました。新撰組の約束事もあまりにも柔軟性に欠けておりました。そのおかげで、何人の貴重な命が自刃する羽目になったか。今頃になって反省しています」
「それも時代の流れでしょう。あなたたちも貴重な命をお国のために捧げたのだし」
「いやあ、さすがに乙女姉は言うことが違うのう。しかし、乙女姉はどうして土佐弁を忘れてしまったんじゃ。才谷屋の娘とはとても思えんぜよ」
「そうじゃね。どうしてそうなったのか、私にもわからんきに」
「ほれほれ、わざと土佐弁を使うちょる」
雲の上の四人の輪には笑いが絶えなかった。それにしても、龍馬自身、こんなに作戦がうまくいくとは思ってもみなかった。緒方雅彦という医師に感謝しなくてはいけない。
《生まれ変わった桃山社中》
桃山勇が突然の大改革を始めて、桃山社中が急速に生まれ変わりつつある噂は、海援隊の西郷たちの耳にもすぐに入った。まだ授業前の海援隊では、その話で持ちきりである。「しかし、西郷君、どうして桃山のやつは急にそんな変身する気になったのかしら。どう考えても合点がいかないわ。だって、二度も西郷君に海援隊を吸収するなんていう馬鹿馬鹿しい申し出をしてきたばかりじゃない」
「そうだね。人間、どこでどう変わるかわからないものだよね。でも考えてごらんよ。僕たちだって、最初に桃山社中で働きだした頃には、そんなに高い意識は持っていなかったじゃないか。それが、生徒たちと接するうちに、教育という仕事の醍醐味を知るようになって、桃山社中のやり方に反発を覚えるようになったわけで、程度の差こそあれ、桃山を一方的に馬鹿にするわけにはいかないよ」
「西郷君は偉いのね。そうやって、厚顔無恥な桃山のこともこきおろしたりはしないんだから。私なんか全然駄目よ。あいつの顔を思い浮かべただけでも、反吐が出そうになる」「僕は、西郷君とはちょっと意見が違うんだ。人間の自然な変化にしては、あまりにも急激すぎるからね」
「それじゃあ、桂君は何か特別な変化のきっかけがあったと思うわけ?」
「そうなんだ。ほら、前に西郷君が言ってたじゃないか。桃山がよく枕元に太刀を振りかざした坂本龍馬が立って悩まされてるって。僕は、そういう霊の世界のことはあまり信じたくはないんだけど、桃山に関しては本当に坂本龍馬の霊が何かをしたんじゃないかと思ってね」
「坂本龍馬ほどの人物が、桃山勇ごとき小さな存在にどうして関わりを持つの?」
「名前だよ。桃山社中という名前は、龍馬の亀山社中をモデルにしてつけた名前だ。その看板を掲げておきながら、適当な塾経営をしている桃山の姿に、さすがの龍馬も我慢しきれなくなったんじゃないかなあ」
「IT博士の桂君らしくない発言だね。僕は保護者の圧力に負けたんじゃないかと思うんだけど」
「保護者の圧力って、中岡君は何かそういう情報でもつかんでるの」
「うん、多少はね。桃山社中の保護者たちもさすがに桃山のいい加減な講師採用に腹立ちを覚えるようになって、数名の親が集団で桃山に談判に来たらしいんだ」
「それはいつの話なの」
「桃山が西郷君に合併の話を持ちかけてくる一ヶ月ほど前のことだよ。桃山社中の講師たちは、労働条件のあまりの悪さに長続きしないんだ。だから、担当の講師がころころ入れ替わるんで、さすがの親たちも不信感を抱き始めたらしいんだよ。ほら、あいつはそういう世間の圧力に弱いじゃないか。だから、それが原因で心を入れ替えたんじゃないかな」「そうかなあ。あの面の皮が象の皮膚ほども厚い桃山に限って、保護者の圧力で心を入れ替えるなんている繊細な神経を持っているとはとても思えないんだ。それより、何かの恐怖に怯えて行動に移ったと考える方が自然じゃないかなあ。西郷君はどう思う?」
「うん、僕もどちらかと言えば、桂君の意見に近いかな。桃山が僕のところに合併の相談を持ちかけてきたときの様子は、かなり追いつめられていた感じだった。あの男が僕に頭を下げに来るなんて、そもそもよほどのことがあったことだろうからね。講師に対する苦情なら、採用する講師の質を上げて時給をアップすればそれで問題は簡単に解決するじゃないか。桃山社中にはそれだけの財力は十分にあるわけだしね。それが、何から何まで改革するというんだから、よほどのことがあったとしか思えないよ。そうすると、毎晩のように枕元に尊敬する坂本龍馬に立たれたことで、半ばノイローゼ状態に陥っていたと考えるのが自然のような気がするんだ。下手をすると、桃山は変貌したんじゃなくて、気が触れてしまったのかも知れないよ。時給二、五〇〇円なんて、そんな破格な給料を時間講師に出す塾は他に例を見ないじゃないか。あの守銭奴の桃山がそこまで善人になれるとはとても思えないんだ」
「守銭奴って、あいつにぴったりの言葉ね。本当にお金のためなら、どんなあこぎな真似でも平気でする男だわ。でも、善人になった桃山なんか、なんか気持ち悪いわ」
「いいじゃないか徳川さん。桃山がどう変わろうとそれはどうでもいいさ。それよりも、そのことで桃山社中の塾生や講師たちが得をするなら、僕らも諸手を挙げて大喜びしてやればいいんだよ」
「そうね、確かに桃山なんかどうでもいい。それに私たちだって、桃山のことをあれこれ言う暇があったら、自分たちの足下をしっかり見つめなくちゃいけないわね」
「ところで西郷君、以前にも聞いたと思うんだけど、うちの『海援隊』の看板と『塾訓』はいったい誰が書いたんだい」
「それが僕にも全く記憶がないんだ。でもものすごく価値がありそうな字だったんで、そのままにしておいたんだけど、改めて言われて見ると、非常に気になるよね」
「実はね、僕がコンピューターで筆跡検索をしてみたんだ。驚かないでくれよ。そうしたらね、『海援隊』の方は勝海舟の筆跡に一致して、『塾訓』の方は船中八策を書き上げたときの坂本龍馬の筆跡とそっくりなんだ。これってどういうことなんだろうね」
「本当かい?何だか、桃山勇の話が現実味を帯びて感じられるね。でも、もしそれが事実だとしたら、勝海舟と坂本龍馬がこの海援隊に来たことになるよね。僕にはそんな記憶はまったくないし、僕の枕元に坂本龍馬や勝海舟が立ったことなんか一度もないんだけど」
「そうか、実に不思議だよ。だけど、もしそれが何かの奇跡だとしても、歓迎すべき奇跡だから気にしないことにしようね」
「ああ、気にしても、解明できそうにないからね。雑誌社には、知人の書家に書いてもらったと言っておいたよ」
「ところで、西郷君、一つ考えておかなければいけないことがあると思うんだけど」
「何だい、中岡君」
「うちも他の進学塾のような冬期講習を実施するかどうかということなんだ。中3生の入試のことを考えるとあった方がいいような気もするけど、今までの普通の授業形態でも十分に対応できるし、みんなはどう思う?」
「私は今まで通りの平常授業でいいと思う」「僕も大岡さんに賛成だな。西郷君はどう」
「僕も、冬期講習でとりたてて特別な収入を必要としているわけじゃないし、今まで通りの通常授業で十分だと思う。中岡君自身はどういう意見なの」
「僕もみんなに賛成だよ。それに、年末特別特訓とか、正月特別特訓みたいにして、年末年始の家族のふれあいを奪ってしまうのには抵抗があるんだ。僕ら講師たちだって、久しぶりに家族とゆっくり年末年始を迎えたいじゃないか」
「僕も塾頭として、海援隊は年末年始の合計六日間は休業にしたいと思っているんだ。やはり家族と過ごす時間は大切にするべきだと思うし、のべつ幕無しに勉強をさせればいいというものでもないだろう。そんなせっぱ詰まった時期に特別講習しなければならないような授業を、普段しているわけじゃないし、冬期講習は実施しない方向で行こうよ」
「ありがとう、西郷君」
「何でお礼なんか言うんだよ、中岡君」
「だってさ、塾頭とすれば塾の経営を考えて、通常の塾生以外の生徒も募集して大規模な冬期講習をすれば莫大な余剰収入になるじゃないか。海援隊の名前で募集すれば、生徒はいくらでも集まるからね。だから安心したよ」 桃山社中は冬期講習を実施する。とにかく保護者や生徒に対するサービスを徹底しなければいけないという極端な使命感にとらわれていた桃山勇にしてみれば、休業日など作っている余裕はなかったのだ。
多くの私塾が夏期講習・冬期講習・春期講習などを実施する。それは、塾の雰囲気を宣伝する意味でもあり、また同時に大人数の授業で臨時の大収入を得るチャンスでもあるのだ。その上、一時期にしてもその塾に籍を置いた優秀な生徒が、有名校に合格すれば、それはあたかもその塾の功績として宣伝される。そんな理由から、どの塾も冬期講習にはかなりの重点を置いている。海援隊はその風潮に一石を投じようというのだ。
確かに「除夜の鐘特訓」とか「初日の出特訓」などと称した特別講習は、その塾のやる気を宣伝するのに非常に都合がいいかも知れない。しかし、いくら頭のいい子が育ったとしても、その子が社会的な常識を備えていなければ何の意味があるのだろう。勉強さえしていれば、家族の一員としての義務を果たさなくてもいいという誤解を日本人全体が持っているのだとしたら、それは非常に恐ろしいことだ。たとえ受験を目前に控えた中学3年生であっても、年末の大掃除には参加すべきだし、正月の三が日くらいは、普段家事に明け暮れている母親の肩の荷を下ろしてあげなければならないだろう。その機会を奪ってしまう権利が、果たして私塾にはあるのか。西郷たちが疑問を抱いているのはその点だった。 基本的に学習は毎日こつこつと積み上げるものであって、短期間に詰め込むものではないはずだ。もちろん、受験対策として短期決戦をするのは必要だろう。しかし、その時期を敢えて年末年始に設定する必要はどこにもない。子供たちの冬季休業は一月四日から後も続くのだから、冬期講習はその時期に設定すればいい。どんなに悲惨な戦争であっても、クリスマス休戦があるではないか。
ちなみに、桃山社中の冬期講習は更に変わっている。受講料無料で、必要なのは実費のテキスト代だけだった。もちろん、そんな一見無茶苦茶な企画が実行できるほど、桃山社中の今までの蓄えが巨額だったということをも意味しているわけだが。もちろん、生徒の受講料は無料でも、教える講師たちにはきちんとした報酬を払うという。しかも、登記特別報酬として時給三、〇〇〇円を支給するというから、桃山勇もずいぶん極端な男である。 時給をはずむことは確かに講師のやる気を起こさせる意味では重要な方策だが、塾頭と講師の人間関係が希薄な状態で、安易に時給だけを上げると、下手をすると講師たちが経営者である塾頭の足下を見る傾向を促す結果になる。努力をしなくても時給が上がるという方程式を、講師たちの頭にインプットしてしまうことになるからだ。そこが、西郷の月給方式とは大きな違いだった。海援隊では、西郷から学生としては法外な月給を支給されていいる事に対するプライドのようなものを講師たち全員が持っている。だから、誰も彼もが月給以上の仕事をしようという意欲に燃えているのだ。それは、西郷と他の講師たちの信頼関係の厚さにも起因していた。
桃山勇も西郷の話を素直に聞き入れて、講師たちの待遇を大幅に改善したのだが、そのやり方があまりにも唐突すぎた。つまり、いくら桃山が塾を刷新しようとしても、学生たちの意識がついてこれない状況を生んでしまったのだ。結果として、学生たちが授業の研究を以前よりも更に一生懸命するという効果は残念ながら見られなかった。理由はわからないが、とにかくアルバイト代が多くなったのはラッキーだという安直な発想だ。桃山は事をせく余り作戦を誤ってしまったのだ。
それでも、受講料無料の桃山社中の授業には、予想通り大勢の生徒たちが応募した。先着順に受け入れ人数を制限しなければならなかったほどだ。問題なのは、集まった生徒たちの期待に応えられるだけの、優れた授業ができるかどうかということだった。もちろん教材はしっかりしている。しかし、講師たちの冬期講習に臨む意識は決して高くはなかったのだ。これでは、桃山社中の評判が地に落ちるだけだろう。
「なあ、みんな、ちょっと聞いてくれないか。桃山社中が冬期講習を受講料無料で実施するという話はもう聞いているよね。それなのに桃山勇は講師たちには特別に時給三、〇〇〇円を支給すると決めたらしい。どういう結果になるか、みんなならもうわかると思う」
「何の努力もしないで時給が上がれば、更に努力をしなくなるだけね。そして、期待はずれの授業が桃山社中の命取りになりかねないということになる」
「そう、徳川さんの言うとおりだね。そこで、みんなは絶対に嫌だとは思うけど、僕から特別報酬を出してもいいから、三日間だけ桃山社中の冬期講習を手伝ってやりたいんだ」
「西郷さん、気は確かなんですか」
英語の武市孝太郎が思わず言ってしまった。「武市君、西郷君はね、仮にも自分たちを育ててくれた桃山社中を、何とかして守りたいんだよ。それは桃山勇に対する同情なんかじゃない。桃山社中に対する感謝の気持ちなんだ。そうだろう、西郷君」
「桂君、ありがとう。みんな、そういうことさ。この海援隊があるのも、元はと言えば桃山社中に僕らが雇われたからなんだ。だから桃山社中をつぶすわけにはいかない。僕らが応援に行って、生半可な授業をしようとする学生講師たちにプレッシャーをがんがんかけてやろうと思うんだ」
「わかりました、西郷さん。僕は、全面的に協力させてもらいます」
武市孝太郎が力強く言った。もちろん、他の講師たちもみな賛成だった。西郷翔太という男の度量の大きさに、誰もが惚れ直したと言ってもいいかも知れなかった。
西郷たちの申し出を、桃山勇は驚くほど快く受け入れた。西郷は、本当にこの男は気が触れてしまったのではないかと思ったほど、以前の横柄さが全く影を潜めてしまっていたのだ。桃山の変身は果たして本物なのだろうか。それほどのプレッシャーを、桃山はどこからかかけられているのだろうか。
いずれにしても、西郷たち海援隊の講師の存在は、桃山社中の学生講師たちに大きなプレッシャーとなったことは確かだった。いい加減なことをすれば、すぐに見抜かれてしまう。同じ学生でありながら、どうにもできない人間としての重みの違いがそこにはあった。桃山は西郷たちに破格の特別報酬を提案してきたが、西郷はそれを断って、他の講師たちと同じ時給で働かせてくれるようお願いした。今までの桃山なら、猜疑心の固まりのようになって、西郷にはきっと何か魂胆があるに違いないと疑っただろうが、今の桃山勇にはそんな余裕すらなかったのだ。
桃山社中の冬期講習は、好評のうちに幕を閉じた。海援隊の講師たちが全力を挙げて桃山社中の再建のために尽力したという噂は、あっという間に業界に広まり、それがまた海援隊の評判を一層高めてくれた。これこそまさに一石二鳥の結果だった。桃山社中の講師たちも、必死に教材研究をしながら子供たちと接するうちに、自分たちの苦労が子供たちの笑顔に変わって、最終的には自分たちに戻ってくるという、教育の醍醐味を味わうことができた。講師たちの中には、海援隊に移籍させて欲しいと申し出てきた者も数名いたが、西郷はその全ての申し出を丁重に断った。何とか桃山社中に残って、桃山社中の発展のために貢献してもらいたいと思ったからだった。そんな西郷の気持ちを、桃山社中の講師たちはしみじみと感じていた。最初は、自分たちを見張るために乗り込んできた部外者という意識しかなかったが、一緒に仕事をした数日間で、西郷たちが本気で桃山社中のために尽力しようとしていることが理解できるようになり、皮肉なことに海援隊に対するあこがれのような気持ちを生み出して行ったのだ。しかし、やはり西郷としては、誰かに頼るのではなく、自分たちの力で道を切り開いていってもらいたかった。かつての自分たちがそうだったように。そういう苦労が、講師たちを大きく育ててくれることを、西郷たちは身をもって経験していたからだ。冬期講習が終わった教室で、徳川秀子が西郷に話しかけてきた。すっきりしたような表情をしている。
「西郷君、私桃山社中の冬期講習を担当することができて本当に良かったと思ってる」
「それはどういう意味で」
「だってね、不思議なんだけど、やっぱり桃山社中は私たちの母親なんだということが理解できたし、何より桃山勇に対する恨みのような気持ちがどこかに消えてしまったの。人を恨むということは、どこかで自分自身にストレスを抱え込むことになるんだわ。今までの私はそんなこともわからずに、桃山を恨み続けてきた。でも、そんな気持ちがなくなった今、私の心はすごく軽くなったのよ。これも西郷君のおかげだわ」
「やめてよ、徳川さん。それは徳川さんに人生を前向きに生きる姿勢があったからこそのことじゃないか。僕なんかお礼を言われるべきことは何もしてやしないさ」
「西郷君は、相変わらず謙虚なのね。まあ、そういうところが西郷君らしくていいんだけどね」
「でも、やっぱり人間はお互いに切磋琢磨しないといけないね。僕らにしても、桃山社中の学生の模範になろうとして必死で頑張ったじゃないか。そうしたら、知らないうちに自分たちも研修を積んでいたことになったわけだものね。刺激し合う仲間というのは本当に大切にしないと」
「それに、桃山社中の講師たちも、すっかりやる気を取り戻したみたいで、良かったわ」
「そうだね、それが一番の成果だったかも知れない。桃山勇がいくら改心したからといって、たった一人で桃山社中を建て直していくことは難しいと思うんだ。周囲の学生講師たちが、本気で経営に参加する気になったとき、桃山社中は大きく前進し出すだろうし、何より桃山勇の講師に対する見方も大きく変わってくると思うよ」
「でも、桃山の改心は本物なのかしら。桃山社中が順調に軌道に乗ったら、またもとの守銭奴に戻ってしまうなんていうことはないでしょうね」
「それは神様だけが知っていることさ。桃山がそういう人生を送りたいと思うなら、もう誰も桃山には関わらないと思うし、そのときは桃山社中が本当に看板を下ろすときだと思うよ」
「そうなったら、西郷君はどうするの」
「決まってるじゃないか。桃山社中の看板を買い受けるさ。僕らの母親なんだろう」
《龍馬との再会》
ある晩のこと、西郷は寝苦しさに目を覚ましてしまった。すると、枕元に人の気配がするではないか。西郷はびっくりして、飛び起きてしまった。
「おまん、よくやったの。わしの計画が成功したのも、みんなおまんらのおかげじゃ」
「あなたは、もしかして、坂本龍馬先生ですか」
「久しぶりじゃのう。おまんと以前会ったときには、坂本遼太郎と名乗っておったし、顔も別人じゃったきに、よう覚えとらんじゃろうが。勝海舟先生のことも、わしのことも、おまんには悪いとは思ったが、記憶を消させてもらったきに。じゃが、今は思い出せるはずぜよ」
「そうだ、そうだった。勝真之介先生に、海援隊の研修をお願いしていました。そう、勝海舟先生だったんですよね」
「勝先生も、喜んでおられたぜよ」
「あの、やはり桃山勇を脅したのは、坂本先生なのですね」
「いやあ、あのぼんくらはわし一人の力ではどうにもならんかった。そいで、乙女姉と新撰組の近藤勇、沖田総司の力を借りて、びびらせたんじゃ」
「道理で急に変わったはずだ。やっぱり坂本先生たちでしたか。そうだ、うちの看板と塾訓を書いて下さったのも、勝海舟先生と坂本龍馬先生でしたよね」
「へたくそな字ですまんのう。わしゃあ、筆字は苦手じゃきに」
「そんな、うちの海援隊の貴重な宝です」
「まあ、そんなわけで、今晩はおまんに礼を言いにきたんじゃ。それじゃあ、そろそろ消えるとするかのう」
「あの、坂本先生、たってのお願いが」
「何ぜよ」
「今晩のこの記憶だけは消さないで頂きたいのです。絶対に他言はしませんから。もっとも人に話しても誰も信じてはくれないでしょうけどね。坂本先生、お願いします」
「困ったのう。わしの一存で決められることではないきに。う〜ん」
龍馬はしばらく思案していた。
「よしわかった。西郷君を見込んで希望をかなえちゃる。その代わり、ずっと記憶がない振りをしててくれにゃ困るぜよ。わしも決まり事を破ってまた暗殺されたんじゃかなわんぜよ。まあ、雲の上で暗殺はなかろうけどなあ。ハッハッハ!」
龍馬は大きな声で笑った。剛胆な笑いだった。惚れ惚れする笑い声だった。
「坂本先生、感謝します」
「いや、そんなに言われると照れるきに、やめちょくれや。それより、これからも日本国の若者たちのために、誠を尽くしてくれ。おまんには期待しちょるぜよ」
「はい、わかりました。本当にいろいろとありがとうございました」
「おう、それからおまんらが陸援隊を作ってくれたっちゅうて、中岡慎太郎が喜んじょったぞ。おまんもいい仲間を持ったのう」
「はい、桂君にはそのように申し伝えます」
「ほれほれ、それがいかんきに。記憶はないんじゃったろうが」
「あっ、そうでしたね」
二人はお互いの顔を見て笑ってしまった。「それじゃあ、もう行くきに。頑張れや」
そう言い残すと、龍馬はすうっと消えてしまった。恐らく西郷が目覚めたときは、夢を見たと思うだろうが、夢にしても龍馬との会話の記憶は、今度は一生消えることはない。西郷にとっては、これほど貴重な宝はないだろう。あこがれの坂本龍馬との会話。奇跡としか思えない体験は、身を粉にして教育のために頑張る西郷たちに対する、天の贈り物だったのかも知れない。西郷の頭の中では、未だに龍馬の剛胆な笑い声が響いている。本当に大きな器だったのだと、西郷は思った。
翌朝西郷が目覚めたときには、夕べのことは夢だったのかどうか西郷にも定かではなかったが、龍馬の計らいで、坂本遼太郎が桃山社中に勤めていて、桃山勇と喧嘩になったことや、勝真之介が海援隊の研修担当講師として大活躍してくれたことなど、全ての記憶を元に戻してくれていた。もちろん、西郷はそのことを他言してはならない。それが龍馬との約束だったからだ。たとえ夢であったとしても、西郷は龍馬との会話を、そして龍馬の剛胆な笑い声を一生忘れまいと思った。
それにしても、坂本龍馬という人間は本当に不思議な魅力を持っている。志半ばにして幕吏の手に落ちた龍馬だったが、どうせ生き延びていたとしても、彼は明治新政権に参加することはなかったに違いない。なぜなら、龍馬の頭の中には茫洋たる大海を旅することしかなかったからだ。そして、その壮絶な死に様が永遠に構成に語り伝えられることになり、今でも多くの若者たちが、京都高台寺上の霊山護国神社にある坂本龍馬と中岡慎太郎の墓の前で手を合わせることになっている。龍馬の墓前に至る細い石畳の坂道には、その両脇に三十センチから五十センチ四方の大理石の板が数え切れないほど立てかけられ、そこには坂本龍馬に対する熱いメッセージが、様々な立場から書かれている。近江屋での龍馬の暗殺から百四十年近くが経過しても、龍馬の壮大な理想と、既成の概念にとらわれない自由な発想は、現代人の心を捉えて放さないのだ。近江屋での暗殺事件に巻き込まれる形で亡くなった中岡慎太郎も、陸援隊を結成して明治維新に大きく貢献した。船中八策から大政奉還に至るまでの道のりは、坂本龍馬と中岡慎太郎が築いたと言っても決して言いすぎではない。そんな、日本の新しい時代への扉を開いた二人が、文明開化の日の目を見ることもなくこの世を去ったというのは、歴史の上でどういう意味があるのだろう。天は残された人間たちに何を望んだのだろう。
西郷は海援隊に出社すると、すぐに看板と塾訓の筆字をじっくりと眺めた。あれは、ただの夢だったのかも知れないが、本当だとすればこれは誰も知らない、日本の宝だと思った。特に、坂本龍馬が書いた塾訓の字は、龍馬の自由奔放さと大胆さを思わせ、その文字を見ているだけでも勇気が湧いてくる気がした。今の日本の平和と繁栄は、若くして命を捧げた幾多の傑物たちによってもたらされたものだ。自分たち若いエネルギーが、のんきに享受していていいものではない。
時は流れ、西郷たちもいよいよ大学の最後の学年を迎えることになった。海援隊も桃山社中も順調に業績を伸ばしている。特に、海援隊と陸援隊は第二教室まで新設して、生徒数も三倍近くにまでふくれていた。
「ねえ、西郷君、私は教員採用試験を受けるのを断念して、このまま海援隊を続けていきたいと思ってるの。西郷君はどうする?」
「僕は、みんなに塾頭に推された責任もあるし、これだけの大所帯になって、のこのこ逃げ出したら、それこそ海援隊の名を借してくれた坂本龍馬に天誅を下されてしまうよ」
「いやだ、天誅だなんて。それじゃあ、数年前の桃山勇と同じだわ。でも、それで西郷君が海援隊の塾頭として残ってくれるのなら、天誅も悪くはないけど」
「桂君、君はどうする?」
「うん、僕はどうしても公立の中学校で自分の力を試して見たいんだ。せっかく桃山社中一期生の四人で始めたこの海援隊なんだけど、僕はどうしても自分の夢を追いたい。でもそんなの自分勝手だよね」
「何を言うんだ。僕らはお互いを縛り合ったことなんかないじゃないか。みんな自分の夢を追いかける権利がある。そして、そのことで少しも後ろめたさを感じる必要なんてないと思うんだ。海援隊で、饅頭屋がイギリス留学を密かにもくろんだとき、仲間たちは饅頭屋を責めて自決に追い込んでしまった。そのとき、坂本龍馬は激怒したと言うじゃないか。海援隊の厳しい戒律は、夢を追う若者の命を犠牲にするためのものじゃないと、そう龍馬は言いたかったんだと思う。龍馬自身、きっと暗殺されていなかったとしても、新しい明治政府には名を連ねなかったと思うよ。彼のことだから、造船会社を作って、貿易に精出したんじゃないかな。実際、学者たちの中には、龍馬が生きていたら、三菱商事ではなくて、坂本商事が立ち上がっていただろうという人たちも少なくないんだ。僕が、高知の桂浜に行ったとき、龍馬の記念館の上の公園に立つ彼の銅像は、土佐湾を見つめて立っていた。その目は遠い日本の未来を見つめているようでもあり、また茫洋たる海の向こうの異国の地に向けられているようでもあったよ。龍馬は常に夢を追いかけた人なんだ。その龍馬の作った海援隊の名をつけたからには、僕は講師たちの自由を束縛したくはないんだ。だから、桂君、遠慮しないで教員採用試験を受けてくれよ。そして、海援隊の精神が、公立の学校でも立派に通用することを証明して欲しいんだ」
「西郷君、君って人は…」
「おっと、やめてくれよな、桂君。君らはすぐに僕を英雄にしたがるけど、僕は自分自身も夢を追いかけているだけなんだ。だから、君も堂々と夢を追いかけて、そして絶対に実現して欲しい。その代わり、卒業するまでの間に、僕にコンピューターの知識と技術をみっちり仕込んでいってくれないと困るよ」
「それなら、任せておいてくれ。その代わり、厳しい指導をするから、覚悟しておいてくれよな」
「おいおい、お手柔らかに頼むよ。僕は機械音痴で有名なんだ」
「冗談だよ。それに、西郷君。何にでも挑戦する君には、ナポレオンじゃないけど、不可能はないから、心配するなよ」
「ところで、中岡君はどうするの?中岡君も教員採用試験を受ける?」
「いや、僕はもう少し西郷君の元で働いてみたい。そして、西郷君から塾頭としてのいろいろな心構えをしっかりと学んで、いずれは故郷の北海道で私塾を経営してみたいんだ。ほら、日本の偉人のほとんどは薩摩とか長州とか、西日本の出身じゃないか。だから、僕は北海道から偉大な人材を生み出したくて」「僕が、塾頭の見本になるかどうかは別として、中岡君の夢はなかなか大きくていいね。独立したくなったら、いつでも相談してくれよ。絶対遠慮なんかしないでくれよな」
「ありがとう、西郷君。でも、まだまだ僕には勉強が必要さ。君みたいに人望が厚い人間になるには、最低でも十年はかかりそうな気がする」
「だから言ってるだろう。僕にはそんな立派な素質が備わっているわけじゃないんだ。ただ、僕は自分の夢を本気で追いかけているだけじゃないか。もちろん、仲間や生徒たちに対する誠意だけは絶対に忘れたくないけど」「それよ、それ。海援隊の原動力は、西郷君が今言った『誠意』なんだと思うわ。もちろん、『誠』なんていう額を飾ったら、まるで新撰組になっちゃうけど」
「そうだね、僕も誠意だけは忘れずに生きていこうと思う。そうしたら、西郷君みたいになれるかな」
「中岡君もしつこいなあ。僕は平凡な人間だし、当たり前のことしかしてないよ。もし、僕の事を特別に考えているんだとしたら、それは大きな誤解で、真実は、当たり前の事ができる人間が少なくなったということなんじゃないのかなあ」
「そうそう、何事も基本が大事よね。人生も勉強も基本を忘れたら、きっと道を誤ってしまうんだわ。私も、人間の基本を忘れないようにしなくちゃね」
若者らしい会話がいつまでも続いた。
《平成の若き志士たち》
平和な時代が成り立つようにと名付けられたのであろう「平成」の時代も、名前とは裏腹に大変な動乱の時期を迎えつつある。平和呆けをした日本の中に育って、西郷はそのことを敏感に感じていた。
いつものように、徳川秀子が茶目っ気たっぷりの口調で西郷に問いかけた。
「ねえ、西郷君、西郷君はどうして坂本龍馬に心酔してるの?桃山勇もそうだったから、何だか二人の接点がなくて不思議なんだけど」「土佐の郷士の家系に生まれて、剣術を習い、やがては勝海舟との出会いで政治に目覚め、日本の国の未来のために、命をなげうつ覚悟で尽力したからだよ。彼のことを知ったとき、僕は体中に電気が走ったような気がした。男の人生のロマンを感じたのかな」
「男の人生のロマンか…。女の人生にはロマンはないと思う?」
「そんなことはないさ。津田塾大学の創始者だった津田梅子さんだって、日本の女性としては始めてアメリカ本土に足跡を残した人だろう?女性にだって、理想に燃えて人生を走った人は大勢いると思うよ」
「それで、西郷君も坂本龍馬のように夢を追いかける人生を送りたいのね」
「それもちょっと違うかな。徳川さんは『ホタル』という本を読んだことがある?」
「鹿児島の知覧から飛び立った特攻隊員たちと、彼らの面倒を見た女性の話ね」
「そうだよ。僕はその本を読んで、実際に鹿児島の知覧に行ってみたんだ。今では立派な記念の資料館が建設されているんだけど、その中の資料を見ているうちに、心臓の鼓動が急激に激しくなって、息が詰まるような気持ちになったのを今でも覚えている。資料館の出口から出てきた人たちは、みんな寡黙だったよ。もちろん僕もそうだった。日本は、何度も貴重な若い人材を大量に犠牲にしてきたんだ。そういう人々の犠牲になった命の上に今の日本の平和が築かれた。でも、僕たちは下手をすると、今の平和が自然に訪れたように感じていたじゃないか。僕は、この平和が多くの立派な人々の犠牲の上に成り立っていることを知って、自分も何かしなければならないと思うようになったんだ。坂本龍馬の時代だって、倒幕だ佐幕だと大騒ぎをしていたけど、結局誰もが国を憂えていたことは確かなんだ。それなのに、ちょっとした考え方の違いから、お互いに無用な殺し合いをしなければならなくなった。そのために散った人材のどれほど多かったことか。そして、その陰で泣いた女性も星の数ほどいたと思うんだ」「何だか、話を聞いているだけで、体が緊張してきそう」
そこへ、桂と中岡が入ってきた。
「いやあ、二人とも相変わらず早いね。何の話をしていたの。ずいぶん盛り上がっていたみたいだけど」
「大事なお話よ。国を憂える話なんだから、茶化さないでね」
「そう言えば、西郷君、与党の愛国党が憲法の改正案をいよいよ公表したよ。今朝の新聞で大騒ぎになっていたの読んだかい」
「うん、読んだよ。憲法改正まではまだ数年はかかりそうだけど、大変なことになりそうだね」
「憲法第九条もいよいよ書き換えられることになるんだね。自衛隊のことを自衛軍と呼んでいたから、れっきとした軍隊として認めようということなんだろうね。そして、自衛のための軍事力の行使を認めていた。そんなことをしたら、いつかまた日本も戦争に巻き込まれてしまうんじゃないのかなあ」
「桂君の心配ももっともだよね。だけど、幕末にペリーが来航したとき、幕府が弱腰になって半ば強制的にいくつかの港を開港するはめになったのは、当時の日本が軍事的にはるかに欧米諸国に劣っていたからだと思うんだ。もちろん、開港して良かったとは思うけど、その開港の仕方が問題だよ。僕は、やはり強力な軍隊は持つべきだと思ってる。第二次世界大戦中に中立を守り通したスイスだって、強力な軍隊があったからこそ、ヒトラーの餌食にならずに済んだわけだろう。広島や長崎の人々はきっと反対すると思うけど、第二の広島や長崎を作らないためにも、強力な軍隊は必要なんじゃないのかな。ただし、改正案にもあったように、軍事力の行使は最小限度にとどめるという歯止めだけは、絶対になくしてはいけないと思うけど」
「へえ、僕は平和主義の西郷君だから、憲法改正には反対の立場かと思っていたよ」
「桂君は、どう思うんだい」
「僕も憲法改正には賛成だね。いつまでもアメリカの保護下に置かれていたら、自主外交もできないままじゃないか。何でもアメリカの言うとおりになる『アメリカのポチ』じゃいけないと思うんだ。だけどちょっと不安もあるよ。昔、アメリカの学者が主張したことなんだけど、第三次世界大戦は日本と米国の間で起きるというんだよ。経済戦争がやがては軍事戦争へと発展すると。今だって、可能性に満ちた中国市場を奪い合っている状況だから、考えてみればそれは太平洋戦争の前の状況とよく似ていると思うんだ」
「へえ、桂君って、何でも知ってるのね。それじゃあ、近いうちに第三次世界大戦が起きるの?」
「徳川さんも早合点だな。そんなわけないだろう。今は日本とアメリカの利害関係が一致している部分が大きいから、絶対に敵対関係にはならないはずだよ。問題は十年後、二十年後だろうね。お互いに、真珠湾や広島・長崎のことは絶対に忘れてはいないんだから」「西郷君や桂君には悪いけど、僕は憲法改正には反対だな。憲法第九条は世界の宝なんだから、絶対に堅持していくべきだと思う。武器を持てば、必ず使いたくなるのが人の情というものじゃないかな。それが証拠に、ベトナムでもアフガニスタンでもイラクでも、アメリカ軍は常に新兵器を使ってきたじゃないか。いわば、新兵器のお披露目会みたいなところがあった。それに、聞くところに寄れば、日本の自衛隊もクラスター爆弾という新型爆弾を毎年買い込んでいたそうだよ。あれは、不発弾が地雷の役目を果たすから、自衛のための戦闘行為には必要ないものだと思うんだけど、国民が知らない間に買っていたんだからびっくりするよ」
「なるほど、中岡君の意見にも一理あるね。お互いにこれからも状況をしっかりと見守っていく必要がありそうだね」
「何だか話が難しすぎて、私にはちっとも理解できないわ。ねえもっと詳しく教えてよ」
「徳川さんも、自分で勉強しなくちゃ。ジェンダーフリーの時代に、女だから政治には弱くて、なんていう言い訳は通用しないよ」
「まあ、西郷君ったら意地悪ね。いいわよ、自分で勉強してやるわ」
「みんな、徳川さんをからかうのはやめてあげてくれよ。何だかんだ言っても、やっぱり女性は政治には弱いんだと思う。女性は保守的にできていて、基本的には家庭の安全を守ることに全神経を注ぐようにできてるんだ」「あれ、中岡君、いつからフェミニストになったんだい。それに、徳川さんは君の意見にも不満そうだよ」
「そうよ。中岡君は、女は家庭に引っ込んでろって言いたいわけ?」
「誤解しないでよ。そんなんじゃないよ」
中岡が真剣な表情になってしまったので、みんなは妙な雰囲気に包まれてしまった。中岡が徳川秀子に思いを寄せていて、理屈はともかくついかばおうとしてしまったことには誰も気づいてはいなかったようだ。
「なあ、みんな、時代が英雄を生む、という言葉を聞いたことあるかい」
西郷が話題を戻そうとして発言した。
「うん、聞いたことあるなあ。今の日本は平和呆けしているから、絶対に英雄は生まれないという話だろう?」
さすがに桂はよく勉強している。
「そうなんだ。でもね、僕は今の日本は大きな混乱の中に巻き込まれようとしている気がするんだ。だから、これからの日本にはきっと英雄が必要になってくるし、時代が英雄を生み出すと思う。だからこそ、教育が大切になってくるとは思わないかい」
「そうだよね。日本国憲法でも、教育を受ける権利がはっきりと謳われているし、教育がなければ国民は絶対に賢くはならないものね」 桂は、西郷と一緒に社会科を教えていただけあって、日本国憲法にもめっぽう詳しくなっていた。
「アフガニスタンの子供たちにも、イラクの子供たちにも、きちんとした教育を受けさせてあげたいよね」
「桂君は世界的な視野を持ってるんだね。僕も見習わなくっちゃな」
最近では、政治の話題が若者たちの間で盛り上がることは非常に少なくなった。しかしそれで呑気な彼らを責めるわけにもいかない。日本は戦後の長期間にわたる平和な時代を享受してきたから、平和の価値がわからなくなってしまうのは、大人も子供も一緒だ。しかし、西郷翔太が言うように、時代は徐々に変わりつつある。アメリカの同時多発テロをきっかけに、世界各国で権威に対する抵抗運動が激化している。正義の闘いだから、他人の命などいくら犠牲にしても罪悪感を感じることはない。スーツケース型の核兵器や、化学兵器を作ることは、ちょっとした知識のある人間にとってはいとも簡単な時代になった。もし、テロリストたちが本気で戦争を始める気になれば、それはいつ起きてもおかしくはない状況にある。英雄を必要とする時代になったという西郷の意見は、必ずしも的はずれではないかも知れない。我々は知らず知らずのうちに戦争への道を歩んでいるかも知れないからだ。
「それで桂君、日本は憲法が改正されたら、韓国のように徴兵制が復活するんだろうか」「今の自衛隊の規模を拡大するわけだから、志願兵だけで軍隊を組織するのは無理だと思うんだ。それに、若い世代が秩序という意識をなくしているから、政府は若い世代に背骨を通すためにも、徴兵制を復活させる可能性は十分あると思うね」
「やだ。それじゃあ私たちの子供の世代は、少なくとも二年くらいは軍隊生活をしなければならなくなるのね」
「そうかも知れないね。だけど、恐らく徴兵制の対象は男子に限られると思うよ。もし心配なら娘を産めばいい」
「でも、男女平等の世界だから、女子も徴兵制の対象になるんじゃないかしら」
「体力的な問題もあるから、それはないと思う。もちろん、少子化の時代だからという理由ならあり得るかも知れないけどね」
「でも、何だか怖いわ。自衛軍なんかできちゃったら、本当に戦争が始まってしまいそうな気がするもの」
「そうだけど、政治の世界は机の上で理想をこねてるようなわけにはいかないんだ。自分の国の利益が脅かされると判断すれば、戦争は必ず起きるよ。歴史は繰り返すって言うだろう。人間は過去の歴史から学ぶことができるほど利口にはできていないということかな」「人間が利口じゃないというなら、なおさら武器を持たせるのは危険じゃない?」
「そうなんだけど、僕が言ってるのは、自分の方からむやみに武力を行使しないと決めていても、相手が狂気に走って武力行使をしてくる可能性があるということなんだ。そのときに、相手から攻撃されるまで手出しができないとか、攻撃されても反撃するだけの十分な武力がないとか、そういう状態だと、みすみす国を失うことになるよ。それでもいいと思う?坂本龍馬たちだって命の大切さは十分に承知していたけど、欧米の強い国に負けない武力と国力を持つようにならなければ、欧米の列強と対等なつきあいはできないと考えたんだ。それは政治を考える人間としてはごく当たり前の発想だと思う。僕だって、人を殺す戦争には反対だよ。だけど、自分の国を守る力も放棄して、無防備で世界平和を叫ぶような無茶な真似をしようとは思わない。僕らの海援隊だって、熱心な講師と優秀な教材が武器じゃないか。この武器がなければ、業界でここまでの実績を上げることはできなかったとは思わないかい?だから、人間は何をするにも武器は必要なんだよ。それを、プラスの方向で使うという前提でね」
「でも、どんな理由からでも、戦争を始めたら、それはプラスの判断だとは私には絶対に思えない」
「そうだね、徳川さんの言うとおりだね。それは確かにマイナスの判断だと思う。でも、自分の国を守るための仕方ない判断なんだ。例えば、世の中の貧しい人々に少しでも楽な生活を保障してあげたいとするだろう。そのとき『資金』という武器がなければ、理想は理想だけで終わってしまうんだ。世の中はお金が全てじゃないと言うけれど、政治的にはお金という武器がなければ、どんな立派な理想も実現することはできないと思う。理想を実現させるためにも、やはり武器が必要なんだよ」
「そうか、西郷君にそうやって説明されるとわかる気もする。だけど、戦争だけは絶対に反対だわ」
「そうだね。できれば、戦争になる前に、もっと賢い作戦を使って、何とか平和を維持できるようにしたいね。そのためにも、歴史を良く理解して、国際関係にも敏感な若者たちを育てる必要がある。僕らの海援隊が、そういう仕事に貢献できるといいね」
「賢い人材を育てるのね。それなら、私もすごく勇気が湧いてくる。頑張らなくちゃね」 自衛軍を持つことの是非はもっと議論を重ねる必要があるにしても、西郷翔太の考え方は、幕末の坂本龍馬たちの考え方と非常によく似ている。もちろん、似ているからこそ西郷は龍馬に心酔したのだろうし、もしかしたら心酔したから似た考えを持つようになったのかも知れなかった。
「人は城、人は石垣」という言葉がある。国を支えるのは、結局のところ優秀な人材に他ならない。その人材を育成するのが教育の目的だ。多くの教育関係者たちがついつい忘れかけているその大切な目的を、学生の西郷たちが意識しているというのは皮肉な話ではないか。そして、もう一つ大切な発想がある。それは、人間の才能がいつ開花されるかは、人との出会いによって左右されるということだ。剣術しか脳がなかった坂本龍馬が、憂国の士に育ったのは、勝海舟との出会いがきっかけだった。そういう大切な出会いと、人の可能性を信じる心が教育者には必要なのだ。
《桃山勇の引退》
西郷たちの卒業を控えた年の瀬になって、桃山勇が、海援隊の西郷宛に電話をよこした。また礼の喫茶店『鴨川』で会いたいという。西郷は渋々桃山の誘いに従った。しかし、今回の桃山の提案は、西郷が度肝を抜かされるようなものだった。
「いやあ、西郷君、度々のご足労申し訳ない」「桃山さん、どこかお加減でも悪いのですか。あまりお顔の色がよろしくないように感じますが」
「実は、そうなんだ。私はね、この二年間で心底悟ったよ。自分が教育という崇高な使命を遂行できる人間ではないということがね」「そりゃまた、桃山さんにしては珍しく弱気な発言ですね。何かあったのですか」
「いや、おかげさまで桃山社中の運営の方が順調だよ。問題なのはこっちの方さ」
桃山は自分の頭を右手の人差し指でさして見せた。
「どういうことですか?」
「もう、私の頭がついていかないということだよ。恥ずかしい話なんだが、もうほとほと疲れてしまった。それで、今日の相談は君にも決して悪い相談ではないと思うんだが」
「提案と言いますと?」
「桃山社中を君に譲りたいんだ。どうせ後を任せるなら、本当に桃山社中を大切にしてくれる人間がいい。かつてはあこぎな経営をしていた自分がこんなことを言うのは調子が良すぎるとは思うんだが、やはり自分で作った会社だから、自分の子供のような気がしてね」「でも、私たち海援隊には桃山社中を買い取るだけの十分な資産はありません」
「誰が売ると言ったね。君に後を引き継いでもらいたいと言っているんだ。お金などもういらない。私は、引退するから、君が桃山社中を好きなように運営してくれれば、それでいい。私は桃山社中を完全に手放すつもりだから心配しないでくれ。つまり、無料だよ。世の中ただほど怖いものはないと言われるが、今回に関してはそんな心配は無用だ。仮にも教育に関わった人間としての最後の精一杯の良心だと思ってくれ。龍馬や新撰組の連中に首を取られたくないとびくびくしながら、善人を装うのにはもう疲れてしまったんだよ」「本気なのですか。あれだけ大きくした桃山社中を、私に?」
「ああ、君は非常に生意気で気に食わんところもあったが、同時に非常に頼れる存在でもある。私は桃山社中を預けられる人間で、君以外の人物を思いつかないんだ。どうか、この桃山勇の最後のお願いだと思って、素直に申し出を受けてはくれないだろうか」
西郷はしばらく考えていたが、思い立ったように襟を正して、はっきりと返事をした。
「わかりました。桃山さんの言葉を信じましょう。同じ坂本龍馬を尊敬する者同士として、あなたのことを信じましょう」
「いやあ、坂本龍馬のことは当分の間は忘れたい気分だ。もう十分脅されたしね」
「そんなことは言わないで下さいよ。あなたの最後の英断を、きっと天上の坂本龍馬も快く思っているに違いないのですから」
「もう私の枕元に立つことはないだろうか」
「そんな方ではないでしょう」
「それならいいんだがね。私は、親父と相談して、別の会社への就職を考えるつもりなんだ。もう経営者の立場もお役ご免になりたいんでね」
「そんな弱気な発言は、桃山さんには似合いませんよ。元気出して下さい」
「ありがとう。まさか、君に慰められるようになろうとは思わなかったよ。しかし、ここは本当に見栄も外聞も捨てて、君に心からお願いする。桃山社中をどうかよろしく頼む」 桃山勇の目から涙がこぼれ落ちた。西郷にはとても信じられない光景だった。桃山も一人の経営者だったのだ。
「桃山さん…。責任を持って桃山社中を預からせていただきます」
「名前は変えてもらっても構わないから」
「いえ、桃山社中は僕らを育ててくれた母親のような存在です。名前はそのまま使わせてもらいたいのですが、よろしいですか」
「そうか、そのまま使ってくれるか。私の名前が残るなんて、これほど名誉なことはない」「桃山さんも、新しい世界で活躍して下さい。僕は教員採用試験を受けることを断念しました。海援隊と桃山社中の経営に一生を捧げるつもりです」
「君は立派だな。初志貫徹という言葉があるが、実行するのは並大抵のことではない」
「やめて下さいよ。僕はいっかいの学生です。誠意を持って仕事をさせてもらっているだけですから」
「その誠意だよ。私に欠けていた一番大切な誠意だよ。だから君は頼れるんだ」
「桃山さん、そのお言葉ありがたく頂戴します。桃山社中は必ず守りますから」
冬の冷たい空気の中、西郷は少しあたりを散歩したくなって、近くの公園までぶらぶら歩いてみた。さすがに冬の公園は人気も少ない。ぽかぽか陽気の休日などは、家族連れの人々で賑わうはずの社交の場も、この季節には落ち葉が風に吹かれて舞うのが目にとまるほど、寂しい場所になっている。西郷は、その寂しい公園と現在の桃山勇の姿がだぶって見えた。飛ぶ鳥を落とす勢いでビジネスマンを気取っていた自信満々の桃山が、今ではすっかり疲れ切って肩を落としている。
ちょうどそのとき、近くを焼き芋屋の軽トラが通りかかったので、西郷はいくつか買って海援隊に戻ることにした。新聞紙で作った袋の中の焼き芋の温かさが、身に染み渡る気がした。自分たちの海援隊も、寒い冬の焼き芋のように、心温まる存在であり続けたい。西郷は桃山社中を譲り受けた話は、週末のミーティングまで伏せておくことにした。発表前にいろいろ整理したいことがあったのだ。 焼き芋を抱えて海援隊に戻った西郷を、歓声で迎えたのは、もちろん徳川秀子だった。「わあー、いい匂い。焼き芋ね。西郷君、わざわざ買ってきてくれたの」
「そうだよ、徳川さんがきっと食べたいだろうなあと思って、大枚はたいたよ」
「でも、本当に高かったでしょう。今年は天候異変で野菜の値段がものすごく高いの。ただでさえ、サツマイモの値段は高いのに、この大きさだと一本六〇〇円はしたでしょう」
「まあ、そんなところかな。値段の話はいいから、熱いうちに早く食べたら」
「ありがとう、西郷君。うわー、もう最高!私、今まで生きてて本当に良かったわ」
「大袈裟なこと言うなよ、芋ぐらいで」
「まあ、芋を馬鹿にしちゃいけないわ。昔の人たちは芋で飢えをしのいだんだから。つまり芋が日本を救ったの」
「何だか社会の先生みたいになってきたね。僕も一本食べようかな」
「どうぞ、召し上がれ。あら、あたしが買ったんじゃないのに、ごめんね。あっ、桂君と中岡君、ほら西郷君が焼き芋買ってきてくれたのよ。芋を馬鹿にしないで食べにいらっしゃいな」
二人とも、空腹だったらしく、駆け足でやってきた。
「うわーっ、うまそうだな。西郷君、いただいていいの」
「駄目だって言ったって、食べそうな勢いじゃないか」
「それじゃあ、遠慮なくもらうよ。中岡君ももらえよ」
「ああ。ちょうどおなかがぺこぺこだったんだ。西郷君が天使に見えるよ」
「みんな大袈裟だなあ。でも芋ぐらいでそんなに喜んでもらえるなんて、僕も嬉しいよ」
「こら、西郷君。芋を馬鹿にしちゃいけないってさっき言ったばかりでしょ」
「ごめんごめん。何だか母親みたいだね」
いよいよ週末の定例ミーティングの日がやってきた。西郷は重大発表をしなければならない。
「みんな、今日はちょっと重大な発表があるんだ。実は、桃山勇との話し合いの結果、桃山社中の経営を、我々で引き継ぐことになった。今まで黙っていて申し訳ない。いろいろ整理したいこともあったんで」
徳川秀子がすぐに質問した。
「ねえ、それって桃山社中を買い取ったということなの?それとも、桃山勇が塾頭のままで、うちの傘下に入ると言うこと?」
「いや、信じられないかも知れないけど、売買契約は一切ないよ。つまり、経営に疲れ切ってしまった桃山勇の最後の良心で、桃山社中をそっくりそのまま我々に引き渡すということなんだ」
「それは、信用できる話なのかな。桃山のことだから、また何かたくらんでいるっていうことはないのかい」
用心深い桂が発言した。
「うん、僕も最初はそれを疑ったんだけど、どうやら桃山の状態はかなり深刻らしい。ある国立病院の精神科に通っているという事実も確認したよ。それに、話し合いの時の桃山の目は真剣だった。生きた人間の目ではなかったけどね」
「西郷君がそう言うなら、信じよう」
「そこでなんだけど、海援隊の塾頭はこのまま僕が続けるから、陸援隊の塾頭を新たに中岡君に正式にお願いしたいのと、桃山社中の方は徳川さんと桂君に塾頭をお願いしたいんだ。桃山社中の経営方針は、徐々に海援隊と同様のものにしていくつもりなんだけど、そうすると陸援隊も規模を拡張して、桃山社中内にも新たにクラスを作る必要があると思うんだ。そういう計画を全て中岡君に任せたいんだけど、どうだろう」
「僕なんかでいいんなら、喜んでやらせてもらうよ」
将来は私塾の経営を夢見ている中岡にしてみれば、願ったりかなったりの話だった。
「もう一つ聞きたいんだけど、『桃山社中』っていう名前は、まさかそのまま使うつもりなの?」
桃山が大嫌いだった徳川秀子が怪訝そうな顔をしながら発言した。
「うん、そのつもりだよ。ほら、以前徳川さんも言っていたじゃないか。桃山社中は僕らにとっては出発点であり、母親のような存在だって。だから名前もそのまま残したいんだけど、問題があるかなあ」
「まあいいや。西郷君がそういうつもりで名前を残すなら、私も賛成する」
「それで、塾同士の関係なんだけど、桃山社中は海援隊の兄弟校という位置づけでどうだろう。そして、せっかく徳川さんと桂君に責任者になってもらうのに差し出がましいとは思うんだけど、最初に現在の桃山社中の講師たちに確認しておきたいことがあるんだ。だから、まず最初に僕が話をして、その方針に納得できない講師たちには辞めてもらうことにしようと思ってる。それでいいかなあ」
「もちろん、西郷君に全て任せるよ。僕らは新しい講師たちの採用から関わればいいんだよね」
「うん、桂君の言うとおりでいいと思う。それから、桂君は来年教員採用試験に合格して来年の春にはこの海援隊、いや桃山社中を去ることになるだろうから、塾頭は徳川さんにやってもらって、桂君にはその補佐役をお願いしたいんだけど、それでいい?」
「もちろんだよ。新しい改革だから、二人の力を合わせて、何とか西郷君の期待に応えられるように頑張るさ。ね、徳川さん」
「私が塾頭だなんて、大丈夫かしら」
「大丈夫だよ。桂隆太郎がしっかり補佐させていただきますから」
「徳川さん、桂君を頼りに何とか頑張ってみてくれないか。君なら大丈夫だよ」
「うん、わかったわ。私、精一杯頑張ってみる。これは女性の社会進出の布石にもなるわけだしね」
「それはちょっと大袈裟な気もするけど、でも女性の塾頭なんて、なかなかかっこいいんじゃない?」
「桂君、しっかり働いてよね」
「おいおい、お手柔らかに頼むよ。ところで西郷君、桃山社中の経営も月給制でいくつもりなの?」
「もちろんだよ。桃山社中と海援隊の格付けに差をつけるわけにはいかないと思うんだ。兄弟校である限りは、条件や経営方針は同じにしたい。もちろん、細かなアイデアに関しては塾頭の判断でどんどん実行してくれていいと思うけどね」
「週末のミーティングはどうするの?」
「どうだろう、両校合同で行うっていうのは。みんながお互いの意見を交換し合う場は必要だと思うんだ。だから一緒にやりたいんだけど、無理があるかなあ」
「そんなことないわ。お互いにアイデアの交換をしあう必要もあるし、それぞれの教室でどんな問題があるのか、情報交換をしておく必要もあると思うの。だから、ぜひ合同でお願いしたいわ」
「ほら徳川さん、もうきちんと塾頭らしい発言になってるじゃないか。だから大丈夫だって言ってるんだよ」
「あら、私偉そうなこと言っちゃった?」
「塾頭なんだから偉そうなことを言ったっていいさ。その代わり、発言にはしっかり責任を持って、まずは自らが範を垂れる精神でいかないとね。まあ、そんなことはとっくにわかってるだろうから、釈迦に説法になっちゃうけど」
「ううん、私に足りないところは、どんどん指摘して欲しいの。私は抜けてるから、みんなから監視されていた方が、緊張感も保てていいわ。みなさんよろしくね」
《桃山社中の新たな船出》
週が空けた月曜日に、西郷は桃山社中の現役講師たちを集めて、今後の経営方針などの説明会を実施した。
「みなさん、どうもご苦労様。私が海援隊塾頭の西郷です。もうお話はお聞きのことと思いますが、桃山勇塾頭の退職に及んで、私たち海援隊及び陸援隊が桃山社中の経営を引き継ぐことになりました。つきましては、いろいろな改革が必要になってきますが、今日は特にみなんの待遇面のお話をさせていただきたいと思います。早速ですが、今後の桃山社中では講師の給与は海援隊と同じく月給制になります。ですから、週に二日とか三日などの中途半端な勤務形態は認めることができません。つまりアルバイト形式の講師採用はしないということです。最初の一ヶ月間は研修期間として、月給は二十万円に押さえさせていただきます」
「あの、お話の途中でちょっと質問させていただいてもいいでしょうか」
講師の一人が月給二十万円という話に驚いて思わず発言権を求めた。
「いいですよ」
「あの、月給二十万円というとかなりの高額だと思うんですが、どうして我々学生にそんな報酬を出してくれるのですか」
「それは、労働に見合った報酬だと思うからです。その代わり、月給制に甘んじて向上心をなくすようなことがあっては困りますが、きっと皆さんのことですから、そんな心配はないと信じています」
「最初の一ヶ月は、ということは、月給はそれ以上になるということですか」
「もちろん、桃山社中の収益にもよりますが、基本的には三十万円から三十五万円の月給はお支払いできると思います。その代わり、アルバイト意識は完全に捨てて頂かないと困るんですが。学生の皆さんとしては、そこが問題だと思うのです。自分の大学の試験があっても、前日の勤務を休むことは許されませんし、塾で正式に勤務をしながら大学の勉強を続けていくのは、並大抵のことではないと思います。ただ、皆さんが研修しやすいように、教材類は充実させるつもりです。皆さんが授業で使う教材に関しては、前もって全て講師全員に支給しますから、前もって十分に教材研究もできます」
別の学生が申し訳なさそうに手を挙げた。
「あの、僕はどうしても他のバイトとの兼ね合いで、水曜日と金曜日だけ、授業ができないのですが、そういうのは許して頂けないということになりますか」
「申し訳ありませんが、桃山社中で正式に専任講師として仕事を続けるおつもりでしたら、別のアルバイトはやめていただかないと。そのために十分な報酬を保障するわけですからね。さあ、今お二人が質問してくれたおかげで、給与面の説明はこれで十分かと思いますが、今日一日よく考えて、今週末までに結論を出して下さい。従って、今週いっぱいは今まで通りの体制で授業をして下さい。残念ながら勤務の継続が不可能だと判断された方には、来週中に今までのお給料をお支払いするつもりです。それでは、他に質問がなければこれで終わりにしたいと思いますが、よろしいでしょうか」
「あの、すみません、もう一つ質問させていただいてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「僕は教員志望で、大学卒業後は採用試験に受かれば公立中学校の教員になるつもりなのですが、そういう人間は大学在学中だけでも専任講師として働かせていただくことは可能でしょうか」
「もちろん可能です。ここに勤務している間に精一杯働いていただけるなら、将来どんな夢をお持ちでも、それに関しては私たちは一切口を出すつもりはありません。桃山社中と海援隊は夢を育む場でありたいのです」
説明会が終わった後も、しばらくの間は場内はざわめきがやまなかった。それはそうだろう。時給制で働かされていた学生たちが、突然法外な月給を提示されたのだ。本当にこんなうまい話に乗っていいのかどうか、判断に迷うのは仕方ない。西郷たちが海援隊でやってきたことを、具体的に知っていれば安心して身を任せることはできただろうが、桃山社中の講師たちは海援隊の情熱など知る由もないのだ。
西郷は、アルバイトとして週に数回勤務してきた講師たちには、本当に申し訳ないと思っていたので、説明会では口にはしなかったが、辞めていく講師たちには、五万円ずつの退職手当を支給するつもりでいた。それがせめてもの感謝の気持ちだろう。どんな形にしても、この桃山社中を守ってきてくれた人たちであることには変わりない。その人間たちをむげに追い出すのは人の道に反していると西郷は強く感じていた。
結局、桃山社中で時間講師として働いていた二十八名の学生のうち、西郷の説明を聞いて専任講師として勤続を希望したのは十二人だった。選りすぐりの十二人だから、西郷はもちろん満足だ。不足している講師は、月給制と運営方針を宣伝して、新規募集すれば必ず集まる自信があった。
「月給制で学生に専任講師を任せている塾なんて、うちの他にはないわよね」
徳川秀子が一緒に桃山社中の再出発を図る講師たちの一覧表を見ながら、しみじみとつぶやいた。
「そうだね。でも、それだけの責任を果たしてもらっているという宣伝にもなるし、実際に相当な月給を保証していれば、いい加減な勤務は許されないことも、容易に理解してもらえることができるじゃないか」
「でも、他の塾は時間給の学生講師をやとって浮いた分の収益は、どこに使っているのかしら」
「多分、塾の規模を拡張するための準備資金にするつもりなんじゃないかな。新装開店前のパチンコ屋さんと一緒だよ。新装開店に巨額な費用が必要だから、絶対に出さない。それでも、パチンコ狂いの人たちが、快くお金を落としていってくれるんだ。時間給の学生講師たちなら、時給の安さが不満でやめたとしても、またすぐに新しい講師を雇うことができる。少なくとも他のアルバイトよりは時給はいいから、学生もそれにつられて簡単に応募してしまうんだろうね。そして、本気で子供たちと関わろうとして応募してくる数名の情熱のある講師たちは、塾の経営者たちにいいように利用されてしまうんだ。僕は、そういう経営体質が絶対に許せないよ。塾の規模なんか拡張しなくても、収益は十分に上げることができる。量より質だと思うんだ。海援隊や陸援隊、そして桃山社中を巣立っていった生徒たちが、やがて日本の将来を支える人材になってくれれば、これほど名誉なことはないじゃないか。下手な鉄砲数打ちゃ当たる式の大規模経営は、本当に教育を考えた塾経営とはほど遠いと思う」
「うちみたいに、集団指導と個人指導を両方やっている塾も最近は多いみたいね。友達に聞いたら、集団指導のごく一部のエリート教育が塾の宣伝になるから、その他大勢の生徒に関しては適当な授業ですましているそうよ。特に、個人指導を担当する学生たちは、ものすごく安い時給で働かされてるんだって。個人指導とは名ばかりの、インチキ経営だってその子は愚痴をこぼしてたわ。教材もまともにそろっていないから、各講師が適当に本屋で問題集を買い込んできて、それをコピーして使ってるそうよ。それって著作権法違反よね」
「そんなにひどいのか。そういう塾だって、最初は熱心で小さな私塾からスタートしたんだろうにね。やっぱり、組織が大きくなると血が腐るんだよ。うちは、そんな経営第一主義の塾にはならないように、心してかかろうね。歴史に残る私塾を作ろうよ」
「歴史に残る私塾なんて、何だかわくわくしゃちゃうわ」
「でも、そのためには、僕らも必死で勉強しなくちゃね。いずれは、僕らが自主編集したテキストを作って、それも宣伝文句にできるようにならなくちゃいけないと思う」
「よその塾だと、どこどこ高校に何名合格したとか宣伝してるけど、うちはどうするの」
「そんなの関係ないよ。どこの高校に行ったって、頑張る子は頑張るし、頑張らない子はさぼるだけ。いつまでも他人に頼って勉強できる訳じゃないし、大器晩成という言葉だってあるじゃないか。有名進学校への合格率を競うような塾関係には首は突っ込みたくはないね。それよりも、生徒たちが本当に勉強の楽しさを知って、自主的に勉強をするようにし向けることが僕らの仕事だと思ってる。だから、うちはそういう宣伝はしないよ」
「他の塾とは一線を画するわけね。でも、そういう理想的なことを掲げていて、この業界で生き残っていけるのかしら」
「それはわからない。何が本物で何が偽物か見抜くことができる保護者が多ければ生き残ることは可能だろうし、そうでなければ生き残ることは難しいかな」
「やだ、そんな自信のないこと言っちゃ困るわよ。私はここに人生をかけてるんだから」「だから、必死に頑張ればいいんだよ。同じ志を持つ者は必ず集まるはずさ。そういう力を結集して、教育界に一石を投じることが僕らの使命だと思って頑張ろうよ」
「西郷君って、本当に坂本龍馬みたいな人」
「よせよ、そんなこと言ったら龍馬が怒る」
若い息吹は教育界への殴り込みをかけた。果たして「平成維新」がなるかどうか。天上では龍馬や勝海舟が満足そうに二人の会話を聞いていた。桃山社中の再出発である。
《あとがき》
公教育への不信感をぬぐうために、文部科学省は数次にわたる改革を実行したが、思うような結果がなかなか得られずに、教育現場は混乱を深めている。新しい改革の結果がすぐに目に見える形で現れるわけもないのに、なぜ教育者たちは焦るのか。自信を持って実行した改革なら、「学力の低下」などと世間が騒いでも、「十年後の若者たちを見て欲しい」くらいの堂々とした答弁ができなくてどうするのだろう。
そんな混迷の度合いを深める公教育に不信感を持った親たちは、我先に私塾選びに走ることになった。大手進学塾は、この不景気な時代にあっても一向に経営不振に陥ることはないようだ。しかし、その経営実態を見れば驚くようなことは山ほどもある。広告のチラシに謳われていることが、全て真実ならば本当に理想的な教育だと言えなくもないが、広告に不利なことを書く塾があるはずもなく、実際に入塾してみれば、学校と大して変わらない授業をやっている場合も少なくはない。ただ一クラスの人数が少ないことと、勉強に対する意欲を持った生徒が集まっているから効果を上げているだけなのに、「さすが塾の教育は学校とは違う」などと、とんでもない勘違いをしている人々が親の中にも塾関係者の中にも大勢いるのを見て苦笑せざるを得ない。もし、私の言っていることが間違っていると思ったら、有名な塾の名物講師を学校に送り込んで一週間でいいから授業を持たせてみればいい。下手をすればノイローゼになって帰ってくるかも知れない。学校の集団授業は、一般の人々が考えるほど簡単なものではないのだ。やる気のある子もない子も、家庭の問題を抱えている子も抱えていない子も、大人に不信感を持っている子もいない子も、みんなごっちゃになって一つのクラスが作られている。その子たちに、秩序だった授業を受けさせることは想像を絶するほどの難しさだ。批判されることが多い学校の教師たちだが、その困難な集団授業を、いとも簡単にこなしてしまう教師は少なくない。駄目な教師も大勢いるが、優秀な教師も世間が想像する以上に多いのだ。そして、私塾には想像を絶するほどひどい講師も大勢いる。これは、講師の責任ではなく、安い時給で適当に使い捨て講師を採用している経営者側の問題だ。
結論から言えば、塾だ学校だとお互いに縄張り争いをしている暇などないくらい、今の教育界は多くの問題を抱えている。塾には塾の使命があるし、学校には学校の使命がある。それを、何を勘違いしてか、お互いにライバル意識を持ちすぎるあまり、子供たちの前でお互いの悪口を言い合う講師や教師がいる。何と愚かなことか。好きな先生や講師の悪口を言われて、快く思う生徒たちがいるだろうか。なぜ、子供たちに他人を批判する姿勢を植え付けようとするのだろう。子供たちが塾の講師や学校の先生の悪口を言ったら、「みんな苦労して教えてくれているのだから、そんな事を言ってはいけないよ」と、ごくごく常識的な注意ができる人間が、この教育界にはいかに少ないかを知ると、愕然とする。
塾で働いている学生講師たちは非常に純粋である。しかし、長く働けば働くほど、宗教的な塾の魔術にかかってしまう。世間もろくに知らない若い人たちが、教室長になり、地域長になる。常識はずれの若者たちが、いかにも立派な背広を着込んだ瞬間に、自分たちが教育界の頂点にでも立ったような錯覚に陥るのだろうか。そんなでたらめが経営が行われていても、ごく少数のエリート生徒たちが立派な業績を残してくれれば、それが塾の大宣伝になり、黙っていても入塾を希望する生徒たちが後を絶たない。生徒も保護者も、塾は自分を変身させてくれる魔術など持ち合わせていないことに早く気づくべきだ。
塾にも学校にも、良心的で熱心な教育者はたくさんいる。そういう人間に出会えた生徒は幸運だろう。教育とは「詰め込む」ことではなく、可能性を「引き出す」ことなのだが、大学の教職教養講座で習うそんな基本的なことさえ、認識していない人間が、現在の教育界には多すぎるのだ。有名校に進学させることが至上命題で、それがなければ塾の経営ができないと思っている人たちには、ぜひ海援隊の西郷たちの奮闘ぶりを見てもらいたい。偽物のメッキはやがてはがれてしまうが、西郷たちの心のこもった教育は、生徒たちの心に深く浸透していくだろう。学生とは言え、「先生」と呼ばれた瞬間にプロ意識を持たなければならない。教育産業にアルバイトなど存在してはいけないのだ。本書の中の月給額はあまりにも高額すぎるかも知れないが、それほどの好待遇をしてこそ、始めて優秀な人材が集まることを考えたい。なぜなら、私塾の運命は教材の良さと講師の質で決まってしまうからだ。この小説は、世の中で頑張る全ての若者たちに捧げたい。