『禁断の果実』   
 
出会い
 坂井裕一郎はいつものように空き教室の見回りをしていた。授業を離脱した生徒がどこでたむろしているかわからない。最近中高生の残虐な犯罪のニュースを見るにつけ、裕一郎自身、たった一人で「パトロール」することにいささか危険を感じ始めていた。
 ちょうど裕一郎が二階から一階への階段を下りたとき、すぐ脇の女子トイレの中から何やら物音が聞こえたような気がした。裕一郎は一応声をかけてから中に入っていった。
「おい、誰かいるのか?先生、入るぞ」
 女子トイレの中にはタイル張りの通路を挟んで、個室が5つ設置されているが、その一番奥のブースから紫煙が立ち上っている。裕一郎はその個室のドアを軽くたたいて声をかけた。
「おい、中に入っているのは誰だ?具合でも悪いのか?しかし、それにしてはたばこ臭いのはおかしいなあ。さっさと出てき…」
 裕一郎が先生としての決まり文句を言い終えるか終えないうちに、中からうさんくさそうな顔をした、いかにもツッパリ姉ちゃんという風体の女生徒が姿を現した。
「うっせえなあ。人がゆっくり一服してりゃあがたがた文句をいいやがって。別にあんたに迷惑をかけてるわけじゃねえんだから、あたしが何をしようと勝手だろう。先公ぶって説教なんかたれてんじゃねえよ。」
「おいおい、いきなりごあいさつだなあ。お前、あまり見たことない顔だけど、うちの学校の生徒か?」
「あんたさ、いい加減うぜえんだよ。自分の学校の生徒の顔もわかんないで、よく先公やってられるじゃん。あたしの名前を知らないってことは、あんた新人?」
「ああ、今年の4月に採用されたばかりの、ほやほやの新人さ。僕の名前は坂井裕一郎。2年生の社会を担当してる。よろしく」
 一方的に、しかもトイレの中で自己紹介されて桃川こずえは拍子抜けしてしまった。
「あんたおかしんじゃないの?あたしはね、ここで授業ぬけてたばこをふかしてたんだから、まずは注意するのが当たり前なんじゃねえの?」
「そうか、すっかり忘れてたよ。お前、こんなところでたばこなんかすってちゃだめじゃないか」
「まったく変な先公だなあ。今頃注意したっておせえよ。証拠のたばこはとっくに燃え切ってしまったじゃねえか。それでよく教師がつとまるよねえ。あんたもう来年はこの学校にいないんじゃねえの」
「お前、いや君は3年生だろう?それじゃあ君だって来年はもうこの学校にいないじゃないか。お互い様だよ」
「あんた馬鹿じゃないの。あたしはね、卒業するんだよ。あんたはさ、クビになるの、クビに。意味わかってんの?」
「クビはちょっと困るなあ。まだ先生になったばかりだし、それじゃあ家族が食っていけなくなる。どうだ、今日のところはお互いに誰にも言わないと言うことで取引しないか」
「先公が生徒と取引なんかしていいのかよ。あんた暴力団の出身かなんか?」
「いいや、れっきとした一般人さ。ただ給料をもらえなくなるのは困るんだ」
「あんたもう結婚してるんだ。ふ〜ん、学校の先公なんかと結婚する女の気が知れないね」「学校の先生じゃそんなに駄目かなあ」
「別に駄目って事はないけどさ、先公なんかと結婚したら、家で安心してたばこも吸えないじゃん。いつも見張られてるみたいで、そんなのごめんだね」
「うちの女房はたばこはすわない」
「誰があんたの奥さんの話なんかしたのさ。あたしはね、一般論を言ってるの。一般論を」「ツッパリにしてはずいぶん難しい言葉を知ってるんだな」
「あんたさあ、人をなめるのもいい加減にしろよ。あたしだって勉強してればそれなりに成績取れるくらいの頭は持ってんだよ」
「そうか、まあいいや。こんなにおうところで世間話もなんだから、隣の空き教室にでもいかないか。僕もさ、パトロールにもそろそろ飽きてきて、暇なんだよ。話し相手になってくれると嬉しいんだけど」
「あんた本当にうちの学校の先生?変なやつだなあ。まあいいか。あたしも暇だからつきあってやるよ」
 こずえは自分でも気づかないうちに裕一郎のペースにすっかりはめられてしまった。それが証拠に、さっきまでは裕一郎のことを「先公」呼ばわりしていたくせに、もう「先生」になっている。もちろん、こずえはそんな自分の気持ちの変化には気づいていない。 裕一郎は新人の教師などではない。前任校に5年いて、そこで職場結婚したために今の横浜みなと高校に転勤してきたのだった。もちろん、生徒指導を「技術」だなどとは考えるタイプの教師ではなく、裕一郎の人柄が自然と生徒たちの心をほぐしてしまうのだ。それに、前の学校はみなと高校とは比べものにならないほど荒れていたので、裕一郎にとってこずえのような生徒と接するのは慣れたものだった。
 二人はゆっくりと女子トイレのとなりの空き教室の中に入っていった。南側に面した窓からは明るい夏の日差しが差し込んでいる。裕一郎は少し陽の当たらない涼しそうな席を選んで腰を下ろした。
「先生の名前、何って言ったっけ」
「坂井裕一郎だよ。君の名前は?」
「私は桃川こずえ。ちょっと迫力ない名前だから恥ずかしいんだけどさ。ねえ先生、あたし先生のこと祐ちゃんって呼んでいい?」
「うん、うちの女房もそう呼んでるから、女房に内緒にしてくれるなら呼んでもいい。」
「よし決まりね。祐ちゃんもあたしのことこずえって呼んでいいよ。あたしには彼氏はいないから堂々と呼んでいいからさ」
「こずえ…か、いい名前だな。ほら、小鳥が疲れた体を休めにやってきて止まるのが木の梢じゃないか。人を幸せにしてあげられそうな名前だよ」
 こずえは自分の名前を褒められたことなど初めてだったので、ちょっと恥ずかしかった。だいたい、今までの人生の中で学校の先生に褒められたことなど一度もないのだから、どう返事をしていいのかわからない。こずえは少しだけほおを赤くして下を向いていた。
「先生、何か悪いことでも言ったか?」
「そうじゃないよ。あたし、学校の先生にほめられたことなんか今までたったの一度もなかったからさ。なんか変な気分でさ」
「君、いやこずえみたいに素直な子がどうしてツッパリなんかやってるの?」
「あたしが素直?祐ちゃんどうかしてるんじゃないの。あたしは全然素直なんかじゃないよ。大人なんかちっとも信用してないし、仲間だって信用なんかできないんだから」
「大人は信用できない?」
「だってさ、あたしなんて子供の頃からお母さんに連れられてずっとパチンコ屋で遊んでたんだよ。夜は閉店までいるから、真っ暗な駐車場でひとりぼっちで遊んでた。そんな母親っていると思う?それに、うちのお母さんはどんどん男を変えるから、あたしは誰の子なのかちっともわかんない。」
「そうだったのか。僕は、普通の家庭に育ったからこずえの苦労なんかちっとも理解できなくて申し訳ないんだけど、もし僕が梢の立場だったら、とっくに家出してるかな」
「あたしだって何度も家出は考えたけど、お母さんをひとりぼっちにして逃げるわけにもいかないしね。一応は母親だからさ」
 裕一郎はこずえの優しさが身にしみる思いだった。こんなに心の優しい娘が、どうしてツッパリ街道を走らなければならないのだろう。しっかりした家庭に育っていれば、きっと普通の高校生活を送っていたに違いないのに。しかし、裕一郎にはこずえの家庭環境をどうにかすることなどとうていできるはずがなかった。
「こずえは、そんな状況の中でよく休まずに学校に来るな。先生なんか、たまにさぼってどこかに遊びに行きたくなることがあるんだよ。女房をたまには旅行にでも連れて行ってやりたいしね」
「ねえ、祐ちゃんの奥さんてどんな人?美人で優しいの?それとも怖い?」
「そうだなあ、世界で一番優しい人かな。こずえはどうか知らないけど、うちの女房は子供の頃からずっと親の虐待を受けていたんだ。だから今でもその心の傷が治りきっていなくて、ずっと心療内科にかかってるんだよ」
「奥さんの名前は?」
「由美子っていうんだ。先生にとってはかけがえのない女性だよ」
「いいなあ、そんな風に男の人に愛されるなんて。あたしなんかきっと一生そんな男には巡り会わないよ」
「そんなことないさ。こずえだって十分優しいじゃないか。世の中にはこずえの良さをわかってくれる男の人が必ずいるはずだよ」
「祐ちゃん、本当にそう思う?」
「ああ、思うさ。自慢じゃないけど、先生は女性を見る目だけは確かなんだ。そうだ、今度先生の家に飯でも食いに来ないか?由美子と二人で大歓迎するからさ」
「本当にいいの?あたし、そんなことしてもらうの初めてだよ。嘘だったらちょうししないからね」
「嘘なんかつくもんか」
 人と人との出会いとはかくも不思議なものなのかと裕一郎はつくづく思った。暇をもてあまして校内をさまよっていて、天使のような女生徒と出会うなんて。それも見かけは立派なツッパリ姉ちゃんなのだから、それをおもうと裕一郎はなぜか愉快な気持ちになるのだった。
 
初めての団らん
「そのこずえっていう子、よっぽど優しい娘なのね。あなたの話し方を聞いてるとよくわかるわ」
「そうなんだ。父親が何人も変わって、家には次々に違う男が父親と名乗って居座るらしいんだけど、よく家出もしないで我慢してると思ってさ」
「お母さんのことが好きなのよ」
「でも、小さい頃からパチンコ屋に入り浸りでどうしょうもなかったって言ってたよ」
「その子きっとお母さんの女としての苦労を感じてるんだわ。だから自分で守ってあげたいと思ってるんじゃないかしら」
 由美子はそう言って考え込んでしまった。由美子に対して父親が暴力を振り始めたのは由美子がちょうど小学校4年生のときだった。会社が倒産して、酒浸りの毎日が続くうちに、母親と由美子に暴力をふるって憂さを晴らすようになったのだ。由美子は何度も家出を考えたが、かわいそうな母親一人を残して自分だけが安全な場所に避難することはできなかった。由美子がこずえの気持ちを理解できたのはそのためだったのだろう。裕一郎は沈んだ顔をしている由美子を見て、思いっきり話題を変えようと思った。
「ねえ、今度の日曜日、八景島の水族館に行ってみないか。新しい水槽もできたみたいだし、僕もずっと行ってみたかったんだ」
「あなた、学校の部活動の方は大丈夫なの?」
「ちょうど試験前でお休み。今回は試験問題も早めに作っておいたから、一日中水族館にいても平気だよ」
「嬉しい!二人で出かけるのなんて久しぶりだものね。私何着ていこうかなあ」
 裕一郎は由美子の無邪気な笑顔が何より嬉しかった。父親から受けた暴力がトラウマになってしまっている由美子は、ほぼ完治しかけているとはいえ、まだ薬の世話にならないと自律神経が狂ってしまう。そんな由美子が裕一郎は不憫でならなかった。
「ところであなた、こずえちゃんをいつお食事に招待するの?」
「そうだなあ、それじゃあ土曜日の晩なんかどうだろう。どうせあいつのことだから試験勉強なんかしないだろうし」
「あらあら、学校の先生がそんなこと言ってていいのかしら」
「今回は特別だよ」
 
 こずえは約束通り土曜日の晩に裕一郎のマンションにやってきた。学校で制服姿のこずえを見ると、明らかにツッパリ姉ちゃんなのだが、私服を着たこずえは少し大人びて、立派な女性に見えた。
「おいおい、なんだかいつもとずいぶん雰囲気が違うじゃないか」
「裕ちゃん、あ、いけない、先生あたしのことちょっとは見直した?」
「ちょっとどころかだいぶ見直したよ」
「あらいらっしゃい。あなたがこずえさんね。主人からよくお話は聞いてるわよ。かわいいお嬢さんなのね」
 こずえは「お嬢さん」などと言われたことはもちろんない。ただただ照れるばかりで、どう返事をしていいかわからなかった。
「あのう、本当にお邪魔じゃないんでしょうか。あたしみたいなのが来て、本当は迷惑なんじゃないんですか?」
「何を言ってるの。さあさあ、おなかがすいたでしょう。早く入ってちょうだい」
 こずえは由美子の言葉に従ってダイニングキッチンに入ろうとして、そばに電信柱のように突っ立っていた裕一郎に小声でささやいた。
「裕ちゃん、じゃない先生、奥さんすごい美人だね。この幸せ者!」
 こずえに思いっきり足を踏まれて裕一郎は思わず悲鳴を上げそうになった。
「わあ、すごいごちそう。あたしの家ではこんなの絶対に不可能。これ全部奥さんが作ったんですか?」
「私ね、料理ぐらいしか取り柄がないの。このテーブルの上のもの、全部食べていってちょうだいね」
「いただきま〜す」
 こずえはしきりにおいしいおいしいと料理を褒めながら、若い食欲を存分に満たしていった。こずえにとっては、本当にこんな幸せな食卓につくのは初めてだったのだ。
「あ〜、おなかいっぱい」
「さすがに若いわね。びっくりするくらい食欲があってうらやましいわ」
 心の底から嬉しそうに微笑む由美子の顔を見ていて、こずえは突然泣き出してしまった。「おいおい、こずえったら泣くほどおいしかったのか?」
「あなたったら、失礼なこと言うものじゃないわよ。こずえさんの気持ちもわからないようじゃ、先生として失格ね」
「そうだよ、裕ちゃん、じゃなくて先生は失格だよ」
「変なやつだなあ、こずえも」
 こずえの気持ちは裕一郎も痛いほどよくわかっていた。初めての団らんに思わず感激の涙をこぼしてしまったのだろう。だから余計にとぼけてその場を繕おうとしたのだ。妻の由美子にしても、裕一郎のそんな芝居はとっくに見抜いていたのだった。本当に息のあったいい夫婦である。
「あのう、あたしもう帰らないと」
「そうね、遅くなると帰り道が危ないから。裕君、こずえちゃんを送っていってあげて」
「ああ、そうするか。お嬢様に何かあったらいけないからな」
「あたしなら大丈夫。夜の一人歩きは慣れてるから」
「だめよそんなこと言ってちゃ。世の中には悪い人がたくさんいるんだから、こずえちゃんみたいな若い娘は十分注意しないと」
「は〜い、それじゃあ裕ちゃん、じゃなくて先生そろそろ行きましょうか」
「何だこいつ、偉そうだな」
 
 裕一郎のマンションとこずえの家は、歩いて十五分ほどの距離だ。寄り添ってゆっくり歩いている二人の姿は、恋人同士とも親娘とも見えたかも知れない。
「裕君だなんて、奥さんも裕ちゃんのこと大好きなのね。いいなあ、あたしも奥さんみたいに誰かのこと大好きになってみたい」
「だから言ってるだろう。あわてなくたってちゃんと神様がこずえにふさわしい男性を用意してくれているって」
「神様だなんて、裕ちゃんはキリスト教徒なの?」
「いいや。僕はれっきとした仏教徒さ。でも日本人は神様も信じてるってことでいい」
「まったく社会の先生のくせにいい加減なんだから」
「どうだ、今晩は楽しかったか?」
「うん、とっても楽しかったよ。ところで裕ちゃんの奥さんは何かお仕事してるの?」
「知り合った頃はね、大手航空会社のフライトアテンダントだったんだ。国際線に勤務してたから、仕事は大変だった。そのうち体調を崩しちゃって、今は保育士の資格をとって保育園の保母さんをやってるよ。子供が大好きみたいでね」
「それじゃあ、裕ちゃんが頑張って子供を作ってあげればいいじゃない」
「そう簡単に言うなよ。これも神様が決めることだから仕方ないんだってば」
「また神様か。裕ちゃんはキリスト教徒の仏教徒ね。でも、あたし裕ちゃんのこと大好きだよ。もちろん裕ちゃんの奥さんもね」
「そりゃあどうも。僕もこずえのことが大好きだ。何だか、おてんばの妹ができたみたいな気がするよ」
「おてんばって何?」
「そうだなあ、いい子ってことさ」  
「ふ〜ん、そうなんだ」
 世代の差が少しばかり言葉の壁を作っていたが、こずえは無理矢理納得してしまった。「裕ちゃん、もうここで大丈夫。今日は本当にありがとね。あたし、忘れないよ、裕ちゃん夫婦のこと」
「おいおい、まだ卒業でもあるまいし、そんな言い方は大げさだ」
「そうか。じゃあ、卒業の時また言うから」 こずえの屈託のない笑顔を見て、裕一郎は何とも言えない気持ちになった。どうしてこんなに純情な娘が不運な人生を歩まなければならないのか。世の中は本当に不公平にできている。でも、こずえには絶対に幸せな未来が待ってるに違いないと裕一郎は信じたかった。そうでなければ、あまりにもかわいそうだ。由美子といいこずえといい、心の優しい人間に限って苦労を背負うようにできているのが世の中の常らしい。そう考えると、裕一郎は二人のためにも、一生懸命働こうという気持ちになるのだった。
 
基本的人権の尊重と憲法第九条
 裕一郎の勤務する横浜みなみ高校は、県内でも中程度のレベルを維持する私立高校である。最近の傾向として、自分のレベルより一つ上の県立高校に合格しなかった生徒が、県立に見切りをつけて入学してくることが多くなった。それ故に、授業中の発言もなかなか活発である。裕一郎が返答に困ってしまうこともたびたびあった。しかし、裕一郎は議論ができない最近の高校生の中にあって、真剣に疑問を投げかけてくるみなみ高校の生徒たちが好きだった。自分が追いつめられると、何とか答えを出してやろうと裕一郎もやっきになるのだ。それが裕一郎にとってはプラスの刺激になっていた。
「日本国憲法には基本的人権の尊重が明記されていることは知っているね」
「先生、会社から突然リストラされてしまったようなサラリーマンは、基本的人権を無視されていることにはならないんですか?」
 最初に鋭い質問を投げかけてきたのは、天才肌の峰岸孝史だった。
「そうだなあ、確かに基本的な人権を尊重されていないことにはなりうるが、再就職する機会まで奪われてしまったわけではないからそれで憲法違反だと主張することは少し難しいかも知れないね」
「セクハラも基本的人権の尊重に違反するわよね」
 発言したのは、テニス部のエース佐々木静香だった。
「お前の場合は、自分からミニスカートはいたりして、男を挑発してるんだから、セクハラなんて言う権利ないんじゃないのか?」
 静香の言い分に異議を唱えたのは剣道部の太田浩一だった。
「なあみんな、こいつのスカートが短いんだから、ついつい覗きたくなっても仕方ないよなあ」
「おいおい太田、そういうのもセクハラ発言になるんだぞ。今の時代は発言も慎重にしないととんでもないことになる」
「何だか面倒くさい世の中だなあ」
 太田浩一は少しばかりむくれている。そして思いついたように裕一郎の度肝をつくような発言をしてきた。
「先生、ほらあの3年の桃川っていう元気な姉ちゃん知ってるでしょう。あいつね、援助交際やってるってもっぱらの噂だよ」
「そうそう、それ私たち女子の間でも噂になってる。街で中年のおやじと一緒にホテルに入っていくのを見たって子もいるのよ」
 ミニスカートの佐々木静香が興奮したように後に続いた。
「みんな、ちょっと待ってくれ。そういうのははっきりした証拠もないのに他人の中傷をする行為だから、名誉毀損になるんだ。それだって基本的人権の侵害なんだぞ」
「援助交際やってるやつにも、基本的人権が認められるわけ?」
 太田浩一はいかにも不服そうだ。
「その通りさ。どんな人間にも基本的人権が認められていなければ、憲法としての価値がなくなってしまうじゃないか」
「何だか世の中は難しいなあ」
 太田浩一はもう議論するのをあきらめたようだった。
「でも先生、援助交際の噂があるのに、それを放っておくのはまずいんじゃないですか?」 佐々木静香は正義の騎手になっている。
「まあ、その件は本人のプライバシーにもかかわることだから、これ以上ここで議論するのはやめて、後は先生に任せてくれ。ところでみんな、日本の憲法には世界からも注目されている第九条があるのを知ってるな」
「ああそれ、戦争の放棄をうたった条文ですね。でも、先生もうすぐ第九条は修正されるんでしょう?」
 物知りの峰岸孝史が発言する。
「確かに、今はピンチかも知れない。憲法第九条が修正されると、日本は正式な軍隊を持つことができるようになって、韓国のように若者に徴兵制度が適用される可能性も出てくるかも知れないんだ」
「本物の銃が撃てるなんて、何だかわくわくするなあ」
 サバイバルゲームに夢中になっている遠山健一が目をらんらんと輝かせて言った。
「先生、おれ徴兵制大賛成です」
「遠山も単純だなあ。徴兵制度っていうのは君が普段楽しんでいるようなサバイバルゲームとは訳が違うんだぞ。逃げ出したくなるような厳しい訓練が毎日のように続くんだ。だから韓国の若者たちも、できるだけ徴兵制度を免除されるように願っている。それに、いざ戦争が起きたら真っ先に戦場に送り込まれることになるんだぞ。サバイバルゲームは戦闘服にペイントが付くだけで終わりだけど、戦争では銃弾に当たったらそれでおだぶつだし、地雷を踏んだりして手足が吹っ飛んだりもするんだ。すぐそばで迫撃砲の砲弾が爆発すれば、内蔵が飛び出すことだってある。ゲームの世界とは大違いなんだ」
「先生、そんな話怖いからやめて下さい」
 文芸部の西田知子が泣きそうな顔で懇願した。どちらかといえば、お嬢様育ちの雰囲気を漂わせた生徒だった。
「そうか、それは悪かったね。ただね、先生だって戦争を直接経験した世代ではないんだけれど、実際の戦争はゲームの世界のきれい事とは大違いだということを知っておくことはとても大事なんだよ」
「憲法第九条は、やっぱりそのまま残しておいた方がよさそうだなあ」
 サバイバルゲームが大好きなはずの遠山純一も裕一郎の話を聞いてすっかり弱気になっている。
 いつものように活発な議論が行われたいい授業だったが、裕一郎の頭の中は援助交際をやっているという桃川こずえのことでいっぱいだった。本当なのだろうか。本当だとしたら、何か事情でもあるのだろうか。裕一郎は放課後こずえに直接聞いてみようと思った。
 
密談
 ここは、横浜中華街にある有名料理店の一室である。テーブルを挟んで向かい合っているのは、横浜みなみ高校PTA会長の佐々木雄三(佐々木静香の父親)と県会議員の自主党金澤三郎。どうやら、坂井裕一郎の社会科の授業の内容が問題になっているらしい。
「佐々木君、その坂井っていう男は、どこかの政治団体にでも属しているのかね」
「いやあ、娘の話ですとそこまで偏った授業はしていないようですが」
「しかし、学校の教師ともあろうものが、憲法論議を授業中に自由に展開するというのはちょっと問題だなあ。憲法第九条の改正問題は我が自主党の命運を分ける重要な案件でもあることだし」
「いかがいたしましょうか」
「その坂井には何か他に弱点はないかどうかまずはじっくり探ってみることだね。もし重大な弱点が見つかれば、それを理由に学校をクビにすることもできるじゃないか」
「なるほど、さすがは金澤代議士ですな。そのくらいの悪知恵が働くようでないと、自主党の幹部は務まりませんからね」
「おいおい悪知恵はないだろう。政治には駆け引きがつきものなんだよ。坂井などというどこの馬の骨ともわからない若造に、生意気な口をきかせてたまるものか」
「ただ、娘の話ですと、坂井は生徒にはだいぶ人気があるようで、スキャンダルになるようなことが果たしてありますかどうか」
「佐々木君、人間誰しもすねに一つや二つの傷はあるものだよ。そこをしぶとく探索するのが政治家の役目だ」
「まあとにかく、知り合いの探偵社に依頼して密かに調査をさせましょう」
「しっかり頼んだよ。私の言うとおりにしていてくれれば、みなみ高校への助成金もまた増額させるように手配しようじゃないか」
「そのお言葉を待っておりました。金澤代議士のおかげで、わがみなみ高校は年々名声を博してきておりますのでね」
「まあ、私に任せておきなさい」
 
 そんな密談が行われているとも知らずに、裕一郎は放課後の水泳部の練習が終わると、中華街の喫茶店にこずえを呼び出して、例の件を問いただして見るつもりだった。もちろん、坂井にはしっかりと尾行がついている。
 
援助交際
 裕一郎が約束の喫茶店に着いたときには、すでにこずえはテーブルについて暇をもてあましていた。
「ごめんごめん、水泳部の練習が伸びちゃってさ。ずいぶん待たせたか?」
「そうだね、ずいぶん待ったかな。モスコミュールでいいよ」
「そんなことができるか。こずえはまだ高校生なんだから、ミルクにしなさい、ミルクに」「冗談よ、裕ちゃん。あたしは、オレンジジュースにしようかな」
「それじゃあ、僕はソルティードッグ」
「ずるいよ、裕ちゃんは」
「僕は、立派な成人だから、誰からも文句は言われないさ。でもこずえがかわいそうだから、今日のところはアイスコーヒーにでもしておくか」
「ところで裕ちゃん、あたしに何か用でもあったの?あたし、また何か悪いことでもしちゃった?」
「いやあ、そういう訳じゃないんだけどな、ちょっとこずえのことで悪い噂が流れてるもんで、直接こずえに確認しようと思ったんだよ。その噂っていうのは、あのな、その…」
「援交のことでしょ。それ、本当だよ。まだ4、5回しかやってないけどね」
「4、5回って、そういう問題じゃないだろうが。また何で援交なんかやったんだ?」
「お金よ。うちのお母さんはみんな男にお金をつぎ込んじゃうから、うちは生活費もないときが多いの。お金がなくちゃ飢え死にしちゃうじゃない。だからしかたない」
「仕方ないって、そんなに困ってたんなら、先生に相談してくれればいいじゃないか。こずえも水くさいなあ」
「裕ちゃん、あたしだって一人の人間としてのプライドっちゅうもんがあるの。いつもいつも裕ちゃんに頼ってなんていられない」
「だけど、援交は立派な犯罪だぞ」
「あたしにはどうでもいいことだわ」
「こずえ、お前いつ…」
「初体験のことが聞きたいのね?あたしのは悲惨だったわ。小学校6年生の時、お母さんが連れ込んできた男に無理矢理犯されたの。中2の時は次の男にも犯されたわ。男ってみんなそうなんでしょ?女を見れば、子供でもやりたくなるんでしょ?」
「そんなことはないよ。そういうやつばかりじゃない。でも、こずえはずいぶん辛い思いをしたんだな」
「別に何も感じなくなっちゃった。だから援交なんて、あたしにとってはどうってことないの。あたしの体はもうとっくの昔に汚れちゃってるんだから」
「だめだよ、そんなこと言っちゃ。人間の過去なんて何の価値もないんだ。大事なのはいまなんだから、自分のこともっと大事にしなくちゃだめだよ。どんな人間にだって、人に言えないような恥ずかしい過去はあるもんさ。先生にだってある。だから援交なんかもうやめてくれないか」
「でも、どうやってお金を稼いだらいいの?」「それは先生に考えさせてくれ」
 
 裕一郎には一つだけ考えがあった。もちろん裕一郎と由美子の収入を合わせても、マンションのローンやその他の生活費、それに由美子の治療費や水泳部にかかるもろもろの費用などを差し引いてしまえば、こずえの生活を助けてやれるほどの金額が残るわけでもない。それに、由美子に無理な相談をして、まだトラウマが完全に直りきっていない妻に余計な精神的負担をかけたくはなかった。そこで、裕一郎は一週間に三回だけ、学校の特別な研究会があると由美子に嘘をついて、道路工事などの日雇いの仕事をすることにした。もちろん近場でやるわけにはいかないので、わざわざ川崎市まで足を伸ばしての仕事になる。水泳部の指導でくたくたになった後の肉体労働だったので、さすがの裕一郎でも音を上げたくなることが度々だった。
 
疑惑
 裕一郎は中華街の中のいつもの喫茶店でこずえを待った。こずえは、乱れた生活に慣れきっているにもかかわらず、裕一郎との約束の時間に遅れることはまずなかった。
「裕ちゃん、待った?」
「いいや、ついさっき来たばかりだよ。」
 裕一郎は、テーブルの向かい側に座ったこずえに白い封筒を手渡した。
「これ、今月の分だ。ちゃんと計画的に使うんだぞ」
 こずえが目を白黒させて封筒を開けると、中からは一万円札が6枚も出てきた。こずえはびっくりしてなかなか声が出ない。
「裕ちゃん、こんなにたくさんのお金どうやって作ったの」
「大蔵省の印刷局に行って印刷してきた」
「あたしのこと馬鹿にしてるでしょう。こんなにたくさんのお金、簡単に受け取るわけにはいかないってば」
「まあ、とやかく言わずに生活費として計画的に使いなさい」
「そんなこと言われても、困る…」
「だって、生活費は先生が何とかするからっていう約束で、こずえは援助交際をやめてくれたんだろう?だったら、先生だってちゃんと約束を守る義務がある」
「でも…」
「心配するなって。別に銀行強盗してきたわけじゃなし。ちゃんと働いて手に入れたお金だから、安心して使ってくれ。こずえが大人になって会社の社長にでもなったら、そのときにまとめて先生に返してくれよ」
「あたしが社長になんかなるわけないでないじゃない。でも、裕ちゃんから借りたお金は働くようになったら絶対に返すからね」
 そんな二人の様子を、いかにも怪しげな風体の男が、店内の隅の方のテーブルからちらちらと眺めている。テーブルの上には、たばこの箱。小型カメラであることは同業者ならすぐにわかるが、裕一郎たちはまさか自分たちが尾行されているとは夢にも思っていなかった。このときの写真が後で大問題になることも。
 
 横浜みなみ高校PTA会長の佐々木雄三の自宅では、横田探偵事務所の横田肇が得意そうに何枚かの写真を見せていた。
「どうです、佐々木さん。これなら絶対に動かぬ証拠になるでしょう。」
「で、この二人はこの後ホテルにでも行ったのかね」
「いや、最後まで後をつけたんですが、ホテルにしけ込む様子はちっともないんですよ」
「そうか、もしかしたら学校のどこかで密会しているという可能性もあるな。おい、横田、今度は水泳部の部室も探ってくれ。できれば盗撮できればいいんだが」
「しかし、佐々木さん。水泳部の部室の盗撮となると、ばれたら大変な問題になりますけど、それでもいいんですか」
「お前、私を誰だと思ってるんだ。みなみ高校のPTA会長だぞ。学校の名誉がかかっていたから仕方なくやったと役員会で証言すれば、他の役員仲間だって文句は言うまいよ」
「そんなに思うとおりにいきますかね」
「とにかく、お前は私の頼んだとおりのことをやってくれていればいい」
「はいはい、こちらはもらうものさえもらえれば、何でもしますがね」
 横田は不適な笑いを浮かべて、佐々木邸を後にした。それにしても、坂井のやつ、いったい桃川こずえなどというツッパリ娘に関わって、いったい何をしようと言うのか…佐々木には坂井の真意がいまひとつ理解できなかった。ただのエロ教師なのかどうか…

交通事故
 裕一郎とこずえはいつもの喫茶店で会話を弾ませていた。もちろん、探偵事務所の横田が相変わらずはりついている。
「裕ちゃん、これ見て」
 こずえは裕一郎が見覚えのある白い封筒を差し出した。
「あたしね、先月は4万円で生活費をやりくりできたの。ねえ、すごいと思わない?」
「へえ、こずえにもそんな才能があったのか。やっぱりこずえも女性だな」
「だからこれ裕ちゃんに返す。2万円で奥さんにプレゼント買ってあげてよ」
「こずえは優しいんだな。でもな、一度渡したお金を返してもらうわけにはいかないぞ。僕は、将来社長になったこずえからその十倍のお金を返してもらう計画なんだからな」
「だから、あたしは社長になんかなれないって言ってるじゃん」
「僕にいい考えがあるんだ。こずえに預金通帳を作ってあげるから、もしお金が余ったら貯金して、もしものときに備えるっていうのはどうだ?」
「え〜、あたしが貯金するの?今までそんなこと考えたこともない。あたしの預金通帳か…、なんだかわくわくしちゃうな」
「これで決まりだ。それじゃあそこいらへんの文房具屋で三文判のはんこうを買って、さっそく通帳を作るとするか。しかし、こずえの名字の桃川っていうのは結構珍しいから、はんこうを見つけるのに苦労するかも知れないなあ」
 裕一郎の予想通り桃川のはんこうはなかなか見つからなかったが、最後に入った文具店で奇跡的に見つけることができた。今まで考えたこともなかった、真新しい通帳を手にしてこずえは子供のようにはしゃいでいた。
「それじゃあ、大事なものを持ってるんだから、気をつけて帰れよ」
「わかってるって。裕ちゃん、ほんとありがとね」
「だからさ、お礼はこずえが社長になったときにしてくれって言ってるだろう」
「…裕ちゃん」
 こずえは裕一郎の優しさが心の奥底までしみていくのを感じた。そのまま立っていたら涙がこぼれてきそうだったので、こずえはあわてて家路についた。
 こずえと別れて5分ほどした頃だったろうか、裕一郎は目の前がぐるぐる回るような気がしたかと思った瞬間に、大通りに倒れてしまった。運悪く原付バイクがスピードを出して路肩を走ってきたところで、突然倒れ込んできた裕一郎を避けることはほとんど不可能だった。
 裕一郎が目を覚ましたのは、市立病院の救急救命室のベッドの上だった。裕一郎のぼやけた記憶の中に、明るすぎる治療用のライトとカチャカチャいう医療器具の音だけが存在していた。そして、裕一郎はまた気を失ってしまったのだった。
 CTスキャンからMRI、脳波と脳髄液の検査までありとあらゆる検査が行われたが、幸いにも裕一郎はバイクにぶつかった右肩の鎖骨を骨折しただけで、脳には全く異常は見つからなかった。
「裕君、裕君、しっかりして。私を置いていっちゃいやよ」
 裕一郎は由美子の泣き出しそうな声で再び目を覚ました。もうそこは、病室のベッドの上だった。
「おれ、どうしちゃったんだろう」
「道で突然気を失って、大通りに倒れ込んでしまったんですって。そこにバイクが通りかかって裕君をはねちゃったんだけど、原付のバイクだったから右肩の鎖骨の骨折だけですんだのよ。脳には異常がないから心配ないって先生が言ってたわ」
「そうか、でもどうして気絶なんか…」
「裕君、私に内緒で日雇いの仕事してたんでしょ。こずえさんから全部聞いた。どうして私に相談してくれなかったの?裕君にとって大切な生徒さんは、私にとっても大切な存在なの。だから、お願いよ、これからは絶対にそんな水くさいことはしないでね」
「ごめんよ。由美子にこれ以上迷惑をかけたくなかったんだ」
「迷惑だなんて、私たちは夫婦じゃない。それに私は裕君のおかげでここまでやってこれたの。その裕君に頼りにされなかったら、私の存在の価値なんかなくなっちゃう。だから、だから、…」
「わかったよ由美子。おれが悪かった。今度からは何でも由美子に相談するからね。それで今回は勘弁してくれ」
「約束ね。指切りげんまんしたら許してあげるわ」
「はいはい、指切りげんまん嘘着いたらハリ千本の〜ます!」
「それじゃあ、許してあげる」
 そう言って、由美子は泣き出してしまった。由美子は裕一郎と出会えて本当に幸せだと思っている。自分の病気を理解してくれる人はそうそういないと思っていたから、自分に普通に接してくれる裕一郎が、由美子にとっては本当に神様のような存在だった。由美子は裕一郎の命が天に召されなかったことが嬉しくて、それで大泣きしてしまったのだ。
 裕一郎の気絶の原因は、明らかに過労だった。若さを過信して体を酷使すれば、誰にだって起こりうることなのだ。裕一郎はこれからは慎重に行動しようと思った。それが由美子のためでもあり、自分やこずえのためでもあったからだ。
 
トラウマ
 由美子の父親が一人娘の由美子と、由美子の母親に暴力をふるうようになったのは、由美子がちょうど小学校4年生になった頃のことだった。父親の小出寅吉は日本でも有数の自動車会社ユニバースの販売代理店を経営していたが、自動車産業の不振の影響をもろに受けて、代理店を閉鎖するはめになってしまった。社員の面倒は一応親会社のユニバースが責任を持って処理してくれたが、寅吉自身は再就職のあてもなく、いつの間にか酒浸りの日々が続くようになっていた。もともと短気な寅吉が、酒の勢いで妻の小百合や由美子に手を挙げるようになったのは自然の成り行きだったかも知れない。酒量の多くない寅吉だったので、酩酊状態になるのも早く、一度限界を超えると自分が何をしているか全くわからない状態になってしまう。部屋の中のものは投げるは、由美子や小百合を拳固で殴るはの大騒ぎで、近所の人が警察を呼ばなければならなかたことも度々だった。しかし、当時は警察の方針は民事不介入で、家庭内のトラブルには口を挟まないのが決まりだったので、いくら警察がかけつけてくれても、その場を取り繕うのが精一杯で、また翌日になれば同じ悲劇が繰り返されるといった有様だった。今日ならばDV法の施行で、妻や娘に過度な暴力をふるう寅吉のような存在は、確実に逮捕されてしまうことだろう。
 父親が暴行を働いているうちは、由美子も小百合もただ頭を抱えて部屋の隅に縮こまっているしかなかったので、鬼のように猛り狂った父親の顔をまともに見たことはないはずの由美子だったが、なぜか心の中にはひどい形相の父親が拳を振り上げている情景がくっきりと焼き付けられてしまった。
 そんな由美子が、テレビニュースや映画の中で暴力シーンを見ると、吐き気をもよおすようになったのは、航空会社に勤め始めてから数年たった頃だった。おそらく、国際線勤務のストレスも手伝ったのだろう。国際線のフライトアテンダントは、ただでさえタイムラグ(時差ぼけ)の悩みを抱える。それに加えて、かつて父親から受けた暴力の心の傷がトラウマとなって重なったのだからたまらない。人は追いつめられた状況になると、昔の心の傷が痛み始めるものらしい。
 由美子はこれ以上航空会社の勤務を続けることは不可能だった。しかし、退職して家にこもってしまうことは、どう考えても由美子の心の傷を癒すことにはならないだろう。裕一郎は、心療内科の由美子の主治医と相談して、由美子に何か心を軽くするような職場を与えようということになったのだ。もともと勉強好きな由美子だったから、通信教育で保育士の資格を取ることは、由美子にとってはいい気分転換にもなった。
 清谷メンタルクリニックの院長である清谷誠二は、東大出の若い医師だったが、その温厚な話し方には育ちの良さがにじみ出ていた。というよりも、生まれつきの気だての良さと言った方がいいかもしれない。とにかく、他人の言葉は最後の一語にまでしっかりと耳を傾けながら、自分の言葉はその後にゆっくりと語る医師だった。決して押しつけがましい決めつけたような発言はしない。裕一郎は、自分とほとんど年齢の変わらない清谷医師が何だか人生の大先輩のように思えた。
「坂井さん、奥さんはいわゆるパニック障害と呼ばれる病状だと思われます。子供時代の心の傷が、大きなストレスが引き金になって体に不調をきたすのです。心が優しくて傷を負いやすい人しかかからない病気ですけどね」「治るのには時間がかかりますか?」
「それは人によります。何かのきっかけで苦境から抜け出すことができる人もいれば、一生服薬しながら不安な思いを抱き続ける人もいるんです。そのメカニズムは、まだ私たちにもわかっていません」
「由美子の場合はどうでしょうか」
「奥さんは、ご主人の優しさの中で心の傷が徐々に癒されてきているのではないでしょうか。お話を伺っていると、前向きな言葉が頻繁に聞かれるので、わかるのですが」
「僕は、由美子にしてやれることなら何でもしてやりたいんです」
「坂井さんは立派ですね。奥さんが心療内科にかかったというだけで、恥ずかしいだの、情けないだのとごたくを並べて帰るご主人方も多いのですよ。こういう一連の適応障害はいつ誰に起こってもおかしくない時代なんです。要するに、ストレスに満ちて、時代が病んでいると言ってもいいかも知れません。そうですねえ、犬とか猫とか、お宅にペットを飼ってみたらいかがでしょう。動物たちは人間の抱えるストレスを不思議な力で吸収してくれるのですよ。私たち医者にできないことを、動物たちはいとも簡単に実行してしまうんですから、何とも情けない限りですがね」「そうですが、帰ってからよく考えてみます。とにかく先生、どうもありがとうございました。これからも由美子のこと、よろしくお願いします」
 裕一郎は何度も何度も頭を下げて、診療室を後にした。裕一郎にとって清谷誠二は本当に神様のような存在に思えたのだ。
 由美子と一緒にゆっくりと家に向かって歩きながら、裕一郎は初めて周囲の家並みをじっくり眺めたような気がする。よく見ると、どの家の玄関先にもきれいな花の鉢植えが、それぞれの個性を精一杯主張するように、居場所を確保していた。ストレスの時代にあって、誰もが少しでもストレスを解消するために思いつく限りの工夫をしているのだ。学校の教師をしていると、そういう世間の状況にはほとんど気づかずに毎日が過ぎていってしまう。裕一郎は、自分の置かれた恵まれた環境がなぜか恨めしく思えるのだった。
「由美子、だいじょうぶか?」
「だいじょうぶ。心配かけてごめんね。私なんか、裕君の重荷になるだけで何の役にも立たなくてだめな奥さんね」
「ばかやろう!そんなこと冗談でも言わないでくれ。おれは由美子がいなくちゃ何にもできない意気地無しなんだ。だから由美子はおれと一緒にいてくれるだけで、十分にいい奥さん役を務めてくれてるよ」
「優しいのね、裕君って」
「そんなんじゃないよ。本気なんだ」
「ありがとう。私も裕君がいてくれるから前向きに生きていけるの。忘れないでね」
 仲のいい二人の後ろ姿が、坂の上に消えていく。幸せな薄暮だった。
 
インターネットオークション
 というわけで、紹介が遅れたが、裕一郎のマンションの部屋にはチワワの雌が仲間入りすることになった。テレビのコマーシャルでめいっぱい愛らしさを振りまいているあの犬だ。名前は「モナミ」。フランス語で「私の友達」という意味である。フライトアテンダントをしていた由美子は英語とフランス語に堪能だ。その由美子がぜひということでつけた名前だった。そして文字通りモナミは裕一郎と由美子のいい友達になってくれた。
 実はモナミを手に入れるのに裕一郎は大変な苦労をしたのだ。何しろ話題の犬ということで、どこのペットショップでも目の飛び出るような値札がついていて、裕一郎にはとても手が出なかった。そこへ、高校の同僚の紹介でインターネットオークションのページを開いてみたのだった。「シューターズ」という名前のそのオークションサイトは、日本でも有数の大手企業だった。インターネットオークションは、下手をすると詐欺師にだまされることもあって注意が必要だが、シューターズに参加する出品者たちは、厳重なチェックを受けた上で参加を承認されてくるので安心だった。
 裕一郎は、「犬生体」という項目をクリックして、さらに「犬種」の項目から「チワワ」をクリックした。するとそこには40件以上のチワワがずらりと並んでいるではないか。しかもオークションだから、最低入札価格も低めに設定されている。値段は信じられないほど安価だった。下手をすると、一般のペットショップの価格と一桁は違ってしまう。裕一郎は、その中で一番気に入ったチワワに3万円で入札した。生まれてからまだ6ヶ月しかたっていない子供のチワワだったが、なぜか写真の目が裕一郎に「私を買ってね」と語りかけているように感じたのだ。裕一郎は幸運にも入札したその値段で落札することができた。出品者は群馬県のブリーダーだったが、裕一郎はわざわざ車でそのブリーダーのもとにチワワのモナミを引き取りに行った。モナミは裕一郎と由美子の顔を見るなり、ちぎれるほどにしっぽを振って大歓迎してくれた。まるで自分を引き取りに来てくれるのをずっと待っていたかのようだった。帰りの車の中でも、モナミは助手席の由美子の膝の上でうっとりと眠りについていた。
「この子、私たち夫婦にもらわれる運命だったのね、きっと」
「そうかも知れないな。それにしてもインターネットオークションっていうのはすごいよなあ。こんなに安い値段で、立派なチワワが手に入るんだから、日本の経済もどこがどうなっているんだかちっともわからないよ」
「いいじゃない、私たちの大切な娘が手に入ったんだから、経済の仕組みがどんなだって私には関係ないわ」
「まあ、そうだけどね」
 
 モナミが家にやってきてから、不思議なことが次々に起きた。まず、一番大きな変化は由美子の体調がすっかり良くなってしまったことだった。メンタルクリニックの清谷医師が言っていたように、動物には人間のストレスを吸収する不思議な力があるのは確かなようだった。次に、朝夕の散歩を担当することになった裕一郎の腹が引き締まってきたことだ。これは裕一郎にとっては歓迎すべきことだった。水泳部の顧問をしているとは言っても、部員たちと一緒に泳いでいるわけではなかったから、裕一郎の腹も一人前の中年腹になりつつあったのだ。そして、精神的な変化も表れた。どんなに疲れていても、学校に出勤するのが面倒くさいと感じることが全くなくなってしまったのだ。モナミは裕一郎と由美子に大きな幸せをもたらすために地上に降りてきた天使だった。モナミを遊ばせているときの由美子の笑顔もまた天使そのものだと裕一郎は思った。二人の、いや一人と一匹の天使に囲まれた自分は、世界一の幸せ者かも知れないと、本気で思えるのだった。
 
脅迫の手紙
 裕一郎がこずえと出会ってから二ヶ月ほどたった頃だったろうか。裕一郎のマンションの郵便受けに差出人のない手紙が入れられていた。
《…あんまりいい気になるんじゃない。お前はいっかいの高校教師に過ぎないんだ。授業中に余計なことをぺらぺら話すのもいい加減にしないと天罰が下ることになる。お前にもかわいい女房がいるはずだ。家族のことも考えろ。桃川こずえとの援助交際もいい加減にしないとそのうち役員会に暴露する。まあ自分の立場をよくわきまえて頑張ることだ》
 手紙が裕一郎に対する脅迫文であることはすぐに理解できたが、裕一郎にはちっとも内容に心当たりがなかった。裕一郎と一緒に手紙をのぞき込んでいた由美子が、裕一郎の分まで憤慨したように口火を切った。
「いったい何の恨みがあってこんないやらしい手紙をよこしたのかしらね。裕君がいったい何をしたっていうの。だいだいこずえちゃんと援助交際だなんて失礼しちゃうわ。確かに援助はしてるけど、そんねエッチな関係じゃないんだから。まったくもう!」
「おれ、授業中に何かまずいことでも言ったかなあ。今までと特に変わったことなどしゃべってないんだけど」
「今はどこらへんを教えてるの?」
「基本的人権とか、憲法とかだよ」
「憲法って憲法第九条とか?」
「ああ、そうだけど、それがどうかしたか?」
「ううん、ちょっと気になっただけ。今は憲法第九条の問題で国会が大揺れだから、滅多なことを言うと政治家が怒りそうだと思ってね。でも裕君が何か言ったからって、国会に影響があるわけでもないしねえ…」
「いっかいの高校教師っていうところはその通りだから、おれなんかにこんな手紙をよこす必要もないだろうになあ」
「そうよ、裕君にはそんなすごい影響力なんかないんだから」
「おいおい、それはちょっと言い過ぎだよ。おれにだって少しくらいは影響力はあるぞ」
「ごめんごめん。気にしないでね。私はそんな意味で言ったんじゃないの」
「わかってるって。とにかくこの手紙は一応警察に届けておいたほうがいいかな。後で何か起きても困るし。どう思う?」
「裕君がその方がいいと思うなら、そうしてちょうだい。私、何かいやな予感がするの。思い過ごしだとは思うけど、何か手紙の文句にすごく陰湿な悪意を感じるのよ」
「何だか気味が悪いなあ。とにかく明日一番で警察に被害届を出してくるから、余計な心配をしなくていいよ」
「うん、わかった。裕君がいるから心配はしてないけどね」
「そうだよ。おれは君を守るために遠い惑星からやってきたスーパーマンなんだ」
「あら、そうだったの。どうして結婚前に言ってくれなかったのかしら?」
「だっておれが宇宙人だってことがばれたら君はおれと結婚してくれなかったろう?」
「とんでもない。友達みんなに自慢して回ったわ。それに、テレビ局にも売り込んで、大宣伝したら大もうけできたかも知れないじゃない。損しちゃったかも」
「ばらさないで良かったよ」
 由美子はときどきおかしなことを言っては裕一郎をてんてこ舞いさせることがあった。もちろん、それは由美子なりの精一杯の裕一郎への心遣いだったのだが。由美子がおかしな事を言ってその場の雰囲気をがらっと変えてしまうのは、決まって裕一郎が何か緊張感を抱くような問題を抱えているときだった。
 
校長室
「坂井君、ちょっと校長室まで顔を出してくれないか」
「あのう、校内のパトロールにあたっているんですけど」
「それは今日だけ免除だ。とにかく冷たいお茶でも入れさせるから、来てくれたまえ」
「はあ、わかりました。机の上のものを片づけたら、すぐにお伺いします」
 裕一郎は岸田次郎校長が珍しくお茶などを勧めるものだから、何か重大な話でもあるのかと少し警戒した。そして、裕一郎の予感はズバリ当たっていた。
「失礼します」
「まあ、そこにかけたまえ」
 岸田校長はインターホンをとり、事務室の宮川麻紀子に冷たいお茶を二人分、校長室に運んでくれるように頼んだ。
「あのう、何かあったのでしょうか」
 裕一郎はおそるおそる尋ねてみた。
「うん、何点かあるんだよ。おい、道下教頭先生、準備ができたらすぐに来てくれ」
 岸田校長は職員室の道下喜一教頭に大きな声で呼びかけた。道下は、神妙な面持ちでノートとペンを持って校長の横に腰を下ろした。「何だか、事情聴取みたいですね」
「まあ、そんなところだと思ってくれていい。話はかなり深刻だからね」
 冗談で言ったつもりの裕一郎だったが、岸田校長の重々しい口調に緊張感が走った。
「坂井君、君は社会の授業中に憲法第九条についていろいろ言ったかね?」
「それはどういう意味でしょうか。特に今までと違った内容の話はしていませんが」
「自衛隊は憲法違反だと言った覚えは?」
「イラクに派遣されている自衛隊員がいるというのに、平和な日本国内で教壇に立っている僕がそんな発言をする権利はないと思っていますが」
 道下教頭が、裕一郎の返事を一言一句逃さないように必死でメモをとっていた。
「私の授業が何か問題にでもなっているんでしょうか」
「そうなんだ。君も自主党の金澤代議士を知っているね。彼が県教委に苦情を申し入れたんだよ。自主党にとって憲法改正問題は死活問題でもあるのに、いっかいの高校教師とはいえ、教壇で堂々と党の方針を批判されては困るという内容らしい」
「私は別にどの政党も支持していませんし、自主党への反対活動をするつもりもありません。私の仕事は生徒たちに事実を伝えることだけですから」
「その事実が問題なんだよ。それはあくまでも君が信じている事実であって、本当の事実とは限らんじゃないか」
「校長先生、私の授業を実際に聴きにいらっしゃったのですか?私の発言がそんなに大きな問題だと言うのなら、それなりの根拠を示して下さい」
「坂井君、それが学校長に対して言うせりふかね。そういう反抗的な態度だから、世間に誤解されるような授業をしてしまうんじゃないのかね」
「ですから、先ほどから言っているじゃありませんか。私が実際に何をしゃべったか、生徒たちから聞くなり、生徒のノートを調べるなり、どうぞ勝手に調査をして下さい」
「だから、そういう開き直った態度がいかんと言っているんだよ。君ももっと分をわきまえたまえ」
「何を言われているのか私にはちっとも理解できません。妻のフランス語の方がまだわかるくらいだ」
「今、何と言ったのかね?」
「いえ、何でもありません。お話はそれだけですか?僕も教材研究をしたいんで」
 岸田校長と道下教頭が目で合図を送り合って、話はまだこれからだという顔になった。「君ね、水泳部の部室から隠しカメラが見つかったんだよ。しかも女子の更衣室からだ。普段は滅多に一般人が入れる場所じゃないし、犯人は水泳部の男子部員か顧問の君ということになる」
「それは本気で言っているんですか?私には妻もいるんです。どうして女子高生の裸を隠し撮りしたりしなくちゃいけないんですか。第一、水泳をやっていれば女性の水着姿に性的な興奮を覚えることなんかなくなってしまうんです。神に誓って私ではありません」
「まあ、そう言われてもね、犯人が自分からやったと正直に言うはずはないわけで」
「いい加減にして下さい。校長先生は私に何か恨みでもあるんですか?」
「おいおい坂井君、話はまだ終わっていないんだよ。最後のが一番重要だ。君は、3年生の桃川こずえという生徒といったいどういうつきあいをしているのかね。保護者から、君と桃川君が援助交際をしているという訴えがあったんだ。しかも、今度は証拠付きでね。」 岸田校長は裕一郎の前に何枚かの写真を置いて見せた。それは、いつもの喫茶店で裕一郎がこずえに白い封筒を渡しているところを撮影したものだった。そのうちの一枚には、一万円札を何枚か手にして笑っている桃川こずえが写っている。
「これは…」
「これは、何だね?申し開きができるのなら言ってみたまえ」
「私は言い訳などしたくはありません。私が彼女に現金を渡したのは確かですが、それは援助交際なんかじゃない。きちんとした理由があるんです」
「君はちっともわかっとらんね。理由がどうあれ、世間から誤解を招くような行動をとること自体が問題なんだよ。うちは県立高校なんだ。いったん悪い評判がたったら、それが事実であろうとなかろうと生徒集めに大きく響くくらいのことは、社会科の教師の君なら簡単に理解できるはずだ」
「校長先生は、私にどうしろとおっしゃるのですか?」
「私は結論を出す立場にはない。今、ここで君に話したようなことが、明日開かれる緊急役員会の議題になるということを君に知らせておこうと思ってね」
「つまり、校長先生は部下の私の言葉は信用できないと、そうおっしゃりたいのですね」「君もわからん男だな。私には君を裁く権利はないと言っているんだ。これ以上は何を話しても時間の無駄だろう。君はもう教材研究でもパトロールでも、好きな仕事に戻ってよろしい」
「私は校長先生を見損なっていました。自分の部下が信用できないなら、クビにでも何でもしたらいいじゃありませんか。その決定さえ他人の責任に押しつけたいということなんですよね。ご自分は安全な位置を守りたいということなんですよね。もう結構です。ところで、緊急理事会とかには私も出席を許されるのですか?」
「許されるどころか、呼び出されるはずだ」 裕一郎はいわれのない疑いを一方的にかけられた悔しさを、どこにぶつけたらいいかわからなかった。それにしても、いったい自分の周囲で何が起きているのだろう。自分は今まで他人に恨まれるようなことをしただろうか。こずえや由美子のために一生懸命になって働いてきた自分が、なぜ世間から後ろ指を指されなければならないのだろう。裕一郎はきのうまで何気なく見ていた景色の全てが色あせていくのを感じた。

モナミの死
 裕一郎は、今日の校長室での会話がどうしても耳元から離れなかった。普段なら、決して由美子に余分なストレスをかけるような話はしないのだが、この日ばかりは由美子に話さずにはいられない気持ちだった。
「まったくさ、校長は結局自分の身を守ることしか考えていないんだよ。おれがどんな授業をしてるかなんて、一度も見に来たことはないし、部室の隠しカメラやこずえの件にしたって、ろくに調査もしないで一方的におれの責任にしたがるんだから、頭にくるよ」
「ひどいのね。そういう校長先生って民間企業のトップなんか絶対に務まらないんじゃないかしら」
「でもさ、今の世の中は長年会社に尽くしてきても、いきなりリストラされちゃう時代だからな。民間企業も公立学校も同じかも知れないよ。トップは自分と会社が生き残ることしか考えていないんだ」
「ところで、裕君、モナミの姿がさっきから見えないんだけど、どこに行ったか知らないかしら」
「そういえばそうだなあ。ごめんな、おれ自分のことばっかり考えてて、モナミのことも由美子のこともちっとも気にしてなかった」
「いいのよ。これだけいやなことがあったんだから、仕方ないでしょ。裕君は神様じゃないんだし、たまには私にも裕君の力にならせてよ」
「それにしても、モナミのやつどこに言ったのかなあ。おれが帰ってきたときに、ドアから外に出てしまったのかも知れない。ぼうっとしてたから気づかなかったのかも。ちょっと外を見てくるよ」
「そうしてくれると助かるわ」
 
 裕一郎は急いで外に出て行った。モナミが行くとしたら、いつも散歩の時に一休みする公園かも知れない。裕一郎は、由美子の心の支えであるモナミを必死で探した。そして、目当ての公園の入り口に来たところで、裕一郎は身が凍るような気持ちになった。公園を少し入ったところにモナミらしい子犬が、口から赤いものを吐いて倒れていたのだ。裕一郎は、おそるおそる近づいていった。それは確かにモナミだった。おそらく毒を盛られたのだろう。モナミは口から血を吐いて倒れていた。由美子のモナミが死んでしまった…。裕一郎の脳裏には泣き叫ぶ由美子の姿が浮かぶのだった。由美子にはどう言ったらいいのだろう。真実を伝えるべきなのかどうか。
 肩を落として玄関に立った裕一郎を見た由美子は、悪い知らせを覚悟した。
「裕君、モナミは見つかった?」
「あのな、由美子、モナミは、その、いつもの公園で…」
「いやっ、裕君もうそれ以上言わないで!私何も聞きたくない。何も、何も聞きたくないわ!」
 泣き崩れる由美子の姿を見て、裕一郎はどうして上手な嘘がつけなかったのかと、何度も自分を責めた。それにしても、公園で倒れていたということは、交通事故などではないだろう。つまり、誰かが、悪意を持った誰かがモナミを毒殺したということになる。裕一郎は、つい先日届けられた差出人不明の脅迫状のことを思い出した。そうだ、きっとあいつに違いない。あいつが由美子から大事な宝を奪ったんだ。それにしても、どうしておれたちがこんな目に遭わなければならないのだろう。おれたちが何をしたというのだ。
 
入院
 モナミの亡骸は裕一郎がペット専用の慰霊塔に葬ってもらった。しかし、かけがえのない心の支えを失った由美子のショックは、裕一郎の想像を遙かに絶していた。裕一郎は、こずえと一緒に由美子を心療内科の清谷医師のところに連れて行った。由美子は一人で歩くことがほとんど不可能だったので、裕一郎とこずえが両脇から支える形でやっとのことで診察室までたどり着いたのだ。一通りの診察が終わった後で、清谷医師は裕一郎を診察室に招き入れた。
「坂井さん、奥さんはかなり大きなショックを受けていて、一人にしておくのは大変危険な状態です。ぜひ入院させて下さい」
「そんなにひどい状態ですか…。もしそれで由美子が少しでも元気になるのなら、先生どうかよろしくお願いします。私は、これから車で少し遠いところまで出かけますので、その間は由美子に付き添えませんが、どうかよろしくお願いします」
「わかりました。とにかく入院している間は心配はいりませんから、坂井さんは気持ちをしっかり持って下さいよ」
「ご面倒をおかけします」
 
 由美子は、そのまま入院の手続きをし、着替えなど必要なものは裕一郎に頼まれたこずえが病室まで運んでくれた。
「こずえ、おれは群馬県のモナミのブリーダーのところまで行ってくる。どうしたらいいかはわからないんだけど、とにかく向こうに行ってブリーダーと相談してくるよ」
「裕ちゃん、奥さんのことはあたしに任せといて。おいしい夕飯をごちそうになった恩返しができるんだから、あたしは嬉しいよ。それより気をつけて行ってね。これで裕ちゃんまで事故っちゃったら、もうみんなめちゃくちゃになっちゃうんだからね」
「わかってるって。おれは由美子もこずえもひとりぼっちになんかしないよ。じゃあ、後はよろしく頼むな」
「まかしといて」
 
生まれ変わったモナミ
 車を走らせること5時間ほどで、裕一郎はブリーダーの野上雄介の家にたどり着いた。あらかじめ電話で連絡を入れておいたので、疲れ切った裕一郎を野上が笑顔で迎えてくれた。
「遠くまでご苦労さん。それにしても、奥さんはとんだ目に遭いましたね」
「こちらこそ、せっかくお世話いただいたモナミを死なせてしまって、何と言ってお詫びをしていいか…」
「坂井さん、私はブリーダーなんだ。せっかくうちのチワワをかわいがってくれていたあなたたちご夫婦をいつまでも悲しみのどん底に置いておくわけにはいきません」
「と、言いますと?」
「どうぞ、こちらへ」
 裕一郎は野上に案内されるままに、犬舎の中に入っていった。
「ほら、こっちにおいで、お父さんのお出迎えだよ」
「モ、モナミ…」
「モナミちゃんの妹なんです。この子だけはうちに残しておこうと思っていたんだが、私には他にも面倒を見なければならない子供たちが大勢いる。坂井さんにかわいがってもらったら、この子もきっと幸せになれると思ってね。どうですか、もらってくれますか?」「もらうだなんて、きちんとお金を払わせて下さい」
「坂井さん、そんな水くさいことは言いっこなしですよ。この子をモナミちゃんだと思って、連れて帰ってやって下さい。私にもブリーダーとしての責任がある。私の顔をつぶさないで下さい」
「野上さん、私は、私は何とお礼を言ったらいいのか…。もしかしたら、この子が妻を救ってくれるかも知れません」
「そうなるといいですね。いや、きっとそうなると私も信じていますよ。さあ、こんなところでゆっくりしていないで、お疲れでしょうが、一刻も早く奥さんのところに帰ってあげて下さい」
「野上さん、このご恩は、本当に一生忘れません。妻が元気になったら、必ず二人、いや三人でご挨拶にあがります」
「わかりました。さあ、早く行って下さい」 裕一郎は深々と頭を下げて、モナミの妹分を入れたケージを助手席に置いて、エンジンをかけた。世の中にはこんなにも優しい人がいるのかと思うと、裕一郎の目からは大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちるのだった。助手席の「モナミ」はそのうちにぐっすりと眠ってしまった。まさにモナミの生まれ変わりだった。その寝顔は天使の寝顔だった。
 
 帰りはさすがに渋滞もなく、3時間もかからずに、裕一郎の車は清谷メンタルクリニックの駐車場に滑り込むことができた。清谷医師には、診療時間外に妻の由美子を見舞う許可をあらかじめ得ていたので、裕一郎は助手席のケージの中から、眠そうな目をした「モナミ」を優しく取り出し、腕の中にしっかり抱いて、急いで由美子の病室に向かった。もう夜中の12時近い時間であったにもかかわらず、律儀にもこずえが由美子のそばに付き添ってくれていた。
 眠っていた由美子は裕一郎の気配を敏感に察して、目を覚ました。
「どうだ、由美子。少しは気持ちが楽になったか?」
「あなたこそ、どこに行ってたの?こずえちゃんをひとりぼっちにして、悪い人ね」
「ちょっとモナミの散歩に行ってたんだ」
「あなた、何を言ってるの?モナミは、モナミはもういないの。しっかりしてくれなくっちゃ」
 裕一郎は毛布に包んで抱えていた「モナミ」をそっと毛布から出して、由美子の枕元に置いてやった。
「お前こそ、しっかりしろよ。モナミはほらこうしてちゃんといるじゃないか」
「裕君、いったいこれはどうなってるの?モナミが死んじゃったのは私の夢の中のことだったの?」
「実はね、ブリーダーの野上さんが、大切に飼っていたモナミの妹を、ぜひ由美子にって譲ってくれたんだ。モナミだと思って、ずっとかわいがってやってくれって」
「モナミの妹…。そうだったの。あなたよく来てくれたわね。それにしてもモナミにそっくりじゃない。あなたのこと、モナミって呼んでいいかしら?」
「ごめん、由美子、おれがとっくにモナミって名前をつけちゃった」
「裕君…」
「おっと、湿っぽいのはもうやめにしよう。それより、モナミのためにも早く元気になってくれよ」
 こずえは、まるで自分のことのように目を潤ませてベッドサイドにちょこんと座ったままだった。
「それじゃあ、こずえ、もう遅いから一緒に帰るとするか。由美子、清谷先生からモナミは病室に置いていいと許可をもらっているから安心してくれ」
「ありがとう、裕君」
「おやすみ、由美子、それにモナミ」
 
 病室を出たこずえは、しっかり涙をぬぐってから口を開いた。
「裕ちゃんって、本当にやさしいね。あたし見直しちゃったよ」
「こずえこそ、こんなに遅くまで申し訳なかったね。どっかそこらのファミレスで夕食でもすましていくか」
「あっ、そうだ、裕ちゃんに言っておかなくちゃいけないことがあるんだ」
「何だい?」
「あの清谷メンタルクリニックの受付にいた若い子いるでしょ。あたしの記憶違いでなければあの子、みなみ高校の卒業生だよ。しかも、高校時代に政治家と援助交際してるってもっぱらの噂が流れてたんだ。どうして、こんなところで働いてるんだろうね。向こうもあたしの顔に気づいたみたい。すぐ下を向いちゃったから、きっと間違えないよ」
「そうか、政治家と援助交際か…。で、名前は覚えてるか?」
「確か、横田恵子っていったと思うけど」
「横田恵子か。何だか、ちょっと臭うな」
「えっ、失礼しちゃうなあ、あたしおならなんかしてないってば」
「はあっ?こずえもおかしなやつだなあ。そうじゃなくて、横田恵子が何か今度の事件に関係しているんじゃないかってことだよ」
「そうか、そういう意味ね」
「こずえは吉田興業に就職したらけっこう売れるかも知れないなあ」
「何、その吉田興業って?」
「ほら有名なお笑いの山田花江が所属している大阪の会社だよ」
「冗談やめてよ!あたしはまじめに生きるって決めたんだから」
「吉田興業だってまじめな会社だよ」
「そうかも知れないけど、あたしにお笑いなんて無理だよ」
「そう思ってるのは本人だけで、けっこうぼけてると思うけど」
「こら、それ以上言ったら怒るよ」
「ごめん、ごめん。それより腹減ったから、ほらあそこのバニーズにでも入ろう」
「今日は、たっぷりごちそうしてもらうからね。覚悟しといてよ」
「はいはい、いくらでも食べて下さいな」
「よし、気合い入れるぞ!」
 
緊急役員会
 岸田校長の言っていた「横浜みなみ高校緊急役員会」は、予定通り七月十五日の午前九時から開かれた。水曜日だったが、裕一郎は全ての授業を免除され、理事会に出席することになった。緊急役員会の出席メンバーは次の通りである。
 学校長 岸田次郎
 教 頭 道下喜一
 PTA会長 佐々木雄三
 副会長 金田勇作・石井冴子
 役 員 秋山光恵・沢田純一郎
     横山貞夫・馬場悦子
 市教委指導主事 市川敬之助・中川信二
 問題が問題だけに、県教委から直接指導主事が来たのではまずいので、岸田校長の希望で、とりあえずは市教委の指導主事が二名参加することになったのだった。会議の司会役は道下教頭が務めた。
「それではみなさん、今日はお忙しい中緊急理事会に出席いただき、大変ありがとうございます。時間も限られていますので、早速学校長の挨拶で会議を始めさせて頂きます」
「学校長の岸田です。役員会の皆様にはかねてから本校のためにご尽力頂き、誠に感謝の至りでございます。さて、本日は本校教諭坂井裕一郎君に関する、いくつかの噂につきまして、本人同席の元で事の真偽を正していきたいと思います。どうぞよろしくお願いします」
「それでは、坂井教諭に関する噂と言いますか、疑惑を整理させていただきますので、皆さんからは後で、質問をいただければと思います。疑惑は次の三点です。一点目が社会の授業中の憲法第九条に関する発言問題、二点目が水泳部部室の隠しカメラ問題、そして三点目が本校生徒桃川こずえとの援助交際の問題です。それでは、みなさんの質問には基本的には本人が直接お答えしますので、どうぞお願いします。」
 口火を切ったのは、PTA会長の佐々木雄三である。
「坂井先生にまずは基本的な確認をしたいんですが、先生はこの三点の疑惑についてどのような見解をお持ちなのですか?」
「見解も何も、三つのどの疑惑についても、根拠のないでたらめです」
「しかしねえ、火のないところに煙は立たぬと申しますし、噂が立つということは、先生の普段の行動に何らかの問題があるということにはなりませんかね」
 皮肉っぽい言い方をしたのは、副会長の金田勇作だった。彼は、次の市議会議員選挙に自主党の後援で出馬するという噂だった。
「いくら社会の先生だからといって、授業中に個人的な政治的信条を生徒に押しつけるというのはどういうものでしょうかね」
 憲法論議が党の命運を分けると言われている自主党に後援されるだけのことはある。金田は執拗に憲法問題に固執した。
「私は、事実を子供たちに教えるのが仕事だと考えています。そこには私の個人的な感情の入る余地など全くありません。実際に、私の授業のどの部分が問題だとおっしゃるのですか?」
「いやあ、そういう開き直った答弁をされるとは思いませんでしたなあ」
 金田はずるがしこい政治家らしい目つきで裕一郎を見据えながら言った。
「坂井先生は、日の丸と君が代には反対の立場ですか?」 
 唐突に質問したのは、役員の秋山光恵だった。いかにもインテリを臭わせるような、知識をひけらかす口ぶりだった。
「ですから、先ほどから言っている通り、私は自分の考えを生徒たちに押しつけるつもりは全くありませんし、日の丸と君が代については、広く国民で議論すべき問題だと思っています。私は赤ではありません!」
「まあ、赤だなんて、そんな言葉が今時の先生の口から飛び出すなんて驚きだわ」
「しかし、皆さんは私が左よりの思想の持ち主ではないのかと疑っていらっしゃるわけなんでしょう?ですから、そうではないとはっきり言っているのです」
「水泳部の部室には、一般の人間はまず忍び込みにくいと聞いていますが、それは本当ですか?」
「さあ、私は忍び込もうとしたことはないので、しやすいかしにくいかなど考えたこともありません。それは警察の仕事なのではありませんか」
「しかし、先生もまだお若いことだし、若い女生徒の水着姿を見れば、その、ほれ、むらむらと来ることだってあるでしょうに」
 いやらしく食い下がったのは、理事の沢田純一郎である。「おれはお前のようなエロの中年男とは違うんだ!」裕一郎は心の中で叫んでいた。
「それは完全な誤解です。普段から女生徒の水着姿など飽きるほど見ておりますから、そんないやらしい気持ちになることは全くありません。それとも、沢田さんはそういう気持ちになることがおありなのですか?」
 それまで、穏やかな笑みを浮かべていた沢田の表情が一瞬にしてこわばった。
「君、失礼じゃないか!この会議は君を審問するためのもので、私が被疑者なのではないんだぞ!いい加減にしたまえ!」
「そうおっしゃるのなら、そういう興味本位の質問はやめて下さい」
 裕一郎は、できるだけ平静を保とうと必死に怒りを抑えるのだった。
「私は、最後の問題が一番重大だと思うのですが、本校の女生徒と援助交際をしているという噂は、証拠の写真もあり、否定できないものなのではないかと思っています。それに関しては、坂井先生はきちんと申し開きができるのでしょうか」
 女性問題に関する民間団体に所属している馬場悦子が、正義の旗を振りかざすように坂井に詰め寄った。
「申し開きはできますが、生徒の家庭事情に関わることですので、公の場で説明することは控えさせていただきたいと思います。私が彼女にお金を渡したのは確かですが、それはいやらしい目的で支払ったお金などでは決してありません」
 横田に命じて尾行をさせた張本人である佐々木雄三が言葉を荒げて言った。
「君ね、そういう写真を撮られること自体、不謹慎なんだよ。つまり目的はどうあれ、本校の生徒と喫茶店にいたというのは事実じゃないか。そんな場面を見たら、周囲の人間が疑いの目を向けるのは当然だろう。学校の評判を考えたら、とても考えられない非常識な行動としか言えんのじゃないかね」
「それでは皆さんにお聞きしたいのですが、その写真の出所はいったいどこなのですか?最近のコンピューター技術を駆使すれば、合成写真を作るのなんていとも簡単です。もし出所の不明な写真であるとしたら、それを信じる方がよほど非常識だと思うのですが」
「しかし、君はたった今、女生徒と喫茶店にいたのは事実だと認めたじゃないか!君と女生徒が親しげに話している姿を、しっかり探偵が目撃しているんだよ!」
「佐々木さん、探偵って何のことですか?」「いや、その、きっと探偵が見ていたんだろうと思ったということだ」
 佐々木雄三の発言で、みんなは勝手にざわざわと騒ぎ出してしまった。
「みなさん、ご静粛に。それでは、市教委の意見も伺いたいと思います」
 情けないことに、市教委から派遣された指導主事である市川も中川も、自分から進んで見解を述べようとはしなかった。それもそのはずで、市教委には見解などはないのだ。しかたなく、年上の市川敬之助が発言した。
「えー、市教委といたしましては、今後の調査の成り行きを見据えた上で、坂井教諭の処分を決定したいと思います。まあ、昨今の教職員の不祥事を考えますと、少し行動が軽率だったのではないかとは思いますね」
「あなたは、詳しい事情も知らないで、私の行動を軽率だと言い切りますが、その根拠はどこにあるのですか?私の家に脅迫状が届いたり、ペットの犬が毒殺されたり、不可解な事件が連続して起きている事実も全て承知の上でそのような発言をされているのでしょうね。もし、単なるその場しのぎの個人的発言だとしたら、私は出るところに出て事をはっきりさせてもいいんですが」
「まあまあ坂井先生、先生もご自分の立場をよく考えて、あまり過激な発言をなさらないように注意していただきませんと」
 司会役の道下教頭が場を取り持つように裕一郎の機嫌をとった。市教委の二人の指導主事は、できれば面倒くさい事件には関わりたくないという気持ちが、表情に見え見えだったので、さすがの役員たちも一様に不快感をあらわにした。
「教育委員会のご意見を聞くまでもなく、疑わしくは罰すの原則で対処すべき問題だと私は思いますが」
 PTA会長の佐々木雄三は、先ほどの失言のことはすっかり忘れて、相変わらず強気の発言を繰り返している。基本的に裕一郎を助けようとしている人間は、この場には誰一人としていないのだ。裕一郎はそのことを改めて思い知らされた。こんな学校で、不当に名誉を毀損されたまま仕事を続けていく価値があるのだろうか。職員室の同僚たちも、やっかいな問題にはできるだけ関わりたくないといった姿勢を崩さなかった。「四面楚歌」とはまさにこのことだ。裕一郎は、もうこれ以上会議の場にいる意味はないと思った。
「みなさんは、きちんとした証拠もないのに最初から私を疑ってかかっておられるようです。このような場にいる意味はこれ以上ないでしょう。ただ、これだけははっきり言っておきますが、不当に他人の名誉を汚すみなさんのような言動は刑法の名誉毀損罪にあたります。私がそれなりの手続きをすれば、今度は皆さんが正式に審問される立場になることをお忘れないよう、ご忠告をしておきましょう。刑法犯ですから、あまり甘く考えない方がよろしいと思いますよ」
 役員たちが怒りの言葉を飛び交わす中を、裕一郎は堂々と席を立って、退出してしまった。法律関係の知識なら、法学部出身の裕一郎にいくらでも分があることは役員たちも知っていた。裕一郎が言うように、きちんとした根拠もなく、このように公の場で中傷されることは明らかに名誉毀損行為である。裕一郎に刑事告訴をする意志さえあれば、おそらく警察も告訴を受理することだろう。名誉毀損は親告罪と言って、罪を知った日から六ヶ月以内に告訴の手続きをすればいいことになっている。強姦事件などと同じ扱いだ。それに、裕一郎には大きな武器があった。法律的な知識を十分に備えていた裕一郎は、念のために買っておいた小型のボイスレコーダーを上着の胸ポケットに忍ばせていたのだ。会議の内容は全て録音されている。もちろん、佐々木雄三の失言もである。
 
横田探偵事務所
 裕一郎は、PTAの役員連中に総攻撃を受けたにもかかわらず、自分にはやましいところは少しもないのだからということで、こずえといつもの喫茶店で会うのは決してやめなかった。もし、緊急役員会の後で行動を改めたら、それは自分の過ちを認めるようなものである。裕一郎は、自分の信念だけは最後まで貫き通したかった。
「裕ちゃん、学校の偉い人たちにずいぶんひどい目に遭ったって聞いたけど」
「いやあ、それほどでもないさ。いろいろ言ってたけど、全部でたらめだからね」
「あたしと援交してるのかって、詰め寄られたんでしょ?」
「こずえ、どうしてそんなこと知ってるんだよ?ああ、そうか、会長の佐々木の娘から聞いたんだな」
「あの子ったら、裕ちゃんのこと学校中に言いふらしてるんだよ。体育館裏に呼び出して少し締めてやらないといけないかな」
「おいおい、穏やかじゃないなあ。そんなことしたら、おれもこずえもみなみ高校を追い出されちまうぞ」
「別に学校なんかどうだっていいもん」
「そうはいかないよ。学校をクビになるのはどうってことないけど、疑われたまま逃げるのだけはごめんだからな」
「それもそうだよね。あたしだってお世話になった裕ちゃんが悪く言われたままでクビになるのは困るよ。あ、そうそう、裕ちゃん、おもしろいことがわかったよ。あのクリニックの受付の子ね、やっぱりあたしが思った通り、横田恵子だった。それにね、恵子の父親は横田探偵事務所で探偵をしてるんだって。あと、佐々木のおやじと仲がいいらしいよ」
「こずえ、そんなことどこで調べたんだ?」
「あたしだって、いろいろつてはあるよ。だてに援交してないって」
「馬鹿たれ!援交、援交って威張るんじゃない。だいたいもう足を洗ったんだから、そんな言葉忘れちまえ。だけど、こずえの情報はかなりおもしろいぞ。おれは、役員会の会話を録音したボイスレコーダーを何度も聞き直したんだけど、佐々木会長は確かに『探偵』と言っていた。つまりそれは、佐々木自身が横田に頼んでおれとこずえをずっと尾行させていたという可能性につながるわけだ。だけど、問題なのは、なぜおれたち二人にそこまで興味を持たなければならなかったのかっていうことなんだ」
「裕ちゃんとあたしが仲良くなるとまずいことがあるってことなんじゃないの?」
「まずいことか…」
 
 裕一郎はこずえを連れずに、清谷メンタルクリニックに向かった。
「清谷先生、実は今日は由美子のことではなくて、ちょっとお聞きしたいことがあるんだすが」
「何でしょう。だいぶ深刻な問題のようですが」
「はい、あのう、失礼だったら勘弁して下さい。実は先生のところの受付の女性のことなんですが」
「ああ、横田君のことですか」
「やはりそうですか。彼女の父親は横田探偵事務所の横田さんですよね」
「はい、確かにそう聞いています」
「先生、彼女が由美子のカルテを持ち出すことは可能ですか?」
「それは、持ち出そうと思えばいくらでもできることですが、ここは診療所ですから当然患者のデータに関しては守秘義務を負うわけで、そんなことをしたら大変な罪に問われることくらいは言ってありますが」
「実は、横田探偵事務所が今回のモナミの殺害事件にも関与している可能性が出てきたんです。つまり、由美子のカルテを見れば、先生の薦めもあって飼い始めたモナミが、由美子にとってどんなに大切な存在で、そのモナミがいなくなったら、由美子がどれだけダメージを受けるかわかると思って」
「そうですか…。横田君はとてもまじめな女性なのですが、事が父親のこととなると、彼女の性格の問題とはまた別でしょう。何か事情があったのかも知れない。坂井さん、私が直接確かめましょうか?」
「そうしていただけますか」
「おーい、横田君、ちょっとこっちへ来てくれないか」
 清谷医師は、わざと明るい声で横田恵子を診察室に呼んだ。警戒心を持たせないためだろう。メンタルクリニックの院長ともなればそのへんの配慮にはぬかりがない。
「何でしょうか」
 横田恵子は笑顔でやってきたが、坂井と目が遭うと、とたんに表情を曇らせてしまった。「横田君、まあちょっとここに座りたまえ。これから私がきくことはとても重要なことだ。この診療所の将来にも関わる非常に重要なことなんだ。だから正直に答えてもらいたい。君は、坂井由美子さんのカルテを、直接ないしはコピーして外に持ち出したことがあるのかね?」
 恵子は嘘のつけないまじめな性格なのだろう。清谷医師の質問が終わらないうちに、もうすでに体が小刻みに震えだしていた。
「…」
「そうか、その様子だと、私の質問に対する答えはイエスなんだね」
「申し訳ありません。父にどうしてもと頼まれて、つい…」
 恵子は自分の犯してしまった罪の大きさを十分に承知しているようだった。声を上げて泣きながら、必死で言葉を続けようとした。「私は、母が死んで以来、ずっと父の腕一つで育てられました。だから、父の頼みは私にとっては断り切れない重いものなんです」
「しかし、君のしたことは守秘義務に反する行為だ。坂井さんが訴えれば君は刑事起訴されて、おそらくは有罪になるだろう。刑法犯になるわけだから、君のこれからの人生は一変するんだよ。ちゃんとわかっているのか?」「私、ここをやめます」
「君がやめるかどうかは今は問題ではない。もし君が自分の罪の大きさを自覚しているなら、ぜひ協力してもらいたい。君のお父さんはなぜ坂井由美子さんの情報を手に入れる必要があったんだね?」
「私も詳しくはわかりませんが、父はみなみ高校のPTA役員に頼まれて、大事な調査をしているんだと言っていました」
「その依頼主の名前は言ってなかったかね?」「確か、佐々木とか何とか言っていたような気がしますが」
「それにしても、君のお父さんも不注意だね。いくら家族にでも、調査の依頼主の名前を漏らすというのは、探偵者の守秘義務に違反する重大な犯罪行為なんだよ。家に帰ったら、お父さんにそう伝えたまえ。それから、これ以上坂井由美子さんの調査を続けるつもりなら、君も君のお父さんも刑事告発して社会的に完全に葬るつもりだと、私が言っていたとわざと大げさに伝えなさい」
「先生、私はどうしたらいいんでしょうか」「君は、今回の事件で診療所の果たすべき役割がよくわかったのなら、そのまま受付を続けてくれていいんだよ」
「先生、それでは坂井さんに…」
 清谷医師は、裕一郎がこれだけ正直に告白した横田恵子をすでに許していることを察していた。
「坂井さん、私の顔に免じて、どうかこの横田君を許してやってくれませんか」
「もちろんです。そのかわり、横田さん、お父さんに清谷先生の言葉を伝えるのはもうちょっと待って下さい。PTA会長の佐々木を逃がさないためにも、今は情報が漏れていないことにしておいた方が都合がいいんです」「わかりました。あのう、父はどうなるのでしょうか」
「お父さんも、佐々木に強引に命じられて今回の調査に関わったのでしょう。由美子に個人的な恨みがあるわけではないと思います。ただモナミの死に直接手を下していたということになれば、それ相当の罰は覚悟してもらわないといけませんが」
「それは、覚悟しています。奥さんをこんなに苦しめてしまったんですから、私も父と一緒に罰を受けるつもりです」
 横田恵子の真剣な目を見て、裕一郎は事件が大きく解決の方向に向かい始めたことを確信した。
「清谷先生、どうもありがとうございました」「いやあ、坂井さん、全ては私の監督不行届のなせる業です。どうか私を許して下さい」「先生、そんなことを言わないで下さい。由美子は先生だけが頼りなんです」
 
秘密の捜査会議
 由美子の症状は「モナミ」のおかげで急速に回復していた。清谷医師の話では、あと一週間もすれば退院してもかまわないという。裕一郎は、その一週間が勝負だと思っていた。退院してきた由美子を、また大きなストレスにさらすわけにはいかないのだ。
 裕一郎とこずえは、またまたいつもの喫茶店で秘密会議を開いていた。もう娘から事情が漏れていることを知らない横田が、いつものように喫茶店の隅で二人の様子を伺っていた。
「ねえ、裕ちゃん、あの横田っていう探偵も、ちょっと修行が足りないんじゃない?だって、いつも同じ席であたしと裕ちゃんのこと見張ってたら、尾行してることバレちゃうじゃん。あたしだったら、もっとうまくやるのになあ。ここのウェイトレスのバイトを始めちゃうとかね」
「それはなかなかいいアイデアだな。でも横田じゃウェイトレスは無理だろう。こずえは高校を卒業したら、桃川探偵事務所かなんか開いて、おれを雇ってくれ」
「また、私を社長にする気なんだから。その代わり、働きが悪いとお給料は出さないからね」
「あれっ?こずえは、社長になったら、おれに恩返しするんじゃなかったっけ?」
「裕ちゃんは甘いなあ。この不景気の時代に、働かざる者食うべからずなんだよ」
「こずえ、いつそんな難しい言葉を覚えたんだ?」
「あたしだって、雑誌とか新聞くらい読むよ。自分で買うことはないけど、コンビニのゴミ箱の中にほとんど新品の状態で捨ててあるもん」
「うん、それはなかなか経済的だ。やっぱりこずえには経営者の素質があるな」
「そんなこと言ってないで、ほら、裕ちゃん、犯人の目星をつけなくちゃ手遅れになっちゃうよ」
「ああ、そうだったな」
 こずえにせかされて、裕一郎は一枚の紙とペンを取り出した。
「まず、犯人の目的は由美子ではなくて、坂井裕一郎、つまりおれであることは確かだろう。そして、横田が動いたということは、佐々木が関係していることもはっきりしている。おい、こずえ、今から何枚か写真を見せるから、見覚えのあるやつがいたら教えてくれ」 裕一郎は鞄の中から少し大きめの封筒をとりだし、中から数枚の写真を引っ張り出して、テーブルの上に並べた。もちろん、そのうちの何枚かは何の関係もない写真で、重要なのは、佐々木雄三PTA会長と自主党の金澤三郎代議士の二人の写真だった。こずえは、裕一郎が並べた写真を何度も見比べていたが、大きなため息をつくと首を横に振った。
「残念だけど、裕ちゃん、このおやじたちの中には見覚えのあるやつは一人もいないよ。こいつら以外に怪しいおやじはいないの?」
「ああ、今のところ、考えられるのはこの連中だけなんだ」
 裕一郎が並べた写真を集めて、元の封筒の中に戻しながら大きなため息をついたとき、びっくりするような大きな声でこずえが言った。隅で見張っていた横田までが、驚いて飛び跳ねそうになったくらいだ。
「裕ちゃん、裕ちゃん、ちょっと窓の外を歩いてるおやじの集団を見てよ!あの真ん中のやつ、あたしよく覚えてるよ。あいつったら、コンビニの前でたむろっていたあたしに声かけてきて、5万でどうだってあたしをホテルに誘ったんだ。あいつに間違いない。二回はやったからね。いやらしいおやじだったからあたしはっきり顔を覚えてるんだ」
 裕一郎は、こずえの人差し指の延長線上にいた人物を見てはっと息をのんだ。それは、誰あろう教育長の川辺達郎だったからだ。
「おい、こずえ、ちょっとここで待っててくれるか」
 裕一郎はそう言い残すと、意を決したように横田の座っているテーブルへとまっすぐに進んでいった。
「横田さん、ですよね。いつもいつも私たちの尾行をして下さって、どうもご苦労様です。何か冷たいものでもごちそうしましょうか?」
「いったい何のことかね。私は君のことなど何も知らんよ」
「そうですか、清谷クリニックにお勤めのお嬢さんが、守秘義務違反で刑事告訴されてもかまわないということですね。事情は全て恵子さんから伺ってるんですが、それでも最後までとぼけるおつもりですか?おっと、この小型カメラは預からせてもらいますよ」
 そう言うと、裕一郎は素早く横田のたばこに仕掛けられた小型カメラをハンカチで包んで取り上げてしまった。
「君、いったい何の真似だ」
「横田さん、あなただって探偵なんだからわかるでしょう。このカメラで写した写真が、PTA役員会に提出された写真と同質のものであることは、警察の科学捜査班が検査すればすぐにわかることだ。しかも、カメラについている指紋と、水泳部の部室にしかけられた隠しカメラから検出された指紋とが一致したらどんなことになるんでしょうね」
 横田の顔はすっかり青ざめていた。そして肩をがっくり落とすと、観念したように素直な口調に変わった。
「申し訳ない。この通りだ、坂井さん。佐々木会長に命令されたら、私もいやとは言えない恩義がある。どうか、そのカメラを警察に渡すのだけは勘弁してもらいたい」
「横田さん、私もいたずらに事を荒立てようとするつもりはないんです。もし、あなたが本当に私たちに悪いことをしたと反省してくれるなら、どうです、今度は私たちのために探偵として働いてはくれませんか」
「どうしろと言うのですか?」
「川辺達郎教育長と金澤三郎代議士との関係を調べてもらいたいんです」
「坂井さん、それだけは勘弁して下さい。金澤三郎代議士は、暴力団親日会とつながっている。もし、私が金澤代議士の調査をしているとわかったら、私の命はない」
「でも、あなたは私たち夫婦から大切なペットを奪ったではないですか。動物の命は簡単に奪えても、自分の命だけは何とか守りたいと言うつもりなんですか」
「坂井さんのお宅のペットを毒殺したのは私ではありません。私は生き物を殺すような真似はしない。おそらく、それも親日会のちんぴらの仕業でしょう」
「あなたの言い分もわからないではないが、私としてはこれだけひどい目に遭っているわけだから、このまま、ああそうですかと引き下がるわけにはいかない。あなたの命はあなたが守ればいい。川辺教育長と金澤代議士の関係を調査するか、別件で両手にわっかがかかる道を選ぶか、それはあなた次第です」
 横田はますます青ざめた表情になったが、しばらくして重い口を開いた。
「わかりました。調査しましょう。しかし、たとえどんな結果が出たとしても、情報源を証すことだけはしないでもらいたい。それだけは約束してもらえますか?」
「いいでしょう。事はあなただけではすまないかも知れない。お嬢さんの命も危険にさらされる可能性があるとなれば、私としてもそれだけは何とかして回避したいですからね」
「感謝します。それでは、調査の結果は数日中に坂井さんのマンションの郵便受けの中に黄色い封筒に入れて投げ込みます。それでいいですか?」
「結構です。ただし、その中身が確認できるまでは、申し訳ないがこのカメラは預からせてもらいますよ。もう、簡単に他人を信用することはできない心理状態なもんでね」
 
調査報告書
「裕ちゃんたらさ、いきなり横田のテーブルに行ったから、決闘でも始めるのかと思ってどきどきしちゃった」
「馬鹿だなあ、あんな場所で決闘なんかやったら、また何を言われるかわからないよ」
「でも、一発食らわしてやったら気分がすうっとしたと思うんだけどな」
「そうは言ってもね、横田には横田なりの苦しい事情があったんだろうし、彼の言うことが本当ならモナミの毒殺をした悪玉は別にいるっていることになるんだ」
 
 裕一郎とこずえは、今日は珍しく裕一郎のマンションで捜査会議を開いている。横田の尾行がばれたとわかれば、相手がどんな暴挙に出てくるかわからなかったので、もう外で会うのは危険だと裕一郎が判断したからだった。ちょうどそのとき、ドアの郵便受けに封筒が落ちる音がした。
「あれからちょうど3日だから、そろそろ横田の調査報告書が届いたかな」
 裕一郎はそう言いながら、すぐに郵便受けの中身を確認しに行った。そこには、裕一郎が予想したとおり、黄色い封筒が入っていた。横田からの調査報告書に間違いない。
「やっぱりそうだった?」
「いま開けてみるけど、きっとそうだよ」
 黄色い封筒から出てきた書類の頭には、はっきりと横田探偵事務所の名がうってあった。

【横田探偵事務所調査報告書】 
ご依頼の件以下の通り報告します。
一、川辺教育長と金澤代議士は県立湘北高校の同級生で、同じラグビー部に所属していた
一、愛犬モナミの毒殺は金澤代議士が親日会に指令したものではない
一、川辺教育長と金澤代議士はここ三ヶ月ほどの間、頻繁に料亭「瑞穂」で密会しているが、金品の授受については明らかではない
        調査責任者 横田 肇
 
「やっぱりそうだったのか。川辺教育長は自分がこずえと援助交際をしていた事実を隠すために、金澤代議士に何とかしてくれるように頼み込んだ。そして、金澤代議士は佐々木PTA会長に命じて、おれをみなみ高校から追放するよう画策したということだな」
「でも、モナミちゃんを毒殺したのは、別の人間なんでしょう?」
「うん、どうやらそうらしい。つまり、二つの事件が同時に進行していたということだと思うよ」
「裕ちゃん、これからどうするの?」
「これだけ証拠がそろえば、警察も確実に動いてくれるとは思うんだけど、金澤代議士の手が警察の上部にも及んでいないという保証はないからね。川辺教育長に直接かけあってみるのが一番いいかも知れない。それで、開き直るようなら、仕方ないから警察に捜査を依頼しよう。どう思う、こずえは?」
「それでいいんじゃない。裕ちゃんがいいなら、それでいい。さあ、おもしろくなってきたぞ。イッツショータイム!」
「こずえは勉強していないくせに、そういうせりふはちゃんと知ってるんだから、おかしなやつだなあ」
「あたしはね、脳みそは足りないかも知れないけど、生活力があるんだ」
「文科省が言ってる『生きる力』っていうやつだな。皮肉なもんだよ、ろくに授業にも出てないこずえが、社会からそういう力を学んでしまうんだから」
「何なの、その生きる何とかっていうやつ」
「説明すると三十分くらいかかるけど、それでもおれの授業を受けるか?」
「うん、やっぱ遠慮しとくよ」
「そう言うと思ったよ」
 
川辺教育長
 裕一郎は、横田の報告書が届いた翌日、教育委員会に連絡を入れて、川辺教育長との面会を依頼した。受話器の向こう側には、川辺教育長の苦渋に満ちた顔があった。
「教育長、お忙しいところ申し訳ありません。横浜みなみ高校の坂井裕一郎と申します。まあ、指導主事のお二人から事情は聞いていらっしゃるとは思いますが」
「坂井君か。いろいろ問題を起こしてくれているようだね。その問題教師の君が、私に何の用かね。私は忙しいんだから、用があるなら手短にお願いしたいものだね」
「大したことではありません。うちの学校の桃川こずえという女生徒の件です。いやあ、彼女が川辺教育長をよく知っていると言うものですから、これはただならぬことだと思い、確認のお電話をしたまでです」
「そんな女生徒のことは知らんよ」
「そうですか。私の方も、何の証拠もなくお電話をしているわけではないのですが、このまま警察に捜査を依頼してもいいとおっしゃるのですね?」
「君は、私を脅迫する気かね」
「いえ、教育長が社会的に葬られるのを黙って見ているのは酷かと思いまして、その前に今までお世話になったお礼に、情報を提供しているのです。教育長がそのような開き直った態度を崩さないおつもりでしたら、最後はどんな結末が待っているか、お知り合いの弁護士か、あるいは同級生の金澤代議士にでもお聞きになるといいでしょう」
「君は、何が望みなんだ」
「何がって、私が望んでいるのは真実です。私は根拠もない噂でみなみ高校のPTA役員たちから大変な攻撃を受けている。だから私は彼らの前に真実を披露したいだけです」
「君は、まだ若い。これからの教員生活がどうなってもいいのか?」
「私は、いつ教員をやめてもいいと思っています。それよりも、教育長の方こそ、明るい未来を捨て去ってしまってもよろしいのですか?この問題が世間に知れれば、マスコミも大騒ぎになるでしょう。あなたに関係した人たちは、すべて社会的な立場を追放されることになります。世の中を甘く見てはいけませんよ。世の中はあなたのような腐った人間ばかりではないんです」
「私を侮辱するのもいい加減にしたまえ!もう、君と話すことはない!」
 川辺は一方的に電話を切ってしまった。こうなったら、刑事告発をするしかないだろう。タイミングを逸すると、自分やこずえの命さえ危なくなってくる。裕一郎は、横田恵子の守秘義務違反にだけは触れないという約束で、横田に刑事告発に協力してくれるよう確認をとった。地検にも裕一郎の知り合いは何人かいる。彼らにも事情を話して外堀を埋めた上で、裕一郎はボイスレコーダーの録音記録を持って神奈川県警に刑事告発に出向いた。知り合いの検事のアドバイスもあって、非常に重要な案件だということで、署長に直接面会を求めた。
 松平康隆署長はたたき上げの正義派で知られた人物だった。彼は、笑顔で裕一郎を所長室に招き入れてくれた。
「私が松平です。だいたいの話は部下からも聞いていますし、地検の検事さんからの指示も承っています。それでは詳しい話をお聞かせ願えますか」
「どうも、ご丁寧な対応をありがとうございます。正直のところ、門前払いを食らうのではないかと覚悟をしていました」
「確かに警察関係のトップの中には、そういう不埒な連中もいて困っているのです。国民を保護する立場にありながら、どうしても偉そうな顔をして威張ってしまう。現場には正義感にあふれた刑事たちが大勢いるのですが、キャリア組はどうもいけません。まあ、それは警察に限ったことではないでしょうけれどね。ところで、坂井さんは証拠の方もしっかりとお持ちだとお聞きしていますが」
「はい、横田探偵事務所の横田肇との会話も、川辺教育長との電話でのやりとりも、すべてボイスレコーダーに録音してありますので、証拠としては十分かと思いますが、一応署長の耳で確かめて下さい」
 松平署長は、ボイスレコーダーから流れてくる会話に真剣に耳を傾けながら、ポイントになるところはしっかりとメモに書き留めていた。
「坂井さん、これは大変な事件になりますなあ。川辺教育長や金澤代議士の罪は明白だ。青少年保護育成条例違反とあなたに対する名誉毀損罪。それに、川辺教育長の言動は地方公務員法にも抵触するでしょう」
「あのう、大変臆病な話で恐縮なんですが、彼らが起訴された場合、金澤代議士と親密な関係にある親日会が、私たちの生活を脅かすようなことはないでしょうか」
「それは大丈夫です。暴力団というものは、自分たちに明らかに嫌疑がかかるような犯罪は犯さないものです。しかも、相手が一般人となるとなおさらです。金澤代議士が逮捕された瞬間に、代議士との縁は間違いなく切れるでしょう。まあ、一応念のために親日会の組長にはそれなりの圧力をかけておきますから、その点はどうぞご心配なく」
「松平署長にそう言っていただけるとほっとします。それともう一つ、ペットの愛犬が毒殺された事件はどうも彼らとは関係ないようなんです。一応、うちに届けられた脅迫状を持参しましたが、これに関してはどのようにしたらよろしいでしょうか」
「それは器物損壊罪に該当しますから、こちらで別に捜査をしましょう。生き物なのに器物損壊というのは失礼な言い方だとは思いますが、動物虐待の罪でも裁くことができますから、そちらは脅迫状を丹念に調べた上で、捜査に進展があれば部下を通じてご連絡しましょう」
「いろいろとご面倒をおかけしますが、どうかよろしくお願いします。あ、それと、援助交際をしていた桃川こずえのことなんですが、何とかなりませんでしょうか」
「彼女は未成年でもありますし、捜査に積極的に協力もしてくれていた…と理解してよろしいのですよね」
「はい、その通りです。彼女がいなければ、川辺教育長にまでたどり着くこともできなかったと思います」
「それでは、彼女の扱いはあなたに預けることにしましょう。坂井先生がしっかりと保護して下さるということで、罪は問いません」
「何から何まで、情けあるご配慮をどうもありがとうございます。桃川こずえは、私が責任を持って立派な社会人になるよう指導していきます」
 松平署長が約束してくれたとおり、捜査は順調に進み、川辺教育長と金澤代議士は青少年保護育成条例違反および名誉毀損罪・脅迫罪の名目で逮捕された。川辺教育長は当然の事ながら懲戒免職処分となり、全国のマスコミがこの事件を大きく報じることになった。もちろん桃川こずえの存在はあくまでも秘密である。教育長が犯罪に関与していたということで、教育委員会の人事も刷新されたばかりか、横浜みなみ高校の岸田次郎校長と道下喜一教頭も、事件の隠蔽工作に間接的に関与したということで、地方公務員法違反で三ヶ月の停職処分に処された。当然の事ながら、佐々木PTA会長も罷免され、これからPTA臨時総会が開かれ、新PTA会長が選出されることになっている。当然、裕一郎に不当な疑いをかけた役員連中も全員首をすげかえられることになりそうだ。それにしても大変な騒ぎになったものだ。裕一郎は、このまま教員生活を続けたものかどうか迷っていた。
 
由美子の退院
 裕一郎が計画したとおり、事件は由美子の退院の前に見事に解決を見た。由美子は久しぶりの外の世界がまぶしいらしく、しきりに目を細めていた。もちろん腕の中には大切なモナミがいる。入院中に、モナミはすっかり由美子のモナミになりきっていてくれた。裕一郎は、由美子の笑顔をもう一度見ることができて本当に良かったと思う。
「やっぱり、外の空気はいいわねえ。裕君、いろいろ心配かけちゃってごめんなさいね」
「何を言ってるんだ。いつもはおれの方が由美子に心配ばかりかけてるじゃないか。恩返し、恩返し。たまには亭主にも活躍させろって。それにしても、モナミはすっかり居場所を確保したみたいだね」
「そうなのよ。姉妹だけあって、本当にモナミが生まれ変わってきたみたいで、私にはちっとも違う犬っていう感じがしないの。それにね、いつも私の目をじっとのぞき込むように見るのよ、この子ったら。私の心の中を一生懸命読もうとしてくれているみたい。それが本当に愛らしくってね。裕君とこの子のおかげで、私は元気になれたようなもの。ああ、もちろん清谷先生あってのことなんだけど」
「こんなに小さな体なのに、動物って本当に偉大だよな。人間の複雑な心を、いとも簡単にいやしてしまうんだから」
「そうね、本当に不思議ね。神様は、きっとそんな能力のある動物たちを、人間のそばに置くように仕組んで下さったんだわ」
「うん、おれもそんな気がするよ」
 
 由美子は、退院後一週間ほどは家で静養していて、それから保育園の仕事に復帰することができた。何だか、以前よりもずっと元気になったような気がする。由美子自身も、自分の体の中に力強いエネルギーのようなものがわいてきたことに気づいていた。本当にモナミの力は偉大だ。由美子の元気な姿を見て、きっと天国のモナミも喜んでいてくれるに違いない。
 それにしても、裕一郎にはどうしてもひっかかることがあった。川辺教育長に関係する事件はすっかり解決したにもかかわらず、モナミの毒殺を計った人間の悪意は、まだ消えていないことを直感していたのだろう。由美子もそんな不安を抱いていたが、モナミのおかげでそのことに執着せずに仕事に没頭することができているようだった。裕一郎は、こずえを交えて、再び例の喫茶店で捜査会議を開くことにした。
「こずえ、モナミを毒殺した犯人のことがどうしても気になるんだ。犯人はまた次の犯行を計画しているに違いないとおれは思ってる。今度モナミをやられたら、それこそ二度とモナミに代わる存在を手に入れることはできないからね。何とかしないと」
「マッポの、あれごめんね、警察の方からはまだ何も連絡がないの?」
「そうなんだ。例の脅迫状からいくつか指紋は採取できたらしいんだけど、犯人は前科がないらしくて、捜査は行き詰まっているらしいよ」
「つまり、犯人は一般の人間ってことね」
「そう考えるのが自然だろうね」
「変なこときいてごめんね、裕ちゃん。裕ちゃんの奥さん自身が、誰かの恨みを買ってるっていうことはないの?」
「うん、ああいうおっとりした性格だから、他人との争いごとは、おれが知る限りでは今まで一回もなかったね」
「でも、人間って、自分の意志とは全く違ったところで、他人の恨みを買うことってあるんじゃないのかなあ。まあ、あたしみたいに偉そうに街をうろつき回ってる人間には、恨みを買ってる相手なんてたくさんいるんだけどね。でも、あたしはやられたら何倍にしても返すから、誰もあたしには手を出さないんだ。だけど、裕ちゃんの奥さんは、すごくいい人だから、だから安心していじめてくるんだと思う。これは小説の読み過ぎかも知れないけど、こういう場合って、犯人は意外と身近なところにいるもんじゃないのかなあ」
「身近なところか…。由美子がフライトアテンダントをしていた頃に恨みを買っていたとしたら、犯行の動機としては、あまりにも時間がたちすぎていて弱い気がする。とすると保育園の関係者か、あるいは…」
「あるいは、ふだん何気なく接触している人物ってことになるよね」
「でも、犯人がそんなに身近なところにいるってことになると、いよいよ早く事件を解決しないと、また悲劇が起こる可能性があるってことにもなるよな」
「そうだね。ねえ、裕ちゃん、前のモナミが誰か近所の人に迷惑をかけてたとかいうことは何もなかったの?」
「まさか。だって、モナミはずっと家の中にいたんだぞ。散歩をするときは、いつもおれや由美子が一緒だったし、勝手に外に出て誰かに迷惑をかけたなんてことは、まず考えられないね。でも、ちょっと待てよ…」
「どうかした?」
「うん、新聞の集金に来てくれていた年配の女性がいるんだけど、モナミはなぜかその女のことだけは嫌っていて、いつもムキになってほえていたんだ。でも、犬にほえられたくらいで、毒殺するほどの敵意を抱くなんてことがあるんだろうか」
「裕ちゃんは、女の怖さがちっともわかってないんだね。女は、信じられないほどつまらないことを、いつまでも根に持つんだよ。だから、男の人がまさかと思うようなことが原因で、モナミを毒殺したってことは大いに考えられると思うんだ」
「そうか、それじゃあ一応念のために、新聞販売店の方をあたってみるか」
「よしきた!さあ、捜査開始だ!」
「何だか、本当に探偵みたいになってきたな、こずえは」
「うん、あたしもこの仕事がすごく自分に向いてるような気がしてきた」
「本当に桃川探偵事務所ができそうだぞ」
「それも悪くないかもね」
 
思いがけない殺意
 裕一郎とこずえは、二十分ほど歩いて新聞販売店に到着した。どうやら販売員たちは、夕刊の配達で出かけてしまった後らしい。中に入って声をかけると、店主らしい中年の男が顔を出した。
「あのう、私はいつもお宅から新聞を配達してもらっている坂井と申します」
「それはそれは、どうもありがとうございます。で、何かトラブルでもございましたか?」「いえ、ちょっとお聞きしたいことがありまして。いつもうちに集金に来てくれていた女性がいますよね」
「ああ、中川さんですね。彼女が何か?」
「いえ、この間の集金の時に、ちょっとうちの犬が失礼をしてしまったので、お詫びをしたいと思って伺ったんです」
「そんなこと気にしないで下さい。中川さんは犬だけじゃなくて、動物が大嫌いだから、どこの家に行っても、ペットからは嫌われてしまうらしいんですよ。本人もそんなことはちっとも気にしていませんから」
「でも、私としてはとても気になるので、もしよろしかったら、住所か電話番号だけでも教えていただけませんでしょうか」
「いいですよ。ちょっと待っていて下さいね」 店主は店の奥にしばらく姿を消していたが、すぐにメモを持って戻ってきた。
「はい、これが彼女の住所と電話番号です。確か、ご主人が教育委員会に勤めていると聞いていますよ。立派なお宅に住んでいるようですから、すぐにわかるでしょう」
「そうですか。どうもごていねいにありがとうございました」
 
 店を出た裕一郎とこずえはお互いに顔を見合わせてしまった。教育委員会の中川と言えば、みなみ高校の緊急PTA役員会に出席した委員会の指導主事の一人だったからだ。
「裕ちゃん、どうやら事件は簡単に解決しそうだね」
「ああ、こずえの言うとおりだったな。犯人は身近なところにいたわけだ。中川も今回の事件で左遷されているし、川辺教育長の指示で何らかのいやがらせをしたと考えても少しも不思議はないからな」
「どうする、裕ちゃん。あたしたち二人で犯人を捕まえる?それとも、この先はマッポたちに任せる?」
「マッポたちか。探偵事務所を開こうって人間が、警察のことをマッポ呼ばわりしたらまずいんじゃないの?」
「あれっ、あたしつい普段の癖が出ちゃっていけないね。その、マッポじゃなくて警察に任せるの?」
「そうだなあ、こっちで動いて次の犯罪が起きてしまう危険を冒すよりも、県警の松平署長に情報を渡して、素早く事件を処理してもらう方がいいだろうな」
「なんだ、つまんないな。あたしは、すっかり探偵になりきっていたのにさ」
「探偵は調査をするのが仕事で、犯人を捕まえるのは警察の仕事だ。それともこずえ、方針を大転換して女性警察官にでもなるか?」「冗談やめてよ。あんな制服着たら、あたし頭がおかしくなっちゃうよ」
「そうだろうな。おれもそれだけは無理だろうと思ったよ」
「まったく、裕ちゃんも意地悪だね」
「ごめん、ごめん」
 こずえはどうしても遠慮したいと主張したので、裕一郎は一人で県警の松平署長に会いに行った。もちろん情報提供のためだ。
 中川佐知子が逮捕されたのは、それから二日後のことだった。文字通りのスピード逮捕だ。市警の取調室では佐知子の取り調べが進んでいた。
「それで、あんたが坂井さんの家の犬を殺したことに間違いはないんだね」
「はい、間違いありません」
「ご主人の中川信二さんにそうしろと指示されたのかね」
「主人はいっさい関係ありません」
「関係ないわけないだろうが!」
「確かに主人から坂井さんの話は聞いていましたが、主人はできれば関わりたくないようなことを言っていましたから」
「それなら、どうして犬を殺したりしたんだね」
「主人を困らせるためです」
「どういうこと?」
「あの人は、ずっと浮気をしていたんです。だから困らせてやろうと」
「それじゃあ、何かね、坂井さんには何の恨みもなかったということなのか?」
「全くありません」
「全くないのに、坂井さんがかわいがっていた犬を毒殺したと言うのかね」
「そうです」
「あきれたもんだな。それで、今では少しは反省しているんだろうね」
「申し訳ないことをしたとは思っています。でも主人が悪いんです!」
「馬鹿を言うのもいい加減にしなさい!あんたは、自分の恨みを晴らすために、坂井さん夫婦に大変な迷惑をかけたんだよ。しかも、坂井さん夫婦にとっては特別な意味があった犬なんだ。それも知らずに、毒殺するなんていうのは、自分勝手の極みじゃないか!」
「そうかも知れませんが、悪いのは主人なんです!」
 取調官はあきれてしまった。そして、こんな自分勝手でめちゃくちゃな動機でモナミが毒殺されたなどと、坂井夫婦に知らせるのは非常にはばかられた。しかし、被害者にはきちんと事件の真相を知らせなければならない。「坂井さん、これは奥さんには知らせなくてもいいとは思うんですが、中川佐知子は亭主の中川信二への腹いせからお宅のワンちゃんを毒殺したということなんです」
「中川への腹いせと言いますと?」
「まあ、本人が言うには、中川信二が浮気をしていたので、困らせてやろうと思ったらしいんですな」
「たったそれだけの理由で、うちのモナミを毒殺したと言うんですか?」
「はあ、まったくもってけしからんことです」「自分のことしか考えていないんですね」
「最近は、そういう類の人間が多くなりましたよ。たいていの殺人事件は、全く理解に苦しむような動機から起きているんです」
「そうですか。とにかく、いろいろお世話をおかけしました」
「いや、それが仕事ですから。それより、奥さんの方はいかがですか」
「はあ、おかげさまで。モナミの姉妹をもらい受けてきたので、それですっかり元気を取り戻しています。ただ、もう一度同じ事件が起きるようなことになれば、おそらく二度と回復は望めないだろうと、それだけが心配でした」
「それなら、もう安心ですな」
「そうですね。とにかく、警察の皆さんには感謝しています。県警の松平署長にもよろしくお伝え下さい」
「はい、わかりました」
 
 裕一郎は何とも言えない情けない気持ちで市警を後にした。中川信二の浮気に対する腹いせでモナミが犠牲になったなんて、ばかばかしくてその怒りをどこにぶつけていいのかわからない。とにかく、これで事件は全て解決したのだから、由美子には詳しい事情は黙っていようと思った。もちろん、桃川探偵にはきちんと報告しなければならない。
「それで、裕ちゃん、やっぱり中川っていう男が奥さんにやらせたの?」
「いやあ、それがな、何ともばかばかしい話なんだけど、理由は旦那の浮気への仕返しだったらしいんだ」
「えっ?それじゃあ、例の事件とは全く関係なかったってこと?」
「そう。全く、ま〜ったく、関係なし」
「でも、どっちにしても、その中川っていう男が悪いよ」
「そりゃ、そうなんだけどね」
「男って、すぐ浮気するんだから」
「男がみんな浮気をするわけじゃないさ。現におれなんて、由美子一筋だからな」
「あらあら、ごちそうさまです」
「それに、女だって浮気するやつが最近は増えてるんじゃないのか?」
「うん、それもそうだよね」
「まあ、いずれにしても、もうモナミ殺害の危険性はなくなったわけで、とりあえずは安心だよ」
「ところで、裕ちゃんは学校の方どうするつもりなの?」
「どうするって、とりあえずはこずえが無事に卒業するまでは、今の状態でいく」
「あたしが卒業したら?」
「それはまだ決めかねてるんだ。何だか、ばかばかしくなってきちゃってね。教育長があんなことをするようじゃ、学校の未来は暗いよ。そんなところで働いていて、後で後悔するのもいやだしね」
「でも、学校やめたら、再就職先を探すのが大変じゃない?」
「こずえと一緒に、ハローワークへでも行くさ。それとも本当に桃川探偵事務所を起ち上げるか。おれは弁護士の資格でもとって、桃川探偵事務所の顧問弁護士になる。もちろん社長はこずえだ。悪くないだろう?」
「う〜ん、あたしも考えとくよ。それより、裕ちゃんも弁護士の資格を取るんなら、今から受験勉強を頑張らないとね」
「何だよ、どっちが先生かわからなくなってきたなあ」
「そうだね。あたしが人に勉強を勧めるなんて、世も末かな」
「末ってことはないけど、それだけこずえが成長したっていうことなんじゃないか」
「あたし、本当に成長したかなあ」
「ああ、成長したよ。最初に女子トイレで出会った頃のこずえとは、全く別人だ」
「それを言われると恥ずかしいよ。あのころは誰も信用してなかったからね」
「今は信用できるようになった?」
「そりゃあ、裕ちゃんとか、裕ちゃんの奥さんとか、マッポの、じゃなくて警察の松平のおやじとか、世の中いい人もいっぱいいるってわかったもん」
「よかったな。本当に…」
 
正義感の欠落した学校
 裕一郎の事件は全国的にマスコミ報道されたこともあって、裕一郎はある意味では学校内のヒーロー的存在になっていた。しかし、裕一郎はそれが気に入らない。自分が本当に窮地に立たされていたときには、職員室の誰一人として、あるいは保護者の一人として、自分のために何かをしようとしてくれた人間はいなかった。それが、事件の急展開と共に誰もが自分にお愛想笑いをするようになったのだから、裕一郎は腹立たしくて仕方ない。裕一郎と一番親しかった同じ社会科の織田秀吉教諭などは、立派な名前をもらっているくせに、全く意気地のない人間だということが暴露された形になっていた。
「いやあ、坂井先生、PTAの緊急役員会のときは、私が何かを言うことで、かえって先生に不利な状況を作ってしまうのではないかと案じられたので、何もできなかったんですよ。まったくもって面目ない」
「別に気にしないで下さい。誰でも自分のことはかわいいですからね」
 裕一郎は痛烈な皮肉で返答した。
「そう言われてしまうと、返す言葉がありませんなあ。別に私は自分のみを案じたわけではないのですが、坂井先生のことを思って、動きを自粛したまでです」
「そうですか、それは実にありがたいことです。ところで先生、今日は校内パトロールの当番なんじゃありませんか?」
「そうですが、あんなもの本気でやるのはばかばかしい。どうせ、授業離脱している生徒を見つけて注意をしたって、教師がいなくなればまた同じ事を繰り返すだけですからね。そんな無駄なエネルギーを使うよりは、一生懸命勉強しようとしている生徒たちのために頑張りたいじゃないですか」
「それで、織田先生はやる気のある生徒たちのために何か特別なことでもしているんですか?放課後の補習をするとか」
「まさか、私たちにも勤務時間というものがありますからね。放課後の補習には反対の立場です。補習ができる時間的余裕がある先生はいいですが、家の事情でそれができない先生もいる。それでは不公平というものです」
「でも、別に補習をする先生が偉くて、家の事情で早く帰る先生が偉くないということにはならないでしょう。生徒たちに、その辺の事情を正直に話してやれば問題ないじゃありませんか。高校生はもう大人ですよ」
「いえ、私は全国の労働者のためにも、無報酬の労働はしないつもりです」
「それは立派なお考えですね。先生は、今度の市会議員選挙にでも出馬したほうがいいんじゃないですかね」
「私でも当選しますかね」
「さあ、それは私には関係ないから何とも言えませんよ。少なくとも、私は絶対に先生には投票しませんがね」
 裕一郎は痛烈な嫌みを残してその場を後にした。背後で織田秀吉の悔しい歯ぎしりの音が聞こえるような気がした。
 最近の学校は腐っていると裕一郎は思う。先生たちはみんな余計な仕事をできるだけ避けるようになってしまった。そもそも、教師という仕事についている限り、「余計な仕事」などというものは存在しないのだ。要するにみんなはできるだけ楽をして給料をもらおうとしていることになる。校内パトロールにしても、完全に形骸化してきている。真剣に注意されるわけではないから、授業離脱をしてトイレや空き教室にたむろっている生徒たちも、先生たちを適当にあしらって、それでおしまいになる。教師と生徒の信頼関係などかけらも存在しない。それでも、何とかしなければと頑張ろうとする雰囲気など、職員室には全くないのだからあきれてしまう。
 裕一郎の事件にしても、結局は誰もが事件に巻き込まれるのを避けたのだ。自分が他の職員の立場だったら、たった一人でも校長室に押しかけて苦情を申し入れたと思う。それでこそ「同僚」というものだろう。高教組も支持政党の労働党の勢いが衰えるのと比例して、急激に勢力を失ってきている。プロ野球の選手たちが、球団統合問題でストライキを実施しようと頑張っている姿を見ていて、どうして学校という職場には彼らのようなエネルギーが存在しないのか、裕一郎には全く理解できない。
 中学生や高校生のいじめによる自殺の事件などが起きると、マスコミも大騒ぎするが、文科省が教師に自覚を促すのも一時的なことで、現場の教師たちは自分の学校の問題でない限りは、それほど深刻に受け止めることはまずない。よく、当該校の学校長がインタビューに答えて「いじめの事実は学校としては全く把握しておりませんでした」などと答弁しているが、そんなことは絶対にあり得ない。実際にはいじめの事実は把握していたものの何ら効果的な対応ができなかっただけのことなのだ。全てのケースがそうだとは限らないが、多くの場合は学校側の怠慢である。
 管理職の中にも、「所詮は他人の子よ」と言ってはばからない不届きものがいると聞いている。もしそれが本当だとしたら、ノストラダムスが予言した世紀末は、学校という世界には確実に訪れていることになる。
 少子化の傾向も手伝って、若い教師が採用される機会が減り、職場はまるで年配教師の保養施設化している。空き時間にお茶やコーヒーをすすって、雑誌や新聞に目を通す。民間にこんな暇な職場があるだろうか。それでも、教師は五十万円前後の安定した月給と、百万前後の安定したボーナスを給付されるのだから、世の中はどこか間違っている。
 しかし、裕一郎一人が正義感にかられて声高に正義を主張しても、誰も呼応する人間はいないだろう。今回の事件で、裕一郎はそのことを改めて思い知らされたのだった。
 
悲運の母親
 桃川探偵事務所の試運転をしていたときのこずえは、元気いっぱいに張り切っていたが、全ての事件が解決してしまうと、以前のけだるい女子高生に戻ってしまったようだった。裕一郎は、いつもの喫茶店でこずえにその月の生活費を渡した後、こずえの家のことを少し聞いてみることにした。今までは、自分の問題で頭がいっぱいだったせいもあり、こずえの家庭内の問題には、あまり深く立ち入った話をすることはなかったのだ。
「ところで、こずえ、最近あまり元気がないみたいだけど、家で何かあったのか?」
「うちは、何かない日なんてないんだ。お母さんは、いつもの通り若い男を連れ込んでるし、同じ女としていやになっちゃう。あたしが同じ家の中にいるのがわかってるのに、平気でエッチしてたりするんだから、あきれちゃうよね。あたしもあんな母親になっちゃうのかなあ」
「お母さんにも、何か辛い事情があったんだろうね。自分から好んで乱れた生活をしようとする人間なんかいるわけないよ」
「確かに、女手一つであたしを育てるには、常に守ってくれる男が必要だったっていうのはわからなくはないんだけど、あたしにはいやな思い出もあるし、もうそろそろそういう生活は終わりにしてくれてもいいんじゃないかと思うんだ。でも、お母さんにとっては男たちは麻薬と同じなのかなあ…」
「おれは女じゃないからわからないけど、お母さんはひとりぼっちで寂しいんじゃないのかなあ」
「あたしがいても駄目ってこと?」
「娘は娘だよ。肉親以外に自分を愛してくれる人が人間には必要なんだと思う」
「愛してくれるって言ったって、お母さんの見つけてくる男たちは、みんなお母さんの体が目当てなんだよ。だから、しばらくして飽きちゃうと、いつの間にかいなくなる。そんなの愛って言わないんじゃないの?」
「そうだなあ、おれにはよくわからんな。人間の愛には、これっていう決まり切った形はないのかも知れないし」
 こずえの母親である桃川美佐恵は、十七歳で二十五歳の男と同棲を始めた。美人で、その上に日本人離れしたセクシーな体躯を持ち合わせた美佐恵には、いろいろな男が声をかけてくる。美佐恵はそんな男たちが、本当に自分のことを愛してくれていると思いこんでいた。若さ故のことでもあるが、それには美佐恵自身が孤児院育ちで、親の愛を知らずに育ってきたことも大きな原因になっていた。もちろん、美佐恵自身はそんなことに気づいていないから、何度男にだまされても、また同じ事を繰り返してしまう。娘のこずえのことはもちろん気にかけてはいるが、どうしてもそばに自分を愛してくれている男がいなければ精神的な安定を得られないのだ。だまされているかも知れないと思ってはいても、刹那の偽物の愛にすがらなければならない悲運の女性だったのである。しかし、そんな美佐恵の心理を、まだ高校生のこずえに理解しろという方が無理な注文だろう。
「お母さんの気持ちはよくわかんないけど、あたしは高校を卒業したら、絶対に家を出るつもりなんだ。今までのあたしは、ひどい生活をしてきたけど、もうガキじゃないんだしそろそろちゃんとした生活を考えようと思ってる。裕ちゃんと奥さんの姿を見てて、あたしも裕ちゃんみたいな旦那さんと結婚して、あったかい家庭を持ってみたくなったの」
「こずえもやっぱり女だな」
「当たり前でしょ。あたしは昔も、今も、それからこれからもずっと女だよ」
「でも、お母さんを見捨てて遠いところに行くつもりはないんだろう?」
「そうだね。やっぱりお母さんのことは心配だからね。今はまだ若いから男がちやほやしてくれるけど、あと何年かしておばあちゃんになっちゃったら、誰も相手にしてくれなくなるでしょ。そうなったら、お母さんを支えてあげられるのはあたししかいないもん」
「こずえは偉いよ。最近の若い連中は、自分の親のことさえ大切にしようとはしないやつが多いからな」
「みんな幸せの中にいるから、親子がいっしょにいられるありがたさに気づかないんだ。離ればなれで暮らすようになれば、変わるんじゃないの」
「いや、こりゃあ一本とられたかな。きっとこずえの言うとおりだよ」
「あたしね、高校卒業したら、いつか本気で探偵事務所を作ろうかと思ってるんだ。弱い立場の人たちの力になってあげられるような探偵事務所をね。あたしのお母さんだって、ちゃんとした男と一緒になってれば、今みたいなだらしない生活をしなくてもすんだかも知れないでしょ?そうすれば、あたしみたいに誰がお父さんなのかわからなくてひねくれちゃう子供もいなくなるだろうしね」
「こずえ…」
「あれっ?ちょっと話が湿っぽくなっちゃったね。あたしらしくなかったかな。ごめんね裕ちゃん」
「いいよ、たまには。そういう真剣な顔したこずえもなかなかいい」
「やめてよ、そんな言い方するの。照れちゃうじゃん」
「こずえなら、きっといい仕事をするようになるだろうし、いい男性とも出会えるような気がするんだ」
「裕ちゃん、本当にそう思ってる?」
「嘘や冗談でこんなこと言うわけないだろ?」「だってさ、裕ちゃんは所詮は学校の先生なんだもん。悩める生徒を慰めるのは得意中の得意なんじゃない?」
「何だ、こずえはおれのことをそんな風に思ってたのか?おれは、こずえを一人の女性として尊重して話をしてるつもりだけどな」
「女性だなんてやめてよ。あたしはまだまだケツの青い女子高生だってば」
 そう言いながらも、こずえは自分を一人の人間として認めてくれている裕一郎の誠意は十分に感じていた。裕一郎が自分の存在をきちんと認めてくれてきたからこそ、こずえはまともな生活を送りたいと思うようになったのだ。ただ、裕一郎に対してほんの少し恋心を抱き始めている自分に気づいているこずえは、どこかで話をそらさなければ、どうしていいかわからなくなってしまいそうだった。 それにしても、動物の世界では常に雌の方が生活力旺盛にできているものなのだが、人間の場合は、女が一人で生きていくことほど寂しいことはない。いくらでも突っ張って生きている振りはできるが、それでも夜の暗い部屋に一人で帰れば、鏡に映るのは寂しい女の素顔に間違いない。こずえの母親も、そんな寂しい女の一人だった。
 
二週間の有給休暇
 こんなことは非常に珍しいことなのだが、裕一郎は市教委から多大な精神的苦痛を与えられたということで、その回復のためという名目で二週間の有給休暇をもらえることになった。そこで、すでに保育園での仕事を始めていた由美子には了解を得た上で、二人で南太平洋の楽園「タヒチ」に旅することに決めたのだ。由美子にとっては、フライトアテンダント時代以来久しぶりの海外旅行である。しかも、欧州と北米大陸が主な「勤務先」だった由美子にとっては、タヒチはあこがれの夢の島でもあった。
 タヒチへは成田空港から直行便が出ている。しかし、空の旅は十二時間にも及び、途中何度か乱気流にも巻き込まれることを覚悟しなければならない。高所恐怖症の上にスピード恐怖症でもある裕一郎は、遊園地のジェットコースターでさえ世の中で最も恐れるべき代物ときているから、乱気流に巻き込まれたときの裕一郎は、完全にフリーズ状態だった。隣で裕一郎の青ざめて緊張した顔をのぞき込んでいた由美子は、思わず吹き出しそうになってしまった。
「おい、由美子、このまま墜落しちゃうんじゃないのか」
「このハイテクの時代に、この程度の乱気流で墜落するわけないでしょ。そんな危険な仕事なら、フライトアテンダントなんかみんなすぐに退職しちゃうわよ。今の時代の飛行機はね、自動車なんかよりもずっと安全なの」
「でも、ほら、日本でも二十年ほど前に大事故が起きて、五百人以上の人間が死んでるじゃないか」
「それはね、飛行機事故っていうのは、一回の事故での死亡者の数が多いから、マスコミで大きく取り上げられるだけのことで、年間の死亡者数は自動車事故で亡くなる人たちの方がはるかに多いのよ。それが証拠に、もう百回以上飛行を経験している私だって、ほらこうしてまだぴんぴんしているじゃない」
「でも、次のフライトを引き受けていたら落ちてたかも知れないじゃないか」
「そんなこと考えてたら、街の中だって安心して歩けないじゃない。裕君も意外と臆病者なのね」
「まあ、そう言うなよ。ところで、あとどのくらいでファーア国際空港に着くの?」
「そうねえ、2時間くらいかな。もう乱気流はないはずだから、安心して眠っていて平気よ。着いたら私が起こしてあげるから」
「起きたら天国なんてことにならないことを祈ってるよ。それじゃあお休みね〜っ!」
 由美子は子供のように怯える裕一郎がおかしくて仕方なかった。それに、自分でも裕一郎を励ますことができるのだということに改めて気づかされて、少し安心したような気もする。人間にとって、誰かの役に立っていると感じることが、どれほど大きな自信を与えてくれるものか計り知れないのだ。「存在感」とか「アイデンティティー」とか呼ばれるような心理状態だろう。
 
 タヒチは抜けるような青空だった。ファーア国際空港は、十年ほど前にテロ事件が起きているが、今ではすっかり政情も安定している。フランス語圏だから、英語だけしかしゃべれない旅行者には、少し不安の残る異国の地でもある。目立つのは現地の女性の背の高さと美貌だ。原住民とフランス人の血が混じって誕生したこの世のビーナスたち。由美子はフランス語も堪能だったから、英語もろくに話せない裕一郎にとっては、力強い味方だった。フランス語圏の人間たちは、英語しかしゃべれない外国人旅行者を軽蔑する傾向が強い。それはアメリカ中心の世界に対する、フランス文化圏の対抗意識かも知れない。
 裕一郎たちが予約をとったホテルは、タヒチ本島ではなく、そこから更にセスナで移動したモーレア島にあった。
「また、飛行機か…」
「飛行機といっても、今度はセスナよ」
「それなら安心だ」
「馬鹿ねえ、セスナの方が墜落の危険性ははるかに高いんだから。今度は私の方がちょっと緊張するわ」
「おい、冗談はやめてくれよ」
「大丈夫よ。人間の生死は神様が決めるものだから、私たちがいくらあがいてもなるようにしかならないわ」
「それって、安心していい言葉なの?」
「さあ、どうかしらね」
 
 しかし、いったんセスナが飛び立ってしまうと、眼下の美しい景色に、裕一郎の目は釘付けになってしまった。何と美しい海なのだろう。こんな場所が地球上に存在するなんて不公平だと裕一郎は思った。いつも東京湾の汚れた海しか見ていなかったからだ。
 モーレア島は、もう二十年以上前に、ミュージカルの「南太平洋」の舞台になった島でもある。まだ小学生だった由美子は、その映画を見て、いつか行ってみたいと夢にまで見た島だった。その夢の島が、今自分の目の前に現実のものとして存在している。由美子の心は弾んでいた。
 裕一郎たちは、とりあえずホテルにチェックインして、それから予約しておいたレンタカーに乗って島を一周してみることにした。「おい、これ左ハンドルだよ」
「裕君は、左ハンドル初めてなの?」
「ああ、そうなんだ。まあ、どうにかなるだろうとは思うけどさ。ええと、ここがローでここがブレーキでここがアクセルで、ウィンカーはえーっと、こっちが右でこっちが左か。それで、走るのは、右側通行でいいんだな。よし、準備完了だ。後の細かいことは、運転しながら覚えるさ」
「ジャンボより危険そうだわね」
「えっ?何か言ったかい?」
「ううん、独り言よ」
 海岸線をドライブしていくと、船着き場のような小さな防波堤から、海に飛び込んで遊んでいる子供たちが見えた。由美子は裕一郎に頼んで車を止めてもらった。
「あの子たちと話をする気かい?」
「ええ、ちょっとだけね。いいでしょう?」
「アロ。コマンタレヴ?ジュ・スィ・オ・ジャポン」
「アロ。トゥレ・ビエン・メルスィ。エヴ?」「トゥレ・ビエン・メルスィ」
 裕一郎には何のことかちっともわからないので、いつまでも愛想笑いをしているのもつまらないから、さっさと車に引き上げてきてしまった。
「それで、何だって?」
「フランス語を話す日本人は初めてだって」「そりゃあそうだろうなあ。おれなんか、英語だってろくにしゃべれないんだから、フランス語なんて宇宙人の言葉に等しいよ」
「英語もフランス語も、覚えてしまえばそんなに難しくないのよ。何だったら、私が授業をしましょうか?」
「いや、結構。おれはジェスチャーだけで何とか国際社会を渡り歩いて見せるさ」
「いいの?学校の先生がそんなこと言ってて」「う〜ん、そう言われてしまうと、実に面目ない」
「冗談よ」
 モーレア島の海も山も、何十年も前の映画のシーンと少しも変わっていないように感じる。素晴らしい自然。画家のゴーギャンがこの地を一生の生活場所に選んだ理由を理解するのは実に簡単だ。南太平洋の島々は、インド洋に浮かぶ真珠と呼ばれるモルジブなどとは違って、火山活動によって隆起した島々であることが多いため、美しい海と同時に壮大な山々の自然を楽しむこともできる。裕一郎たちは山の頂上の展望台まで車を走らせて、えも言われぬ美しい景色にしばし酔いしれていた。
「ねえ、裕ちゃん、私ボラボラ島まで足を伸ばしてみたいんだけど」
「何だい、そのバラバラっていうのは」
「バラバラじゃなくて、ボラボラ島。やっぱり映画撮影の舞台になったところなの。モーレア島より、もっときれいな海が見られると思うわ」
「ここ以上にきれいな海が、まだこの地球上に存在するの?」
「そうよ、ちゃんと存在するの」
「よしきた。何度も来られる場所じゃないんだから、行ってみようよ。でも、まさかまたセスナに乗るとか?」
「そうね、船に乗るよりは楽だと思うわ」
「じゃあ、そうするか」
 裕一郎たちは、翌日の予定を変更して、ボラボラ島まで飛ぶことにした。そこは由美子が言っていた以上の楽園だった。言葉ではとても言い尽くせない美しさ。夕暮れ時は空気が紫色に染まったような錯覚に陥る。夜空には無数の星がまたたき、天の川もくっきりと見ることができた。裕一郎は南十字星を初めて見たと言っては、しきりに感激していた。もちろん、夢にまで見た楽園に来ることができた幸せを一番感じていたのは、由美子自身だった。由美子は裕一郎の優しい気遣いに心から感謝したい気持ちだった。そして、今までの生活のストレスが全て消えていくのを感じるのだった。
「モナミも連れてきてあげたかったわ」
「でも、あの小さい体じゃあ、飛行機の長旅はこたえるだろう。こずえがちゃんと面倒を見てくれているから大丈夫だよ」
「こずえちゃんには、ちゃんとお土産を買って行かなくちゃね」
「何にしたらいいのかなあ」
「せっかくタヒチまで来たんですもの、黒真珠のピアスなんかがいいんじゃない?」
「そりゃまた高くつきそうだね」
「値段にこだわったらこずえちゃんに失礼だわ。あの子がいてくれなかったら、全ての事件はこんなに簡単に解決しなかったはずなんだし」
「それもそうだな。ここは奮発するか」
「それにしても、世の中にこんな美しい場所があるなんて、私たちは本当に幸せね」
「そうだね。こういう場所に来ると、本当に地球を守らなくちゃいけないっていう気持ちになるよ」
「何だかね、裕君、私、今までの心の傷がすっかり治ってしまったような気持ちなの」
「本当かい?もしそうなら、格安の海外旅行だったね」
「たくさんお金を遣わしちゃってごめんね」
「何言ってるんだよ。普段何もしてあげてないんだから、たまには家庭サービスしなくちゃ罰があたるさ」
「裕君は本当に優しいのね。私、大好きよ」 裕一郎は由美子から改めて愛を告白されて照れくさい気持ちだった。高所恐怖症と闘ってタヒチまで来て本当に良かったと思う。
 予定の一週間があっという間に過ぎ、裕一郎は由美子に言われたとおりの黒真珠のピアスをこずえのお土産に買って、二人とも機中の人となった。帰りの乱気流が、再び裕一郎を悩ませたことは言うまでもない。
 
初めてのプレゼント
 こずえは、裕一郎から手渡されたお土産の包みを開けて、飛び上がるほど喜んだ。黒真珠を目にするのも初めてだが、他人からプレゼントをもらうこと自体が、こずえにとっては生まれて初めての経験だったのだ。
「裕ちゃん、この真珠腐ってるんじゃないよね。真珠って薄いピンク色なんじゃないの?」「これだから女子高生は困るんだ。これはね黒真珠といって、世界でも珍しい真珠なんだよ。タヒチは黒真珠で有名なんだ。だから、日本で手に入れることができるような普通の真珠よりずうーっと、高いんだよ」
「そんなにすごいものあたしがもらっちゃって本当にいいのかな」
「いやなら返してもらってもいいけどさ」
「いやだなんて、言うわけないじゃん。それに、あたし他人からプレゼントもらうの、生まれて初めてなんだ。何だか涙が出てきちゃいそうだよ」
「おいおい、こんなところで泣かないでくれよな。まるでおれがこずえを泣かせてるみたいで、格好悪いからさ」
「だいじょうぶだよ、そんなに簡単に泣かないよ。でも、裕ちゃん、本当にどうもありがとう」
「いや、実はさ、正直言っておれも何を買ったらいいかわからなかったんだ。だから由美子が決めた。黒真珠なんておれも初めて見たよ。ちょっとつけてみてくれないか」
「いいよ。ほら、どう、似合う?」
「こりゃあすごいぞ。こずえが大人の女性に見えるよ」
「そんなにきれい?」
「ああ、すごくきれいだよ」
「ピアスが?それともあたしが?」
「両方ともきれいだよ」
「裕ちゃんは、お世辞がうまいね」
「お世辞なんかじゃないさ。こずえは本当にきれいだよ」
 裕一郎は、素直な性格をそのまま表現できるようになったこずえは、本当にきれいだと思う。若い女性の輝くような美しさに満ちあふれている。黒真珠のピアスは、そんなこずえにぴったりだと思った。それにしても、今まで一度もプレゼントをもらったことがないなんて、裕一郎はこずえの悲しい子供時代を思うと、胸が痛む思いだった。この子には絶対に幸せをつかませてやりたい。そのために自分にできることは何でもしよう。裕一郎は強く心に誓うのだった。
 秋になって新学期が始まってから、こずえは突然一生懸命勉強をするようになった。本人いわく、探偵事務所を開いたときのために高校卒業後コンピューターの専門学校に通いたいのだそうだ。人生設計がなかなかできない高校生が増えている中で、こずえはしっかりと自分の人生を見つめていた。裕一郎も本気で法律の勉強をやり直して、司法試験に合格して弁護士の資格をとらなければならないと思い始めていた。ついこの間までは冗談で話題にしていた「桃川探偵事務所」がいよいよ現実の可能性を持ち始めたからだ。裕一郎は、おそらくこのまま教師を続けていくことはないだろうと思っている。教師の生活は安定しているが、そんな嘘っぱちの世界にどっぷりつかって人生を送るよりも、広い世界に飛び出して、新しい自分に挑戦してみたくなったのだ。それに、自分が弁護士の資格をとれば、こずえの夢も一層実現に近づいてくる。裕一郎は久しぶりに弾んだ気持ちになった。 裕一郎はこずえと一緒に久しぶりに中華街の中を散策した。一見して女子中高生とわかるコギャルたちがうようよしている。パンツが見えそうな短いスカート。もうすたれたはずのルーズソックスもまだここでは時代に取り残されていた。しかし、何日洗っていないのか、ソックスはかなり黒ずんでいる。コギャルならぬ「オギャル(汚ギャル)」だ。
「この子たち、いつも夜中まで街中をうろうろしてるみたいだけど、いったい親たちは何も言わないのかなあ」
「オールだからね」
「オール?」
「そうだよ、オールナイトのオール。要するに一晩中家に帰らないプチ家出みたいなもんかな」
「こずえもオールしてたのか?」
「したこともあるけど、やっぱりうちに帰った方が落ち着く」
「オールねえ。親は心配じゃないのかなあ」「心配したって、帰ってこないんだからどうしようもないじゃん。まさか、横浜まで探しにくるの?探しに来たって、見つかりっこないもん。だから、携帯電話に連絡だけもらったら、ただ家で待ってるだけなんじゃない」「世の中どうにかなっちまったんだなあ」
「そうだねえ、昔のあたしなら何にも感じなかったと思うけど、まじめに生きようと思って周りを見渡してみると、みんながやってることがばかばかしく見えるよ」
「これじゃあ、売春だ買春だと大騒ぎしたって、何の意味もないよなあ。買う方も買う方だけど、売り手がいるから買うんだからな。青少年保護育成条例なんてものがあるから、コギャルたちがつけあがるんだよ。両方とも徹底的に罰すればいい」
「でもさ、裕ちゃんは、学校の先生だからそんなこと言うけど、この子たち帰る場所がないんだよ」
「自分の家があるだろうに」
「建物としての家があったって、家庭がなくちゃ意味ないじゃん。家にいるとストレスがかえってたまる場合だってあると思うんだ。あたしの場合は、なんだかんだ言っても、お母さんがちょっとかわいそうだと思う気持ちがあったから、我慢したんだけどね」
「そうか、おれが思ってるほど事は単純じゃないんだな」
「そりゃあそうだよ。誰だって、好きこのんで危険な街中をうろつきたくなんかないさ。暴力団につかまって、薬でも打たれちゃったら、人生終わりだもん」
「おれたち大人が悪いのかなあ」
「大人も子供も両方とも悪いよ。どっちももっとしっかりしなくちゃ。裕ちゃんの奥さんみたいに、苦しい思いをしながら頑張ってる人だっているんだもん」
「こずえ、何だかずいぶん大人になっちまったなあ。悪い事じゃないけど、もうおれは必要ないような気がして、ちょっと寂しい」
「何言ってるの、男のくせに。あたしはいくら生意気なこと言ったって、所詮は女子高生だよ。裕ちゃんがちゃんと見張っててくれなくちゃ、またいつ元の駄目姉ちゃんに戻っちゃうかわからないんだから」
「そう言ってもらえると、何だか嬉しい気がするなあ」
「裕ちゃんは欲張りだよ。あんなにいい奥さんもいるし、かわいいモナミちゃんだっているし、あたしみたいに手のかかる娘もいるし、これ以上何が不足なの?」
「何が不足って、うん、そう言えば、何も不足はないかも知れない」
「そうでしょう?」
 裕一郎は本当に不思議な気分だった。学校の女子トイレで初めて出会ったときのこずえは、体中からとげが突き出ていた。それなのに、今のこずえは自分よりよっぽど冷静な目で社会を見つめている。自分がこずえに励まされるようになるとは思ってもみなかった。
 
モナミの不思議
 モナミはすっかり坂井家の家族の一員になりきっている。家の中で飼っている犬は、自分のことを犬だとは思わなくなると言うが、それは本当かも知れない。モナミは明らかに裕一郎や由美子の言葉を理解しているように見えるのだ。由美子が仕事に疲れた顔をしていれば、そっと由美子のわきに寄り添っていって、由美子の手をぺろぺろなめ始める。由美子の疲れを一生懸命癒そうとしてくれているのだろう。
 モナミはときどき、ベランダに出て外の空気をおいしそうに吸っている。空気中を漂っている様々なにおいをかぎ分けては楽しんでいるのかも知れない。朝夕の散歩の時も、モナミはいろいろなものに興味を示した。
「この子は葉ずれの音が好きなのよ」
「カサカサっていうあの音かい?」
「そう。モナミにとってはきっと心地いい音楽なのね」
「それにしても、最近は糞を持ち帰って下さいという立て札がずいぶん増えたね」
「そう言えばそうね。ちゃんと散歩のマナーを守らない人がそれだけ多くなったということなんじゃないかしら。みんながちょっとした気遣いをすれば、もっともっと住みやすい街になるのに、みんな余裕がないのかしら」
「余裕の問題かなあ。おれはモラルの問題だと思うよ。自分だけが良ければそれでいいという社会になってきたんだ」
「ほら、裕ちゃん、あのおばあさんを見て」「ああ、いつもああして公園のゴミ拾いをしてくれているね」
「あのゴミ、夜中まで公園で遊んでる若い子たちが散らかしていくのよ。それを、人生の大先輩のおばあちゃんが片づけるんだから、こんな世の中じゃだめよね」
「何だか悲しい風景だね。ミレーの落ち穂拾いとは全然意味が違うよな」
「あら、裕ちゃん、いつから絵に興味なんか持ち始めたの?」
「いやあ、そんなんじゃないんだけど、たまたま美術の教科書で見たミレーの絵が好きになったんだ。農民の力強さを感じるんだよ」「今の子供たちが、このまま大人になったら日本はいったいどんな国になるのかしら」
「そうだなあ、今だって自分の国の利益しか考えないようなところがあるから、これからはもっと貧しい国に恨みを買うような横柄な国になっていくんじゃないだろうか」
「この公園にも浮浪者が何人か住み着いてるけど、市役所の人たちはどうしてあの人たちを放っておくのかしら」
「確かに君の言うとおりだよ。憲法は全ての国民が等しく最低限の人権を尊重された生活を送る権利を認めている。あの人たちも、好きでこんな生活を始めた訳ではないから、市が彼らに簡単な仕事を与えて、少なくとも日々の生活を維持していくことができるだけのお金を稼げるようにしてあげてもいいんじゃないかと思うね。浮浪者は自分たちが怠けて仕事をしないからいけないんだと決めつける人たちが増えているけど、今の時代はいつ誰が浮浪者になってもおかしくない時代だっていうことを、みんな忘れてるよ。自分が苦境に陥らなければ、他人の不幸には興味を示さないんだ」
「人間って、罪深い存在だわ…」
「そうだね、このままいけば、またいつか大きな戦争が起きて、世界は滅びてしまうかも知れない。第三次世界大戦が起きれば、地球上を核ミサイルが飛び交って、やがては核の冬がやってくるんだ」
「核の冬ってなあに?」
「核爆発のキノコ雲が地球の上空を覆ってしまって、太陽の光が地上に届かなくなるんだよ。そうすると地表の温度はどんどん下がって、零下50度ぐらいになるんだ」
「そうなったら生き残った人間はどうなっちゃうの?」
「きちんとした設備が整った地下のシェルターに入りそびれた人間たちは、やがては凍死していく。そうやって人類は滅びるんだ」
「その後は、運良く生き延びた人たちでまた世界を作り始めるのね」
「そうだよ。だけど、人間は争いをやめられない動物だから、いつかはまた第四次世界大戦が起きる。そのときの武器は何だと思う?」「さあ、何かしら」
「石斧だよ。偉い学者が予測してるんだ。もちろんたっぷり皮肉がこもってるんだけどね」「こんな時代に子供を産むのはいやだわ」
「そうだね、親は先に死んでいくわけだから、こんな時代に子供たちを残していくのはちょっと気が引けるものな」
「モナミたちは無駄に争うこともしないで、一生懸命自然の中で生きようとしているのに、どうして犬にできることが人間にはできないのかしらね」
「それは難しい問題だね」
「ねえ、モナミ、あなたはどう思う?人間は馬鹿だなあっていつも思ってるの?」
 モナミは不思議そうに顔をかしげながら、じっと由美子の目を見つめている。
「この子ったら、私の心が読めるみたい」
「口がきけない分、犬にはそういう能力が備わっていてもおかしくはないよ」
「そうね、モナミ、あなたはとっても偉いのね。ママやパパの心の中が見えるのよね?」 モナミは一回だけ小さく「ワン」と吠えた。まるで由美子の問いかけに、「その通りだよ」と答えているようだった。
 裕一郎も由美子も、職場のストレスを家に持ち帰っても、モナミと遊んでいると、そういう心のもやもやはいつの間にか消えてしまっていることが多い。アニメの「ナウシカ」に登場する腐海(ふかい)のように、人間の心の中の汚い感情を全部吸収して、浄化してくれているかのようだ。
 
禁断の果実
 こずえが泣きながら裕一郎のマンションにやってきたのは、年の瀬の真夜中だった。
「裕ちゃん!」
 そう叫ぶと、こずえは裕一郎の腕の中に飛び込んできた。ただ泣きじゃくるだけで、何が起きたのかちっとも要領を得ない。裕一郎はしばらくそのままこずえを抱きしめてやることにした。しばらくすると、こずえの泣き声もようやく勢いをなくしてきた。
「こずえちゃん、とにかくこっちに入って、ソファーに腰掛けなさい。温かいミルクでも入れるから」
 由美子が台所に立っていった間に、裕一郎はゆっくりと事情を聞き始めた。
「こずえ、もう安心していいんだよ。さあ、何があったのか言ってごらん」
「あのね、今日ね、うちに帰ったら新しいお父さんがいたの。それでね、あたしが自分の部屋に行こうとしたら、突然私の腕をつかんで…」
 そこまで言って、こずえはまた泣きじゃくり始めてしまった。
「その男が、こずえに何かしたのか?」
「私の服を脱がして、それで無理矢理…」
「無理矢理、乱暴したんだね?」
「あたし、もうそんな生活したくないのに」
「お母さんはいなかったのか?」
「お母さんは何もできずに、部屋の隅で泣いてるだけだった。助けて欲しかったよ」
「わかった。おい由美子、こずえを頼む。おれはこれからこずえのうちに行ってくる」
「あなた、一人で大丈夫なの?」
「由美子は、県警の松平署長に連絡して、すぐにこずえの家に警官を回してくれるように言ってくれ」
「わかったわ。でも、決して危ない真似はしないでね。警察の人たちがかけつけるまでは絶対に無茶はしないでちょうだいね」
「わかってるよ。ただ、逃げないようにするだけだから、心配しなくていい」
「裕ちゃん、だめだよ。あいつ、すごく体が大きいんだ。裕ちゃんでも投げ飛ばされちゃうかも知れないよ」
「心配するな。だてに水泳で鍛えてないよ」
 
 裕一郎はこずえの家に急いだ。おそらく酔っぱらっているんだろうから逃げることはないとは思うが、このまま放っておけない怒りがこみあげて来るのだ。裕一郎は、ノックもせずにこずえの家の中に突入した。
「おい、お前か、こずえに乱暴をしたのは!」「何だてめえは。自分の娘に乱暴して何が悪い。他人のおめえには関係ねえ!とっとと消えな。さもないと怪我するぜ」
「お前みたいなくだらないスケベ野郎がいるから、世の中がちっとも良くならないんだ!」 そう言うと、裕一郎はその男の襟首をつかんで、思いっきり投げ飛ばした。男の巨体が不思議なくらい軽々と宙を舞った。裕一郎は水泳の筋力トレーニングの一環として、大学の柔道部で柔道の訓練もしていたのだ。腕前はかなりのものである。
「いてて!このやろう、何しやがる!」
 男は起きあがって、裕一郎に襲いかかってきた。その次の瞬間、裕一郎の足が男の踏み込んだ足を払い、男の巨体がまた宙を舞って玄関のコンクリにたたきつけられた。さすがに今度ばかりは、起きあがることができなかった。ちょうどそのとき、数名の警察官がかけつけてきた。
「ああ、どうもご苦労様。お巡りさん、こいつがここの娘の女子高生に無理矢理乱暴を働いたんです。れっきとしたレイプ事件です」「それで、被害者の女子高生はどこに?」
「今は、私の家で妻が面倒を見ています」
「わかりました。それでは申し訳ありませんが、被害者の証言もとらなければなりませんので、お宅までパトカーでご一緒願えますでしょうか」
「もちろんです。あの、その子の母親も一緒に連れて行ってよろしいですか?」
「それがいいでしょう」
 
 裕一郎と桃川美佐恵は、男とは別のパトカーで裕一郎の自宅に向かった。中に入ると、こずえはすっかり落ち着きを取り戻しているようだったが、母親の顔を見るなりまた泣き出してしまった。
「お母さん、どうしてあたしを助けてくれなかったのさ!」
「ごめんよ、こずえ。あの男は暴力がひどくて、あんたが帰ってくる前に、さんざ私のことを殴ってたんだよ。ごめんよ、こずえ。お母さんは、もう動けなかったんだよ。ごめんね、ごめんね…」
 美佐恵も泣き出してしまった。
「お母さん、もういい加減に男に頼る生活をやめたらどうですか。こずえちゃんが、せっかく前向きに生きようとしているというのに、お母さんがいつまでもこんな生活を続けていたら、同じようなことがまた起こるだけなんじゃないですか?実際、これが初めてではないんだし」
「先生のおっしゃるとおりです」
 美佐恵はがっくり肩を落として、もうこずえの顔をまともに見ることさえできなかった。とにかく、二人は警察官に促されるままに、パトカーに乗り込み、市警に向かった。裕一郎も付き添って行こうとしたが、由美子を一人で残して行くわけにもいかず、市警からの連絡を待つことにした。
 
 市警から連絡が入ったのは翌日の昼前だった。もうすでに、こずえと美佐恵は自宅に帰されたらしい。担当の刑事の話では、乱暴を働いた男は、大手電機メーカーの重役で、妻も子供もある身だった。酔っぱらった挙げ句の凶行だったそうだ。
「こずえちゃんのお母さん、こんな生活からちゃんと抜け出すことができるかしら」
「どうかなあ。実際、こずえが母親の連れ込んだ男に乱暴されるのは、これが二度目なんだ。おれは、そんなに簡単に生活を変えられるとは思えないよ、残念だけどね」
「それじゃあ、一生懸命まじめに生きようと頑張っているごずえちゃんはどうなるの?」
「こずえは、高校を卒業したらいったんは家を出るつもりでいるみたいだよ。おれも、その方がいいと思うんだ。こずえと離れて暮らしてみれば、母親もこずえの存在の意味がいやと言うほどよくわかるだろうしね」
「母親失格ね」
「そんな親が増えてるんだ」
「それにしても、大手企業の重役さんがこんなことするなんて、信じられないわ」
「大手企業の重役だから、こういう馬鹿なことをするんだ。普段はいい人を一生懸命演じてストレスをためてるだろう?だから、酔っぱらうとそういうストレスを一気に吐き出すことになるんだよ」
「奥さんも子供もいるらしいけど、これからどうなるのかしら」
「まあ、会社はクビで、奥さんと子供は家を出て行くことになるだろうね。やつの人生はこれで全てが狂ってしまうだろうよ。もしかしたら、あの公園に寝泊まりするようになるかも知れない」
「でも、いくら酔った勢いだからって、どうしてこずえちゃんみたいな子供に手を出さなければいけないの?」
「子供の未成熟な魅力みたいなのがあるんじゃないの?」
「裕君も、そんな気持ちになることある?」
「いちいち女子高生にむらむらしてたら、水泳部の顧問なんか務まるわけないだろう。目の前をきわどい水着で行ったり来たりするんだよ。そんなのちっとも気にならないさ。それに、体は大人でも心は子供なんだ」
「聖書に出てくるエデンの園の禁断の果実みたいなものかしら」
「禁断の果実か…」
「そう、まだ青いリンゴだけど、おいしそうに見えるからつい手を出しちゃう」
「やっぱりりんごは赤く熟してなくちゃだめだよ。熟した女性の魅力がわからないような男が、きっと未成熟な女性に惹かれるんじゃないかと思う。自分自身が未成熟だから、同じものを求めるのかも知れないね」
「中年のおじさんが未成熟なの?」
「そうだよ。年齢を重ねても、精神的、社会的にはちっとも成熟していない男なんか、世の中にはいくらでもいるんじゃないの」
「そうなの?何だか、誰を信用していいかわからなくなってしまって、怖いわ」
「まあ、身近にそんな駄目な男がたくさんいるわけじゃあないから、あんまり神経質にならない方がいいけどね」
「禁断の果実…こずえちゃん、大丈夫?」
 由美子は心の中で、一生懸命こずえに語りかけていた。
 
性にとまどう世代
 こずえの忌まわしい事件から一ヶ月ほどが過ぎたある日、こずえは何やら深刻な面持ちで裕一郎のマンションのドアをたたいた。
「おう、こずえか。どうしたんだ、そんなに深刻な顔して」
「裕ちゃん、今日は奥さんいる?」
「ああ、いるけど、由美子がどうかしたか?」「あたし、奥さんにどうしても相談したいことがあるの。だから裕ちゃん、しばらくの間モナミを連れて散歩に行っててくれる?」
「何だよ、おれのうちに来たくせに、おれを追い出すのか?」
「お願いだから、そうして」
「わかったよ。おい、由美子、禁断の果実がお前に相談事があるんだってさ。おれはモナミとデートしてくるから、頼むよ」
「あらこずえちゃん、いらっしゃい。裕君がいると邪魔なのね。わかったわ、それじゃあ裕君にはさっさと出て行ってもらいましょうね。はいあなた、お小遣いあげるから、公園で少し暇つぶしでもしてきてちょうだい」
「何だよ、女二人しておれのこと邪魔者扱いする気か?」
「いいから、早く、早く」
「わかったよ、行けばいいんだろう、行けば」 裕一郎はちょっと不満そうな顔をして、モナミと一緒に散歩に出かけた。裕一郎の思い過ごしだとは思うが、モナミはすっかり状況を把握しているようで、さっさと歩き始めるから不思議だ。
 
「どうしたの、こずえちゃん、何か心配事でもあるの?」
「あのう、ちょっと言いにくいことなんだけど、聞いてくれますか」
「いいわよ、私で役に立てるならどうぞ」
「あのう、あたし、あれのとき何も感じないんです」
「あれのときって?」
「だから、エッチの時です」
「あらまあ、すごい相談なのね」
 由美子は意外かつ大胆な質問に出くわして少しだけ頬を赤らめた。
「どういうことか、もう少し詳しく説明してくれるかしら」
「あたし、今まで何回かエッチしたんですけど、何も感じないんです。それどころか、苦痛で苦痛でしかたないんです」
「それはボーイフレンドとのことなの?」
「いいえ、ボーイフレンドなんかいません。援交で相手をしたおやじたちや、ほら強引にやられちゃったときなんかのこと」
「そうなの。それだったら心配しなくていいのよ。セックスっていうのはね、本当に愛してる人としたときにだけ、いい気持ちになるものなのよ。だから、こずえちゃんの場合は苦痛だったのも無理ないわね」
「あのう、奥さんは裕ちゃんとエッチするときはちゃんと感じるんですか」
「あら、ずいぶん大胆な質問ね。でもこずえちゃんだから、特別に答えてあげるわね。裕ちゃんとのエッチは、とっても気持ちいいわよ。私は裕ちゃんのこと心から愛してるし」「そうなのか…。友達がね、あたしのこと不感症じゃないかって言うんです」
「そのお友達っていうのは、やっぱり援交とかしてるの?」
「そうなんです。で、その子は誰が相手でもすごく感じるって」
「中にはそういう全身性器みたいな女の子もいるかも知れないわね。フライトアテンダント時代の私の同僚にもそういう女性がいたけど、結局は幸せになれなかったわ」
「どうしてですか」
「男の人ってすごく勝手でね、そういうセクシーな女性とは喜んで遊ぶくせに、生涯の伴侶としてそういう軽い女性を選ぶことはほとんどないのよ」
「伴侶って?」
「つまり、奥さんのこと」
「それってずるい。女を何だと思ってるんだろう。女はエッチするためのお人形じゃないのに」
「そうね、でもそういうスケベな男が多いのよ。だから気をつけなくちゃいけないの。女の人が賢くならないと、結局最後に損をするのは自分なんだから」
「それじゃあ、あたしも将来好きな人ができて、その人とエッチしたらちゃんと感じるんですか?」
「そうね。きっと感じるわよ」
「やっぱり、奥さんに相談して良かった」
「すごい質問だから、私ドキドキしちゃったわ。いい、今の会話は二人だけの秘密。裕君には内緒にしましょうね」
「はい、わかりました」
 「相談」が終わって二人がコーヒーを飲みながらけらけら笑っているところへ、裕一郎が頭をかきながら散歩から帰ってきた。
「何だよ、ずいぶん楽しそうじゃないか」
「あら、お帰りなさい。遅かったわね」
「遅かったわねって、早く帰ってくるなと行ったのは由美子とこずえじゃないか」
「あら、そうだったかしら」
 由美子とこずえはお互いに顔を見合わせてくすくす笑っている。
「で、何の相談だったんだ?」
「裕ちゃんには秘密。フカヒレラーメンをおごってくれても、絶対にしゃべらないよ」
「ちぇっ、けちだなあ。まあいいや、それより由美子、おれはもうおなかがペコペコだよ」「裕ちゃんは、のん気でいいね」
「そうね、裕君は呑気だから、危ない中年おやじにはなれそうにないわね」
「そんなスケベおやじになったら、あたしがひと思いに殺してやるからね」
「おいおい何の話だよ。スケベおやじだの、殺すだの、おれが何か悪いことでもしたって言うのか」
「そうじゃないのよ。裕君には関係ないことだから、安心してちょうだい。さあ、それじゃあ夕ご飯にしましょうね。こずえちゃんも一緒に食べて行きなさいよ」
「でも、愛し合ってる二人の邪魔をしちゃうと悪いし」
「何だ?何だ、その愛し合ってる二人ってのは」
「何でもないってば。それじゃあ、あたしは遠慮なく夕飯をごちそうになっていきます」
「今日はフカヒレラーメンじゃないけど我慢してね」
 由美子もこずえも、顔を見合わせてはくすくす笑っている。裕一郎は仕方ないので、夕飯の準備ができるまでモナミと遊んでいることにした。こずえは、裕一郎のような純粋な男性に巡り会えたらいいと思った。
 背伸びをして大人の真似をしても、所詮はまだ子供。性に関する知識も、雑誌や友達同士の口コミで得るものだから、きちんとしたものではない。本当は、娘が年頃になったら母親がきちんと教育しなければならないのだろうが、日本は普通の家庭でもそのような性教育が行われていないのが現状だ。それで、性教育もついつい学校だよりになる。しかし学校の教師と言えども、専門の教育を受けているわけではないから、養護教諭が授業をするなら別だが、学級で性教育をしてくれと言われても、無理な注文だ。だいたい、学校の先生になるような人間は、人生経験もさほど変化に富んでいない場合が多いので、場合によっては生徒の方が上を行っていることさえある。下手なことを言えば、ちゃかされて終わってしまうのだ。
 こずえの場合は、運良くお土産をもらわずにすんだが、性の氾濫には必ず堕胎の問題がつきまとう。知識の不足している子供たちは優生保護法の存在も知らないから、下手をすると妊娠六ヶ月を過ぎた頃に、産婦人科の医師に相談するケースも出てきたりする。それは「殺人行為」だという認識がないのだ。そんな若い世代が、いわゆる「ヤンママ」になったとしても、ごくごく普通に子供を愛することさえできない場合が出てきている。核家族化が進み、子育ての知恵を伝授してくれるはずの祖父母や父母の世代がすぐそばにいない若い夫婦の場合、育児ノイローゼになって悲惨な事件につながることもある。テレビのコマーシャルで政府が「子供の愛し方」などというメッセージを全国に配信しなければいけない情けない時代になってしまった。時代の進化と共に、人間本来の母性本能も徐々に姿を消しつつあるかのようだ。「子供は天からの授かり物」だとよく言われるが、最近では授かるべきではない母親が子供を産み、授かるべき女性がなかなか子宝に恵まれないという皮肉な状況も生じている。
 夕飯が終えてこずえが帰ってしまった後で、裕一郎は二人の会話の内容をどうにかして探ろうと必死になった。
「なあ、由美子、何の相談だったか教えてくれよ」
「そうはいかないわ。こずえちゃんはご指名で私に相談してきてくれたんだから、私には守秘義務があるの」
「そんなのあるもんか」
「女同士の秘密があってもいいじゃない。別に裕君をのけ者にしようと思ってるわけじゃないけど、男の人には相談できないこともあるのよ、年頃の女の子には」
「ちょっとだけでもいいから、教えてよ」
「だめだめ、いくらお願いされても、それだけはできないわ。どうしても知りたいなら、直接本人に聞いてみればいいじゃない。でも聞かないことが思いやりっていう場合だってあるんだから、我慢なさいな」
「何だかつまんないなあ…」
 と、裕一郎は不満顔だが、裕一郎が相談に乗ろうとしても、こればかりは無理だったに違いない。男には男の役割というものがある。母親役は由美子に任せておいた方がいい。
 
決断
「なあ、由美子、おれ教師やめようと思うんだけど」
「そうだと思ってた。あなたがそうしたいなら、やめても構わないわよ」
「最初は収入がなくて困ると思うんだけど、おれは何とかして頑張るから、わがままを許してくれるかなあ」
「わがままなんて言わないで。私が裕君の立場だったとしても、やっぱり同じ結論を出してたと思うの」
「そうか…。迷惑かけて申し訳ない」
「水くさいことは言いっこなしよ」
 
 裕一郎は、その翌日校長室のドアをノックして退職の意向を伝えにいった。停職処分になった岸田校長に代わって、新しい校長に就任していたのは、やり手の永田喜三郎だ。
「あの、校長先生、私は今年度いっぱいで退職したいと思うのです。年明けに突然でご迷惑かとは思いますが、どうか退職届を受理していただけませんでしょうか」
「やはりそう来たか。君のことだから、きっとそういう結論を出してくると思っていたよ。しかし、本当なら君のような正義感に富んだ教師には現場に残ってもらいたいんだがね。やめて欲しい教師は他にいくらでもいる」
「そんなこともないでしょうが、私は張りつめていた心の糸がぷつんと切れてしまったような気持ちなのです」
「それも仕方ないだろうね。あんな思いをさせられたのだから、私にはそれでも君に我慢して残れとは言えないよ。それで、退職後の予定は立っているのかね?」
「一応、もう一度勉強をし直して、司法試験に挑戦してみようと思います。弁護士の資格を取りたいんです」
「あの桃川という女生徒が独り立ちできるまで面倒を見る気なんだな?」
「えっ、どうしてそれを…」
「坂井君、私だって無駄に年齢は食っていないんだよ。君の考えそうなことくらい想像できなくて校長が務まるかね」
「どうも恐れ入りました。今までの校長先生たちは、そこまで鋭く心の中まで見抜いて下さる方はいらっしゃらなかったので」
「うん、耳の痛い話だな。最近の管理職連中は、自分の保身しか考えないような役人気質の人間ばかりで困っているんだよ。そういう連中はもう教育者とは言えんからね。私とて偉いことは言えないが、少なくとも自分の部下を見捨てるようなことはしない」
「もう少し早く校長先生とお会いしたかったです」
「そう言われると、嬉しいような悲しいような複雑な気分だよ。とにかく、君の決心は固いんだろうから、この件は県教委にすぐに報告しよう。君も、しっかり頑張って、奥さんと娘さんを大切にしてくれたまえ」
「娘…ですか?」
「大きな娘が一人いるだろう?」
「あ、はい、ありがとうございます」
 永田喜三郎は昔気質の校長だった。こういう人間が上に立っていれば、教師もどれだけ頑張り甲斐があるか知れない。しかし、永田校長が言っていたように、裕一郎の決心は固かった。
 退職の決心を固めてから改めて校舎を歩いてみると、今までの風景とは違って見える。まだ赴任して間もない裕一郎ではあったが、学校に対する愛着心は永年勤めた教師にも負けないほど強かった。壁のいたずら描き一つとっても、目頭が熱くなるほど懐かしい。空き教室に並んだ机を見ていると、生徒たちの歓声が聞こえてきそうな錯覚に陥る。裕一郎は根っからの教師だった。
 
 裕一郎とこずえは、いつもの喫茶店に腰を下ろしている。
「裕ちゃん、学校やめちゃうって本当なの?」「ああ、本当だよ。もう熱意がなくなった」
「嘘だよ。あたしのこととかいろいろあっていやになっちゃったんでしょう?」
「いや、それは違うんだ。いやになったんじゃなくて、自分の生きる場所はもっと他のところにあるんじゃないかっていう気持ちになったんだよ。これは本心」
「そうなんだ。裕ちゃんは偉いね。おやじになっても、まだ新しいことに挑戦しようとするんだもん」
「誰がおやじだ!おれはまだまだこずえには負けないぞ」
「あんまり無理しないでね。あたしは、アルバイトしながら専門学校でコンピューターの技術をしっかり勉強してくるから」
「こずえ、バイトってまさか…」
「裕ちゃん、ひどいよ。あたしがまた援交でもやると思ってるんでしょ。あたしは生まれ変わったんだからね。そのことは裕ちゃんが一番良く知ってるはずじゃない」
「そうだったね。いやあ悪かった」
「ところで、裕ちゃんは本当に弁護士になって、あたしの探偵事務所を手伝ってくれるつもりなの?」
「ああ、そのつもりだよ。桃川社長の右腕になって一生懸命働かせてもらいます」
「あたしが社長で、裕ちゃんが部下か…。それも悪くないかな」
「こら、部下じゃなくて、顧問弁護士だ。ちゃんとお給料をくれなくちゃ困るぞ」
「だいじょうぶ。ちゃんと稼げる会社にするから。そのための勉強でもあるんだしね」
「そうか。こずえには経営の才能がありそうだから、心配はしてないけどね」
「うん、任せといて!あたし、やるよ!」
 
卒業
 横浜みなみ高校のこずえの卒業式には、裕一郎は職員として、由美子はこずえの保護者として出席した。永田喜三郎校長が「桃川こずえ」と威厳のある声で呼名する。みなみ高校では、各クラスの担任の教師ではなく、学校長自らが卒業生一人一人の名前を呼ぶことになっていた。こずえは緊張した面持ちで、永田校長の前に立った。
「おめでとう。いろいろあったけど、頑張るんだよ。君の探偵事務所に、いつか先生もお世話になるときが来るかも知れないからね」「えっ?校長先生、どうしてそんなことまで知ってるんですか?」
「しーっ!詳しい話はまた後で」
 ほんの一瞬の間に、永田校長とこずえの間で交わされたひそひそ話だった。こずえは、校長先生から言葉をかけてもらったことなど一度もなかったから、余計に嬉しい。本当に心に残るいい卒業式となった。
 卒業式後、裕一郎と由美子とこずえの三人で、中華街のいつもの喫茶店に行った。卒業祝いのささやかな祝宴である。
「こずえちゃん、卒業おめでとう」
「こずえ、おれからも心からおめでとう」
「裕ちゃん、奥さん、どうもありがとう。あたし、校長先生がひそひそ話をしてくれるなんて思ってもみなかったから、びっくりしちゃった。卒業式でこんなに感激するなんて」
「立派な校長先生なんだ。おれも、もう少し早く永田校長と出会えていればなあ」
「あら、裕ちゃんは、先生をやめること後悔してるのかしら?」
「そうじゃないんだけど、立派な人とは少しつきあってみたいじゃないか」
「きっと、いつかまたご縁があるんじゃないかしらね」
「そうだよ、裕ちゃん。校長先生ね、いつかあたしの探偵事務所にお世話になるかも知れないから頑張れって言ってたもん。あーっ、そうだ、校長先生にあたしの大計画をばらしたの裕ちゃんでしょう!」
「まあ、そう怒るなよ。永田校長先生には話しておいてもいいかなと思ってついね」
「まったく、おしゃべりなんだから。男はぺらぺら秘密をしゃべっちゃ駄目だよ」
「はいはい、わかりました、桃川社長」
「社長って呼ばれるのも、悪くないね」
「こいつ、すっかりその気になってるぞ」
「こずえちゃんは意志が強いから、きっと本当にそう呼ばれるようになるわ」
「さすが奥さんはわかってくれてる。裕ちゃん、奥さんを少し見習ったら?」
「まったく、二人にはかなわないよ」
 楽しそうな三人の笑い声が、いつまでも喫茶店の中に響いていた。外は、もうすぐ夕暮れを迎えようとしている。西の空がほんの少しずつあかね色に染まろうとしていた。日本の日暮れの景色も悪くはないものだ。
 
桃川探偵事務所
 こずえは卒業後、コンビニのアルバイトをしながら、二年間の専門学校生活をきちっと終了して、コンピューターの操作もかなりのレベルまで達していた。本来は頭のいい子だったのだ。裕一郎は二度目の挑戦で、司法試験に合格し、見事に弁護士の資格を取ることができた。最初は冗談で話していた「桃川探偵事務所」は、本当に実現してしまった。
 探偵事務所とは銘打っていても、法律相談から生活相談まで幅広い活動をしている。生活相談は、心理カウンセラーの資格をとった由美子が担当していた。保育園の仕事には区切りをつけたのだった。もちろん、裕一郎は予定通り顧問弁護士として会社を陰で支えている。そして、こずえの母親の美佐恵も事務員としてそこで働くことになった。不景気な世の中で先は不透明だが、四人の新しい人生が未来に向かって動き出したのだ。
 ストレスの多い時代だけあって、相談者は予想した以上に多かった。世相を反映して、夫の暴力に悩む主婦や、援助交際から暴力団につかまってしまって、元の生活に戻れなくなってしまった女子高生、突然のリストラで職を失ってしまった中高年の男性たち、いじめが原因で不登校になってしまった子供を抱える親たち、ストーカーの被害からなかなか逃れることができずに恐怖の生活を送っている若いOL、上司に裏切られて汚名を着せられた様々な人々、夫の浮気に振り回されるかわいそうな主婦、相談者は実に様々だった。こずえは、次々に舞い込む相談者たちのリストを、丁寧にコンピューターに入力し、几帳面にファイリングをしていった。この子の才能も、裕一郎との出会いがなければ、決して開花することはなかっただろう。
 パニック障害の治療を続けてきた由美子ももうそろそろ卒業の時期が近づいている。しかし、由美子のこれまでの苦しい経験が、カウンセラーとしての由美子にとっては、この上なく大きな武器となっていた。どんな相談にも、相手の立場に立って、笑顔で応じることができるのだ。桃川探偵事務所の評判は日に日に向上していった。
 
「裕君、私たちにこんな人生が待っているなんて、想像もしなかったわね」
「そうだな。おれも、教師を辞めて司法試験に挑戦しようという段になって、何度もくじけそうになったよ。でも、こずえや由美子が一生懸命頑張っている姿を見ると、頑張らなくちゃいけないという勇気がわいてきた。モナミも励ましてくれたしね」
「こずえちゃんのお母さんも、男にもてあそばれる生活から抜け出せて良かったわね。あとはこずえちゃんにいい旦那さんを見つけてあげることかしら」
「うん、あいつどうやらそっちの方があまり器用じゃなさそうだからな」
「でも、余計なお世話かもしれなくてよ。隠れた才能があれだけある子だもの」
「ああ、びっくり箱みたいなやつだよ。あんなに賢い子だとは、正直言って思っていなかったんだ。もしかしたら、おれなんかよりずっと頭がいいかも知れない」
「禁断の果実も、そろそろ卒業かしらね」
「そうだね、もう青いリンゴじゃなくなってきたよ。でも、もう少し一人で頑張らせたい気もするなあ」
「あれ、裕君、もしかしたら父親の心境になっちゃってるんじゃないの?」
「そうかなあ。でも、そうかも知れないよ」「こずえちゃん、あなたにほの字だったことちゃんと気づいてた?」
「まさか、そんなこと」
「裕君は、やっぱり鈍いのね。でも、その鈍いところがまたいいんだけど」
 マンションに戻った二人を、しっぽを大きく振りながらモナミが迎えてくれた。

《あとがき》
 援交の問題が社会で大きく取り上げられ、売春行為だけでなく買春行為も処罰の対象になってから久しいところです。援交など一部の女子高生の問題行動だろうと思われる方もいるかも知れませんが、私が中学校の教師をしていた頃、私との会話の中で援交について話してくれたある女子生徒は、確かに見かけは大人びて見えますが、精神的にはごくごく普通の中学生でした。そして、あれから十年近い年月がたち、性問題の低年齢化は進む一方です。中学一年生で性交渉の経験を持つ子供たちが増えていると聞いて驚いていた私は現実の状況をまだ正確に把握していなかったようで、実際には問題は小学校の高学年にまで降りていっているようです。
 しかし、問題なのは子供たち自身では決してありません。子供たちの価値観は自然にできあがるものではないからです。複雑な家庭環境を抱える子供たちも大勢いますし、自分の娘を夜な夜な犯す父親も現実に存在します。それらの問題は、あまりにも悲惨すぎるため社会には公表されないだけで、実態は想像を絶すると思ったほうがいいでしょう。
 この小説の主人公の一人である桃川こずえという女生徒にもモデルになった現実の女生徒がおりました。彼女は私が校内巡視をしているときにたまたま出会った子で、ちょうど私が離婚をした後だったので、私との会話の中で私も彼女も不思議と本音を語ることができました。私が、父親が何人も交代するような複雑な彼女の家庭環境を聞いて、それでも学校に通ってくるなんて本当に偉いと感想を漏らすと、彼女は実に不思議な顔をしておりました。私は、自分の離婚体験にうちひしがれて、自分の足下の幸福も守れないようならもう仕事はやめてしまおうかと思い悩んでいた頃だったので、彼女のたくましさを知り、本当に恥ずかしい思いでした。その後の彼女がどんな人生をたどったか、私には知るよしもありませんが、私は彼女が確かな幸せをつかんでいて欲しいという思いを、桃川こずえの将来に託したような気がします。
 アメリカでは、たばこやアルコール飲料の自販機が街中に放置されているような状況はないそうです。子供の虐待に対する意識も非常に高く、アメリカ社会は乱暴な言い方になるかも知れませんが、「子供中心の社会」と言えなくもありません。もちろん、児童ポルノや幼児誘拐など、社会全体が協力して事にあたらなければならないほど、子供の人権に対する侵害行為がそれだけ深刻だと捉えることもできるのですが、現在の日本の状況はまさにそのアメリカの後を追っていることに気づきます。にもかかわらず、私たちの住んでいる地域社会を見ただけでも、日本は完全に「大人中心の社会」であることに気づかされて愕然とするのです。私の住んでいる街では条例で夜の十一時以降にたばことアルコール飲料の自販機は電源がオフになるよう配慮されていますが、昼間は堂々と使えるわけですから、それで子供たちに配慮していると言うことはできないでしょう。ポルノ雑誌だけでなく大人のおもちゃの自販機まで登場する有様で、大人たちの良識を疑ってしまいます。 日本は子供たちの世界が異常なのではなく、私たち大人の社会が異常なのです。学校での子供たちのいじめが問題になり、学校の教師を初めとする多くの大人たちが問題解決に腐心しているにもかかわらず、一向に状況の改善が見られないのは、大人の社会がいじめに満ちているからかも知れません。日本国憲法には全ての国民に最低限の人間的な生活が平等に保証されなければならないと記されているにもかかわらず、不景気の影響で突然リストラされて、家族に見放され、浮浪者としての生活を余儀なくされている中高年層を見殺しにしているのが私たちの国の現実です。そういう人たちを見て、努力が足りないと批判するのは簡単ですが、自分が仕事に恵まれているのは、果たして全て自分の努力の結果なのでしょうか。私は、たまたま自分が恵まれた環境に置かれているだけで、「明日は我が身」と考えるのが、一番公平な見方ではないかと思っています。更に、最近では政治家たちの信じがたい不祥事が次々に発覚しているように、中高生の援交以上に、日本の大人たちの犯罪行為ははるかに深刻だと言わざるを得ないでしょう。そして、そのような大人たちが若い女性の性の乱れを望むからこそ、桃川こずえのような女子高生が存在するようになったのです。
 また、由美子のように心療内科に通う人々の数も急増しています。私自身が待合室を経験して実感できるほどです。政治家たちは、国家レベルの問題に関する討議に夢中になっていますが、今本当に必要なのは病める国民の実生活を向上させるための真剣な論議なのではないでしょうか。よその国の政治体制を批判している場合ではないのです。
 どんな人間も、自ら落ちぶれた生活をしたいと望む者はいないでしょう。子供たちにしても、決して自分たちから望んで乱れた性生活に没頭している者たちばかりではないはずです。極端に例外的なケースを除けば、いつ誰に起きてもおかしくない危険な状況が、子供たちを取り巻いていると考えて方がいいのだと思います。いわゆる「コギャル」と呼ばれる女子高生たちを見てしかめっ面をする大人は多いわけですが、彼女たちが登場した背景には、明らかにそれを望んだ大人社会が存在したということを忘れてはなりません。彼女たちの行為には確かに目に余るものもありますが、子供たちに高い要求をしようとするなら、まずは私たち大人が自らの襟元を正さなければなりません。東南アジアに買春旅行をしているような日本人であることを、早くやめなければならないのです。この小説の主人公であるこずえは非常に聡明な娘です。彼女のような子が、自分の才能を十分に発揮することができる、健全な社会の建設のために私たち大人は精一杯頑張ろうではありませんか。
 最後に、最近の日本社会は、「正義感」という言葉が、悲しいことに徐々に現実味を失いつつあります。自分の行動が正しいかどうかを判断する道徳的な基準が、人々の心の中から急速に消えつつあるのでしょうか。平気で他人を陥れる人たち。他人の不幸の上に自分の幸福は絶対に築けないという事実を、もう一度よく考えてみるべきでしょう。私も、教員という世界に長く身を置いている間に、何度も悔しい裏切り行為に出くわしました。どうしてそんなことまでする必要があるのか到底理解しにくい裏切り行為です。そんなに自分の身が大切なのかと、非常に情けない気持ちになったものです。休日も返上して、夢中で走り続けてきた教員人生に終止符を打ったのは、そんな大きな落胆の結果でした。しかし、私は明日を信じて生きていきます。