『ルールのない社会』
 
《まえがき》
 私がまだ中学校の教員をしていた頃、世間は厳しい校則を子供たちに押しつける学校をやたらと批判しました。しかし、私たちが学校で子供たちに要求していたことは、ごくごく当たり前のことばかりで、決して世間に非難されるようなことではなかったような気がします。それよりも、なぜ学校がそのような細かな人間的なしつけをしなければならなくなってしまったのか、その原因をもっと深く追求して欲しいと思いました。本来きちんとしたしつけをするべき人たちが手抜きをしていた結果が、学校の厳しい校則になっただけのことなのです。
 「どうして茶髪くらいで文句を言うのか」と正義の味方を気取った意見は、耳にたこができるほど聞きました。私たち教員も、決して髪の毛を染めているから人間的にだめだなどと思ったことは一度もありません。ただ、問題なのは、茶髪そのものよりも、自分本位の行動しか取れない子供たちの表現の一つとして「茶髪」や「ピアス」があったということなのです。きちんと義務を果たすことができる人間なら、何も問題にはならない行為であることは言うまでもありません。
 世の中は「自由」と「勝手」を完全にはき違えています。「自由」の裏には「義務」があり、日本国憲法にも他人や社会の福祉に反しない範囲での自由を認めると明記されているではありませんか。まあ、そうは言ってもおそらく国民の三分の二以上の人たちは、日本国憲法など読んだことはないのでしょうけれどね。日本というのはそういう国です。自分たちが勝ち取った民主主義ではなく、配線によってアメリカからもたらされた民主主義と自由の概念ですから、その価値を自覚することはほとんど不可能なのです。だから、自分の言いたいことだけを主張して、他人の意見には謙虚に耳を貸そうとはしない。これでは本当の民主主義は成立しません。
 コンビニの前で夜遅くまでたむろっている子供たちを見て下さい。なぜ彼らは放置されているのでしょう。地域の大人たちが本気で子供たちのことを考えるなら、自治会のパトロールで彼らを注意することもできるはずなのです。そうすれば、昔のように近所のおじさんやおばさんが少々うるさい存在に戻れるかも知れません。ところが実際は、明らかに未成年だとわかっている子供が喫煙をしていても、コンビニの店員が外に出てきて注意することもできない。もちろん、こんな物騒な時代ですから一人で注意するのは危険です。それならば、数人の大人が行って注意すればいい。子供たちも馬鹿ではありませんから、数の論理には敏感です。つまり勝てない喧嘩はしないということです。何も、大人が自分一人で正義感を振り回す必要はありません。何人かで子供たちにプレッシャーをかけるだけで十分だと思います。
 しかし、実際にそういう動きを見せ始めた地域もある反面、ポルノ雑誌やアルコール飲料の自動販売機を地域から撤去しようと言う動きには、なぜか反対する人間が出てくる。自分の利益だけしか考えていないのですね。自分の利益も大切ですが、地域の利益も大切なわけで、それが自覚できない人間はその地域に住まう権利を持たないのだということを十分自覚しなければなりません。
 どう否定しようとも、日本に家を構える限りは、日本という社会の一員であることは間違いないのです。社会の一員であれば、それなりの社会的義務を果たす必要がある。それがいやなら、どこかの無人島へでも行って一人で暮らせばいい。その代わり、どんなに困っても誰も助けてはくれません。それが「勝手」に対する代償なのです。
 一つの社会に属する限りは、その社会が暗黙の打ちに申し合わせているルールに従わなければなりません。自分は交通信号を守りたくないとか、自分は車で右側車線を走りたいとか、住民が勝手なことを言い出したら、社会は大混乱に陥ってしまいます。少し窮屈に感じたとしても、ゴミは決められた日に、決められた場所に出さなければならないのです。アメリカの大統領の言葉ではありませんが、地域が自分にどんな利益をもたらしてくれるかを考える前に、自分が住民として地域にどんな貢献をすることができるかを考えることこそが民主主義の世の中の鉄則です。
 個性を尊重することは大切ですし、人々は誰からも思考や行動を制限されることもありません。しかし、それはあくまでも他人や社会に迷惑をかけないという前提で認められていることで、その前提が破られたなら、その人の自由や基本的な権利は全て無効になって当たり前です。その理屈がわからない人間はどこか別の惑星にでも移住して、そこで勝手な暮らしをすればいい。極論ですけどね。
 私自身は、教員時代には一匹狼的な存在でした。日教組にも属さなければ、市内の研究会にも属さない。最近では学年会にも属さなければ、学校の旅行にも飲み会にも参加しませんでした。それは、同僚たちとのつきあいがいやだったからではなく、普段の仕事で全く協力することがなくなってしまった学校という職場への反抗の意思表示でした。つまらないことで団結を主張する前に、本来の仕事で団結しようよ、というのが私の考え方でした。ですから、飲んだ席で他人の悪口を言うような雰囲気が一番嫌いでしたね。議論はしらふの場で堂々とすべきです。
 しかし、私は自分が学校のためにどんな貢献ができるかという点に関しては、常に頭を働かせていましたから、同僚の知らないところでいろいろな作業をこなしていました。そんな私を「協調性がない」と評価した人間たちもおりますが、私は迎合するのは大嫌いなのです。ここでもう一度考えて見ましょう。

《もはや常識は通用しない》
 そもそも「常識」とは何でしょうか。試しに三省堂の国語辞典を引いてみますと、「その社会が共通に持つ、知識または考え方」とありますが、おもしろいことにロングマンの英英辞典を調べてみますと、"common sense:the ablility to behave in a sensible way and make practical decisions" とあり、忠実に日本語に訳せば「理性的に振る舞い、現実の決断をすることができる能力」となるでしょうか。つまり、アメリカでは「能力」なのですね。
 最近では常識がない人間が増えたと多くの人が嘆きます。確かに、周囲を見渡してみても、誰にでも納得のいくようなきちんとした判断をして行動する人間は、ひと昔前と比べたら数段少なくなったように思います。それと平行して、「地域」とか「社会」という感覚もだいぶ鈍ってきたのではないでしょうか。自分の地域社会を意識すれば、もっと周囲の環境に敏感になるのでしょうが、最近では自分の家のすぐ周りにしか注意が向いていないのが現状のようです。それでも、犬の散歩をしていると気がつくのですが、それぞれの家が個性的な飾り付けをしていて、それはそれは華やかです。それはストレスの時代を象徴していると見ることもできるでしょうが、基本的に住民の意識の中に環境美化の気持ちがあることの証明でもあるでしょう。d
 しかし、その反面非常識な行動は後を絶たず、あるときなどはわざわざ道ばたで車を止めて、おそらくは家から持ってきたのでしょう、ゴミ袋をそのまま植え込みに投げ込んで立ち去っていくドライバーを見ました。本当に情けない気持ちになりますね。私がまだ中学校の教師をしている頃、学区の人たちと共同で地域清掃を行ったときも、道路の植え込みには空き缶や紙ゴミがこれでもかというほどに投げ捨てられていました。その心ない人間たちの後始末をしながら、中学生たちが何を感じたのか、私はとても不安になりました。また、近くの公園を通りかかったとき、お年寄りのグループが公園のゴミ拾いをしている光景に出くわしたのですが、それは明らかに前の晩に夜遊びをした若者たちの散らかしたゴミなのです。若い人間がゴミを散らかして、その後始末をお年寄りがする社会というのはいったい何なのでしょうか。こんな社会に果たして明るい未来などあるのでしょうか。
 道にゴミを捨てないとか、空き缶は植え込みに投げ込まないとか、昔ならば当たり前のように罪悪感を感じさせた行為が、今ではもうすっかり当たり前のようになってしまいました。もはや、「常識」などは通用しないのです。的確な判断などできなくなってしまったのです。自分の権利ばかりを主張して、常識的な行動は一切取れない人間たちに、これからの日本を託すことができるのでしょうか。「自分の生活で精一杯だ」と誰もが思っている社会は、やがては滅びるだけなのでは?

《形ばかりの喫煙場所》
 公官庁の庁舎内が全面禁煙になったり、電車内全面禁煙になったりと、喫煙者にとってはあっという間の禁煙騒ぎが続き、気がついてみれば肩身の狭い思いをしながらたばこを吸わなければならないようになってしまいました。その料金のほとんどが税金であることを考えると、ある日突然「喫煙=悪」という価値観を大宣伝し始めた政府の姿勢は、自分勝手と言わざるを得ません。
 しかし、それにしても喫煙者のマナーの悪さは昔から指摘されているところです。例えば電車の駅のホームで喫煙する人間たちは、平気で線路に吸い殻をポイ捨てして来ましたね。駅員さんが、ときどき危険な線路に降りてその吸い殻を一本ずつ拾っている姿が、実に悲しく思えたものです。自分の一本くらいどうということはないだろうと、誰もが考えるからあんな状況が生じてしまった。近くに吸い殻入れがないのならまだしも、当時の駅には必ず柱に吸い殻入れが取り付けられていたのです。
 そして現在、私鉄の数社はホーム上での喫煙を全面禁止していますが、その他の私鉄やJRでは喫煙時間の制限をしたり、ホームの端や一部に喫煙場所を設けたりしています。ところが、その場所を無視して勝手に喫煙している連中がいる。私もたばこを吸いますが、そういう勝手な連中がいるから、喫煙者はどんどん居場所をなくしていくのです。時代が変わってきているのですから、わがままを言っていないで、しっかり喫煙場所を守ればそれでいいではないですか。「何が何でも絶対に吸うな」と言われているわけではないのですから。
 また、喫煙場所に設置された大きな吸い殻入れを見ると、これまた驚かされます。何でもかんでも捨ててある。上の鉄柵の部分に缶コーヒーなどの空き缶が並べて捨てられていることもあるし、それが何日たってもそのままの状態で放置されていることもあるのです。ちょっと歩けば、分別ゴミ箱があるのに、なぜそのちょっとの距離を歩くことができないのでしょう。後から、そうじをする人間のことは何も考えないのでしょうか。中には痰やつばをホーム上に平気で吐き捨てる乗客もいますが、それはもう問題外ですね。自分の家の玄関や、テラスに平気で痰やつばを吐き捨てる人間がいるでしょうか。公共の場所だからこそ、他人の迷惑になるようなことは絶対に慎まなければならないのに、日本人の感覚だと、「自分の家ではないから平気で汚す」ということなのでしょう。これでは居住環境に対する意識が高い外国の人々から、文化程度の低い野蛮な国だと評価されてしまっても文句は言えないでしょう。
 ルールは必要だからあるのです。自分の都合でそれを勝手に無視するということは、やがては自分にも不都合となって返ってくることなのだと早く自覚してもらいたいですね。

《散歩のマナーの悪さに糞害しています》
 朝早く街を歩くと、驚くほど多くの人たちがペットの散歩をしていることに気づきます。もちろんほとんどが犬ですが、中には猫の散歩をしている人もいて、思わずにやっとさせられる。私が教師をしていた頃のある生徒のお宅では、飼っているうさぎに首輪とリードをつけて散歩をさせていました。うさぎだからぴょんぴょん跳ねて散歩をさせにくいと苦笑いしておりましたね。
 ところが、同時に気づくのは、「ペットの糞は持ち帰って下さい」とか「ペットの糞の放置は条例違反です」という立て看板が非常に多いと言うことです。これは何を意味するかは簡単に想像がつくでしょう。それだけ、マナー違反をする飼い主が多いということなのです。考えても見て下さい。自分の家の真ん前にペットの糞をさせて放置しておく人間がいるでしょうか。いるわけはありませんよね。ところが、他人の家の前には平気で自分のペットの糞を放置していくわけですから、地域住民から強い反感を買うのは当たり前のことです。
 特に雨の日などは、その糞が雨水に溶け出して道路に流れ出てくるわけですから、汚いといったらありません。私も我が家の愛犬の散歩をしますが、糞はきちんとティッシュで拭き取ってビニール袋に入れて持ち帰ります。当たり前のことですから、負担に感じたことなの一度もありません。それどころか、ときどき他家の塀に平気でマーキングをしてしまう我が愛犬のマナーの悪さにばつの悪い思いをさせられるほどです。特に門の前では絶対におしっこはさせないようにしつけているつもりなのですが、塀へのマーキングだけはどうにもしようがありません。これからは、少し大きめのペットボトルに水をくんで持ち歩いて、塀にかかったおしっこを洗い流すようにしなければならないかなと考えているところです。ペットの動物をかわいがることはとても大切なことですし、朝早くから散歩をしている人たちは、少なくとも優しい心の持ち主であることには間違いないのです。それならば、もっと他人の迷惑にも気を配ることができるのではないでしょうか。
 自分は動物好きでも、アレルギー等の関係もあって動物は近づけたくないと思っている人たちも地域にはたくさんいるはずです。自分の都合が必ずしも他人の都合と一致するとは限らない。そう考えれば、いくらかわいいペットの事とはいえ、きちんとしたマナーを守らなければ、そのうち地域内での散歩は全面禁止などとされてしまいかねません。そんな極端な…と文句を言いたくても、現実にいくら立て看板を立てても、その看板の下に糞を置き去る飼い主さえいるくらいですから、このままでは何の言い訳もできなくなってしまいます。一部の非常識な人間のために、多くの人間とペットが不便を味わうことになるなんて、こんな理不尽なことはありません。

《違法駐車》
 こればかりは、私も大きな事は言えません。ある日、妻と朝の海岸へ行って、あれは確か結婚してすぐの頃だったと思いますが、私は浜辺に二人で腰を下ろしながら、妻に結婚指輪をはめてあげたことがありました。私たちは、お互いに二度目の結婚だったので、きちんとした結婚式は挙げずに、内輪の申し合わせですませてしまっていたのです。それはほんの十五分くらいのことでしたが、海岸のそばの通りに駐車していた車には、私たちが戻ったとき駐車違反のわっかがはめられる瞬間でした。「あっ、お巡りさん。どうも済みません!」と言って駆け寄った私を無視して、その警察官は駐車違反のわっかをはめてしまいました。おそらくは朝からねらっていたのでしょう。私が悪いのですから仕方ないのですが、ほんの十五分の大切なひとときのために、一万五千円の罰金とゴールド免許の取り上げは痛い仕打ちでした。
 それにしても、私の違法駐車はほとんど車の通りのない、半ば駐車場のような広い通りでのものだったのですが、市内の大通りにはこれでもかと言わんばかりに違法駐車の車が連なっております。どうして警察はそういう車を取り締まらないのでしょう。陰から子供が飛び出したら、間違いなく交通事故が起きるのが目に見えているのに、ちっとも取り締まりをしない。私はとても腹立たしい気持ちになりました。
 先日も、バイクに乗っていてたまたま車の右側からのろのろ運転の車を追い越しましたら(追い越しは右側からになっている)、私のバイクは右折路線にはみ出していたということで、ちょうど取り締まりをしていた警察官に止められて五千円の罰金を科せられてしまいました。私は、「車が車線ぎりぎりに走っていたのだから、わざとやったことではないのだし、なぜ他の無法運転を取り締まらずに、私のような普段きっちりと交通法規を守っている人間を取り締まるのか!」とまくしたてて、違反切符にサインするのを拒否しました。もちろん後日呼び出しを受けてサインさせられたのですが、私は今でも納得がいきません。つまり、私の場合は本当にやむを得ない状況であったにもかかわらず、警官は右折路線にはみ出した瞬間だけを目撃して、わざと渋滞を避けようとして右折路線を走ったというのです。もっと取り締まるべき違法ドライバーたちは山ほどもいるのにですよ。
 まあ、それでも違反は違反ですから、私には文句は言えません。でも、違反切符で不足した予算を簡単に埋め合わせようとしないで、もっと本気で悪質なドライバーを取り締まってもらいたいと思います。現に、警察署の前でこれでもかと言わんばかりに、ぶんぶんエンジンをふかし、信号無視をして挑発している暴走族のバイクが現れても、警察署の中から飛び出してくる警官はたったの一人もいないのですよ。私は、こんな本を書いていながら警察官が大嫌いです。自分自身も公務委員であったにもかかわらず、明らかに素直な人間に対してだけしか高飛車に出ることができない、意気地のない警察官が心の底から憎らしいと思います。
 私がまだ若い頃、学区の公園にバイクが乗り捨てられていて、まだエンジンがかかる状態だったので、気を利かして交番まで引きずって行ったことがありました。すると対応した警官は、「勝手に持ってきてもらっては困るんだよ。元の場所に戻しなさい」と言うのです。ぶっ飛ばしてやろうかと思いましたが、私も教員だったので、一応文句は言った上でバイクを元の公園まで運びました。あの後、あのバイクは子供たちの遊び道具になったことでしょう。自分たちの任務を怠っておきながら、私に文句を言うなどもってのほかです。 世の中の交通違反の多くは、おそらくは警察官の怠慢によって引き起こされているのではないでしょうか。などと言ったらちょっと言い過ぎかも知れませんが、携帯電話で話しながら運転をしているドライバーは、今もまだ後を絶ちません。本当に取り締まりをするなら、もっときちんと厳しくやってもらいたい。幹線道路であっても、検問所を設けてしまえばいいではありませんか。それなのに、違反をしそうな場所に罠をかけておいて、その罠にまんまとひっかかったドライバーだけを捕まえていたりするから、舐められてしまうのです。現実に、ディスカウントショップなどで、スピード違反の計測器を探知する装置が売られているのに、それさえも取り締まれない。警察権力も地に落ちた感がありますね。しかし、だからといって、平気で交通規則を無視していいということにはならない。 信号無視で交差点に突っ込む車の数は、年々増えています。こんな状況では、いつなんどき大事故が起きても少しもおかしくはありません。青信号になっても、もう一度左右を確認しなければスタートできない状況なのですからね。一方通行は守らないし、右折や左折でウィンカーも出さない。スピードを出して走っていたかと思うと、何の前触れもなく急ブレーキをかけて停車する。横断歩道を渡ろうとしている人がいても、平気でそのまま曲がってしまう。一時停止は守らない。電車の踏切は、警報が鳴っていても、平気で通過してしまう。狭い通学路を猛スピードで走り抜ける。もう、日本の交通事情は無法地帯と化してしまいました。
 まずはあの暴走族をどうにかできないのでしょうか。あまりにひどい場合は、車輪を拳銃で撃ち抜いてしまえばいいのです。もちろん、そんなことをしたら世間がうるさいからできないのでしょうが、そのくらい極端な対策でもとらない限り、暴走族を取り締まることなど絶対にできないでしょう。大人しいドライバーたちの、たまたまの小さな違反を大袈裟に取り締まる暇があったら、もっと大きな犯罪に挑んでもらいたいですね。

《若者の喫煙と飲酒》
 確かに、私たちが高校生のときにも、好奇心からたばこやお酒にちょっとばかり手を出したことがありました。しかし、そこには暗黙のルールのようなものがあったように思うのです。つまり、悪いことだから大人に隠れてするというルールです。ところが、今はどうでしょう。コンビニの前で平気で喫煙や飲酒をしているではありませんか。たばこをすいながら制服を着て自転車をこいでいる不埒物もいる。若者たちは、ルール違反に対しては全く罪悪感がないのです。
 これは、本人たちの自覚の問題だと言っていたらいつまでも解決しない問題です。要は家庭でのしつけができていないことが一番大きな原因です。しかし、今から急に家庭に教育力を求めてもすぐに実現するものではありません。ですから、一番いい対策は、街中からたばことお酒の自動販売機を全て撤去することです。そして、たばこやお酒を販売できる小売店を制限して、そこで購入するときには自分が規定の年齢に達していることを証明できる身分証明書なり免許証なりの提出を義務づければいいのです。そんなしちめんどくさいことができるかと思うかも知れませんが、若者の飲酒と喫煙を効果的に制限しようとしたら、そのくらいの不便は覚悟しなければなりません。それに、周囲の大人たちも、変に物わかりのいい顔をすべきではないのです。自分はあたかも若者の気持ちがよくわかるなどと気取って、「おれも若い頃は…」的な無責任な発言をするのは慎まないといけませんね。そうでなければ、注意をする唯一の人種である学校の先生が悪者になるだけです。今では若い警察官でさえ、見て見ぬふりをするのですから。
 若い頃の喫煙や飲酒は、脳や体の発達に害を及ぼすのは言うまでもありません。しかしそれは本人たちの問題ですから、脳タリンになったり肺ガンになって早く死んでも構わないのであれば、本人が責任をとればいいことです。しかし、若者たちの喫煙と飲酒は、社会のルール全般に対して敬意を払わない傾向の現れでもあるのです。そう考えたとき、これはやはり厳しく取り締まった方がいい。そうしないと、彼らはやがては社会のルールを守ることができない大人になっていくだけなのですから。
 ルールが守れないということは、常識的な行動が取れないということにもつながります。つまり、重い荷物をかついで道を歩いているお年寄りに、気軽に声をかけて荷物を運ぶ手伝いをすることなど決してできないということを意味します。電車やバスの中で体の不自由な人を見かけても、平気で「優先席」に陣取っていられる非常識な大人たちを増やしてしまうということを意味するのです。そうなってから騒いでみてももう手遅れでしょう。ですから、物わかりのいい大人を演じるのはさっさとやめなければなりません。

《授業参観でおしゃべりをする親たち》
 最近の学校の授業参観では、びっくりすることが次々に起こります。まずは、参観に来る親たちのマナーの悪さです。ひどい人になるとガムをかみながら授業を見学している親もいる。とにかく一番困るのは、授業をしているというのに、教室の後ろでおしゃべりをやめない親たちです。まさか子供たちの前で親を注意するわけにはいかないではありませんか。それは親に恥をかかせてしまうことになって、子供たちがあまりにもかわいそうだからです。
 親たちのおしゃべりは授業参観だけに限られたことではありません。何と、入学式や卒業式でも、場内のざわつきが収まることはないのです。自分の子供の写真だけ撮影できればそれで終わりなのでしょう。厳粛なはずの式典が台無しです。そういう場合でも、まさかおしゃべりをしている親たちを注意するわけにはいかないではありませんか。せっかくの式典がしらけてしまいますし、晴れの日にせっかく学校を訪れた親たちも、あまりいい気持ちにはならないでしょう。いくら、自分たちに非があるとはいえ、それは学校の先生たちの望むところではありません。
 学年懇談会やクラス懇談会では、おそらくもっとひどい状況が起きていることでしょう。まず、今時の親たちは学校の教師に敬意を払うということはありませんから、先生たちが熱心に話をしていても平気で私語をするのです。本当に失礼千万ですよね。これでは、成人式の若者たちが、式典の最中に大騒ぎを下からと言って、無条件に非難するわけにもいかなくなってしまいます。手本となるべき大人たちがこの有様なのですから。
 他人の話に耳を傾けるというのは、民主主義の一番根底になるルールです。他人の話に耳を傾けて初めて自分の話にも耳を傾けてもらえる。その持ちつ持たれつの関係が、民主主義の基盤をなしているわけです。しかし、自分たちの主張だけは一方的にしておいて、相手の意見には耳を貸さないというのでは、全くお話になりません。そして、そういう人たちに限って、何かが決まってしまってから「そんな話は聞いてない」と文句を言ったりするのです。聞いていなかったのは事実でしょうから、文句を言う権利はないのだという常識に気づかない。こんな人たちが子供たちを育てているのですから、世の中は今の平和な状態を保てているだけで、不思議なくらいです。しかし、こんな状態がさらに続けば、やがては日本の社会が崩壊する日も、遅かれ早かれ必ず訪れるでしょう。安心して街も歩けないような国になってしまってから、もとの秩序を社会に取り戻そうとしても、そう簡単にはいきません。秩序は崩壊するのは一瞬で、それを築くには何十年もかかるのです。それは人間同士の信頼関係と全く同じですね。世の中の大人たちには、ぜひ節度のある行動をとってもらいたいものです。

《携帯電話を取り上げられて》
 世の中のIT化が進むのは非常に早く、携帯電話が世間に出回るようになってからあっという間に、小学生たちまでもが携帯電話を持つ時代になってしまいました。これが果たしていいのことなのか悪いことなのか。イギリスでは携帯電話の出す電磁波が脳に及ぼす影響を案じて、子供たちの携帯電話の使用を制限しているようですが、日本ではそんなことはおかまいなしに、各会社が競って新しい携帯電話を開発し、大々的な宣伝によって消費者の購買欲をしきりに煽っています。今ではテレビ電話まで登場する有様で、なぜ小さな携帯電話に全ての機能を備えようとするのでしょうか。そんなことが当たり前になってしまったら、人間は益々横着になるばかりではありませんか。
 学校や塾は、教室内への携帯電話の持ち込みを禁止していますが、そのルールもすでに平気で破られるようになっています。それは親たちの考え方に原因があるのです。「携帯電話ぐらい別にどうってことないわよ」という親たちの考え方が、子供たちに平気で校則を破らせる結果になっている。確かに、帰りが遅くなって物騒だからという理由で、帰りに迎えに来る都合を電話でやりとりするための携帯電話であるのなら、それはそれで仕方のないことでしょう。しかし、教室に携帯電話を持ち込みたがる子供たちの心理が、そんな理屈の通った都合ばかりであるわけはありませんよね。友達同士で写真をとって、教室から教室に写メールで送るのでしょう。それをもし授業中にやっていたとしたらどうしますか。子供たちの自制心のなさを責めるだけでいいのでしょうか。持っていれば使いたくなるのが人情です。やはり、教室に持ち込ませた親たちを責めるべきではないでしょうか。 しかも、アルバイトもできないような子供たちの携帯電話の使用料は、当然の事ながら親たちが負担しているわけですよね。高校生の中には月に通信費が六万円を優に超えるケースもあるそうですから、もうこれは異常としか言いようがありません。ちなみに、我が家では母と妻と私と三人の携帯使用料を合計してもちょうど月額一万円ほどです。電車に乗るとすぐに携帯電話の画面を見つめながら必死でメールを打ち始める人が増えていますが、これはどう見ても異常です。最近では若い人ばかりか、いい年をした年配のおっさんまでもが携帯電話でメールを送ったりしている。みっともないなあと思いませんか。私は電車の中では当然マナーモードにしてあるのですが、着信しているのがわかっても絶対に見ることはありません。電車を降りてから確かめればすむことですからね。どんなに緊急な電話であっても、車中の人となっている限りは何もできないではありませんか。だったら、電車から降りて対応しても決して遅くはないわけです。
 確かに携帯電話の登場で生活は数段便利になりました。きちんとした使い方をする限りは、携帯電話は非常に便利な機械です。携帯にデジカメ機能が必要かどうかも、その人の生活によって決めればいいことです。普段交通事故に遭う危険性がある人は、事故にあった瞬間に加害者の車やバイクの後ろ姿を携帯のカメラで撮影しておけば、立派な証拠にもなりますし、ジャーナリストなども、ちょっとした事件にでくわしたときに、携帯のカメラ機能があれば実に便利でしょう。しかし、私のように対して携帯電話を使わない人間には、カメラ機能のついた高い携帯電話などは絶対に必要ありません。写真集を作るのに必要であれば、常にコンパクトなデジカメを携帯していればそれですむことですからね。ただ、いろいろな仕事の性質上、ボイスレコーダーだけは常に持ち歩くことにしています。目的ははっきりと言うわけにはいきませんが、どうしても必要なときがあるのです。いずれにしても、用途をしっかり考えないとね。
 話は戻りますが、禁止されている携帯電話を持ってきたということで、学校側がその生徒から携帯を取り上げたことがありました。学校では、どうしても家の都合で携帯電話を持たせるような場合には、保護者から正式に申し出れば柔軟に対応するということになっていましたから、何の申立もなく勝手に携帯電話を持ち込んだ生徒の場合には、学校側としては遊びのために持ち込んだと判断するのが当然ですね。だから没収される。
 ところが、保護者も生徒も、高価な携帯電話で、普段の生活にも必要だからすぐに返してもらいたいということになるわけです。ルールを破っておいて、自分たちの都合を考慮してくれという言い草はないと思います。気の利いた親御さんは、「先生、卒業まで預かっていただいていて結構ですから」となるわけですが、親の意識が低いと、学校は携帯ぐらいで騒ぎすぎるという、理論のすり替えが起きるわけです。勉強に関係のない携帯を学校に持ち込んで、自分の子供が何をしようとしていたのかを考えることがまずは先決でしょう。あるケースでは、同じクラスの二名の男子が、授業中にメールを送り合っておりました。同じクラスの中にいてです。その事件は、本人たちの不覚で一台がすでに取り上げられて職員室にありましたから、メールの発信先を見た先生がすぐに授業をしている教室に飛んでいって、もう一人を捕まえてきました。今の子供たちの発想というのはこの程度なのです。それを、なぜ親がかばってしまうのでしょうか。そういう子供たちが二十歳を迎えた成人式で、来賓の挨拶もろくに聞かずにメールに没頭するようになるのです。
 無用なルールなら、自然消滅していくことでしょう。それが消滅せずに残っているということは、それなりの意味があってのことだからです。自分たちの勝手な解釈でルールを無視するのはやはり良くありません。ましてや開き直るなどもっての他なのです。

《自然の力を無視した暴挙》
 みなさんもきっと覚えておられるのではないかと思いますが、かつて川の中州でキャンプをしていて、大雨の後の急な増水で中州に取り残されてしまった若者たちのグループが、救助隊の必死の活動で救出されたときに、命の恩人たちに向かって「誰が助けてくれと頼んだんだ」と悪態をついたという話です。自分たちが、ろくに天候の下調べもせずにキャンプを強行して、挙げ句の果ては救助隊に迷惑をかけておきながら、ありがとうのひと言も言えないのですから、そのテレビニュースを見ていた人々の多くは、私と同じように思ったことでしょう。「そのまま放っておけば良かったのに」とね。でも、救助に関わる人々はそんなことは言ってはいられません。
 登山に関わる遭難事件も、その多くのケースでは天候異変を無視した無謀な登山計画が原因しています。自分たちが命を危険にさらすのは勝手ですが、結果的に遭難事件になれば、救助をする人々の命まで危険にさらしてしまうことになる。そこまで配慮できない人たちに、果たして危険を冒して自然にチャレンジする権利があるのでしょうか。
 台風が接近している海は、サーフィンを楽しむ若者たちにはもってこいのコンディションに変貌するわけですが、まだまだ未熟な技術しか持ち合わせていない彼らが行方不明になれば、多くの人間が捜索活動に参加しなければなりません。死んでも構わないから荒れ狂う海に飛び込んで行ったのでしょうが、結果的には周囲の人間たちは彼らの死をそのまま見過ごすわけにはいかないわけです。自分のすることが招く結果を予想できないのはなぜなのでしょうか。
 危険な場所や状況についつい誘惑されてしまうのは人情なのかも知れませんが、自分の命が危険にさらされたときに、結果的には救助活動に携わる多くの人々の命まで同時に危険に巻き込んでしまうことになるのですから、無謀なチャレンジは絶対に慎むべきです。そして、自然の猛威に挑戦するならそれなりの準備と訓練を積んでから行わなければならないでしょう。それでも遭難事件は後を絶たないわけで、人間は決して自然の恐ろしさを見くびってはいけません。
 今年は台風の当たり年で、強烈な勢いを維持したまま、いくつもの台風が日本列島を襲いました。先日、台風が近づく中、職場に向かう電車に乗って相模川を渡っておりましたら、何とすでに増水して濁流になりかけている河原で釣りを楽しんでいる人がちらほらいるのです。中には、腰まである長ゴム靴をはいて川の中に入って釣り糸を投げている人もいる。これで濁流に飲まれたら、誰が助けてくれるのでしょう。どんなに無謀な行為だからと言っても、消防署の職員たちは救助活動を展開しなければならないのですから、職員たちの家族は穏やかな気持ちではいられないはずです。全く困ったものです。

《オレオレ詐欺と電話商法》
 誰が考え出したのか、とんでもない犯罪が横行する時代になりました。もうすでに全国的に有名になった「オレオレ詐欺」は、その手法を徐々に変えながら、未だに被害者の数が減らないそうです。減らないどころか、増加傾向にあるというのですから、あきれてしまいます。そもそも老人のわずかで貴重な財産を奪おうという発想自体が、尋常ではありません。「俺だよ俺」と言われて、孫かわいさに何の疑いもなくお金を振り込んでしまう老人たち。今では、そのやり方が通用しなくなったということで、親族が事故にあって示談金が必要だからすぐに振り込むようにという電話がかかってくるそうです。落ち着いて考えれば、警察が民事に介入するはずはないので、警察官を名乗って示談の仲介をするなどということは絶対にあり得ないのですが、あわてて取り乱した頭では、そのような冷静な判断もできないという人間の心理を巧みに利用した犯罪です。
 電話という相手が見えない文明の利器を使えば、どんな犯罪でも手軽にできてしまうといういい例でしょう。皆さんのところにも、おそらく様々な勧誘の電話がかかってくるのではないかと思いますが、私の家にかかってきたある電話の主は、私が途中から相手を疑うような発言をし出した途端に態度を豹変させて、「お前ら公務員ごときに馬鹿にされてたまるか!」と捨てぜりふを残して電話を切ってしまいました。しかも、さぞ悔しかったのでしょう、その後数回にわたって嫌がらせの電話がかかってきたのです。最初は丁寧な口調で勧誘をしていても、結局はやくざまがいの人間たちの悪徳商法であることに間違いはないという証拠でしょう。面と向かった営業活動なら、大切なお客を相手に逆ギレすることなど絶対にできないはずなのですが、電話の相手の顔は見ずに済みますから、こんな信じられないことも起きるのです。
 私は、恥ずかしい話ですが、学生時代に騙されて消化器を買わされてしまったことがありました。まるで消防署員を思わせるような服装をして私のアパートを訪問してきたその男は、「法律で消化器の設置が義務づけられているから」と巧みに説明をした挙げ句に、当時で一万二千円なにがしのお金を貧乏学生の私から巻き上げて消化器を置いて行きました。後で調べてみると、その類の消化器はディスカウントストアーなどでは二千円足らずで販売されていたのです。私は本当に悔しい思いをさせられました。もちろん、騙された自分も非常に情けなかった。
 そこで、あるとき私は何とか仕返しをしてやりたくて、わざと「アポイントメント商法」に引っかかった振りをして、英会話教材の販売を目的とした業者とアパートの近くの喫茶店で落ち合いました。これも私が学生時代の話で、当然の事ながら私には最初からそんな教材を買うつもりはなかったのです。今思えば、とても失礼なことをしてしまったと反省させられるのですが。喫茶店で私に会ったその男性は、有名私立大学の学生名簿をちらつかせながら、「だからあなたのような無名私立大学の学生は当然この教材を買うべきですよ」と言わんばかりの口調でした。そこで私は言ったのです。「私は外国語学部英語学科の所属ですよ。どこの有名私大だかは知りませんが、みんな英語に関しては素人ではありませんか。そんな学生たちが買う教材だからといって私にはちっとも興味はわきませんね。それに、あなたが見せてくれた外国の教材開発担当の英文の手紙ですが、それよろしかったらこの場で読んでみてくれませんか?英会話教材を販売するくらいだから、そのくらいの英語は読めるでしょう?」相手の男性はもうかんかんに怒ってしまいました。そして、請求書を手に喫茶店を出ようとする私に向かって、「コーヒー代ぐらいこっちが出すから生意気なことはするな!」と言って、私をにらみつけたのです。結局、学生を馬鹿にするからそういう目に遭う。でも、私のした仕打ちは決して褒められることではありません。消化器の悔しさを英会話教材で晴らそうとするなんてもってのほかです。英会話教材の営業担当の男性にしても、仕事だからしかたなくやっていることで、この年齢になって思えば本当に悪いことをしてしまいました。
 しかし、「オレオレ詐欺」にしても「電話勧誘商法」にしても、知識の少ない消費者をターゲットにして荒稼ぎをしようとする人間たちは絶対に許せません。もっとまともな商売の方法だってあるのですから、他人の不幸の上に自分の利益を築き上げようなどと考えるのは絶対に間違っています。商売は、それ相当の商品と引き替えに行われるべきなのです。そういうモラルが守れない人間たちは、商売に関わる資格はない。消費者ももっと賢くなって、冷静に情報を分析する能力を身につけなくてはならないと思います。

《生存権と公衆衛生》
 昭和四十六年十一月三日に公布されて、翌昭和四十七年五月三日に施行された日本国憲法には次のような条項が含まれています。

第三章 国民の権利及び義務
【第十一条】国民は、すべての基本的人 権の享有を妨げられない。この憲法が国 民に保障する基本的人権は、侵すことの できない永久の権利として、現在及び将 来の国民に与へられる。
【第十三条】すべて国民は、個人として 尊重される。生命、自由及び幸福追求に 対する国民の権利については、公共の福 祉に反しない限り、立法その他の国政の 上で、最大の尊重を必要とする。
【第二十五条】一、すべて国民は、健康 で文化的な最低限度の生活を営む権利を 有する。
二、国は、すべての生活部面について、 社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上 及び増進に努めなければならない。
 
 この憲法第二十五条に謳われた項目が、いわゆる国民の「生存権」を保障したものです。すると、はたと疑問につきあたる。公園で寝泊まりしている浮浪者の人たちを放置しておくことは憲法違反なのではないかという疑問です。公衆衛生上も、決して望ましい状況ではありません。私たち夫婦がよく宿泊する京都のホテルは、鴨川沿いにあるのですが、そのホテルの部屋の窓からは、鴨川にかかった端の下に青いビニールテントを張った浮浪者の人たちの「宿泊施設」をはっきりと見ることができます。
 「自分たちが努力しないからいけないんだ。そんな浮浪者のために大切な税金を浪費する必要はない」と豪語する人たちも大勢いるのは知っていますが、果たして本当にそう言いきっていいのでしょうか。日本の最高法規たる日本国憲法が、全ての国民に最低限度の生活を保障しているのです。浮浪者の中には、長引く不景気の中で不運にもリストラの憂き目に遭ってしまい、一家離散で仕方なくそのような生活に身を落とさざるを得なかった人たちもいることでしょう。そんな人たちが、これから寒い冬を外で凍えながら過ごすのかと思うと、決して他人事とは思えないのです。私たちは、幸運にも雨露をしのげる家を持ち、収入を得るための仕事も手にしている。しかし、いつ私たちも彼らと同じ境遇に立たされるか知れたものではありません。国が、彼らを放置して日本の最高法規である日本国憲法というルールを無視し続ける限り、不良少年たちの浮浪者襲撃事件なども決して後を絶たないでしょう。口先だけで軽々しく論じていい話題ではないのは承知していますが、やはり国なり地方自治体は何らかの方策をとるべきなのではないでしょうか。これは、日本で最大のルール違反だとも言えるでしょう。
 日本は資本主義社会ですから、悪い言い方をすれば「弱肉強食」の競争原理が働いています。弱者は虐げられるのが資本主義の原理なのです。しかし、それでは社会が成り立たないからということで、憲法は弱者の保護を謳っている。様々な事情から経済的に苦しい家庭に生活保護を実施することも、地方自治体の義務だと規定されています。私たちは、自分たちだけが幸せならそれでいいと思っては決していけないのです。常に「明日は我が身」という発想を持っていなければいけない。そういう気持ちを忘れなければ、高齢者をいたわる社会もそれほど困難を伴わずに実現するはずなのです。しかし、人間というのは自分が元気で繁栄を極めているときには、弱者を思いやる気持ちをついつい忘れがちです。 「国は弱者を救済する義務がある」という崇高なルールだけは、絶対に守っていかなければなりません。さもなければ、明日は私たちが橋の下で生活することになるのです。

《憲法第九条》

【第九条】一、日本国民は、正義と秩序 を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇 又は武力の行使は、国際紛争を解決する 手段としては、永久にこれを放棄する。
二、前項の目的を達するため、陸海空軍 その他の戦力は、これを保持しない。国 の交戦権は、これを認めない。
 
 改めて目にした方もいらっしゃるかも知れませんが、これが世界的に有名な日本国憲法第九条です。国際的にも"Article 9"として高く評価されている条項です。しかし、この第九条に関しては今まで数々の議論が巻き起こってきましたが、以前として一定した解釈はなされていません。要するに自衛隊がこの第九条に違反するかどうかということなのです。アメリカ人の軍事評論家からすれば、実に馬鹿馬鹿しい議論に思えることでしょう。なぜなら、警察予備隊から発展した自衛隊は英訳が"Self-Defense Forces" となるように、明らかに軍隊なのです。それは、最近後悔されたアメリカの秘密文書の中にも正式に記述されています。
 しかしながら、私は自衛隊を即刻解散せよという意見の持ち主ではありません。なぜなら、阪神大震災のときなどでも明らかなように、日本の自衛隊は災害救助に於いても、必要不可欠な存在だからです。それに、今すぐに日本から自衛隊がなくなってしまえば、ヒトラーのような専制君主に導かれたどこかの国が日本に突然攻め入ってくる可能性もないとは限りません。第二次世界大戦中のスイスが、強力な軍事力を維持しながらも、永世中立国の立場を堅持したことは有名な事実ですが、日本も自衛隊を維持しながら、軍事的には中立な立場を維持することは可能ではないかと思うのです。問題なのは、日米安保条約によって密接な関係にある米国からの圧力で自衛隊の規模が拡大することです。現在は、北朝鮮による拉致問題が大きな注目を集めているときなので、政府としては自衛隊を強化する理由に事欠かない国際情勢にあります。かつては国会でも盛んに議論された「非核三原則」も、現在ではそれを口にすることさえタブーとされているかのような状況です。政府によって憲法改正論議が盛んに行われていますが、憲法を改正するということは、すなわちこの第九条を書き換えるということを意味します。果たしてそれでいいのかどうか、私たちはよく考えなければなりません。なぜなら、憲法改正のためには国民投票で過半数以上の賛成が得られなければならないからです。私たちの一票が歴史を変えてしまうかも知れないのです。
 歴史をよく研究してみればわかるように、第二次世界大戦は中国という大きな市場を列強各国が奪い合う形で進行して行きました。日本に奪われてはならないということだったわけですね。もちろん、アラビア半島から原油を運搬するためのマラッカ海峡を、日本の占領下から開放する必要もあったでしょう。そして現在の状況を見てみれば、広大な中国市場を日本もアメリカもねらって経済戦略をしきりに練っている状況です。第三次世界大戦は、日米間で戦われるという極端な予想をしたアメリカの軍事評論家がおりましたが、それは全く根拠のないことではないと言わざるを得ません。なぜなら、現在の中国を舞台にした状況は、第二次世界大戦当時の非常に似ているからです。「歴史は繰り返す」と言うではありませんか。人間は、そんな立派な格言を持ちながら、決して歴史から学ぶことができない愚かな存在です。日本が憲法第九条という崇高なルールを無視して自衛隊を強化すれば、それは戦争に一歩ずつ近づくことを意味するかも知れないのです。平和呆けした日本人も、今こそ目覚めなければなりません。
 歴史のルールから言えば、「経済的な混乱の後には必ず戦争が起きる」ということになります。なぜなら、不景気から脱する一番手短な方法が軍需産業の復興だからです。戦争が始まれば軍需景気が訪れ、国の経済はあっという間に立ち直るでしょう。ですから、戦争を回避するためには、経済的な混乱を放置しておいてはいけないのです。もちろん、世界のどの場所にも経済的に追いつめられた国を存在させてはいけません。そういう観点からすれば、現在の東アジアの状況はあまり好ましいものとは言えないことがわかるでしょう。東南アジアの各国が、急速に経済発展を遂げる中、北東アジアに位置する北朝鮮だけが経済的な苦境を強いられているからです。政治的な駆け引きもあるかも知れませんが、単純に考えれば北朝鮮の経済を各国が支援する体制を整えなければ、戦争の火種を消すことはできないでしょう。

《政界はまさに無法地帯》
 最近、ちょうど幕末の歴史を読んだばかりだったので、当時の政治に関わっていた偉大な人物たちと現代の政治家をどうしても比べてしまいます。日本の将来を憂いて、我が命も捨てることをいとわなかった幕末の偉人たちと比べたら、現代の政治家たちのスケールは何とちっぽけなのでしょう。日米修好通商条約の批准のために、勝海舟らと共にサンフランシスコ湾に入港した福沢諭吉らの驚きは想像に難くありません。当時の封建日本と自由アメリカの決定的な格差に、誰もが目を見張り、日本の将来のために大改革を起こさねばならないと心底から思ったことでしょう。 なぜみんな政治家になりたがるのでしょうか。聞くところによると、市町村議会の議員はだいたい月給が三十万円ちょっとだそうで、その代わりに兼業が許されるとか。また、調査費という名目で結構なお金ももらえるそうです。また、兼業が許されない県会議員になれば、報酬もかなりのものになるのでしょう。国会議員はそれにいろいろな権益が伴うわけですから、誰もが血眼になって政治家になりたがるわけです。政治家は「副収入」が多いのですね。それにもかかわらず、国民の血税を湯水のように浪費して少しも罪悪感を覚えないときているのですから、全く始末に負えません。
 学歴詐称の政治家がいるかと思えば、国民年金の支払いを怠っていた政治家も山ほどいる。国民年金の積立金を使って、ろくに知識もない株式投資に首を突っ込んで大損失を出しても蛙の面に小便状態です。公費で競馬馬を買って、それに不倫相手の女性の名前をつけたりした役人もおりましたね。現在の日本の政界はまさに無法地帯です。それでいて、テレビ討論会などでは偉そうな発言を恥ずかしげもなく展開するのですから、面の皮の厚いこと甚だしいと言ったところでしょうか。 アメリカでは大統領選挙を目前にして、ブッシュ現大統領とケリー次期大統領候補とが真剣なテレビ討論を行っているというのに、日本の政治家たちは具体的な政策論争を交わすことが全くできないのはなぜなのでしょうか。現政権を批判するなら、それに代わる具体的な提案をすべきなのに、批判は抽象論の域をなかなか出ません。同じ政党内でも、覇権争いが絶えず、常に相手陣営の足の引っ張り合いをしている。北朝鮮による拉致被害者の問題も、政治的な駆け引きに利用されているに過ぎないのではないでしょうか。
 日本は「アメリカのポチに成り下がっている」と言う政治家に聞きたいのですが、それなら日本はアメリカとどんなつきあい方をしていけばいいのでしょう。アメリカの核の傘の下で平和な繁栄を保障されてきた日本が、今更アメリカにそっぽを向くことが許されるとでも言うのでしょうか。そんなことをして少なくとも現在の日本が国際社会で生き残っていくことはできるのでしょうか。
 日本の総理大臣と最高裁判所長官のボーナスは五百万円を優に超えます。そんな法外な報酬を得ていながら、大した政策も考案できずに無能ぶりを発揮している政治家たちは、ルール違反もいいところです。人間は報酬に見合った労働をしなければなりません。その報酬が国民の血税から支給されているとなればなおさらのことです。政治家は国民に奉仕する仕事であるということが、どこかに忘れ去られてしまっている。
 世の中には、明日の生活もままならない苦境にあえぐ人々が大勢います。経済的な辛苦に耐えきれずに自殺をする中高年層の数も激増しているそうです。国民の痛みを我が痛みとして感じて、日本の将来のために身を挺して働く政治家が切望されます。この秋から使用される新一万円札の肖像には、再び福沢諭吉氏が登用されるそうです。日本に平等思想を啓蒙した偉人は、今の堕落した政界を見て何と言って嘆くのでしょうか。

《右側通行それとも左側?》
 話題は急に細かな話になりますが、鉄道の駅の階段は、特に表示がない場合は、右側通行なのでしょうか、それとも左側通行なのでしょうか。ラッシュ時には、どちらの側も大勢の乗客でごったがえしてしまって、発車寸前の車両に乗り損ねてしまうこともあると思うのです。
 実は、京都に旅をしたとき妻から聞いた話なのですが、エスカレーターは必ずどちらか一方の側を空けておくのがルールだとか。しかも、それは関東では右側で関西では左側だと言うのです。それは本当なのでしょうか。確かに、片側を空けておくと、急いでいる人はそちらを歩いて上って行きます。なるほどこれは便利なルールだなと感心して、こちらに返ってきてからも実行しようとしてみたところ、すでにどの人もそのようにしているではありませんか。私は中学校という塀の中の世界にいるうちに、世間の暗黙のルールを学び損なってしまったようです。
 ところで、最近では幹線道路に沿った歩道が大変きれいに整備されるようになりましたが、あの歩道は自転車も通行していいことになっているのでしょうか。後ろから突然何かがやってくる気配がして振り向くと、自転車がすぐそばに迫っていたという場面に何度も出くわしたのですが、もし自転車の通行も許可されているのなら、それなりのラインを引くとかしてもらわないと、最近の自転車はリンリンとベルを鳴らしたりしませんので、不慮の事故も防げると思うのです。でも、基本的には歩道に自転車が乗り上げるのは問題があると思います。なぜなら、交通法規上は自転車も自動車と同じルールに従って通行しなければならないことになっているからです。このことを知らない人は結構多いのではないでしょうか。路面に白字で書かれた「止まれ」の文字には自転車も従わなければならないのです。しかし、実際には優先道路に突然飛び出してくる自転車がいる。そういう自転車を車がひいてしまったとしても、責任は車のドライバーにはないと思うのです。法律上もそうなっているはずなのですが、実際には自動車のドライバーに過度な責任が課せられる。だからいつまでも自転車は交通規則を守ろうとしないのではないでしょうか。
 一部の人間が社会通念になっていると信じていることでも、意外とそのルールを知らない人たちは多いものです。ですから、お互いに守らなければ困るようなルールであれば、定期的に守ることを呼びかけるようにしなければなりません。そんなことどうだっていいじゃないか…と言う人も多いとは思うのですが、現実には肩が触れあっても喧嘩になる短気な時代です。徹底できることなら、どこかにポスターでも貼って啓蒙活動をした方がいいのではないでしょうか。
 で、駅の話に戻りますが、私はわからないときは広い方の階段を使うようにしています。

《券売機のそばの若い先生》
 ある日、私はすでにホームで発車時刻を待っている電車に乗ろうとして、急いで駅の階段を駆け上がっていきました。そして、二台しかない券売機を見て愕然としたのです。そこには六人ほどの中学生のグループが固まってもたもたしている。私はほとんどあきらめに近い気持ちでばたばたと靴音を立てて券売機のそばまで行きました。すると、そばに立っていた若い男性が、「ほら、一つ券売機を空けなさい」と子供たちに指示をして、私に切符を買わせてくれたのです。そう言えば、練習試合にソフトボール部の娘たちを連れて行ったとき、私も券売機のそばに張り付いて子供たちが一般の乗客の迷惑にならないように気を配っていたことを思い出しました。若い先生なのに、きちんとそういうマナーをしつけていて、久しぶりに気持ちのいい場面に出くわした感じでした。
 世間からとかく批判されがちな学校の先生たちの方が、かえっていろいろな面で社会的なルールを子供たちに教えているのかも知れません。学校から一歩外に出れば、そこは無法地帯だからです。ルールを守らない大人の手本はあちこちにある。赤信号でも車が来なければ平気で横断する買い物帰りの主婦。降りる人を待たずに、どんどん電車の車両に乗り込もうとする通勤客。ウィンカーも出さずに突然右左折するドライバー。車の窓から平気で空き缶を捨てる若者。バス停でたばこを吸いながらバスを待っていて、さてバスが到着するという段になると、平気で吸い殻を道路に捨てて靴でもみ消すサラリーマン。大雨の後で大きな水たまりができている道路を、歩行者の迷惑も考えずに猛スピードで走り抜ける車。病院内で少しも躊躇することなく携帯電話を使っている中年の男性。モラルに欠ける大人の例を挙げればきりがありません。そんな中で、学校の先生たちが孤軍奮闘している姿が、教師を辞めてみて余計にわかるようになりました。
 教師を辞めて改めて世間を見渡してみると、学校の教師を批判する人間がいかに多いかということに気づきます。そして、同時にそういう文句を言っている人間自体は、人格的に非常に問題がある場合が多いということにも気づきました。学校の先生の悪口を言っている子供たちに向かって、「そりゃあひどいよなあ。君たちの気持ちもよくわかるよ」などと子供たちに安易に迎合して、自分だけが正義の味方のような偽善者を気取る大人たち。「反吐が出る」という汚い言葉がありますが、私はそういう人間たちを目の当たりにして、本当に反吐が出そうになりました。学校の教師の苦労などこれっぽっちもわかっていないくせに、無責任なことを子供に吹き込むのはやめてくれと、怒鳴りつけたい衝動にも駆られました。
 大人が子供たちの手本になれる時代は、果たして戻って来るのでしょうか。

《いたずら描きをしたければ自分の家に》
 一昔前にはテレビのニュースなどでも盛んに取り上げられていましたが、商店のシャッターや公の施設の壁面へのひどいいたずら描きは、今もまだ続いています。何度消してもまた夜中にやられてしまう。警備用の監視カメラを据え付けて現場を押さえても、警察官でもない限りは、「何か文句でもあんのか!」と逆ギレされて終わってしまう。私はいつも思うのですが、そういういたずら描きをする連中の家や部屋はどんな状態になっているのでしょうね。自分の家の壁や部屋の中にもいたずら描きをしているのでしょうか。おそらく答えはノーでしょう。そういう人間に限って、自分の居場所だけはきれいにしていたりするのではないでしょうか。
 公衆トイレの中のいたずら描きのひどさは今に始まったことではありませんが、いつまでもいたずら描きをそのままにしておくから次々と上書きされてしまうのでしょう。自治会で相談して、一斉にきれいにしてしまったらどうなのでしょうか。それでもまだいたずら描きをするような連中には、厳しい罰を与えればいいのです。おそらく、犯人の多くはまだ未成年でしょうから、刑務所に服役させるのではなく、アメリカのように一ヶ月とか二ヶ月の単位で奉仕活動に従事させるのもいい方法かも知れません。ただし、かなりきつい奉仕活動にですけれどね。
 地域社会に監視機能がきちんと備わっていれば、そう簡単に条例違反行為は行えないものです。そして、地方自治体は危険箇所の見直し作業を早急に進めなければなりません。暗い夜道を少しでもなくせば、性犯罪も減少するでしょうし、当番制のパトロール体制を充実させれば、子供たちの夜間徘徊も影を潜めるのではないでしょうか。地域にうるさい大人たちの目を増やせばいいのです。
 私がまだ教員をしていた頃も、校舎の中はいたずら描きでいっぱいでした。見方に寄れば「いい記念」とも言えるかも知れないいたずら描きも、校舎の至る所にされてしまったのでは、お世辞にも立派な教育環境とは言えないでしょう。そういう場合は、先生や生徒が協力し合って、みんなで一斉に壁磨きや机磨きをしてしまえばいい。汚い場所は平気で汚すことができても、きれいな場所を汚すには勇気がいるというのが人間の心理だからです。それでもまたいたずら描きをする生徒も出てくるでしょうが、そうしたらまた消せばいい。いたちごっこだと言われてしまうかも知れませんが、こういうケースでは必ず正義が勝つことになっています。そういう意味では「学校」という場所は「一般社会」に比べたらはるかに健全な場所でしょう。
 ただ、地域をきれいにするには、各自治会がばらばらに動いていたのではあまり効果は上がらないでしょうから、自治会同士で連絡を取り合って、計画的に活動を進めていけばいいのではないでしょうか。そして、できれば、ストレスの多い時代ですから、各地方自治体には緑化運動や癒しの壁画作成などに尽力してもらいたいと思います。バスやジャンボジェットでさえ、車体や機体にきれいな絵を描く時代です。大型トラックの運転手たちも、車体を芸術的な絵で装飾しているではありませんか。そういうユーモアがあってもいいのではないでしょうか。人々がほっとできるようなユーモアが。
 大切なのは、小さなルール違反を見逃さないことです。いたずら描きも、最初は非常に目立たない場所から始まったに違いありません。それが、人々に見過ごされるうちに、しっかり市民権を獲得してしまった。そうなったら、大きなエネルギーを使わなければ、きれいな街を取り戻すことはほとんど不可能でしょう。いたずら描きは、「発見したらすぐに消す」というのが大原則です。そういう努力を積み重ねていくうちに、やがては誰もいたずらはできなくなるものなのです。
 ちなみに、店のシャッターや民家の塀などへの大規模ないたずら描きなどは、法律上は刑法の「器物損壊罪」にあたるのではないかと思われます。

【刑法第二六一条・器物損壊罪・解説】
 他人の物を使い物にならなくした場合 に成立します。使い物にならなくするこ とが別の犯罪になる場合には成立しませ ん。 
  使い物にならないようにする方法は問 いません。物理的に壊すのはもちろんで すが、食器に小便をかけること、学校の グラウンドに杭を打ち込み、体育の授業 をできなくしたこと、飼っていた池の 鯉を川に放流してしまうことも器物損壊 罪成立です。
  三年以下の懲役、もしくは三十万円以 下の罰金、科料
 

《虐待される動物たち》
 もう十年以上前のことになると思いますが、仕事の帰りに国道の大きな交差点を通過しようとしたら、交差点の真ん中で大きな犬が事故にあってひっくり返り、中に差し出された足がぴくぴく痙攣している場面に出くわしました。交差点の中のことなので、車を止めるわけにもいかず、気にはなりながらそのまま通過してしまったのですが、あの犬はその後動物病院に運ばれたのでしょうか。それともまもなく息を引き取ったのでしょうか。
 街中でも、足を切断されたまま元気に生活している捨て猫や捨て犬を見かけることがありますが、動物とはかくも生命力に満ちた存在なのですね。そう言えば、どこかの本に書いてありました。「自殺を考えるのは人間だけで、動物は生きるために生まれてきているから、どんな苦しい目にあっても絶対に生きることしか考えない」と。それにしても実に哀れな光景です。事故にあった直後は、きっと人間社会を恨んだことでしょうね。おそらくは今でも、人間を信頼することはできないかも知れません。
 以前話題になった「矢鴨」や「矢猫」のことを覚えているでしょうか。確かボーガンという西洋式の弓矢を使って標的にされてしまったかわいそうな動物たちでした。目撃した人が保健所に連絡して、みんなで一生懸命捕獲を試みるのですが、人間不信が頂点に達してしまった彼らは、救助のための捕獲だなどとわかるわけもありません。殺されたらたまらないと思って、恐怖の余り逃げるのです。ようやくのことで捕獲に成功し、刺さった矢を抜き取る手術を受けたわけですが、心に追った傷は一生癒えることはないでしょう。人間不信というトラウマです。
 私たちが子供時代も、野良犬や野良猫をからかったりしたことはあったと思いますが、傷を負わせたり致命的な外傷を与えたりすることは絶対にありませんでした。しかし、今ではえさに毒を盛る人間もいるのです。それが証拠に、各国の動物保護関係の法律には動物に毒を盛った場合の罰則規定が設けられています。我が家で以前飼っていた猫のミーちゃんは、やはり誰かに毒を盛られて縁の下で絶命していました。オレンジ色のおう吐物を見ても、それが何かの毒であることは容易に想像がつきました。猫は、自分の命がもう危ないとわかると、人間には見つかりにくい場所に身を隠してしまうのです。
 ちなみに、我が国では動物の虐待についてどんな法律が整備されているのかと調べて見たところ、平成十一年に改正された一つの法律があることがわかりました。それが「動物の愛護及び管理に関する法律」です。全部で五章三一条から成るその法律の罰則規定を抜粋してみましょう。

【第一章・総則】
(目的)第一条 この法律は、動物の虐待の防止、動物の適正な取扱いその他動 物の愛護に関する事項を定めて国民の間 に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害を防止することを目的とする。
(基本原則)第二条 動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく人と動物 の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。
(動物愛護週間)第四条 ひろく国民の間に命あるものである動物の愛護と適正な飼養についての関心と理解を深めるようにするため、動物愛護週間を設ける。
二、動物愛護週間は、九月二十日から同月二十六日までとする。
三、国及び地方公共団体は、動物愛護週間には、その趣旨にふさわしい行事が実施されるように努めなければならない。
【第五章・罰則】
第二七条 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。
二、愛護動物に対し、みだりに給餌又は 給水をやめることにより衰弱させる等の 虐待を行った者は、三十万円以下の罰金に処する。
三、愛護動物を遺棄した者は、三十万円 以下の罰金に処する。
四、前三項において「愛護動物」とは、 次の各号に掲げる動物をいう。
  1.牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、ねこ、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる
  2.前号に掲げるものを除くほか、人 が占有している動物で哺乳類、鳥類又 は爬虫類に属するもの
【第三章・都道府県等の措置等】
(負傷動物等の発見者の通報措置)
第十九条 道路、公園、広場その他の公共の場所において、疾病にかかり、若しくは負傷した犬、ねこ等の動物又は犬、ねこ等の動物の死体を発見した者は、すみやかに、その所有者が判明していると きには所有者に、その所有者が判明しないときは都道府県知事等に通報するよう に努めなければならない。
第二十条 犬又はねこの所有者は、これらの動物がみだりに繁殖してこれに適正な飼養を受ける機会を与えることが困難となるようなおそれがあると認める場合には、その繁殖を防止するため、生殖を不能にする手術その他の措置をするように努めなければならない。
 
 インターネットでアメリカのいくつかの動物保護団体のホームページにアクセスしてみたところ、非常に細かな行動に対する対処の仕方が規定されていました。罰則はそれほど厳しくはないようですが、動物虐待を目撃した場合には911、つまり日本で言えば110にすぐに通報するようにというアドバイスが書かれておりました。また、ホームページを読み進めると、ペットフードの中に動物の死体が混入しているとか、あるいはこれは日本でもかなり問題になっているようですが、実験動物の扱いに対する運動もかなり広く行われている実態がよくわかりました。
 こうして、法律を調べてみると、罰則規定はないものの、私が国道で事故にあって瀕死の状態にある犬を発見した時点で、県知事等にすぐに連絡をとる必要があったことがわかります。しかし、このような法律の存在はもっと広く世間に知らされるべきですね。私も自分の無知が恥ずかしくなりました。

《無差別殺人の恐怖》
 世界中がテロリストの犯罪に戦々恐々とする中で、今のところ日本はまだ標的からははずされているようです。標的筆頭のアメリカと親密な関係にあるとは言え、経済的な観点から言えば、アメリカとは相反する立場にある日本は、簡単に敵に回したくないというのがテロリストたちの考えかも知れません。もともと「テロ」というのは英語では"terror" つまり「恐怖」という意味です。「人々を恐怖に陥れる輩」が"terrorist"ということになるわけです。
 しかし、日本は実際には世界で一番最初にテロの恐怖にさらされた国です。ニューヨークのツインタワーが標的になった、いわゆる「九・一一事件」が最初ではありません。何だと思われる方もいるかも知れませんが、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が本格的なテロだったのです。アメリカは日本で起きた本格的なテロ事件に危機感を覚えました。化学兵器がテロ活動に使用された場合の大混乱が現実のものとして証明されたからなのです。これは世界のテロリストたちにいい教訓を与えてしまったことになります。ニューヨークの悲劇の直後に起きた一連の「炭疽菌事件」には、アメリカ政府もずいぶん肝を冷やしたことでしょう。
 北朝鮮からの核攻撃の恐怖がやたらと話題になっていますが、国民を大混乱に陥れるという意味では、核ミサイルよりも化学兵器を弾頭に据えたミサイルの方が絶大な効果を発揮すると軍事評論家は指摘します。確かに、首都圏の上空で大量のサリンをばらまかれたら、人々は逃げ場を失ってしまいますし、風に乗ったサリンはどこまで被害の範囲を拡大していくか予測がつきません。しかし、他国とは違って日本では防毒マスクが飛ぶように売れているという話は聞かれない。つまり、私たちは化学兵器によるテロ事件を全く現実のものとして想定していないのです。
 「自爆テロ」という言葉も、イラクの大混乱の中で誰もが知る用語となりました。英語では"suicide bombing" つまり「自殺爆破行為」ということになります。こういう一般庶民をターゲットにした犯罪が一回でも発生すれば、後は模倣犯が連鎖反応的に犯罪を強行するでしょう。そういう事態にいつなってもおかしくない時代にすでに突入しているのですが、「平和呆け」というのは恐ろしいもので、この文章を書いている私でさえ、その危機感を実感として抱いているわけではないのです。「起きてもおかしくはないな」とは思っても、心のどこかで「自分は巻き込まれないだろう」という油断がどっかりと腰を据えている。果たして日本は本当に安全な状態にあるのでしょうか。
 外国人テロ集団によるテロ活動よりも、異常な心理状態に置かれた日本人のテロ活動がいつ起きてもおかしくないのではないでしょうか。数々の凶悪犯罪がそれを物語っているように思えてなりません。
 先日、塾で教えている生徒から聞いた話なのですが、ある小学校に「爆破する」という脅迫電話がかかってきて、その小学校は児童をあわてて下校させたという事件が起きたそうです。私が教員を辞める直前にも、海岸沿いにある学校を爆破するという脅迫電話があったという話を聞きました。学校長に「生徒たちを下校させるのですか」と聞きましたところ、それほど根拠のある事態ではないようだから、とにかく市教委からの指示待ちだということでした。結局、避難騒ぎにはならずに済みましたが、現実にそういう脅迫電話を楽しむ連中が出現している。それがいつただの脅迫でなくなるかというのが問題です。
 アメリカでは小型原子爆弾の製造法を記した本が売られているそうです。つまり、一般の人間が恐怖の兵器を簡単に作れる時代になったということなのです。不安定な時代が続けば、緊迫した状況がやってくるでしょう。

《一過性熱狂症候群》
 一九九二年のアルベールビル冬季五輪から始まった、JOC日本オリンピック委員会のメダル報奨金制度。今では誰でもが知るように、金メダルに三百万円、銀メダル二百万円、銅メダルが百万円の報奨金をもらえることになっています。シドニーオリンピックの時の報奨金総額が八五〇〇万円だったのに対して、メダルラッシュと言われた今回のアテネオリンピックの総額は何と一億五六〇〇万円に上ったそうです。競技別総額では、水泳の四千万円が最高だとか。頑張った選手を励ます意味では確かにいい制度なのかも知れませんが、メダルを獲得した選手だけが、テレビ観戦をしていた国民を勇気づけたわけでは決してありません。
 私は、教員時代ソフトボール部の顧問を長く務めていましたので、アテネオリンピックで銀メダルをとった日本女子チームの活躍がマスコミに大々的に取り上げられたのはとても嬉しく思いました。しかし、あのときもそれからしばらくして国民のソフトボールへの関心は徐々に薄れていったと記憶しています。実際には、ソフトボールにはゴムと皮の二種類があって、その大きさも年齢別に一号球から三号球まであり、今回のアテネ五輪では、ボールが少し大きめになって色も白から黄色に変わり、手の小さめな日本人選手にとっては不利な状況だったということを知っているファンは少ないでしょう。なぜ高齢の宇津木麗華選手が監督と同じ名前なのか、調子が悪くても常に先発で出場したのかなど、裏の事情を知る人は更に少ないはずです。しかも、オリンピックの代表に選ばれなかった選手たちの中にも、素晴らしい素材はたくさんいるということも知られていないでしょうし、女子ソフトボールのリーグ戦が日本中で定期的に行われているということもあまり知られてはいません。
 私たち日本人は、なぜ刹那的な熱狂に酔いしれて、その熱が長続きしないのでしょうか。それは本当の意味でのファンとかサポーターのあり方ではないと思うのです。メダルを取れば大騒ぎをすれけれど、数年すればその選手の存在すら忘れ去られてしまう。私の教え子は女子サッカーの日本代表選手としてアテネ五輪に参加しました。彼女たちがここまで来るのにどんなに苦労をしたか、私は中学時代からの彼女を見ていて、とてもよく理解できます。その女子サッカーが世界のベスト8に輝いたというのは、金メダルに等しい偉業なのです。しかし、女子サッカーは、オリンピックが始まる前から男子のサッカーの前座のような存在でしかなかったし、マスコミの扱いもその通りだったと思います。メダルがとれなかった彼女たちの存在は、あと数ヶ月もすれば忘れ去られてしまうことでしょう。 大リーグで大活躍しているイチロー選手にしても、プロ入りした当時は四位指名の名もない選手でした。愛工大名電高校時代の彼は文字通りエースで四番の大活躍でしたが、プロ入りした後も彼は苦しいスランプに悩んだそうです。振り子打法が完成して一躍脚光を浴びるようになった彼が、日本の野球を捨ててアメリカに渡った気持ちが、よくわかるような気がします。そして、今では押しも押されもしない世界のイチロー選手となりました。マスコミは彼の後を金魚の糞のように追いかけ回している。彼はいつもインタビューの席では比較的無愛想なものですから、彼のことをあまり好ましく思っていない人も多いようですが、有名になった途端にこびを売るマスコミに苦笑しない人間はいないと思います。さすがに大リーグ記録を塗り替えた彼は、インタビューの席でも興奮気味でしたが、日本人というのは調子の良し悪しを別にして、温かくスポーツ選手を見守るということができない国民なのでしょう。
 芸能界でも同じような現象が起きていますね。大騒ぎされたアイドルが、翌年にはもう落ちぶれていたりする。まだおしりの青い子供のアイドルたちに熱狂したかと思えば、飛ぶ鳥を落とす勢いだったモーニング娘。も今では不思議なくらい人気を稼ぎ損ねている。その代わりに世間が騒いでいるのは、何と韓国映画界の「ヨン様」だと来ているのですから、日本人の尻の軽さはもう救いようがありません。日本にも素晴らしい俳優は大勢いるのに、なぜ突然外国人俳優がブレイクするのでしょう。彼に続いて、次々と韓国人の男性俳優が来日している。彼らは「日本人は意外ととろいなあ」と思っているのではないでしょうか。宇多田ヒカルや浜崎あゆみが大人気を博している陰で、松田聖子以来の大スターだと騒がれた安室奈美恵は人気を取り戻すのに苦労しているのが日本の芸能界です。
 人気商売の世界ではそれが当然なのだと言われれば確かにその通りかも知れませんが、あまりにも尻軽すぎませんか?きのうはあっちで、今日はこっち、そして明日はどこにいくかわからないという状況は、恥ずかしいことなのではないでしょうか。私は、アイドルやスポーツ選手に大騒ぎすることが悪いと言っているのでは決してありません。私自身も中学時代には天知真理や太田裕美に夢中になっていましたからね。しかし、いくら人気商売とは言っても、日本のファンは手のひらをころころ変えすぎるのです。
 人が世の中で芽を出すには、それなりの苦労があるはずで、その苦労を思ったなら、一度はファンと名の付く存在であった人たちは、末永くその人を応援してあげればいいではありませんか。ヒット曲を出すから、映画の興行収入が記録的だったから、メダルをとったからという理由からだけではなく、いろいろな有名人を心から応援していける国民になれたらいいなと願うのは私だけでしょうか。有名人はいろいろな意味で私たち一般人を励ましてくれる存在です。励まされたのなら、いつかは励ますのが人間の情というものです。

《痴漢にされて人生を棒に振る》
 満員電車の中での痴漢行為が長年の間大きな問題になっていますが、痴漢騒ぎに巻き込まれた悲劇もあるのです。私の高校時代の友人は、通学途中の電車の中で、いきなり女子高生に痴漢呼ばわりされて大抗議したという話がありました。その当時は、そういう抗議が認められたから良かったのですが…。
 満員電車の中で女性のお尻や胸を触って何がおもしろいのでしょう。それほどストレスがたまっているのでしょうか。もっと健全な方法でストレスは発散すればいいのに。私はパチンコが大好きでかなりの授業料をつぎ込みましたが、現在は家族との約束で一切足を洗っています。でも、痴漢よりはパチンコの方がよっぽどスリルがあるし、おもしろいし、収入にもなる。
 しかし、問題なのは痴漢をする男性の方ばかりではありません。下着が見えるか見えないかというスレスレの短いスカートをはいたり、ヘソ出しルックをしたり、欲求不満の男性の性欲を煽るような女性側の行為はどうして非難されないのでしょうか。そういう格好をしておきながら、駅の階段を上るときには後ろ手にスカートを押さえたりする。「だったら長いスカートをはけよ!」と怒鳴ってやりたくなることがあります。私は意地でも上は見ない。そんな女性の下着など目にしたら悔しいではありませんか。
 ちなみに痴漢行為は刑法第一七六条の「強制わいせつ罪」に抵触します。

【刑法第一七六条・強制わいせつ罪】
  十三歳以上の男女に対し、暴行または 脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、 六月以上七年以下の懲役に処する。十三 歳未満の男女に対し、わいせつな行為を した者も、同様とする。
 
痴漢行為には大変重い罰則が科されることがわかります。ところが、痴漢に間違われて取り調べを受け、そのせいで会社をクビになったような場合は、話によると救済措置がないそうです。名誉毀損で相手の女性を訴えても、相手を痴漢に間違っても致し方ない状況にあったということで、罪は成立しないそうです。ましてや、疑われただけで会社の名誉にかかわると解雇を実行した会社が、解雇処分を取り消すこともまずあり得ないでしょう。たまたま、被害を受けた女性のそばにいただけである日突然人生を棒に振ってしまうのです。だから、満員電車の中では絶対に両手を上に上げていなければなりません。それにしても、不当な解雇処分に対しては、何らかの救済措置と名誉回復措置が講じられるべきでしょう。

第三十四章 名誉に対する罪
刑法第二三〇条・名誉毀損
  公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損 した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万 円以下の罰金に処する。
2.死者の名誉を毀損した者は、虚偽の 事実を摘示することによってした場合で なければ、罰しない。
刑法第二三〇条の二
 前条第一項の行為が公共の利害に関す る事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
2.前項の規定の適用については、公訴 が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
3.前条第一項の行為が公務員又は公選 による公務員の候補者に関する事実に係 る場合には、事実の真否を判断し、事実 であることの証明があったときは、これを罰しない。
刑法第二三一条・侮辱
  事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。
刑法第二三二条・親告罪
  この章の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
2.告訴をすることができる者が天皇、 皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣である ときは内閣総理大臣が、外国の君主又は大統領であるときはその国の代表者がそれぞれ代わって告訴を行う。
 
 無駄だとわかっていても、「名誉毀損」で相手を訴える場合には、「親告罪」の時効期間に注意する必要があります。告訴は犯罪を知った日から六ヶ月以内ということになっているので、気をつけましょう。また、名誉毀損については民法でも損害賠償を相手に請求する権利を認めていますから、きちんと事実でないことが証明できる場合には、あきらめずに頑張るべきでしょう。ただ、民事訴訟では弁護士費用もかかるので、その辺の金銭的な計算もしっかりしておかなければなりません。話はずれてしまいましたが、とにかく痴漢行為のようなつまらないことで、人生を棒に振るのは馬鹿げています。
 ちなみに「援助交際」を楽しんでいる中年の男性諸氏のために、未成年者と性的関係を持った場合はどのような罰則規定があるか紹介しておきましょう。

児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律
第一条(目的)
  この法律は、児童に対する性的搾取及 び性的虐待が児童の権利を著しく侵害 することの重大性にかんがみ、児童買 春、児童ポルノに係る行為等を処罰す るとともに、これらの行為等により心 身に有害な影響を受けた児童の保護の ための措置等を定めることにより、児 童の権利の擁護に資することを目的と する。
第二条(定義)
 @この法律において「児童」とは、十 八歳に満たない者をいう。
第四条(児童買春)
  児童買春をした者は、三年以下の懲役 又は一〇〇万円以下の罰金に処する。
第五条(児童買春周旋)
  @児童買春の周旋をした者は、三年以 下の懲役又は三〇〇万円以下の罰金に 処する。
  A児童買春の周旋をすることを業とし た者は、五年以下の懲役及び五〇〇万 円以下の罰金に処する。
第六条(児童買春勧誘)
  @児童買春の周旋をする目的で、人に 児童買春をするように勧誘した者は、 三年以下の懲役又は三〇〇万円以下の 罰金に処する。
  A前項の目的で、人に児童買春をする ように勧誘することを業とした者は、 五年以下の懲役及び五〇〇万円以下の 罰金に処する。
 
 ちなみに、中年の「おじさん」を誘惑して売春行為を働く女子高生たちには、法律上の罰則規定は事実上存在しないようです。補導されて指導を受けることはあっても、厳しい措置は実際にはとられていないとか。これでは「援助交際」でお小遣い稼ぎをするコギャルたちは後を絶たない訳ですね。買春をする男性に重い罰則規定を設けるなら、売春をする女性にも同様に重い罰則規定を設けるべきでしょう。男女平等の社会なのですから。
 ただし、売春を斡旋する人間に対しては、相当厳しい罰則規定があることを忘れてはいけません。コギャル達は罰せられなくても、斡旋した人間は厳重に罰せられるのです。

《昼間でも安心できない留守の家》
 ここ数年、空き巣の件数はどれほどの割合で増えてきたのでしょうか。横浜市のある区の統計を調べてみたところ、平成十三年から平成一四年にかけて、空き巣の件数は二倍強に増えています。手口も非常に巧妙になってきていて、テレビの特別報道番組などでその手口を紹介しても、次々に新しい手口が登場する有様です。従来は割れないとされていた車のウィンドウも、先端に力が集中するように設計された特殊なハンマーを使えば、いとも簡単に割れてしまいます。ここに、東京都内の平成十五年度の犯罪状況を調べたあるデータを紹介しましょう。

◎空き巣件数
  17,797件(侵入盗の57%)
◎全侵入窃盗31,426件中
  一戸建住宅…5,990件
  中高層住宅…6,193件
  その他の住宅…8,408件
  会社・事務所…4,408件
  商店…2,105件
  飲食店…2,417件
  病院…607件 学校…331件
  その他…967件
       (警視庁統計より)
◎一般住宅への侵入手口
  ガラス破り(焼き切り、切り破り等)
          …66.4%
  戸締まりナシ…18.8%
  ドア錠破り…2.6%
  サムターン回し…0.4%
  ピッキング…0.2%
  その他…11.6%
◎マンションへの侵入手口
  ガラス破り…24.9%
  サムターン回し…18.5%
  ピッキング…15.1%
  戸締まりナシ…13.4%
  ドア錠破り…3.5%
  その他…24.6%
 
 みなさんの家でも、様々な空き巣防止対策を練っているのではないかと思いますが、最近では「センサーライト」(暗くなってから人の気配を探知してライトが点灯する仕組)を設置する家庭も増えているようです。我が家でも玄関にかなり明るいものを一つ、それから別の二カ所に太陽電池式のものを設置しているほか、ドア錠破り対策の防犯システムも取り入れています。ここに具体的に書くのは控えたいとは思いますが。また、出かけるときにはテレビのスイッチを入れたままにしたり、スリッパを玄関に脱いでおかないようにしたりと、いろいろな気配りも忘れないようにしています。それでも、つい先日隣のマンションに空き巣が入りました。白昼堂々の犯行だったようなので、他人事とは決して思えませんでした。
 うちにはやや広めの庭があるのですが、そこにも太陽電池式のガーデンライトを一つ設置してあります。数日後にはあと二つ増える予定です。「そこまでお金をかけてるの?」と思われるかも知れませんが、我が家もそれほど経済的に余裕があるわけではありませんから、便利なインターネットオークションを十二分に活用して、非常に安価で防犯グッズを揃えているのです。それでも、おそらくねらわれたら予想もつかない方法で侵入されてしまうのではないでしょうか。まあ、我が家に侵入しても、現金は置いてありませんし、盗むとしたらコンピューターぐらいでしょうか。私にとっては大切な仕事道具なので、盗まれたら非常にショックなのですが。
 とにかく、犯罪は白昼堂々と行われるようになりました。無駄かも知れませんが、思いつく限りの防犯の手段を講じておく価値はあるのではないでしょうか。表札の書き方にも様々な工夫があるようですしね。

《誘拐、そして拉致》
 北朝鮮による拉致事件が日本政府によって正式に認定されてから、もう長いときが流れました。次々に明るみに出る新事実。つい先日は、拉致事件が一九七七年からではなく、すでに一九六二年から始まっていたのではないかと思わせる新事実が判明しました。「拉致」も「誘拐」も英語ではともに"kidnapping"です。明らかな犯罪です。
 しかしながら、北朝鮮の人々からすれば、第二次大戦中に強制的に日本に連れてこられた朝鮮人たちは、いったいどうなるのかということになるでしょう。今日本で話題になっている拉致事件とは比べものにもならないほど大規模な拉致事件ではなかったのでしょうか。満州国を樹立して、ハングル語の代わりに日本語を話すことを強制した悲惨な歴史をどう評価し、その罪をどのような形で償えばいいのでしょう。そういう戦時中の大きな犯罪に対する処理を曖昧なままにしているうちに、朝鮮戦争が始まり、アメリカ軍の爆撃機が日本にある米軍基地から飛び立っていったのです。日本は軍需景気に沸き立ちました。朝鮮半島の人々の犠牲の上に繁栄の道を歩み始めた日本。その日本が、北朝鮮の拉致問題を世界最大の人権侵害問題だとして取り上げている矛盾。拉致被害者の家族の皆さんにはしかられてしまうかも知れませんが、日本に無理矢理連れてこられて、長い長い差別の歴史を歩まざるを得なかった朝鮮民族の人々の過去は、いったいどのようにして償われるのでしょうか。
 日本は世界最大の被害者である以前に、世界最大の加害者であったという事実もしっかり認めた上で、北朝鮮政府との交渉に臨まなければならないのだと思います。一方的に人権侵害を訴えれば、真剣に耳を貸す気持ちにはなれないでしょう。
 サッカーのアジアカップが中国の重慶で開催されたとき、中国人サポーター達の行きすぎた日本人攻撃が大々的にマスコミに取り上げられ、中国人の学者までが「中国民族の恥だ」と批判したほどでした。しかし、戦時中に日本軍が中国大陸で犯してしまった様々な犯罪行為は、そう簡単に歴史から消し去ることはできないのです。それは、広島や長崎の被爆者の子孫の方々が、なかなかアメリカの軍事力行使に素直になれないのと一緒ではないでしょうか。イラクで毎日のように犠牲になっていく一般市民のニュースを聞く度に、胸を痛めておられるのではないかと思うのです。戦争は恨みしか残しません。
 立場が違えば歴史の見方も変わります。日本に落とされた二発の原子爆弾は、広島がウラニウム型原子爆弾(リトルボーイ)で、長崎がプルトニウム型原子爆弾(ファットマン)だったことを考えると、明らかに人体実験的な要素があったことは否定できないでしょうが、アメリカ側の主張は、あくまでも戦死者の数を最小限に抑えるための仕方ない措置だったということになるわけですね。ところが、日本にしてみれば、何度も和平協定を申し入れたにもかかわらず、「無条件降伏」(unconditional surrender)以外は認めてもらえそうになかった。「無条件降伏」は天皇制の廃止を意味するかも知れなかったので、日本は容易に受け入れることができなかったわけです。「どうせ負けることがわかったいたのなら、なぜ原爆が投下される前に降伏しなかったんだ」と言う人は多いのですが、それができない事情があったわけです。それに、日本は真珠湾を奇襲攻撃したことになっていますが、日本がアメリカと事を構えるとしたら真珠湾を攻撃するしかないだろうという軍事的な分析は、その何十年も前にアメリカの学者がやっている。すると、当時は「孤立主義」で他国の戦争には介入しないというムードが強かったアメリカ国民を戦争に巻き込むためには、当時のルーズベルト大統領にはそれなりの「正当な理由」が必要だったのです。アメリカ国民を納得させるに十分な「正当な理由」、すなわち「卑怯な日本人に報復を」という理由です。すると、真珠湾の攻撃はアメリカが事前に察知しながら、許容した可能性が出てくる。まさかハワイの自国民を犠牲にするわけはないだろうと思うかも知れませんが、原爆が投下された長崎にも連合国軍の捕虜収容所があったことを考えれば、戦争という大儀の前には多少の犠牲はいとわないというのが戦争の理屈です。まあ、何が真実だったかは、恐らくは永久にわからないのではないかと思いますけれどね。
 要するに、拉致問題にしても、日本人と北朝鮮人の見方は完全に異なるだろうということなのです。どちらかの主張を一方的に通そうとすれば、必ずしこりが残ります。今は、経済的に日本の支援がぜひとも必要な状況に北朝鮮があるから、拉致問題の解決の糸口がつかめたわけで、このまま調子に乗っているととんでもないことになるかも知れません。《挨拶の効用》
 さあ、話題を少し明るい方に持って行きましょう。皆さんは登山の経験がおありでしょうか。私は登山といえるほどの本格的な山登りを経験したことはありませんが、千メートルちょっとの山に登ったことはあります。山登りをしていると、途中で逆方向の登山者とすれ違うことがよくあります。すると、「山の掟」に従って、両方とも「こんにちは」と気軽に挨拶することになっている。このさわやかな挨拶が、疲れた体にもう一度エネルギーを与えてくれるわけです。しかし、最近ではこの当たり前の「山の掟」が破られることもあるようで、非常に残念だと思います。
 私は教員という仕事の関係もあって、京都の街にはもう二十回近く旅しているのですが、京都では外国人旅行者と遭遇することが非常に多い。外国人旅行者は目が遭うと、自然と"Hello." という挨拶が口から飛び出してくるんです。その挨拶が引き金になって、そこからいろいろな会話が始まることも多い。私は英語の教師なので、そういう会話がとても楽しいのです。向こうにしてみれば、日本人は英語が話せないという定説を信じ込んでいますから、英語でぺらぺらしゃべり出すと、「アメリカのどこに住んでいたの?」と聞かれる。それがまた嬉しいではありませんか。自分の英語も底まで上達したかと、自画自賛するわけです。よく日本人は無駄な会話をすると言われていますが、それは全くの勘違いで、英語でも知らない者同士の最初の会話は"It's a beautiful day, isn't it?""Isn't that great!" など、たわいのない話題から始まるのです。人情は世界共通です。
 私は、運動部の顧問を長く続けていましたが、子供達にはいつも、技術云々の前にまずはしっかり挨拶ができる人間になりなさいと口を酸っぱくして言っていました。挨拶をよくする選手は、必ず人にかわいがられて最後は得をするんだよ、と。校長先生などはよく全校朝会で「オアシス」について話をされることが多い。つまり、「おはようございます」「ありがとうございます」「失礼します」「すみませんでした」の頭文字をとって「オアシス」となるわけです。そういう簡単な挨拶の言葉が、確かに人間関係のオアシスになるのですから、うまく言ったものです。しかしながら、残念なことに学校の先生たちはその大切なあいさつが徐々にできなくなっているのですが…。
 朝夕に犬の散歩をしていると、同じように犬を連れている人たちと何度もすれ違う機会があります。お互いに同じ立場なので、こういうケースでは自然と挨拶の言葉が口をついて出てくる。「おはようございます」「それじゃあ、また」「こんにちは」「また、よろしくお願いしますね」など、ペットの犬を仲立ちにしたコミュニケーションです。ところが、中にはぶすっとして会話を避けようとする人もいる。そういう人は、わざと他の人と散歩の時間をずらしたりするのです。犬を連れていなくても、玄関先の掃除をしているお年寄りに挨拶したりすると、一瞬びっくりしたような顔をしてから、にこっとして挨拶を返してくれます。びっくりするのは、それだけ今の若い世代が挨拶をしなくなったということなのでしょう。
 今は非常に物騒な時代になりましたから、小さな子を持つ親たちは、残念ながら子供たちに「知らない人とは口をきいちゃだめよ」という教育をしなければなりません。ですから子供たちは自然と社会性を身につけるチャンスを失ってしまう。かといって、どんな人にも愛想を振りまいていると、車に乗せられて連れて行かれてしまうかも知れないのですから、どちらを選択するかと問われれば、愛想のない子供になることを当然選ぶのが親の情けでしょう。挨拶は人間関係の潤滑剤なのですが、それもままならない時代になったということなのでしょうかね。
 ところで、皆さんは駅前などでティッシュ配りのアルバイトをしている学生さん達にはどんな対応をしていますか。ティッシュだけもらって無言で去りますか。それとも、軽く「ありがとう」と言いますか。断るときはどうでしょう。手でティッシュやチラシを払いのけたりはしていませんか。「悪いけど急いでるんで」とか「ごめんね」とかひと言付け加えたりしているでしょうか。もちろん向こうは仕事でやっているのですから、冷たい態度をとられても何の文句も言えた義理ではありませんが、そういう場面でも何かひと言会話があれば、お互いに悪い気はしないのではないでしょうか。
 お店で買い物をしたり、飲食店で食事をしたりした後はどうでしょう。「どうもありがとうございました」「ごちそうさま」などと明るく言葉をかけているでしょうか。お店の人が「どうもありがとうございました」と言ってくれるその声を背中で受けて、無言で店を出たりしてはいませんか。こちらはお客ですから、決してお店にこびを売る必要などないのですが、そんな場面でも何らかの会話があるとお互いにいい一日が送れるのではないかと思うのです。
 車で道を譲り合ったときの、ライトの点滅や軽い会釈なども、ともて大切なコミュニケーションだと思うのですが、最近では「当たり前だろう!」と言わんばかりに、ぶすっとした表情ですれ違うドライバーも少なくはありません。時代が時代だから仕方ないかなあとは思いながらも、どこか嫌な気分が残るものですね。
 世の中が殺伐としてくると、他人を簡単に信用することが怖くなります。そして、信用できない他人とはできるだけ関わりを持とうとはしなくなる。それが、挨拶を交わす機会を極端に減らしてしまっているのでしょう。しかし、こんな殺伐とした時代だからこそ、温かい挨拶の交換が欲しいものですね。
 ちなみに、横断歩道を渡ろうとしている歩行者がいた場合には、車は停車を義務づけられているのですが、それにしても、きちんと止まってくれた車に軽く会釈するとか、少し早足で渡るとか、そういう気持ちが歩行者にも欲しいものです。そうやって感謝の気持ちを示されたドライバーは、次からも必ず横断歩道で停車する気持ちになるでしょうが、止まって当たり前だろうという顔をされたら、次からは絶対に止まるものかと意地になる運転手もいるのではないかと思うのです。やはり、気持ちには気持ちで返さないと、社会は余計にぎすぎすしてくるわけです。
 朝、横断歩道で子供達の横断を見守ってくれている交通課のお巡りさんにも、「いつもご苦労様です」という気持ちを、全ての歩行者とドライバーが持つべきです。そういう気持ちは必ず何らかの言動になって表れるでしょうし、感謝の気持ちを示されればお巡りさんの苦労も報いられるではありませんか。

《名ばかりの危機管理体制》
 アメリカの同時多発テロ事件をきっかけにはやり言葉のようになった「危機管理」。様々な緊急事態を想定して、そのそれぞれの場合にどのような動きを誰がどこでいつするのか、しっかりとシナリオを作っておくことを「危機管理体制を整える」と言うのですが、実際にはそれは名ばかりで、ちっとも危機管理体制など整っていない。現に、台風が上陸してこれから暴風雨がひどくなろうとしているのが明らかな状況で、学校が休校にならないというのはどういうことなのでしょう。数時間後には恐らくは緊急下校になることがわかっているのなら、朝のうちから緊急連絡網で登校を自粛させればいいではありませんか。ところが、早々と結論を出して学校を休みにしてしまうと、後で管理職が教育委員会から指導を受けたりする。だから、管理職はびくびくして判断がついつい鈍るという構造です。 私が教員になりたての頃は、勤務先の学校が海沿いにあったものですから、暴風雨が吹き荒れると、大変な海風が校舎に直接吹き付けてきました。当時はまだ木造校舎も残っていたのですが、台風の後は必ず何十枚もガラスが割れるので、私たち教員は常にガラス切りを持ってガラスの入れ替えの練習をしていたほどです。ある時などは、突然天候が荒れ出して、アルミサッシの窓枠ごとはずれてしまう有様で、全校生徒を体育館内に避難させたこともありました。しかし、それが二十年も前の話であることを考えると、「危機管理」などという言葉が存在しなかった当時の方が、臨機応変の対応を即決することができていたような気がします。地域の大きな祭りがあると言えば、学校は二時間遅れの登校が決まっていましたし、いい時代でしたね。
 ところが、今は何かミスをするとすぐに批判する人たちがいる。だから、危機管理などと声高に叫んではみても、ついつい判断が遅くなってしまうのです。こんな状況下で、例えば東海大地震が予知されたとして、地震予知連絡会はすぐに緊急避難の警告を出すことができるのでしょうか。警告が出れば、当然のことながら経済活動がストップします。経済活動が一日ストップするだけでどれだけの損害になるか知れたものではない。そうするとついつい判断が鈍るわけですね。下手をすると、確実ではないからもう数日様子を見ようと言う結論になるかも知れません。それでもおそらく、予知連絡会のメンバーの家族は避難させてしまうでしょうね。私がメンバーなら絶対にそうすると思うからです。だからといって、メンバーを責めることはできないでしょう。なぜなら、避難警告を出して実際に大地震が来なかった場合には、特に経済界の人間達は直接怒りを予知連絡会にぶつけることが目に見えているからです。もし、私たちが「間違ってもいいから、危険性が少しでもあるなら警告を出して欲しい。それが空振りでも絶対に文句は言わない」と約束すれば、予知連絡会は勇気を持って迅速な対応をしてくれるに違いありません。私たちはあまりにも勝手すぎるのです。自分たちの都合ばかりを優先して物事を考えるから、ついつい相手は弱腰になってしまう。これでは、せっかくの危機管理体制もうまく機能しないでしょう。 責任を預けたなら、その人達の判断に全て任せて文句は言わないというのが、社会のルールです。文句を言ったり批判をしたりするのは簡単ですが、重大な決断を下さい側の人間の立場に立って見て下さい。決断の結果の全ての責任を負わされてしまったら、誰も決断などしないに違いありません。
 人間にはミスがつきものです。でも、多くの場合は、他人にはついつい完璧を求めてしまう。自分が完璧でないのと同様に、他人も完璧ではありません。他人に完璧を求めると言うことは、いつかは自分も完璧を求められるということです。そんな堅苦しい社会で生きていくのはお互いに辛いとは思いませんか。

《素人だから馬鹿にする?》
 これは私の知人に実際に起きた話です。彼女はある家電量販店でノート型のコンピューターを買いました。コンピューターに関しては全くの素人だった彼女なので、メーカーも特に自分の好みがあったわけではありませんが、お店の人のアドバイスなどに素直に従って選んだのでしょう。ある日、彼女が朝起きてみると、まだ買ったばかりのコンピューターの液晶画面が割れているというのです。彼女はすぐにそのコンピューターを買った有名家電量販店に行って、事情を説明したところ、普通に使っていてそんなことが起きるわけはないから、修理は有料になるとのことだったそうです。彼女は何も知らないからそのまま修理代を払いました。ところが、今度は修理したはずの液晶画面に不具合が起き始めたのです。もう一度量販店に相談すると、また修理だと言う。さすがの彼女も困ってしまってどうしようかと悩んでいるところへ、私が首を突っ込んだという形になりました。私はすぐにその家電量販店に電話をして、コンピューター売り場の主任を電話口に出してもらいました。そして、難しいコンピューター用語をわざと使って、液晶画面が割れるなどどいうことは、メーカーにとっては致命的な現象で、有料で修理するどころか、そんな事実を公表されたら信用問題なのではないかと追及すると、ちょっと待ってくれと言うのです。私が、相手が素人だと思ってずいぶんな対応をしてくれたようだけれど、液晶画面が割れたり、修理後に不具合が起きるのは、明らかに不良品である証拠ではないかと指摘すると、相手は口ごもってしまいました。さらに、直接メーカーに相談して、販売店の対応が信じられないくらい無謀だと報告していいかと問いつめると、少し相談してからすぐに折り返し電話をするとの事だったので、私たちは彼からの電話を待ちました。電話はすぐにかかってきました。もちろん相談などしているわけはありません。すぐに手の平を返すわけにはいかなかったのでしょう。彼は、新製品と無料で交換するということで何とか納得してもらえないかという条件を提示してきました。私は彼女にそれでいいかどうか確認した上で、その通りに返事をすると、すぐに職場まで運んでくるというので、二人で待っておりました。十数分して主任の彼本人が新製品を持って現れ、這々の体で謝罪するのです。私は彼に言いました。「これだけ世間で有名になったお店が、相手が素人だということで、いい加減な対応をするようじゃ、お宅の店の名前にかかわるんじゃないの?それに、お宅の店の店員もコンピューターの知識が大してないようだけど、そんなことでお客にいい加減な情報を売り込まれたらたまらないなあ」と。彼はただただ平謝りするだけでした。そんなに悪そうな人間には見えなかったので、私も彼女も許したのですが、彼女にしてみれば交渉の相手が私に代わっただけで、対応が正反対になったこと自体が気にくわないようでした。それはそうでしょう。自分が馬鹿にされていたということになるわけですからね。結局、最初に支払った修理代は戻って来なかったようですが、おかげで新製品が手に入ったのですから、それはそれで勘弁するしかないでしょう。私自身の事であれば、最初の修理代まで全部取り戻したのですが、あまり出しゃばっても彼女のプライドが傷つくだけのような気がしたので、私はそれ以上介入するのをやめにしました。
 それでも、私は文句を言ったその家電量販店で、その後三台のコンピューターを買ったのです。それは、私たちのところに直接謝罪に来た主任との約束でした。約束と言っても取引ではありませんから、私に守る義務はなかったのですが、私はこれからも彼の店をひいきにするから、きちんとした対応をしてくれと頼んだのです。もちろん、私は特権を使って法外な値引きをさせるようなことはしていません。普通のお客と全く同じ割引で商品は購入しました。しかし、その三台のコンピューターを買うにあたっても一悶着あったのです。最初の一台を「冬のボーナス一括払い制度」で購入したのですが、そのときに作らされたカードは二十万円以上の買い物には使用できないと二台目を購入するときに言われたのです。私はなぜ最初のコンピューターはカードで買えたのかと詰問しました。最初のコンピューターはもっと高かったからです。量販店側は答えに窮していました。要するに最初のコンピューターは何としても買ってもらいたいから、二十万円云々というルールを無視して販売してしまうのでしょう。私は、カードを作る時点でその話は聞いていないから今回の契約は無効だろうと主張して、警察まで立ち会わせて、その場で最初のコンピューターの契約を無効にさせました。買ってからもう三ヶ月以上は経過しているコンピューターはそのまま店側が引き取って、私は全く新しいコンピューターを含めて、全部で三台を現金で購入しました。
 私のやり方はいつも強引です。でも決して理屈に合わないことはしない。相手が理屈に合わないことを無理強いしようとすると、急にパワーが沸いてくるのです。お客を舐めた真似だけは絶対にさせません。店側の利益は十分に確保されているはずなのですから、お客に満足のいくサービスをしないなど、絶対に許せないのです。量販店というのは流通経路を工夫することで、とんでもない安価で大量に製品を仕入れてくるはずです。ですからいかにも大安売りに見えても、利益は莫大なのです。それにもかかわらず、消費者を騙すような真似をすることは絶対に許せません。しかも、コンピューターなどはほとんどのお客が詳しい知識を持っていないわけですから、頼りは店員だけということになるではありませんか。例えば、この秋・冬モデルの発売を前にして夏モデルを大安売りしたはずですが、それには特別な理由がありました。少し難しい話になりますが、秋・冬モデルからはCPUと呼ばれるコンピューターの記憶装置に当たる部分の装置が全く新しいものに変わるのです。それはコンピューター業界の革命と呼ばれるほどの大改革でした。しかし、一般の消費者はそんなことは知りませんから、「今がお得ですよ」という宣伝文句に乗って、夏モデルを安価で購入させられてしまったことでしょう。それはとんでもない大損です。実際には、秋・冬モデルも全製品が新しいCPUを搭載してはいなかったので、ほっとしましたが、現在もまだその事実を知らない消費者がほとんどではないでしょうか。表示の仕方が変わったことも知らない人が多いでしょう。ここでは詳しい説明は避けますが、新しいチップセットを装着しているコンピューターは、今までとは比べものにならないくらい作業の処理が素早くなっているはずです。消費者ももっと研究しないといけません。
 コンピューター業界では、新しいOS(オペレーティング・システム)がとっくに完成しているのですが、それを市場に出すのをわざと遅らせています。周辺機器の対応に時間を与えているようにも見えますが、実際にはすでに製造してしまったコンピューターの在庫をしっかり売りさばいてしまってからでないと、大損だからでしょう。そこで、現在は「○○○○○ズSP2」という名前で、現在のOSの修正版を出しています。これは今までのものと大差ないのですが、安全面での機能が強化されている。ところが次期OSは根底から今までのものとは異なるのです。それを商品化して販売が開始されてしまうと、今までのコンピューターは全く売れなくなってしまうわけですね。ずるいなあとは思いますが、向こうも商売だから仕方ないでしょう。私は次のコンピューターは、新しいOSを搭載したものが登場する来年から再来年にかけて購入するつもりです。

《はかなく散った若い命たち》
 お恥ずかしい話ですが、私は中学時代から社会科の暗記が苦手で、どうしても歴史などには苦手意識が払拭しきれず、高校時代も必死で日本史の勉強をすることがありませんでした。しかし、大学時代に先輩の薦めで故司馬遼太郎氏の著作になる「竜馬がゆく」全八巻を読んだことがきっかけになり、必死で歴史の勉強をするようになりました。国のために純粋な若い命を犠牲にしていった人々のおかげで、今の平和な日本があるのだと知った瞬間に、日本史は私にとって「教科」ではなくなったのです。私の専門は英語でしたから現代史には比較的詳しかったのですが、今では中学時代に詳しく学び損ねた昔の日本の歴史にも興味を持って、もう一度勉強し直しています。
 そんな中で、特に幕末の歴史は悲惨だと思いました。去年は新撰組がずいぶん話題になりましたが、近藤勇や沖田総司・土方歳三にしても、みな武士の身分を手に入れることを夢見て腐りきった幕府のために命をかけて戦った。考えてみれば、敵味方に分かれて戦った当時の若者達のエネルギーは、全て故国日本のためのものでしたから、強力な指導者が存在すればすべての若者達の英知とエネルギーを結集することも可能だったはずです。それが、倒幕だ佐幕だとグループに色分けされて無駄な殺生をすることになる。あの時代に失われた貴重な命が、もしそのまま存在していたなら、日本の近代化は百年も早く進んだのではなかったでしょうか。ある学者が言うには、明治維新で誕生した三菱財閥も、もし坂本龍馬が暗殺されていなければ、恐らくは坂本財閥になっていただろうと予測します。
 第二次世界大戦のときもそうです。真珠湾の奇襲攻撃で、アメリカの四隻の航空母艦が被害に遭わなかった時点で、日本の負けは決していたのです。そのことを一番よく知っていたのは、連合艦隊司令長官の山本五十六ではなかったかと言われています。彼はアメリカへの留学経験もあって、アメリカの大量生産の工場設備などもよく見てきていましたから、本格的に戦争を構えたら、日本がアメリカに勝利する確率はほぼゼロに近いことをよく知っていました。しかし、当時の日本政府はあくまでも戦争を遂行しようとした。ミッドウェー海戦を転機にして敗色が濃厚になった日本軍の状況も、国民には正確に伝えられることがありませんでした。いわゆる報道規制です。もちろん、この報道規制は現在の戦争でもまだ行われています。だからイラクの戦争にしてもアフガニスタンのそれにしてもテレビの報道を真に受けるわけにはいかないのです。
 アメリカ軍の沖縄上陸が近づいて、日本は特攻隊による無謀な作戦に出ました。空軍のパイロットたちは優秀な人材ばかりでしたから、死を覚悟して飛び立たせることは日本の将来にとっては莫大な損失だったのです。しかし、鹿児島の知覧からは毎日のように純粋な若者達が命を捨てに飛び立って行った。私はまだ知覧を訪ねたことがありませんが、すでに訪ねた妻に聞いた話では、知覧の記念展示館を見学したら涙無しで出口から出てくることはできないということでした。
 教員になる前にどうしても見ておきたくて旅をした広島の原爆ドームも、私にとってはとても大きなショックでした。平和記念館を見学したときには息が止まりそうな気持ちになったのを覚えています。教員になってから訪ねた長崎の原爆資料館も、同じように息が詰まるような気持ちで見学したものです。
 若い命が、なぜこうも軽く扱われなければならなかったのでしょう。子供や若者は国の宝です。大切なのはお金や財産ではなく、若いエネルギーなのです。そのことを無視した日本の歴史から、私たちは多くを学ばなければならないでしょう。しかし、現実の社会を見回してみれば、若者達を立派に育てようという雰囲気は微塵も感じられないではありませんか。立派な学歴を持った人たちが政治家になって国を動かしていながら、なぜこんな社会しか作れないのでしょう。私よりも日本史の成績が良かった人たちばかりが政治家になっているはずなのに、私にもわかるような歴史的な知恵が、どうして彼らには備わっていないのでしょうか。
 一月になると、新しい経済年度の予算を決める通常国会が開かれます。国の予算の多くが、どの分野に割かれるかを見れば、その国の政治家のレベルが知れます。現在の日本は福祉と教育に力を入れなければ成らない状況だと思いますが、果たして来年度の予算ではその分野の予算が増額されるでしょうか。まさか軍事費が増大することなどないでしょうね。使いもしない武器を自衛隊が何年にも渡ってアメリカから購入し続けてきたという話が新聞で報道されていましたが、国民の血税はしっかりした使い道に投入してもらいたい。

《「教育」の語源》
 誰もが知っているように、「教育」は英語では"education" となり、この単語の語源はラテン語で「本来持っているものを引き出すこと」という意味です。大学で教職教養講座を履修した人で、授業中に居眠りをしていなかった人なら、おそらく誰もが知っている事実でしょう。しかし、実際の教育関係者がやっている「教育」は本当に「子供達の持っているものを引き出す行為」になっているでしょうか。
 私の二十二年以上の教員生活で感じたことは、日本の教育はやはり「知識の切り売り」以外の何物でもないということです。ですから学校の先生達は、年度末までに教科書の内容がこなせるかどうかばかり気にして授業をせざるを得ません。教科書の内容を教えきれなかったら、無能な教師としてどんな批判を浴びるかわからないからです。多くの私塾の教育も似たり寄ったりです。確かに、問題の解き方を教えたり、知識をわかりやすく説明したりすることで、あたかも素晴らしい教育が行われているような錯覚に陥りますが、実際には埋もれた才能は山ほどもあるわけで、そこにスポットライトを当てない限り、日本の教育が大きく改革されることは絶対にないでしょう。私は、才能を埋もれさせることほど大きな罪はないと思っています。教育関係者は、素晴らしい教育をするという条件で、一般の労働者よりも恵まれた報酬をもらっているわけですから、子供達の才能を発掘できなければ、それは立派な契約違反です。
 子供達の才能は、ある一定の型にはまるものではありません。その子の個性を尊重しながら、いろいろな角度から刺激を与えていくことで、思ってもみなかった能力が開発されたりします。私は、そう言う意味では運動の方が能力を目に見える形で開発しやすいのではないかと感じています。実際、私のような素人の指導者が顧問をしていても、ソフトボール部の選手達の成長ぶりにはいつも驚かされるばかりでした。自分は運動神経がないと信じ込んでいた部員が、様々に工夫された練習をこなすうちに、一人前の選手に成長していくのです。ここで大切なのは「さまざまな工夫」という部分です。通り一遍の練習をしていたのでは、おそらく多くの才能は埋もれたままで終わってしまうでしょう。それが、練習方法をいろいろ工夫することで、想像もしていなかった能力が開発されることがよくあるのです。具体的な例をあげれば、足の遅い選手が早く走れるようになるためには、みなさんならどんな練習を工夫しますか。おそらく、スポーツに知識のない人は、足を鍛えることを考えるでしょう。ところが、よく研究すればすぐに気づくことですが、足は手の動きによって動くようにできています。つまり、手を素早く思いっきり振ることができるようになれば、自然と足も速く動くのです。そうすると、足を鍛えるのではなく、腕の筋肉を鍛えることを考えた方がいいという結論に達します。それが証拠に、オリンピックの短距離選手達の上半身を見て下さい。ものすごい筋肉ですね。あれは、上半身の筋力トレーニングに相当の時間を割いている証拠なのです。つまり、練習を工夫するときには「発想の転換」が必要になります。
 このことを、全ての教育分野にあてはめて考えれば、通り一遍の授業に満足している先生達は、もっと授業の方法に工夫を凝らす必要を感じなければなりません。「どうして何度教えても覚えないのだろう」と愚痴るようでは教師失格です。工夫がないから駄目なのです。例えば、人間の記憶のメカニズムを研究すれば、同時にいくつかの刺激があると、記憶はより鮮明になるという特徴がわかります。すると、例えば英単語を覚えるのに、黒ペンで単語カードを作ってしまうのではなく、わざと単語の一部(できれば間違えやすいスペリングの部分)だけを色違いで書くだけで記憶力は数段アップしてしまいます。こんな簡単な工夫で、いくらでも勉強は楽しくなるのです。
 勉強の楽しさを知れば、子供達は自分から進んで勉強に取り組むようになりますから、先生達の仕事は教科書の内容をこなすことではなく、子供達のそういう積極性を育てることにあるのだということに気づくでしょう。それがわかっていない先生達が実に多い。これは非常に大きな罪です。子供達は、成績の悪い自分は頭が悪いのだと信じ込んでしまいます。そもそも、学校の成績など、教科担当の作った基準で決められるものですから、極端な言い方をすれば全くあてにはならないものなのです。元教師が言っているのですから間違いありません。ですから、通知票に並んだ欲しくない数字を見て自信をなくしてしまうことの方がよほど恐ろしい。自分は駄目だと思いこむと、それはそのまま自己暗示になってしまいますから、何をやっても積極的に取り組むことができません。マイナスの自己暗示というのは実に怖いものです。私はよく冗談交じりに女生徒たちに言うのですが、毎日鏡の中の自分の顔に向かって、「あなたは本当にきれいよ」と本気で二週間ほど言い続けていれば、必ずきれいになると。これはプラスの自己暗示です。自分はきれいだと思いこむことで、女性ホルモンの分泌が刺激されて本当にきれいな表情になってくるのです。写真家はこの理論を用いて、グラビア写真を撮ります。「うん、いいよ、いいよ、きれいだよ、最高だね」と褒め言葉を繰り返すうちに、モデルの女性は本当に美しくなってしまうというのです。これは嘘ではありません。 根拠もないのにやたらと褒めることは決して良くないとは思いますが、子供達にいろいろな方法で自信を持たせ、「自分には隠れた才能があるんだ」と思いこませることは非常に大切です。そういう自己暗示にかかることによって、本当に眠っている才能が目を覚ますことがあるからです。
 考えても見て下さい。普通の人間は死ぬまでに脳細胞の3%ほどしか使わないのです。どんな天才でも10%ちょっとを使えばいい方だそうです。残った脳の大きな部分にどんな才能が埋もれたままになっていると思いますか。最近、英語の学習法で「速聴」という方法が注目を集め出しました。普通の二倍か三倍のスピードで英語を聴くのです。すると、何度も聴いた後に元のスピードに戻すと、ゆっくりとはっきりした発音で英語が聞き取れるようになっているという理屈です。実際に私も試してみましたが、これは本当に効果がありました。ただ、私個人としては速聴の副作用も多少は心配なので、自分自身の学習方法には採用していません。睡眠学習という方法も編み出されていますが、それも睡眠に及ぼす影響がわからないから少し怖い。サブリミナルという学習方法も、脳の深層心理に働きかける副作用が怖い。でも、どの方法にしても、まだ開発されたばかりだから私のように心配性の人間が敬遠するだけで、本当は素晴らしい学習法かも知れません。勇気のある人はぜひ試してみるといいと思います。サブリミナルという言葉がよくわからない人もいると思いますが、それは例えば普通の音楽のCDを流しているように思わせておいて、その音楽の合間に学習させたい項目を潜らせる手法です。意識して聞き取ることはできませんが、脳は確実に情報をキャッチしているのです。昔、映画館で映画フィルムの間においしそうにポップコーンを食べているコマをいくつか混ぜておくことで、休憩時間にお客さんが売店に押しかけてポップコーンを買い込むよう仕組まれたことがあって、それ以来サブリミナルを宣伝として使用することは禁止されてきました。しかし、実際には普段のテレビコマーシャルの中にもそれがまだあるかも知れませんね。話題は広がってしまいましたが、教育は変わらなければなりません。

《環境を破壊する行為》
 産業廃棄物の不法投棄が大きな社会問題になっています。罰則規定は平成十二年の法改正で厳しくなって、「五年以下の懲役または一、〇〇〇万円(法人には一億円まで加重ができる)以下の罰金」ということになっているようです。法律では、産業廃棄物については事業者が自ら処理するか、許可を持つ処理業者に委託して処理しなければならないことになっているそうです。しかし、不法投棄は依然として後を絶つことがありません。
 四国のある島では、産業廃棄物の不法投棄(埋め立て)が長年続いた結果、有毒物質が地上に流れ出す状況まで出てきて話題になりました。これは原子力発電所と同じで、実行する人物なり業者は、決して自分の居住地域を避けるということです。例えば、原子力発電所は絶対に安全だと主張しながら、決して東京のど真ん中に建設することはない。その結果、予算的に厳しい地方の町村に多額の援助金を出すことと引き替えに、建設候補地になることを承諾してもらっているという有様です。危険があるから、街中に作る訳にはいかないわけで、こんな矛盾したことが堂々と行われている日本ですから、産業廃棄物の不法投棄など起きない方が不思議でしょう。
 中学生の公民の教科書には、地方自治体の義務として「公衆衛生」が紹介されています。そして、その同じページに四大公害が紹介されている。水銀やカドミウムの垂れ流しによって起きた歴史的な水質汚染。カナダのセントローレンス川でも工場排水に含まれる水銀が原因で水俣病と同じ症状が原住民インディアンの間に起きて、代表者が水俣まで視察に来たこともありました。工場側は排水内に含有される水銀と水俣病との関連性を頑強に否定して来ましたが、長い裁判の末にやっと公害病として認められた苦いいきさつがあります。産業廃棄物の不法投棄は新たな公害をもたらす危険性を秘めているのに、なぜゴミ処理の費用を浮かすという自分勝手な理由のために、環境を破壊するような行為を簡単に犯してしまうのでしょう。
 地球の温暖化を食い止めるために、各国の二酸化炭素の排出量を規定した京都議定書にアメリカがなかなか首を縦に振りません。自国の利益を守るためなら、地球環境はどうなってもいいということなのでしょうか。そういう観点でアメリカ政府の行動を見ると、仮性移住計画を夢中になって推進している理由は、やがては地球を見捨ててアメリカ人だけが別の惑星で新たな歴史を築き始める計画の一環だろうと勘ぐりたくもなるものです。自分たちの都合を優先する時代はすでに終わったのです。もはや世界に国境はなく、地球規模の環境問題に協力して取り組まなければ成らない時代になりました。二酸化炭素の削減のためなら、私たちも多少不便な生活に我慢しなければなりません。それができなければ産業廃棄物を不法投棄する業者と発想の上では少しも変わらないことになってしまいます。 海岸に流れ着く大量のゴミ。ゴミの国際化も進み、ラベルに書いてある文字は読めないことも多くなりました。そのゴミの中に、大量の注射器や注射針が混じっていることを想像してみて下さい。子供達を安心して海岸で遊ばせることができるでしょうか。私たちが想像もしないような危険な毒物が、もしかしたらこの瞬間にも海洋投棄されているかも知れないのです。有害物質をたっぷり体にため込んだ魚が、私たちの食卓の上に乗るとしたらどうですか?産業廃棄物だけでなく、一般ゴミの不法投棄ももはや他人事ではなくなりました。
 環境問題に関する意識が高まったおかげで、確かに河川は徐々にきれいになりつつあります。しかし、まだまだできることはある。各家庭が食器を洗う際に、油を拭き取ってから水で流すだけでも、川の汚染にストップをかけることができるのです。そういう努力を、それぞれの責任で行わなければならない時代になったということです。さもなければ、いつかはこの地球は人間が住むことのできない惑星に変わり果ててしまうかも知れません。 冷蔵庫や自動車のエアコンに使用されていたフロンガスが、大気の外側のオゾン層を長年にわたって徐々に破壊してきた事実に私たちが気づかされたのはいつだったでしょう。もう少しで手遅れになる寸前だったではありませんか。それを思えば、今現在も恐ろしい破壊行為が私たちの知らないところで徐々に進んでいるかも知れないのです。
 地球は私たち人類全ての家です。そして、私たちには将来の子供達にきれいな地球を渡す義務がある。大袈裟な言い方に聞こえるかも知れませんが、私たちの小さな努力の積み重ねが、大きな結果につながるのは確かです。日本人が割り箸を使うのをやめるだけでも、熱帯雨林は守られるでしょう。山菜採りに山に入ったら、転んで手をついた瞬間に、手に注射針がささって、それが原因でエイズにかかってしまうということだって起こりえるわけです。何も、山で熊に襲われるだけが、山の危険ではない。危険な熊は人間の勝手で撃ち殺すこともできるかも知れませんが、不法投棄された廃棄物はそう簡単に処理することはできません。
 このまま不法投棄が続いて自然が破壊されれば、本来自然の中で暮らしていたはずの動物たちが、街中に移り棲まなければならなくなるかも知れません。今現在も、凶暴化するカラスや鳶に戦々恐々としている有様ではありませんか。カラスも鳶も生きるために仕方なく人間を襲っている。自然界は弱肉強食ですから、「人間に敬意を払え」などと叫んでも、野生の動物たちには何の効果もありません。彼らは生きる本能に従って行動しているだけだからです。
 自分勝手な産廃物の不法投棄は、やがては墓穴を掘る結果になることを考えましょう。

《ルールのない戦争》
 そもそも戦争にルールが存在することを期待する方が間違っているとは思いますが、戦争にも本来は超えてはならない一線があったはずです。例えば、救急車両は攻撃しないとか、病院は標的にしないとか、捕虜は人道的に扱うとか、そういうルールです。しかし、実際には殺すか殺されるかと言う戦場で、そんな悠長なことは言っていられないのが戦争でしょう。私は戦争を知らない世代ですし、まただからといって反米思想を強く抱いた人間でもありません。自衛隊は絶対に反対だなどと声高に叫ぶつもりもない。
 しかし、例えば湾岸戦争を例にとってみましょう。アメリカは戦争の度に新しい兵器を実験してきたと言われています。例えば、アフガニスタンでの戦争ではMOABという通常兵器では最も破壊力が大きいとされる爆弾が使用されました。"Mother of All Bombs"(全ての爆弾の母)というのが正式な名称だとばかり信じておりましたら、それはニックネームであって、正式名称は"Massive Ordnance Air Blast" (超大型燃料気化爆弾)なのだそうです。そして、イラクの湾岸戦争では大量のクラスター爆弾が使用されました。クラスター爆弾はカプセル型の爆弾で中にいろいろな種類の小型爆弾を大量に装備して、爆発と同時にその小型爆弾を散乱させる仕組みになっています。湾岸戦争の場合はその子爆弾の中で不発弾となったものが、地雷の役目を果たすことになりました。子供達が遊んでいて、その不発弾に触れると爆発するのです。何と恐ろしいことでしょう。その恐ろしい爆弾を日本も数年に渡ってアメリカから購入していたという事実がすっぱ抜かれましたが、日本は何の目的でクラスター爆弾など購入していたのでしょうか。まさか、海岸線に上陸してくる敵めがけて、落とすためですか?そんなことをしたら、砂に埋もれた不発弾が永久に地雷となって、海岸を危険地帯に変えてしまうだけでしょう。
 劣化ウラン弾も戦車攻撃用の砲弾として使用されました。劣化していてもウラン弾ですから、当然放射能をまき散らします。その結果、劣化ウラン弾が使用された戦場の近くでは、奇形児が大量にお産されたという事実が大きく報道されました。イラクの女性達がどれほど悲しい思いをしてきたことか。それは正義のための戦争というスローガンによって正当化されてしまうのでしょうか。
 「ダウンウィンドピープル」という言葉を知っているでしょうか。これは、「風下の人々」つまりアメリカの砂漠での核実験の放射能被害にあった一般の人々のことです。アメリカでは国内でも兵器開発のために犠牲になってきた人々がいる。世界初の原子爆弾があら語モード砂漠で炸裂したとき、キノコ雲に向かって進軍演習をした兵隊達の中には白血病を発病して死んでいった人たちも大勢いたと聞きます。
 イラクの情勢は現在もまだ安定していません。おそらく今後数年に渡って、不安定な時代が続くことでしょう。そして、やがては第二のフセイン政権が誕生するかも知れない。それは最初は親米政権かも知れませんが、やがてはアメリカに牙をむくようになる。アメリカが必死になって追っているオサマ・ビンラディン氏でさえ、かつてはアメリカの傘下にいた人物なのですからね。イラクのテロリスト達を一掃するために、現在では堂々と無差別爆撃が行われています。イラク政府がアメリカと共同で行っている作戦だから、文句は言えない。でも、テロリストが潜伏している地域には一般住民も当然住んでいるわけで、その人達が犠牲になることは「仕方のないこと」という前提で攻撃が続けられているのです。なぜ世界はこんな非道な行為を許しておくのでしょう。イラク人の手によるイラク人自身の政権でないから、暴動が起きる。与えられた自由など誰もありがたがらないのです。 マスコミの報道規制もあって、フセイン大統領や金正日総書記は世界最大の悪者にされていますが、果たして本当にそうなのかどうかは誰もわからないはずです。直接本人達と話したことがないのですから、報道をそのまま信じるわけにはいきません。どの国も、自分の国に都合の悪い報道などするわけがないからです。それは子供達が、家に帰ってから自分に都合のいい話だけを親にするのと一緒です。
 世界の地雷を全て撤去しようというスローガンのもとに、多くの人々がこの地雷撲滅キャンペーンに参加してきました。故ダイアナ妃もその一人でしたね。しかし、地雷を敷設した人間達は、また別の形で世界の別の場所に地雷を敷設している。金属探知器で探知できる地雷ならいいですが、木製の地雷だったらどうしますか?子供達が公園で遊んでいて地雷の被害にあって片足を失ってしまうという事件が、もしこの日本で起きたとしたら、国を挙げての大騒ぎになることでしょう。それなのに、東南アジアで毎日のように起きている地雷の被害には、これ以上ないくらい日本人は鈍感です。
 私は、以前グラウンドに飛び出した金属の先端部分を発見して、びくびくしながら掘り出した経験がありました。まさかこんなところに不発弾などあるわけないとは思いながら、次の瞬間には天国に行っていたなどということもあるのかなあなどと考えて、びくびくしていたのです。結局は、掘り出してみればそれはテニスの柱を支えるための鎖を止めるための杭でした。あの恐ろしさの数百倍の恐ろしさに耐えながら、畑で仕事をすることを考えるとぞっとします。
 もうこれ以上無益な殺し合いはやめにしましょう。戦争で出してしまった多くの犠牲者のためにも、私たちは彼らから命の尊さを学ばなければならないのです。そうでなければ彼らの死はただの「無駄死に」です。

《弱い人間って誰のこと?》
 私が初めて精神科の医師にかかったのは、教員になってから二年目の秋でした。当時は自分で会話教材を作りながら授業を進めたり、慣れない軟式テニス部の顧問に熱中したり、生徒会を担当したりと、慣れないことばかりの連続で本当に疲れ切っておりました。特に会話教材を自主編成した授業は、地域の私塾が中心になって反対運動を起こされていて、教育委員会からも視察に来るなど、踏んだり蹴ったりの状況だったので、抱えていたストレスはものすごく大きかったのです。九月に入ってから、気力も体力もゼロの状態が続きました。「うつ」という病気には幸い少し知識があったので、もしかしたら自分の状況がそれにあたるのではないかと思い、思い切って精神科の門をくぐったのです。結構勇気のいることでした。医師の診断は「うつ形質により、二週間の療養を要す」というもので、結果的には私は二週間プラス二週間で、合計一ヶ月間の療養休暇をもらうことになりました。しかし、あのときの症状が本当に鬱だったのかどうかは今でもよくわかりません。なぜなら、一ヶ月の服薬治療の後で仕事に復帰したときは、療養休暇に入る前より厳しい状況だったからです。
 私が二度目の療養休暇をとったのは、それから何年もたった、やはり秋のことでした。このときは本当に鬱だったかも知れません。夏休みは朝から晩までソフトボール部の練習に明け暮れし、普段も夜遅くまで教材研究や学級通信書きに夢中になっていて、ほとんど睡眠時間をとっていなかった私は、体力的にはとっくに限界を超えていたのでしょう。そこへ、当時七人しかいなかった部員のうち四人が退部を申し出てきた。人数が足りないチームで何とか勝利を手にしたいという強い思いが空回りしたのです。子供達にはずいぶん過酷な練習だったことでしょう。その前のチームが湘南ブロックで優勝して県大会に出場していたので、私は次の人数不足のチームにもいい思いをさせてあげたかったし、自分自身も人数が足りなくてもいいチームを作ったと言われたかったのだと思います。実際、部員がやめていなければ相当の活躍をしたはずのチームでした。彼女たちには、本当に申し訳ないことをしたと、今でも後悔しています。もっとゆっくり歩んでいれば、みんな精神的に追い込まれることなく、いいチームが完成していたでしょうに。彼女たちがやめたのは二年生の夏が終わったときで、次の年の一年生は十名も入って来ましたから、本当にもったいないことをしました。私は、部員達が実の娘のようにかわいかった。それだけは本当なのです。しかし、相手は所詮は中学生。厳しい要求ばかりが続けば、顧問の愛情を信じられなくなるのも仕方ないことでしょう。保護者も私に対する信頼を捨ててしまったようでした。私は大切な娘を同時に四人も失ってしまったとき、離婚のときのトラウマが重なったのだと思います。「大切な人間は結局は自分の元から去っていく」そう思った瞬間に体中から力が抜けていったのです。療養休暇をとらずに頑張ることもできたかも知れない。それでも私は逃げてしまいました。今回は二ヶ月間の長期にわたる療養休暇でした。そして、その休暇は私の教員としての自信を奪うのに十分な長さでもありました。「自分は、いくら頑張っても、最後にはこんな無様な状況に陥ってしまうのだとしたら、教師として失格だ」そう言って、自分を何度も何度も責めました。私は、自分が理想としていた教師像を実現できない自分が絶対に許せませんでした。そんな自信喪失の状態で、その学校での十年間の勤務が終わり、転勤です。
 次の学校ではもうソフトボール部を担当する気はありませんでしたが、グラウンドで頑張っている子供達の姿を見ているうちに、引き込まれてしまいます。やはり、教師なのです。子供達の魅力にはかなわない。私はもう一度ゼロから頑張ろうと思いました。やめさせてしまった四人の部員達のためにも、勝つことを知らない新しい学校の部活動で、もう一度頑張ろうと。一回戦負けのその学校のソフトボール部は、突然厳しくなった練習に耐えきれずに、二年生部員が半分もやめてしまいましたが、二年目で県大会のベスト8に躍進する快挙を遂げました。三年目の夏には県大会で銅メダルを獲得しています。しかし、短期間でそれだけの変身をするということは顧問にも部員にも相当な無理があったことは確かです。しかし、私は学校内の仕事には何にでも一五〇%全力投球で頑張り通しました。その結果、五年目にしてまたエネルギーゼロの状態を経験します。そのときは三年生を担任していたので、医者に相談して薬でごまかしながら何とか卒業まで頑張ってしまいましたが、新しく一年生を担任した六月にはやはり一ヶ月の療養休暇を取らざるを得ませんでした。その年は、そのまま夏の部活動も無理してしまったので、秋には更に一ヶ月間の療養休暇です。翌年の二年生のクラスを担任したときには、四月にまた似た状況に陥ったので、そのときは一大決心をして学校長に退職願を提出しました。もうこれ以上情けない醜態をさらしたくはなかったからです。しかし学校長と市教委の取り計らいで、三ヶ月間の療養休暇をとるという形で、もう一度よく考え直せということになり、九月からはまた勤務に復帰したのです。それからはまた順調に事が進むように見えましたが、翌年に担任した一年生の学年のときにある事件が起こり、県教委とその件でもめている間にまた三ヶ月間の療養休暇をとらなければならなくなってしまいました。自分自身はもう開き直っていましたが、保護者からは完全に信用をなくしてしまったことは間違いありませんでした。その当時の県教委とのやりとりを知れば、周囲の人たちも私の置かれていた苦しい状況を理解してもらえたかも知れませんが、それは話すわけにはいかなかった。私は自分自身に幻滅すると同時に、腐りきった教育界にも幻滅したのです。翌年、無理矢理新しい学校に転勤させられた私を待っていたのは、慣れない仕事の山でした。県教委に楯を突いた私はきっと嫌がらせをされているのだろうと思ったくらい、私の苦手な分野の仕事ばかりが私に回ってくるのです。それはコンピューターのデータ処理と視聴覚の仕事でした。私は機械音痴を自称していて、自宅のビデオで録画の予約もできないような人間でしたから、そのストレスはどれほど大きかったことか。しかし、私は「自律神経失調」の治療を続けながら歯を食いしばって頑張りました。絶対に負けたくなかったので、回ってきた仕事は二つ返事で快く引き受けました。そして、睡眠時間を削って学習に学習を続けた挙げ句、コンピューターも視聴覚機器も、自由に操れるようになったのです。誰よりも優れた技術を身につけた自分がとても誇らしくもありましたが、腐った教育界と同僚たちにはもう嫌気がさしていましたので、結果的には二十二年と三ヶ月間の教員生活に別れを告げてしまいました。「短気」だと責められるかも知れませんが、私は自分をいくら犠牲にしても結局は頑張りを認めてもらえない教育界には、本当に心底嫌気がさしていたのです。周囲で出世していく同僚達は、決して無理な生活をせずに上手に教員生活をやりくりしていた人たちです。もちろん彼らも頑張ってはいたけれど、私のように自分の限界を超えてまで仕事をするというタイプの人間はいなかった。私はいずれはそういう仲間達の下で働くことになるのかと思うと、それも我慢できない気がしたのです。
 教師をやめてからの私は、とにかく生活費を稼ぐためにあらゆる事に積極的に挑戦しています。周囲から見れば大変な仕事量かも知れませんが、教員時代の生活に比べたらこれでもはるかに楽なのです。私にとって、二十二年と三ヶ月の苦労の教員生活は決して無駄ではありませんでした。もちろん、教員時代の給料を稼ぐにはまだまだ時間がかかるでしょう。でも私は、決して負けずに頑張り抜こうと思うし、絶対にそうできる自信があります。いえ、それが実現できなければ家族を養っていくことができないのですから、絶対に倒れるわけにはいかないのです。
 こんな私は、「弱い人間」なのでしょうか、それとも「強い人間」なのでしょうか。本来の私は、母親譲りの非常に気の強い人間です。大きな壁には果敢に闘いを挑んでいくような好戦的な人間でもあります。強く出てくる相手には、非常に攻撃的でもあります。でも、弱い立場の人たちには絶対的に優しく接します。これも母親譲りかも知れません。私は今でも心療内科に通っていますが、自律神経失調の症状は非常に落ち着いています。しかし治療費はただです。薬代を請求されることもありません。それは私の病が国家認定されているからです。普段の私の仕事ぶりを見たら誰もそんなことは信じないかも知れませんが、実際私は毎日薬を飲み続ける生活をしているのです。飲まなくても大丈夫な状態にまでは回復しているのですが、車の運転中に気を失って電信柱に激突したり、バイクで転倒してERに担ぎ込まれたり、担当医としては安心して手放すわけにはいかないのでしょう。
 そんな心療内科の待合室には、自信を喪失した多くの人々ががっくりと肩を落として、診察の順番待ちをしています。恐らくは、彼らの多くはA型かO型の血液型の持ち主で、仕事にまじめで責任感が強く、常に他人に気を配り自分に無理をしてしまう性格でしょう。こんな言い方をしたらとても失礼かも知れませんが、心療内科を訪れる患者の中に、自分中心の生活を大胆に送ることができるB型の人間はいないと思います。最初にお世話になった某国立大学付属病院の精神科の医師も同じ事を言っていました。
 彼らはみな「弱い人間」なのでしょうか。おそらく周囲の人たちは、彼らを「弱い」と決めつけて馬鹿にするかも知れません。それだからこそ彼らは自信をなくしてしまうのです。でも、私のように自分の病気と上手に付き合っていこうと開き直ってしまえば、自信をなくす必要など全くないのです。自分をとことんまで追い込んでしまう人間しか、この病気にはかからないのですからね。決して自信をなくす必要などない。私の場合にも、普通の「熱血教師」を演じているぶりには、絶対に体調を崩すことなどなかったはずです。しかし、とことんまでやらなければ自分を許せなかったからこそ墓穴を掘ってしまった。それは私の自己管理の甘さでもあり、未熟さでもありました。ですから、今の私は睡眠時間を上手にコントロールしながら大量の仕事をこなすように努力しています。私のような開き直った人間の生き方を見て、「待合室の人々」にもぜひ自信を取り戻してもらいたい。 有名な哲学者のソクラテスは「無知の知」を説きました。つまり、本当に賢い人間は自分が何も知らないということを悟った人間だということなのです。その言葉を応用すれば、本当に強い人間は自分の弱さを知っている人だということになります。そしてそれは事実でしょう。「自分は強い」と思いこんでいる人は、いつか大ピンチに立たされて初めて自分の弱さを知り、そのときには立ち直れないほどのショックを受けるのです。ところが、自分の弱さを知っていて上手に自分の生活をコントロールすることができるようになった人は、崖っぷちに近寄らない知恵も身につけている。そういう人間が本当に強いのではないでしょうか。
 ある有名な作家は、自分が「躁鬱病」であることを知った上で、自分が躁状態のときにできるだけ作品を書くようにして、上手に自分の病気と付き合っていると聞きました。自分の弱さを公表できるのは強い証拠です。

《ギャンブルの功罪》
 今はすっかり足を洗っていますが、私はパチンコが大好きでした。性格上とことん夢中になるタイプなので、私はどの台が何曜日によく出るか統計を取っているうちに、その店のコンピューターのインプットのパターンを発見して大もうけをした時代もありました。ところが、一時期駐車場に置いた車の中で年端もいかない赤子を死なせる事件が連発し、パチンコ台もいわゆる「一発台」が姿を潜めて、あまり儲けのない台へと切り替わってしまいました。今の台は、損をするときは大きいけれど、それを一発で取り戻すのは大変です。昔なら、一日で二十万円以上の黒字を出すことも可能でした。実際、私は二十五万円以上の黒字を出したことが二回もあります。元では五千円前後ですから、これではパチンコにはまってしまうのも無理はないでしょう。 今はパチンコにはまって、民間の金融業者から借金を重ね、家庭を破滅に追い込む主婦たちが社会問題になっていますが、パチンコはお金が儲かるチャンスの場であるばかりでなく、その独特の雰囲気がストレス解消にもってこいなのです。勝っても負けてもまた来たくなってしまう。「もう今日でやめる!」と一大決心をしても、翌日にはすっかり気分一新しているのがこのギャンブルの特徴だとも言えるでしょう。世間は、パチンコに夢中になる人たちに冷たい視線を投げかけますが、彼らがお金を使ってくれるおかげで、立派な不景気対策になっているという事実も忘れてはなりません。「金は天下の回りもの」という諺がありますが、経済的な観点からしても一般庶民がどんどんお金を使ってくれないと、資本主義経済は行き詰まってしまうのです。
 ギャンブルが罪悪視される一方で、国は公営ギャンブル場に対しての投資をやめません。テレビでは競輪・競艇・競馬の宣伝が盛んに行われている。考えても見て下さい。負けたときの金額はパチンコの比ではないのですよ。公営ギャンブルにはまってしまったら、それこそ財産をつぶしてしまいます。それなのに国は公営ギャンブルを奨励する。ある地方自治体の首長は、ギャンブル場を街の中心に作ると公言して、住民から大批判を被りました。彼はギャンブルのもたらす経済効果を十分に知っていたのでしょうが、ギャンブルは金持ちだけが参加をするわけではないし、多くの場合泣きを見るのはお金を大して持っていない人々なのです。パチンコもそうですが、十万円ぐらいの損失を覚悟して勝負に臨まなければ、大もうけはできない。二万円負けたらもうふるえが来てしまうような人は、絶対にギャンブルには手を出さない方がいいでしょう。損をした分は必ず取り返すくらいの気概がなければ、ギャンブルで勝者になることはできないのです。私がパチンコで大もうけをしていた頃は、九万九千円までは負けてもいいという覚悟でやっていました。つまり最後の一発逆転で十万円ぐらいなら稼げる自信があったからです。でも、家庭を持った今はそんな大胆な勝負に出るわけにはいきませんから、パチンコをやる意味もなくなってしまいました。けちけちやるパチンコなら、やらない方がずっとましだからです。これはあくまでも私の個人的な見解ですけれどね。
 人間は本来一攫千金を夢見る生き物ですから、こんな不景気な時代には、宝くじ売り場とギャンブル場が大繁盛するわけです。そういう人間心理を巧みに利用して国が経営しているギャンブルなのですから、ギャンブルにはまって家庭や身を滅ぼす人々を一方的に悪者にしてはいけないのではないでしょうか。彼らのおかげで、ギャンブル場は常に黒字を保っていられるわけなのですから、国は何らかの救済措置を施すか、あるいは負けの金額を制限すべきです。負けが込んでいる人にはギャンブル場への立ち入りを一定期間禁止するとか。そして、世間の人々も経済的な仕組みをもっと勉強して下さい。不景気を停滞させている原因は、ギャンブルで大損している人々を一方的に批判して、自分自身は必死に貯蓄に走っている一般庶民にあるのです。日本人は世界一貯蓄好きだと言われていますが、お金は動かさなければ価値を生み出さない性質を持って日銀から発行されています。貯蓄をすることは堅実でとてもいいことだとは思いますが、みんながお金を使わなくなったら世の中の経済は停滞してしまうのです。倒産する会社が続々と現れ、小売店も経営を続行することが不可能になってきます。使ったお金は、結果的には給料となって自分に戻ってくるものなのです。ですから、国民がある程度の覚悟で消費に走らないと、この不景気を抜け出すことはまず不可能でしょう。また、政府も不景気の時には減税を持って対処するという原則をしっかり実行して欲しいと思います。減税なくして国民の消費欲をかきたてることはできません。経済にはルールがあります。絶対に崩せないルールが。

《子供の前で絶対にしてはいけないこと》
 これから書くことだけは、日本中の大人達にぜひ守ってもらいたいことです。それは、子供達の前で絶対に大人同士の批判を市内でもらいたいということなのです。
 昔はそれほどなかったと思いますが、女性の地位が向上したことで、家庭内での妻の発言力もかなり強くなりました。なかなか出世できない旦那さんのことを、子供の前で平気で避難する奥さんも多いようですが、なぜ父親の権威を失墜させるような言動を、母親が進んでとってしまうのでしょうか。世の中に出れば思うようにならないことがたくさんあります。ましてや、会社での出世となれば、上手に鞄持ちもしなければならないし、急速なIT化の時代に追いつく努力もしなければならない。コンピューターとは縁のない生活を送っていた人たちが、ある日突然端末の前に座らされて何ができると言うのでしょう。もちろん十分な研修の時間を与えてもらえれば別ですが、長引く不景気の時代にそんな余裕が企業にあるはずもありません。そうすると、父親達は疲れた体にむち打って、夜中に自宅で勉強しなければならなくなります。コンピューターの勉強は、そんなに簡単ではありません。しかも、正直な人であればあるほど、他人を蹴落として出世をすることなどできるわけないではありませんか。そういう根性の悪い亭主が希望なら、最初からそういう人を選べば良かったのです。しかし、若い恋愛時代はご主人のそういう純情さに惹かれたのではありませんか?どんなにうだつが上がらなくても、「私たちがこうして生活していけるのは、お父さんが一生懸命働いてくれているおかげなのよ」という教育を子供にできないとしたら、完全に母親失格でしょう。
 また、子供達の前で塾の悪口を言う学校の先生や、学校の悪口を言う塾の先生がよくいますが、これも非常にけしからん事です。お互いに立場が違うのですから、相手の苦労などわかるはずもありません。どちらの立場も経験したことがある私のような人間は、決して相手の批判を子供達の前ではしないものです。私はそのことを中学時代の塾の先生から教わりました。元々は女子高で数学の教師をされていたその先生は、私たちが塾で学校の先生を呼びつけにして悪口を言っていると、本気で怒って竹の鞭で手首を思いっきりしっぺされたものです。竹の鞭の使用はあらかじめ親から許可を得ていたことなので、決して保護者から「体罰だ」などという苦情も来ない。私たちは、塾の先生から叱られるものですから、本当に悪いことなのだと納得させられました。大好きな塾の先生でしたからね。 それが、今の先生達は、立場の違いを無視してお互いの悪口を言い合っている。文句があるのなら堂々と言えばいいのですが、それを子供達の前でするところが卑怯だと思うのです。子供達はどう反応していいかわからなくなってしまいます。私も学校の教師になる前の四年間を塾の講師として過ごしましたが、学校のやり方に疑問があるときは、直接中学校の職員室を訪ねました。そして、担任の先生にどういうつもりなのか問いただしたものです。だから、教師になってから、子供達から塾の先生が文句を言っているという話を聞くと、いつも言っていました。「その塾の先生に石山先生からの伝言だと言って伝えなさい。学校の悪口を陰で言っているようでは大した人間ではない。言いたいことがあるのなら堂々と学校の職員室に殴り込みをかけるくらいの気概を持ちなさいとね」もちろん、私は塾の悪口など言ったことはありません。なぜなら、学校の先生よりももっと熱心な先生が塾にはたくさんいることを知っていたからです。それにしても塾の先生ももっと自分の分をわきまえないといけない。主役はあくまでも学校であって、塾は補助的な存在です。その補助役が学校を批判したのでは、損をするのは子供達なのです。
 基本的にお互いによくわかっていないのは、学校の教師と塾の先生との間には決定的な違いがあるということです。それは「成績をつける権利」です。これがないから、塾の先生は子供達の味方でいることができる。もし、塾の先生達にも成績決定権があったなら、子供達とは友達同士のような親密な関係は簡単に築くことはできなかったでしょう。でも、成績決定権をもちながらも、生徒達から厚い信頼を寄せられている先生方もいるのです。そう言う先生達には、立場の違いを乗り越えて敬意を払うべきです。私は現在は塾の講師ですが、学校の先生をほめると、子供達も本当に嬉しそうな顔をします。子供達が学校の文句を言ったときには、先生達の苦労を話して聞かせてあげると、素直に納得してくれもします。私だからできることなのかも知れませんが、子供達にはそういう風に接するべきなのです。もちろん、子供達に言うことと私の腹の中は必ずしも同じではありません。
 私は自分に対しても厳しい評価をしますが、先生と呼ばれる立場の人たちにも非常に厳し見方をします。塾の先生も学校の教師も、お互いの批判をしている暇があったら、もっと自分の足下を固める努力をするべきです。なぜなら、私のような未熟者から見ても、全くお話にならないような知識しか持ち合わせていない人が多すぎるからです。勉強不足も甚だしい。そんな状態でよく「先生」という看板を背負っていられるなあと感心してしまいます。世の中には有能な人々がたくさんいます。そういう人たちを見れば、自分の存在などまだまだちっぽけだということがよくわかるでしょう。それもわからずに偉そうな事を言っているのだとしたら、その人は基本的に教師失格なのです。「先生」と呼ばれる人たちは、もっともっと自分自身に対して厳しい目を向けなければなりません。
 夫婦がしょっちゅう仲違いをしていると子供がまともに育たないとよく言われますが、大人同士が批判している環境の中で育つ子供達も、どこかゆがんだ人格の持ち主に成長してしまう危険性があります。少なくとも人間不信に陥ってしまうのではないでしょうか。立場が違っても、立派な人は立派なのです。どんなに嫌いな相手でも、立派な行動は立派な行動なのです。素晴らしいことは素晴らしいと素直に評価する態度を、子供達の前でたくさん見せてあげてもらいたい。そうすればやたらと批判的な子供達の数も減ることでしょう。
 親が学校に対して批判的だと、子供達も素直な気持ちで先生達の言うことに耳を貸さなくなります。それは非常に損なことだとは思いませんか?成績が下がるからではなく、他人の言うことに謙虚に耳を傾ける姿勢を持たずに社会に出たら、つまはじきにされるのが落ちだからです。子供達の幸せな未来を本気で願うのなら、今すぐに子供の前で大人の批判をすることをやめましょう。

《何様のつもりですか?》
 私は公立の中学校に嫌気がさして退職した人間ですから、別に学校をかばう義理はないのですが、これだけはどうしても納得がいかないので言っておきたいと思います。
 ここ数年、学校の教師の揚げ足取りをしては正義感を誇張している母親のグループの活動が目立つようになりました。ある学校では、そういう団体の圧力で、管理職が学年職員の半分を転勤させたという事実も起きています。特定の先生に関する根も葉もない噂を子供達に吹き込むグループもあると、子供達から直に訴えられたこともありました。子供達曰く「あのおばさんたち、先生達の悪口ばっかり言っててむかつく」だそうです。
 どういう動機でそのような活動に夢中になっているのかは知りませんが、公の場で根拠もないことを吹聴するのは明らかに刑法の名誉毀損罪に該当します。私もあることないことを公の場で吹聴されたことがありましたが、相手が生徒の母親達だからということで大目に見てやりました。そうでなければ、名誉毀損で絶対に訴えていたと思います。私も調べられる限りは調べてみたのですが、どうも背後に特定の政治団体がいるような気配です。最近急速に人気を得てきた政治団体ですが、学校の先生達を突き上げて何が始まると言うのでしょうか。
 他人を批判するのは簡単です。学校の先生達のやっていることがどうしようもなく不出来に思えるのなら、自分たちが教壇に立って教えてみればいいではありませんか。「ババア、うぜえんだよ!」と唾を吐きかけられても、笑顔をたたえて「悪いのはあなたたちじゃないのよ。社会の大人達が悪いの」と言ってあげたらどうですか。子供達がどんな行動に出るか見物です。私はそういう団体の人たちにぜひ言いたい。まずは、何か言いたいことがあるのなら、直接本人に言ってきなさいということ。そして、もう一つは、子供達の世界はあなたたちが考えているほどピュアではないということです。
 確かに、今の子供達の生活の乱れの原因の一端は、不道徳な大人達にあるかも知れません。しかし、先生達の苦労も知らずに一方的に責め立てるあなたたちの行為も、大人としては不道徳なのです。まあ、そういう人たちにはこんなことを言っても焼け石に水なのでしょうが、「子供の人権を侵害するな」とか「管理教育はやめろ」などと言われても、子供達を育て損なったのは、学校の先生達ではないのです。文句を言うなら、まともに子育てもできない親たちに言うべきではないでしょうか。それに、他人のことを云々する前にあなた達自身の子供達は大丈夫なのですか。親が勝手な動きをしていることで、本当はとても肩身の狭い思いをしているのではありませんか。おそらく、自分の子供達が学校でどんな生活を送っているかも、あなた達はよく知らないのですよね。そういうアンテナは極端に鈍いのがあなたたちですから。
 私の同僚の一人は、親たちに突き上げられて学級懇談会で平謝りをしたそうです。彼はとても熱心な教師です。なぜそんな彼にやる気をなくすような仕打ちをするのでしょう。しかも、親の訴えを聞いた管理職が、部下を守ろうともしなかったというのですから、もうルールもへったくれもあったものではありません。私の別の同僚は、管理職から「保護者がうるさいから転勤してくれ」とはっきり言われたそうです。どうしてそんな腹の据わっていない人間が管理職になれるのか不思議でなりません。まあ、今の管理職や教育委員会のメンバーのほとんどは、上手に鞄持ちをすることと、親から批判を買うような派手な動きをしないことと、出世をすることを第一に考えて教員生活を送ってきた人たちばかりですから、今さら彼らの不甲斐なさを嘆いたところでどうにもならないわけですが。
 私は、公立の学校はもっと堂々と教育方針を打ち出すべきだと思います。そして、親たちは文句を言わずに学校に協力すべきだと思います。何かちょっとでも気にくわないことがあるとすぐに教育委員会に電話をする人が増えていますが、委員会の連中は親たちを馬鹿にしていながら、表面上適当にあしらっているだけなのですよ。子供達のことを真剣に考えている教師の多くは、現場で教員生活を終えるのです。そして、その熱心な先生達の数を徐々に減らしているのが、妙な正義感に駆られた母親集団です。自分たちだけが正しいことをしていると信じ切っている。まるで幕末の新撰組と同じではありませんか。
 みんな大人なのですから、議論は堂々と公の場ですべきです。自分の顔と名前を堂々と前面に出して、教師批判をしてごらんなさい。子供が人質に取られているからなどと情けない言い訳をしているくらいなら、文句を言うのは今すぐやめなさい。いつかあなたの子供がおかしくなってしまうだけですからね。
 ちなみに刑法での名誉毀損に関する条項はすでに紹介しましたので、ここでは民法上の名誉毀損に関する条文を紹介しましょう。なお条文の日本語は口語に直されたものです。

民法第七〇九条
故意または過失によって他人の権利を侵害した者は、それによって生じた損害を賠償する責任を負う。
民法第七一〇条
他人の身体、自由または名誉を害した場合と、財産権を害した場合とを問わず、 前条の規定によって損害賠償の責任を負 う者は、財産以外の損害に対しても賠償 しなければならない。
民法第七二三条
他人の名誉を毀損した者に対しては、裁判所は、被害者の請求によって、損害賠償に代えて、または損害賠償と共に、名誉を回復するのに適当な処分を命ずることができる。
 
 この章では、私は勢いに任せて思わず言いたいことをそのまま文字にしてきてしまいましたが、母親達の特定集団による教師に対する名誉毀損行為は、もう許容範囲をとっくに超えていると判断されます。
 例えば、信じられないかもしれませんが事実としてこんな事例もありました。ある小学校の学級懇談会で、教師を突き上げる組織のボス的存在の母親が、突然話題を変えて自分の友達の子供がいじめをしている事実を知られて中学校の教師にひどく叱られたという事実に触れ、「いったい、誰がチクったのかしらねえ」と発言したそうです。実は、いじめられていた少女の母親が隣に座っているのを知っていて、これ見よがしに嫌がらせの発言をしたのです。そういう発言を黙って許してしまう小学校の先生にも大きな問題がありますが、「チクった」とはいったいどういう表現ですか。まるで子供達の喧嘩ではありませんか。しかも、「いじめ」は民法上は明らかな犯罪行為ですから、それを擁護するような発言は絶対に許されません。私がどうしてこのような情報を豊富に持っているかと言うと、私は保護者に対しても歯に衣着せぬ発言を堂々とするタイプの教師でしたので、敵もいる代わりに味方についてくれる保護者もその数十倍も多かったからです。私の地域に張り巡らしたネットワークの広さは、おそらく皆さんの想像を遙かに超えるものでしょう。
 ここにあげた事例は、明らかに母親同士のいじめ行為に他なりませんが、親がそのような不法行為を堂々と行うのですから、そのような親に育てられる子供が学校でいじめをしてもちっとも不思議ではありません。子は親の背中を見ながら成長するわけですから、母親・父親になった瞬間に、もう少し道理をわきまえた人間に成長してもらわないと困るわけです。
 それともう一つ、子供達は世間一般の親たちが信じ込んでいるほど天使のような存在ではないことも承知しておいた方がいいでしょう。私は比較的子供達の中にとけ込んで生活していた教師であるにもかかわらず、敢えてそのような言い方をさせてもらいます。子供とは本来「天使の素顔」と「悪魔の素顔」の両方を持ち合わせているものです。ですからいくら家庭でいい子に見えていても、親の目のないところでは信じられない「悪魔」に変身している可能性だってあるわけです。しかし、その悪行がその子の人格の全てを決定するわけではありませんから、学校の教師はその子の人格を全否定しないように、その子の悪行に対して叱責するようにするのが普通です。ところが、親はその叱責に過剰反応を起こすわけです。「うちの子に限ってそんなひどいことをするはずがありません。先生は偏見の目でうちの子を見ているのではありませんか」と。でも、そうやって直接先生に苦情を言う親御さんはまだいい方です。そういう文句を陰で言いふらす親が問題なのです。言いふらしているうちに、内容もどんどん肥大化していく。それが他人に伝えられる頃には事実は大きくねじ曲げられている訳です。そして多くの場合は、三面記事ネタの大好きな母親連中はその「伝聞情報」をあたかも自分が直接見聞きしたかのように真実だと思いこんでしまいます。ですから、そういう人たちにはぜひ、刑法と民法の名誉毀損の条文をしっかりと読んでおいて欲しいのです。公の場で名誉を汚す発言は処罰や損害賠償の対象になるということをはっきり知るべきです。
 学校の先生がいつまでも大人しくしていると思ったら大間違いですよ。そのうち、誰も給料外の仕事は馬鹿馬鹿しくてしなくなってしまうでしょう。先生達全員がストライキを起こして部活動の顧問を辞めてしまったらどうしますか?部活動の顧問は先生達の奉仕活動ですから、先生達に顧問を強制できる人間は誰もおりません。顧問という労働に見合った特別な報酬も支払われていないわけですから、先生達はいつでも自由に顧問をやめる権利があるわけです。五時の勤務終了時刻を過ぎたら、補習もしてくれなくなるかも知れませんよ。夜中に「子供が家出をしてしまったんですが、どうしたらいいでしょうか」と担任の先生に電話をかけても、「それは警察の仕事ですから」と冷たく言われておしまいになってもいいのですか?まあ、実際にはそんなに極端なリアクションを見せる先生達はいないでしょうが、皆さんは普段そのくらい先生達にただ働きをしてもらっているということなのです。その先生達を、やたらと突き上げようなどと言うのは、もっての他だとは思いませんか。もちろん、テレビで報道される一部の教師の犯罪行為のようなケースは例外です。しかし、私が言及したような特定団体による中傷行為はただちにやめさせるべきだと思います。皆さんも同調しないことです。

《公の電波を利用して》
 私は個人的にテレビ番組に登場する評論家と呼ばれる人々が好きになれません。なぜなら、発言があまりにも現実を無視しているからです。多くの場合は「机上の空論」である場合が多い。イラク問題を語るにしても、実際に自分が危険なイラクに取材に行ってきた上で発言をする人と、安全な日本にいて様々な雑誌や書物から情報を得て発言をしている人がいます。当然、前者のタイプの評論家の発言は非常に説得力があると思いますが、後者のタイプはどうもうさんくさい。特に、私は長年学校の教師をしていましたから、子供の自殺事件が起きたときだけ、いじめだとか不登校だとか騒ぎ立てる評論家は最も軽蔑します。彼らは普段はそういう教育現場の問題にちっとも関心を払っていないからです。それでいて挙げ句の果ては「学校の先生は何をしているんでしょう」とくる。私はそういうとき、テレビ画面に向かって言っています。「あなたが教壇に立っていたら何かできたとでも言うのですか?」と。確かに問題点はいろいろあるでしょうが、何事に関しても一般論的な発言をするのだけはやめてもらいたいと思うのです。事件というのは類似していても、微妙な差異があるものです。そういう違いを足を使って調べた上での発言なら文句はありませんが、ただ偉そうにテレビカメラの前に座って論をぶってもらいたくはない。
 世間が騒ぎ出してから、特定の問題に関する発言をするのは非常に簡単です。しかし、評論家とかジャーナリストというのは、世間が注目する前に問題を指摘してこそ初めて有能だと言えるのではないでしょうか。先日、台風二十三号のもたらした大きな被害についての特別番組をある民放が組んでいました。その中で、司会者が何と言ったと思いますか。「関係者はもっと何か対策を取れなかったのでしょうかね」と言ったのです。私は我が耳を疑いました。誰もが最善を尽くしてこの大被害なのです。だいたいその司会者は、被害が出ているときにどこにいたのでしょうね。自分が被災地にいたのなら、そして救助活動を手伝っていたのなら何かを言う権利もあるでしょうが、自分はおそらく安全な自宅か放送局にいたのでしょうから、そんな無責任な発言を公の電波に乗せるべきではないと思うのです。必死の努力を続けている関係者の苦労を思うと、やけに腹が立ちました。
 自然災害は、どんな対策を練っても起きてしまうものです。もちろん被害を最小限度にとどめる努力は必要だとは思いますが、自然災害には予期せぬ出来事が必ずつきまとうのです。それを、被害が大きくなる度に、誰かの責任にしてしまう傾向は良くないと思います。今年のように、いくつもの台風が日本列島に上陸する例は過去にはありませんでした。前例のない自然現象に対しては策の練りようがないではありませんか。文句を言うなら神様に言うべきでしょう。
 テレビに度々登場するような有名人は、どんな立場にあったとしても、自分の言動が一般庶民に及ぼす影響の大きさをよく自覚するべきです。私が本を書くようなのとは訳が違うのです。アイドルの発言は子供達に大きな影響を与えますし、有名なタレント・ドクターの発言は、多くの消費者の動向を決定してしまう可能性もあります。信頼の厚い政治家の発言もしかりです。普段から何の信用もないようなタレントが何を言おうとそれは大した問題にはならないでしょうが、自分の人気が絶大であると自覚している人々は、自分の発言に責任を持って欲しいと思います。
 これは何もテレビだけに限られたことではなく、ラジオ番組のDJにも言えることです。たまにラジオのスイッチを入れると、とんでもない発言をしているDJがいてびっくりさせられてしまいます。放送局側も、もっと責任ある発言ができる人物を選んでDJにしないと、後で大きな代償を払うことになります。

《食べ物を粗末に扱わないで》
 私が子供の頃に流行っていたあるテレビ番組は、人気コミックグループが中心になった番組でしたが、毎週見ていたにもかかわらず、私はこの番組が大嫌いでした。なぜなら、コントに食べ物を使っていたからです。子供心にも、絶対にいけないことだと思っていました。そして、その流れはあれから何十年もたった今の芸能界でも大して変わっていません。なぜ視聴者からの批判が殺到しないのか、私には不思議でなりません。
 日本は飽食の国ですから、どこに行っても安価で食べ物を手に入れることができます。飲食店では冷えたお水が無料で出てくる。世界で日本ほど上水道に恵まれた国はないのではないでしょうか。そんな豊かな国に暮らしていると、飲食物に関する感覚がどうしても麻痺してしまいます。世界には食糧難で苦しんでいる国がいくらもあるというのに、どうして私たちはこんな比道徳的な行いを許してしまうのでしょうか。
 教員時代、牛乳給食があって、特に冬場になると、子供達がなかなか牛乳を飲みたがらずに、各クラスで大量の残乳が出るのが常でした。残乳パックが大量に出るたびに、私はそのうちのいくつかを職員室に持ち帰って来ては、放課後自家製カフェオレを作って同僚達にサービスしていました。市の方針で、残乳を子供達が家に持ち帰ることは禁じられていましたから、残った牛乳パックは私たち教員が何とか利用するか、さもなければ翌日の残乳回収業者のトラックに積み込まれるか、どちらかしかなかったのです。回収される残乳は、恐らくは家畜の飼料などに再加工されているのでしょうが、それにしても各学校からあれだけの量の残乳が出るとしたら、日本全国では莫大な量の牛乳が、毎日無駄になっていたことでしょう。たった一パックの牛乳で、どこかの貧しい国の栄養失調の赤ちゃんの命が一日は延びるのだろうと思うと、本当にむなしい気持ちになったものです。私はクラスの子供達に一生懸命訴えかけて、できるだけ牛乳を残さないようにしようと努力しましたが、子供達が素直に協力してくれたにもかかわらず、それでも自然に残乳が出てしまうのです。冬場以外は、逆に残乳をじゃんけんで奪い合う光景も見られるのですが、冬場はどうしても残ってしまいます。
 以前、あるハンバーガーショップの信じがたいポリシーを聞かされたことがありました。それが事実なのかどうかは、私には知る由もありませんでしたが、その外資系ハンバーガーショップでは、焼き上げてから一分間経過した商品はゴミ箱に捨てるというのです。何ともったいない話なのでしょう。私は、一分待って、その捨てられる運命のハンバーガーをただでもらいたいと思ったくらいです。黒いビニール製のゴミ袋に詰め込まれたハンバーガーは、もしかしたら浮浪者達の胃袋を満たしてくれていたかも知れませんが、国が豊かになるということは、そういうことを意味するのでしょうか。
 私の家は貧しい農家でしたから、子供の頃は食事は絶対に残してはいけないと親からしつけられて育ちました。小学校の頃の担任の先生も、給食を残すことを絶対に許してはくれませんでした。しかし、時が流れ我が家でも、無理して食べておなかを壊すくらいなら残した方がいいという考え方に変わってしまいましたし、小学校の先生達も無理に子供達に給食の完食を要求することはなくなりました。
 そして、かく言う私も大学時代にはずいぶん無駄なことをしてしまったので、偉そうなことは言えた義理ではありません。アパート暮らしをしていた私は、ときどき近くのデパートの食品売り場に買い物に出かけたのですが、男の買い物というのは非常に無駄が多く、特に空腹時に買い物をすると、あれもこれもとどんどん買い込んでしまいます。買い込んできた食料を冷蔵庫に大切に詰め込むまではいいのですが、そのうち一週間ぐらいがあっという間に経過してしまい、気がつくとせっかく買い込んできた食材が駄目になっているというケースが何度もありました。
 今や世界の人口は六十億を超え、これからも急速に増加の一途をたどるそうです。そしてやがては食糧難の時代がやってくる。そのときは、もしかしたらほとんどの食料が遺伝子組み換え食品になっているかも知れません。副作用もわからないハイテク食品に頼る時代は遅かれ早かれやってくるのかも知れませんが、もっと食料を大切に扱えば、まだまだ自然の食材で賄うことができる可能性もあるわけです。
 私たちの多くは菜食主義者ではないでしょうから、私たちが口にする食材は莫大な数の動物たちの命を犠牲にして手に入れているものだということも忘れてはいけないでしょう食べ物で笑いをとるのも止めにしませんか?

《子供達の正義感に学ぼう》
 「今の子供達は…」とよく言われますが、実際には子供達の方が大人達よりも、よほど正義感がしっかりしています。私は、塾の講師として中学三年生の社会科(公民)も教えていますが、憲法の問題や基本的人権の問題、また年金問題や少子高齢化の問題など、社会が抱える様々な課題に対する考え方は非常に純粋ですし、「自由はそれに付随する義務を果たしてこそ初めて認められるものだということがわかったね」などとアメリカの独立宣言を読みながら投げかければ、真剣な顔をしてうなずいてくれます。
 車のドライバーのマナーとして、横断歩道にさしかかったときに横断しようとしている歩行者を認めたときには必ず止まらなければならないという話をしましたが、その通りに止まってきちんと頭を下げてお礼を言ってくれるのはほとんどが子供達です。後からついでに渡る大人は「止まるのが当たり前だろう」というような憮然とした表情なのですから、どちらが大人なのか疑いたくなってしまいます。
 世間では相変わらず金銭疑惑が話題になっていますが、そういう犯罪に対しても子供達は非常に純粋な反応を示します。しかし、大人達はどうでしょう。プロ野球のスカウトが大物新人を獲得しようとして多額の賄賂を使っていたとか、厚生省の役人がタクシー代に四億円、夜食代に七千万円も国民の年金を不正使用していたとか、大手鉄道会社が二百億円分の株を親会社に売りつけて、翌日には株価が半分の百億円に下がって、明らかにインサイダー取引に該当するとか、金銭がらみの事件は本当に次々と話題に上ってきます。そして、それに対して、「仕方ないだろう」という割り切った感想しか持たないのだとしたら、子供達と一緒に公民の授業を受けてもらいたいと思いますね。
 確かに最近の十代後半の若者達は、非常に傍若無人な振る舞いをしているという印象がありますが、彼らも中学時代はおそらくは純粋な子供達だったのではないでしょうか。それが、大人達の汚い世界を見続けているうちにマイナスの学習をしてしまうのではないかと思うのです。本来は見本となるべき大人社会が、子供達の正義感には到底勝てない状況なのですから、私たち大人は手放しに若者達の乱行を責め立てるわけにはいかないでしょう。責任は大人社会にあるのが明らかだからです。
 傍若無人な若者達も、やがては大人社会の一員となり、子供達に悪い見本を示すようになるのでしょう。そういう悪循環をどこかで断ち切らない限り、日本の子供達に明るい未来は訪れないのではないかと思えてきます。人権問題を声高に訴えながら、一方では公園で寝泊まりしている浮浪者達に、汚い動物でも見るかのような視線を投げかけて平気でいる大人達。反省することは山積しています。

《社交上手な動物たち》
 我が家の愛犬である龍馬君(柴犬・やっと八ヶ月)は、朝夕の散歩で出会う他の犬たちと非常に仲がいい。散歩は妻と母と私でかわりばんこにしていますから、誰か他の人間が散歩に連れているときに知り合いになった犬や飼い主とは、犬同士が知り合いでこちらが初対面という場合もよくあるのですが、龍馬の顔の広さには本当に驚かされます。私にしてみれば初対面の方から、「あら、龍馬君だったわね。ずいぶん大きくなったわね」などと言われると本当にびっくりしてしまいます。「こいつはいったいどういう犬なんだろう。龍馬と名付けたら、本当に亡くなった坂本龍馬が乗り移ってしまったのではないか」と思わせられるほどの大物ぶりなのです。
 今朝も散歩で何匹もの犬に会いましたが、最初の柴犬は三歳の雌犬で、龍馬も初対面だったようです。ところが、「モモちゃん」という名前のそのお姉ちゃんと龍馬は、ちぎれんばかりにしっぽを振って抱き合っているのです。雌の柴犬は気が強くて雄の柴犬を寄せ付けないことが多いのですが、龍馬とモモちゃんはお互いに一目惚れをしてしまったようでした。まだ八ヶ月の坊やが、三歳のお姉さんと仲良しになってしまうのですから、その社交感覚はもう人間顔負けです。次に会ったビーグル犬は四歳で、名前はソランちゃん。龍馬はソランちゃんとも大の仲良しで、先日初めて会ったときなどは、ソランちゃんの方が道路のど真ん中に腹を上にして寝転がってしまう有様で、その格好が犬の世界では「服従」を意味することを考えると、私は龍馬とソランちゃんの関係に首をかしげざるを得ませんでした。龍馬はそれほど大物なのでしょうか。
 私はよく家から一・五キロほど離れた神社まで龍馬を連れて行くのですが、そこで会った別のビーグル犬の飼い主も、龍馬のことをよく知っていました。そのビーグル犬は七歳なのですが、じゃれつく龍馬を上手にあしらっているのです。まったく龍馬の顔の広さには本当に驚くばかりです。ちなみに、そのビーグル犬の名前はコーラちゃんというのですが、私はもう龍馬のお友達の名前を覚えるのに必死です。そういう点では妻の方が聡くて、どこどこのなになにちゃんがああしたこうしたと、夜の食事の時間に私に一生懸命話してくれるのですが、私にはいったいどの犬の話をしているのかちんぷんかんぷんです。
 地域社会のつながりが希薄になって、近所づきあいもしない家庭が増えている人間社会と比べると、犬の社会は実に社交的で、つきあい上手だなあと感心させられます。私自身も、ペットである龍馬のおかげでいろいろな人たちと出会えたという状況で、全くもって龍馬には頭が上がりません。私たち人間も、龍馬達のように、初対面でもすぐに親しくなれるような親近感のある地域社会作りに努めなければなりませんね。

《ものは言いよう》
 私は自分が中学校の教師をしていたくせに、非常に短気なところがあって、相手にくってかかるようなものの言い方をしてしまうときがあります。妻や母にはいつもそこを指摘されるのですが、子供達と接する仕事をしているとついつい変に正義感が強くなってしまって、もっと穏やかに言えばいいところを、語気を強めて発言してしまうことが多いのでしょう。教員時代はそういう性格が災いして、ずいぶん多くの敵を作ってしまったように思います。同じ事を言うのにも、穏やかに言えば相手も納得するのに、攻撃的な物言いをしたがために喧嘩別れになってしまうことがよくありますが、私はその点では十分に反省しなければなりません。
 先日、びっくりするような場面を目撃しました。母親らしき女性が、ある塾の先生に向かって文句を言っていたようなのですが、聞き耳を立てていた私にはその母親の言葉がはっきり聞こえました。「あのですね、うちの子は今の先生とは気が合わないらしくて、塾をやめたがっているんです。担当の先生を換えてもらえませんか。その先生は子供の質問にもまともに答えられないようなんですよ。どんな状況なのかは子供に聞いて下さい。私はちょっと熱くなっていると思うんで」言葉遣いは丁寧なのですが、発言の内容はもう少し考えた方がいいのではないかと思いました。「嘘も方便」と言うではありませんか。担当の先生を換えてもらいたい理由を、もっと上手にでっち上げればいいのに、馬鹿正直に言うものですから、訴えられた塾の先生もどう言って答えたらいいかわからなかったと思うのです。どうやら、母親と話をしていたその先生は塾の経営者のようでした。
 お店などでもよく店員にくってかかっているお客を見かけませんか。実は私もこれに関しては偉そうなことは言えません。私はずるがしこくて、店員に対しては丁寧な態度と高飛車な態度を使い分けているからです。もっといいサービスが得られそうなときは、高飛車な態度で接客の悪さをわざと指摘したりします。でも、本当に良くしてくれる店員さんには、実に丁重な態度で接するのです。ところが、中には何かにつけて文句を言う人がいる。そういう態度の悪いお客さんは、よく飲食店で見かけます。「金を払ってるんだから当然だろう」というようなものの言い方は、相手の態度を硬化させてしまうだけなのに。 「口は災いの元」とはよく言ったもので、言葉遣い一つで人間関係は良くもなれば、悪くもなるものです。相手に文句を言うときにも、相手の人格をきちんと尊重したものの言い方をすれば、理解してもらえることが多いのですが、感情的になって、ついつい立場を忘れたようなものの言い方をすると、二度と修復できないような致命的な人間関係の亀裂を生じさせてしまうことも少なくありません。「ひとのふり見て我がふり直せ」ですね。

《犯してはならない神の領域》
 別の章で遺伝子組み換え食物の話に少し触れましたが、生物の遺伝子(DNA・デオキシリボ核酸)を組み替えることは、科学者達の主張するように、本当に安全なのでしょうか。遺伝子組み換え食品には、その旨を表示することになっているようですが、遺伝子を組み換えた食物を摂取することで、予期せぬ副作用が起こらない保障は、今のところどこにもないのが実情でしょう。安全だ安全だとしきりに宣伝されていた原子力発電所が、実際には安全ではなかったのと同様に、遺伝子組み換え食物の危険性も、予測不能なのではないでしょうか。
 有名なスティーブン・スピルバーグ監督の映画「ジュラシック・パーク」では、掘り出された琥珀のなかに閉じこめられた太古の蚊が吸った血から、恐竜のDNAを抽出して、それを培養することで絶滅した恐竜を蘇らせるという非常に興味深い設定の作品でした。原作はマイケル・クライトンという医学者なので、話は非常に科学的に構成されています。実際、氷河期に氷に閉じこめられたマンモスの遺体をシベリアの大平原に求め、その細胞からマンモスのDNAを抽出してマンモスを蘇らせようというプロジェクトもあります。もちろん、長い年月を経たDNAが、完全な形で保存されているとは限りませんから、失われた部分を保管する技術がなければ、それはただの夢物語に終わるのでしょうが。
 でも、絶滅した動物は、神の意志によってそうなったのだと考える人々は、その動物たちを奇跡的に蘇らせることは、神への冒涜だと考えます。私も、構想自体には非常に夢があると思うのですが、やはりDNAをいじって生命の創造にかかわることは、人間のやっていい領域を超えているのではないかという気がします。
 確かにDNAの研究は医学の分野にも奇跡的な進歩をもたらす可能性を持っています。実際、女性が赤ちゃんを身ごもる前に、もしその女性が妊娠したら、その子供がどのような病気になる可能性を持っているか、母親である女性の遺伝子を調べることで予想できるのだそうです。もし、赤ちゃんが非常に重大な病気の可能性を持っているとしたら、その病気を起こす遺伝子の部分を書き換えてしまえば、赤ちゃんの運命は一瞬にして変わることになります。そのような治療が現実のものとなれば、世の中に誕生する赤ん坊はすべて完璧な状態で生まれてくることになるのですが、それは同時に障害を持った人々を否定する思想にもつながる危険性を秘めています。 重大な病気の治療に利用されるべき遺伝子研究が、優秀な人間を創造するために利用されるようになったら、これはもう医学の倫理に触れる行為でしょう。しかし、科学的な研究は、その功罪とは関係のないところで、一人歩きする性格を持っています。実際に、そのような過程を経て核兵器の開発も行われました。人体に重大な害をもたらす危険性を予測していながら、原子爆弾は開発され、その開発計画(マンハッタン計画)に携わった科学者のほとんど全員の反対を押し切る形で、第二号と第三号の原子爆弾が実践で広島と長崎に使用されたのです。そして、原子爆弾が人体に及ぼした影響は、科学者の想像をはるかに超えたものでした。その証拠に、原爆投下後の広島と長崎に被害調査も兼ねて現地入りしたアメリカの医師団は、自分たちも放射能の危険にさらされることになりました。
 先ほど触れた「ジュラシック・パーク」という映画の中では、蘇った恐竜たちが自然繁殖してしまわないように、恐竜たちは全て雌になるように遺伝子操作されているということになっていましたが、その安全性の調査に参加した数学者のマルコム博士は、「生命は必ず道を切り開くものだ」と主張して、絶対に安全な対策などあり得ないと説きました。そして博士の言うとおりの結果になった。欠けているDNAの一部をアフリカのカエルの遺伝子で補われた恐竜たちは、自然繁殖の道を本能で探り、恐竜たちの一部が雄へと自然に進化してしまったのです。そして、自然繁殖が始まった。つまり、生命の領域には人間が立ち入るべきではないというのが、あの映画に込められたメッセージだったのだと思います。
 そういう警告を無視して、遺伝子の研究は日々進んでいる。確かに爆発的な人口増加の問題を抱える私たちの惑星は、遺伝子組み換え食物の登場で、予想される食糧不足から救われるかも知れません。しかし、その代償がどういう形で私たちの身に降りかかってくるかは誰にも明言できないのです。科学的研究に対する純粋な好奇心を否定することはできないと思いますが、何でも人間の思い通りになると思ったら、とんでもない落とし穴が待ち受けている可能性もあるわけで、私たちはその見極めをしっかりとすべきだと思います。

《義務教育なのになぜこんなにお金が?》

日本国憲法第二十六条
一、全て国民は、法律(教育基本法第三条第二項)の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
二、全て国民は、法律(教育基本法第四条)の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする
 
 このように、義務教育が無償であることは憲法に謳われています。ところが、確かに教育を受けるのにお金はかからなくても、制服代に莫大な費用がかかったり、遠足だキャンプだ修学旅行だと出費がかさんだり、また部活動に所属すればそれ相当の出費を余儀なくされたりと、実質上義務教育は無償などではないではありませんか。どうして国民は怒りをあらわにしないのでしょうか。
 例えば規準服一つをとっても、これはあくまでも「制服」ではなく「規準服」なので、着用する義務はありません。そう言われると驚く方が多いと思いますが、試しにお子さんの生徒手帳を見てみて下さい。「規準服」になっているはずです。これでは、何も知らない人たちは、「着なければいけない服装」のことだと思ってしまいますよね。学校の教師達はそれを知っていて、わざと黙っているのです。そうしろと言われました。ある学校では、賢い母親達数名が敢えて私服で子供達を登校させて物議を醸したことがありましたが、彼女たちを責める根拠はどこにもないのです。それなのに、その母親達は学校に非協力的だという非難を受けることになりました。
 いったい「規準服」はいくらすると思いますか?ちょっとしゃれた服だと、三万円は下らないはずです。では、どうして私服にしてしまわないのでしょう。あるいは、規準服なのですから、子供達の自由な選択に任せることをしないのでしょうか。そういう対応をしてしまうと、きっとどこかに困る人たちがいるのでしょう。製造業者や販売業者…確証がないのでこれ以上のことは書かない方がいいでしょうね。
 修学旅行は、だいたい五万円ほどの積み立てが必要です。神奈川県の中学校の場合は、今まではほとんどが関西への二泊三日の修学旅行を実施していましたが、通常の旅行社に二泊三日の関西旅行を依頼して、果たして五万円もかかるでしょうか。格安ツアーならどうでしょう。それを考えると、義務教育の期間内の修学旅行にそんなにお金がかかること自体が、もうほとんど憲法違反だと言えるのではないでしょうか。五万円もかかるのに、半強制の旅行なのです。もちろん参加申込書は配りますが、答えは「参加する」でなければなりません。不参加を表明すれば、なぜなのか理由を徹底的に追求されますから、親も行かせざるを得ませんし、一生の思い出だと思えば行かせてあげたいと思うのが普通でしょう。それなのになぜ五万円なのでしょう。 部活動もそうです。最近ではやたらと「受益者負担」という言葉が使われるようになって、以前は固く禁じられていた「部費」の徴収も、今では堂々と行われるようになりました。しかも、自治体によっては「生徒会費」から部活動運営費を捻出しているところもあれば、市の予算から部活動の援助費を拠出しているところもある。市の予算から部活動の援助費を拠出するような自治体は比較的裕福な自治体なので、金額も数十万円の単位になります。ところが、生徒会費から部活動運営費を出しているところでは、一つの部活動が十万円を超える予算を獲得することはまず不可能でしょう。生徒数がどんどん減少してきていても、部活動の数は激減しているわけではありませんから、生徒会費で負担できる金額には限りがあるのです。例えば、私の持っていたソフトボール部の予算は、せいぜい年間六万円ももらえればいい方でした。ソフトボールのボールは一個がだいたい八百円前後です。一日練習試合をすると三試合で三球のニューボールを使いますから、年間六十試合もすると、最低でも六十球は必要になるわけですね。金額にして四万八千円です。私は年間百試合以上はこなしていましたから、八万円以上はかかるのです。練習に使うボールは勘定に入れずにですよ。つまり、足りないお金は私の自腹です。バットはどうしましょう。一本二万円以上はするのです。キャッチャーミットやファーストミットは、一つ一万円ちょっとします。キャッチャーのプロテクターはどうしましょう。という事情から、私はだいたい年間五十万円以上の自腹を切っていました。独身時代ならそれでも何とか済んだとしても、家庭を持ったらそうはいかない。子供達は三年間でやはり十万円近くの出費を強いられますから、その上に部費を集めるのは気が引けました。それでもやはり自腹を切れない状況になれば、月々千円程度の部費が必要になってきます。「受益者負担」という言葉の漢字をよく見て下さい。「受益」つまり「利益を受ける」という前提の発想です。いい加減な部活動をすれば費用もかからなくて済むでしょうが、それでは「受益」にならないではありませんか。私は、部活動にかかる費用もある程度は地方自治体が援助すべきだと思うのです。ましてや、顧問が使う道具は無料支給が当然でしょう。奉仕活動なのですからね。それなのに実態は、自腹で払うのです。剣道部の顧問になったら、防具を揃えるのにいくらかかると思いますか。野球部やソフトボール部の顧問は、試合にはユニフォームで臨まなければならないルールになっていますが、そのユニフォームも全部揃えれば二万円を下ることはないのです。
 私の意見では、教育にお金を十分かけない国は、本当の意味での文化的先進国とは言えないと思います。なぜなら、国の将来は子供達をどのように育てるかにかかっているからです。頭のいい為政者なら、未来の立派な人材を育てることに一番お金をかけるはずでしょう。建物や施設にいくらお金をかけても、それは将来必ず老朽化してしまいますが、お金をかけて育成された人材は、将来莫大な財産を生み出す可能性を秘めているのです。どうして、そういうことにもっと大胆な投資をしないのでしょうか。
 九年間の義務教育。いずれは、家庭教師による教育も「義務教育」として認められるようになるでしょう。実際には、不登校の子供を抱えたおうちは、現実にその通りになっているのですからね。不登校だったということで卒業証書がもらえないことは絶対にありません。必要最低限の教育も受けられなかったのに、卒業証書が手渡されてしまうのです。こんな無責任は話はありません。国民はもっと真剣に考え怒るべきだと私は思います。

《あとがき》
 最後はやはり教育の話題になってしまいましたね。なるべく教育の話題は避けようとは思っていても、長い教員生活からそちらの知識の方がどうしても大きいので仕方のないことでしょう。ただ、地方公務員法は公務員を経験した人間に死ぬまで「守秘義務」を課しています。つまり、私はもはや公立学校の教員ではないからと言っても、悪意を持って世の中を混乱させる目的で教育上知り得た情報をいたずらに公表すれば、罰せられてしまうのです。もちろん、それが世間の混乱ではなく世間に利益をもたらす情報であれば問題はないのですが、人というのはどういう受け取り方をするかわからないものですから。
 この本の中で述べてきたことは、あくまでも私個人の見解ですから、それがきっかけになって議論が起きるのならそれでいいと思ってペンを進めました。それにしても、世の中は矛盾だらけですね。詳しく法律を調べてみると、とんでもないことが次々に明らかに成ってきます。そして、日本が今の治安の良さを保っていられるのは、不景気とは言え、大多数の国民がある程度の生活水準を保っていられるからでしょう。これが、もっとひどい状況になれば、あちこちで不満の声が上がり出すのは間違いありません。
 政治家の不正が明らかになっても、そのときは腹立たしく思ったとしても、やがて一週間もすれば忘れてしまいます。私たち庶民はそれほど暇ではないからです。それをいいことに、いくら不正が発覚してもちっとも政治は良くならない。なぜなのでしょう。特に公務員はもっと自分たちの責任を自覚してもらわないと困ります。大きな責任を国民に対して背負っているからこそ、恵まれた報酬を得ている訳なのですから。しかし、人間というものは、有利な権利を獲得すれば、それを失わないようにしようと必死になるもので、それが政治家の腐った体質を生み出しているのでしょう。しかも、営業努力をしなくても、親方である国が倒産することはまずありませんから、営業努力など馬鹿馬鹿しくてやっていられない。私のように公務員の身分を捨てて民間に飛び込んでみて初めて理解できるのです。公務員という身が、いかに手厚く保護されていたかと言うことを。教育公務員は、私の年齢なら手取り四十五万円前後の収入は確実です。税込みではありませんよ。民間でそれだけの収入を手にすることが簡単にできるでしょうか。確かに、公務員はそれなりの試験を受けて資格を得たのですから、確かな報酬を得る権利もあるでしょう。しかし、その裏には自分たちの背負った責任をしっかり自覚するという義務があるはずです。
 そして、国民もまた自分たちの権利ばかりを主張していないで、義務を自覚すべきでしょう。「ぷー太郎」という種族が堂々とまかりとおっている日本ですが、日本国憲法では国民に労働の義務を課しているのを知っていましたか。

日本国憲法第二十七条
1.すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う
2.賃金、就業時間、休息その他の勤労 条件に関する規準は、法律(労働基準法) でこれを定める。
3.児童は、これを酷使してはならない。
 
権利とは、義務と表裏一体のものであることを、私たちはもっと強く意識すべきです。そして、しっかり国民としての義務を果たしているのなら、不当な扱いにもっと腹を立ててもいいのです。
 欧米諸国とは違って、日本の民主主義は外国によってもたらされたものです。欧米諸国は、国民が貴重な血を流して権利を獲得した歴史を持っていますから、自分たちの権利や義務に対しての意識が非常に高い。それに比べて、日本人は権利とか自由は、降伏と引き換えにアメリカがプレゼントしてくれたものですから、そのありがたさが実感としてわからないのでしょう。でも、幕末の歴史をよく勉強すれば、日本も「国民」という意識を獲得するために、多くの貴重な命を犠牲にしてきました。そのことを私たちは絶対に忘れてはならないのです。テレビドラマの影響で新撰組に夢中になって、新撰組グッズを買って満足しているようでは、現実に新撰組として若い命を散らしていった人々は泣くに泣けないでしょう。近藤勇は、三十五歳で斬首によって世を去っているのですよ。坂本龍馬は三十二歳です。世の中に必要な人々ほど短命という運命を持っていたのでしょうね。
 私たちは偉大な祖先の末裔です。過激な民族意識としてではなく、正当な誇りを持ってもっと国造りに貢献していかなければならないと思います。小さな事からでいいのです。子供達のためにも頑張りましょう。
 私自身は、二年以内には自分の生活をもっと安定させたものにしなければなりません。二年というのは、頂いた退職金でしのげる期間です。教員時代には、いろいろな失敗もしてしまいましたし、保護者や生徒諸君の期待を裏切ってしまったこともたくさんあったと思います。ですから、私は今までの人生の埋め合わせをするためにも、また私のことを我が身以上に思ってくれている家族のためにも必死で頑張る義務があるのです。
 私はプロの物書きではありませんから、文章の構成もまだまだ未熟な部分が多かった事と思います。それにもかかわらず、最後まで読んで下さった読者の皆さんには、本当に心から感謝の意を表したいと思います。また、私を常に励まし応援して下さっている文芸社の皆さんにも、改めてお礼を申し上げたいと思います。そして、これからもこつこつと努力を続けていきたいと思います。子供達のいい見本になりたいですからね。